全盛は 花の中行く 長柄傘(一)
妓楼の昼七ツといえば、昼見世が引けた後の短い休憩時間である。遊女たちも食事を取ったり手紙を書いたりと、見世全体がのんびりしているのが普通だ。
しかし今日は勝手が違い、あちこちでざわざわと人が行き交っている。まるで妓楼全体が高揚感に包まれているようだ。
ここ
今日はその披露目の道中が行われる、大事な日だった。
掃除する下働きの横をすり抜け、台の物を担いだ
番頭新造は
常磐はお披露目を迎える花魁のため、朝から走り回っていた。
馴染みから祝いにと贈られた新品の夜具を確かめ、配り手拭いの数に間違いがないか数えておく。道中が終われば茶屋におさめる祝儀も差配する。この日を待ちかねていた客たちが一斉に登楼するであろうから、彼らが互いに顔を合わせて気まずい思いをしないよう、調整する必要もある。やらねばならぬことは山ほどあった。
途中、同じ番新である
「コウ、常磐さん。お急ぎのところすまないが、ちっとお助けくださっし」
「浦舟さん、どうしなんしたか?」
「どうもこうも、もうすぐ道中だってのに、ひのでときりのがきつい喧嘩をはじめてのう。取っ組み合いの大立ち回りでありんすよ」
ひのでときりのは、ともに今日お披露目を迎える花魁付きの禿たちだ。
「オヤ、それはいけねえ。顔に痣でも残ったら、おいらんの門出に障りんす」
「そうともさ。あのふたりを押さえられるのは、常磐さんしかおりんせん。どうぞ頼まれておくんなんし」
急いでいるにはいるが、まだ若干の余裕はある。喧嘩の仲裁くらいなら、なんとかなるだろう。
困り果てた様子で両手を合わせる浦舟に、常磐は「お任せなんし」と請け合った。
「アイ、おかたじけよ」
ほっと胸をなで下ろす浦舟と別れ、常磐は禿たちのいる大部屋へと向かった。
常磐は、とにかく面倒見がよいと──とくに年若の禿や新造たちから──評判だった。
内儀のように頭から叱りつけることもなく、
大部屋には、突出し前の振袖新造や禿たちが輪になって、わあわあと騒いでいた。その中には、常磐とともに花魁へ付いている振新の
意を得た常磐が輪の中に割って入ると、中央でふたりの禿が大泣きしていた。取っ組み合いは例えでなく、お仕着せの袖が引きちぎれて取れそうになっている。
「きりのどんがいけねえんだ。おれの櫛を盗んで挿したから、取り返したんだ。おれは悪くねえ!」
顔中涙と
「盗んだんじゃねえ、ちっと借りただけでありんす。だのにひのでどんが突き飛ばしてきたから、やり返したまでのこと」
対するきりのは殴られたのか、赤く腫らした頬を押さえ、ぷいとそっぽを向いている。
「盗人のくせに生意気だ。今すぐおれの櫛を返しなんせ!」
逆上したひのでが再び掴みかかろうとするのを、常磐は無理矢理引きはがした。
「ちょいと落ち着きよ、ふたりとも。まずは訳を聞こうじゃないか」
手の空いている振新に濡れ手拭いを持ってこさせ、きりのの頬に当てさせる。常磐も自分の手拭いで、ひのでの汚れた顔を拭いてやった。興奮の波が引いたのか、ひのではしゃくり上げつつも泣き止んだ。
ひのでが落ち着いたのを確認してから、常磐は畳に膝をついて、濡れ手拭いで腫れた頬を押さえているきりのと視線を合わせた。きりのはいったん目線を逸らすが、そうはさせずこちらを向かせた。
「コウきりの。おまえはどうしてひのでの櫛を取りなんした?」
「…………」
「黙っているということは、盗人だと認めることだ。どんな事情があるにせよ、人のものを勝手に取るのは悪いことだね」
しっかり目を見て言い聞かせると、きりのの大きな目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。泣きながら、袂からなにかを取り出した。
「これは……」
