第30話 裏切るあいつは偽装中
『
そこは私が最初に免許を手にしてから何度となく脚を運んだ、青春の一風景だった。
「おう、しばらく見ないうちに随分と大人っぽくなりおったな」
奥の暗がりからひょっこりと顔を出したのは、胡麻塩頭の初老男性だった。
「鉄爺」
私は思わず高校時代に戻って呼びかけていた。鉄爺こと
「なるほど、レースから足を洗ったとは聞いとったが、それはそれで悪くなかったのかもしれんな。いい顔になっとる」
「それは職務が厳しいせいよ、鉄爺」
私が返すと鉄造はくっくっと肩を揺すって笑った。
「そうか、案外、お前さんにはお巡りが向いとったか。……それじゃ、頑張っとるご褒美にいいものを見せてやろう。こっちだ」
促されるまま工房の奥に足を運んだ私は、蛍光灯の光をはじいている一台のバイクに目を奪われた。
「鉄爺、これ……」
それはかつての私の愛車、事故で原形をとどめぬほど潰れてしまったはずの四百CCのバイクだった。私は走りから足を洗うつもりで、かけがえのない相棒を廃車にしたのだ。
「鉄爺、私、あの時『パーツは全部ばらして売っちゃっていいよ』って言ったよね?」
「ああ、確かにお前さんはそう言ったよ。だがね、俺はこいつの現役時代を知っとる。お前さんが束ねた髪をなびかせて我が物顔で公道を飛ばしてた時の精悍な姿も焼き付いとる。金と時間さえあれば、元の姿に復元できる自信があったから、手を付けずにおいたのだ」
「じゃあこの子、もう何年もここでバラバラのまま、私が来るのを待っていたってこと?」
「そうだ。一時はお前さんの了解を得ずに勝手に復元してやろうかとも思ったよ。だが肝心のお前さんがオーダーして来ない限り、復元は無意味だからな。バイクと主人って奴は互いに命を預けあっとる一心同体の相棒だ。片割れだけを生き返らせたところで、肝心の相方にその気がなければただの屍、バイクゾンビだ。そんな不憫なことはしたくなかった」
鉄造はそう言うとまるで新品のように輝いているバイクのボディーを撫でた。
「桜城さん、差し出がましいとは思いましたが、あのレースの晩、ゴールした瞬間にあなたの顔を見たんです。あなたは命懸けの勝負に目を輝かせていた。その時、僕は直感したんです。この人はまだ、走ることを諦めてはいないって」
「それで、お節介だとは思ったがこいつを生き返らせたってわけさ。どうだね、青春を共にした唯一無二の相方と久々に対面した気分は」
私はバイクに歩み寄ると、おそるおそるシートに跨った。グリップを握った瞬間、体温などない鉄の塊から生きたいという鼓動が伝わり、熱い物がこみ上げてくるのを感じた。
「素晴らしいわ。……あの頃と何も、変わってない。たとえもう公道レースはできないにせよ、やっぱりもう一度、一緒に走りたい」
「そう言うと思っとったよ。警察を辞めたら長い休みでもとって海外のフリーウェイを飛ばせばいい。お前さんもこいつも、命を無駄にするようなやんちゃな遊びは卒業することだな」
私はバイクを降りると譲太と鉄造に向き直り、改めて深々と頭を下げた。
「二人とも、本当にありがとう、今日のことはずっと忘れないわ」
「さて、それでは納車といくか。一応、外で試乗していくかね、お客さん」
鉄造がからかうように言った、その時だった。突然、照明が落ち、周囲が闇に包まれた。
「なっ……何?」
私が叫んだ直後、闇の中で「うっ」というくぐもった呻き声が響き、続けざまに人の倒れる気配があった。
「どうしたの?鉄爺!……船生さん?」
うろたえる私の前で唐突に照明が点き、異様な光景が目の前に広がった。
「嘘……どうして?」
バイクの傍に、鉄造と譲太がうつぶせで転がっていた。二人に駆け寄ろうとして前に進み出た私は、暗がりから現れた人影を目にしてその場に凍りついた。
「近頃の婦人警官って、贈り物に弱いのね。覚えておくわ」
私の前に立っていたのは、薄い笑みを浮かべた名月さんだった。そして名月さんが携えている長い鎖の先にあったのは、両手両足を手錠で戒められている雷郷の姿だった。雷郷は意識がないのか、床の上にごろりと力なく身体を投げだしていた。
「名月さん……これ、どういうことです?」
私がこわごわ口を開くと、名月はおもむろに顎のあたりに指をかけた。
「どういうことって……そうね、わかりやすく言うと、こういうことよ」
名月はそう言うと、顎のあたりから顔面を覆うゴムマスクの変装を一気にむしり取った。
「あなた、誰?どうして名月さんに化けたりしたの?」
変装を解いた人物は、名月とは似ても似つかない高慢そうな表情の美女だった。
「私はガスブージンの長女、アナスタシア。大好きな先輩じゃなくてお気の毒だったわね」
アナスタシアと名乗る若い女はそう言うと、嘲笑うような表情を浮かべた。
「いつの間に……雷郷さんを、どうするつもり?」
「さあ、どうしようかしら。返してあげてもいいけど、ただじゃあ面白くないわ」
「警察と取引するつもり?どのみち逮捕されるわよ」
私がすごんで見せると、アナスタシアはつま先で雷郷の頭を蹴った。
「お黙りなさい。あなたたちに選択の余地はないの。ガスブージンに忠誠を誓うか、ここで死ぬかよ。……ニジンスキー、こっちに来て」
アナスタシアが暗がりに向かって呼びかけると、若い女性を抱きかかえた長身の男性が姿を現した。その顔を見て、私は思わずあっと叫んでいた。
「あなたは、さっきのお店でピアノを弾いていた……」
「覚えていただいて、光栄です。私はガスブージンの三男、ニジンスキー。あなたの相方は随分と音楽好きなようで、お蔭で思ったよりあっさり眠っていただくことができました」
「じゃあ、あのピアノは雷郷さんを眠らせるための……ということは全部、罠だったのね」
「そうです。こちらのお嬢さんを『花嫁』として頂き、邪魔なあなたたちには死んでもらうための……ね」
私ははっとしてニジンスキーの抱きかかえている女性を見た。わずかに見える横顔は、紛れもなく紗央里のそれだった。
「紗央里さんを『花嫁』にですって?そんなことを私たちが許すとでも思っているの?」
「さあ、許すか許さないかは存じません。どちらにせよ、この場は姉に任せて私は『花嫁』を館までエスコートせねばなりません」
ニジンスキーはそう言い放つと、ゆっくりと私たちに背を向けた。
「ちょっと、待ちなさい!」
思わず叫んだ私の前に、おなじみの黒づくめの男たちが現れた。ご丁寧にマシンガンらしき武器まで携えている。どうやら本気で私たちを亡き者にするつもりらしい。
「さあ十秒以内にお返事なさい、走り屋のお嬢さん。我らが
名月さんの格好をしたアナスタシアはそう言い放つと、冷たく光る瞳で私を見据えた。
〈第三十一回に続く〉
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