「わざとじゃありんせん。おいらんみたいに綺麗に挿そうといじっていたら、折れてしまいんした」
小さな手のひらには、真っ二つに折れた櫛があった。
呼出しに付く禿はふたりでひと組と相場が決まっており、衣装も装身具もすべてがお揃いである。片方の櫛がなければ、道中でひどく目立ってしまうのだ。
「なるほど、だからひのでの櫛を取ったのか。でもな、きりの。そうすればおまえはいいが、取られたひのでが困る。ひのでが困ればおいらんも困る。それはおまえにも分かりんすな?」
「…………」
こくりとうなずくきりのに、常磐は続けた。
「これからは、隠さずにきちんと打ち明けることだ。怒られたくないのは分かるが、本当のことが分からねば解決するものもしないわな」
そう言うと、常磐はきりのとひのでを引き寄せ、向かい合わせた。
「ちゃんとひのでに謝りなんし。ふたりが仲違いしたままだと、おいらんが
するとふたりは同時に首を振った。
「おれ、おいらんのこと大好きだから、そんなのやだ」
「おれもやだ……」
「だったら仲直りだ。さあ」
促すと、きりのは「……ごめん」とつぶやき、頭に挿していた千鳥模様の櫛を返した。ひのでもまた常磐の目を見てから「……いいよ」とうなずいて受け取った。
「今日はこの櫛はお休みだ。代わりにおいらんからお揃いの櫛を二枚借りてくるから、ふたりともそれを挿すといい。さ、先に支度を済ませてしまいなんし」
そう言うと常磐は立ち上がり「よく仲直りできたね」と、ふたりの頭を同時に撫でた。
その小ささに、常磐の胸が詰まった。
八歳だった妹も、ちょうどこれくらいの背丈だった。
あの子も生きていれば、すっかり大きくなっていることだろう。もしかすると、このくらいの歳の子がいるかもしれない。
いつかここを出たら、会いに行けたらいいな。
そんなことをちらりと思いつつ大部屋を出ると、浦舟が様子を見に来ていた。「さすがは常磐さん。お見事でおざんす」と手を打っているのがおかしかった。
あとの始末を浦舟にまかせ、常磐は廊下に出た。少し足を速めると、とたんに背中が痛んだ。
最近、とみに疲れやすくなった。背中だけじゃなく、手足の節々も痛む。三十を過ぎたばかりだというのに、情けない。いったん足を止め、呼吸を整えてからふたたび駆けだした。
そうして常磐は本来の用件のため、とある障子の前へ来た。身仕舞いを正してから廊下に膝をつき、呼びかける。
「もし、おいらん。常磐でございます」
すると奥から、よく通る声がひびいた。
「常磐さんかえ。お入りなんし」
「アイ、失礼しんす」
断りを入れてから、常磐は引手に指をかけた。
ゆっくり開くと、豪華な調度品に囲まれた室内に、ひとりの女がこちらに背を向けて座っていた。窓からは
ちょうど髪結いが終わったのか、馴染みの髪結屋が道具を片付けているところだった。常磐を認めると頭を下げ、
「このたびはおめでとうございます。あたしもこの世界は長いが、おいらんのような
「おありがとうおざんす。こちらはおいらんからのお気持ちでございます。どうか末永くお付き合いのほどを……」
言いながら常磐は、あらかじめ用意していた祝儀袋を懐から出し、髪結屋に握らせた。たすき掛けに前垂れを帯替わりにした四十がらみの女髪結師は、恐縮しながらも祝儀を受け取り、愛想良く座敷を出て行った。
音もなくふすまが閉まったのを合図にしたように、女が振り返った。
今日、呼出しの披露目道中をおこなう、
「おいらん、本日はお日柄もよく、まことにおめでとうございます」
畳に両手をついて平身する常磐へ、鳳は静かに声をかける。
「お顔をお上げなんし、常磐さん。──いいや、おまつ姐さん」
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