傾城は やはらかにして 歯が立たず(四)
すずめは座ったまま、穴が開くほど櫛を見つめている。
周囲の野次馬がひそひそとざわめいている。哀れなすずめの姿を、これ以上見世物にしたくなかった。
「行こうか、すずめ……」
先に腰を上げたおまつは、そう言ってすずめの脇に手を入れ立たせようとした。
しかし、すずめは呼ぶ声にも気付かぬ風で、手にした櫛を口許へ持っていった。
そして──。
あろうことか、口にくわえると真っ二つに噛み切ってしまったのだ。
ぼきっ、という鈍い音に、おまつは元より野次馬どもも、あっと声を上げてしまう。
十両にもなる櫛を噛み折ったすずめは、すっくと立ち上がった。野次馬の声に驚いて振り向く賑ひめがけて、力いっぱい投げつける。眉間で受け止めた賑ひは、引きつるような悲鳴を上げた。
「馬鹿にするのもたいがいにしな!」
先ほどまで憔悴していたすずめが、よく通る声を張った。それまでざわついていた野次馬が、しんと押し黙る。
「こんな安物、わっちの歯が立たないとお思いか。よくも見くびってくれたもんだ。ほれこのとおり、真っ二つさ!」
つかつかと歩を踏み出し、すずめは投げつけた櫛を思い切り踏みつけた。下駄の歯の下で、世にふたつと出ない名品が粉々になってゆく。
「ぬしは、助平
ぬしは本当にそれで満足なのかい? と問われ、
「ナニサ。わっちだって、好きこのんであんな
むきになる賑ひの言い分を、すずめは鼻先ではたき落とした。
「そんなの、買われるのが妓楼から親爺に移っただけじゃないか。本当の自由なんかありゃしない」
いったん切り、すずめはぐいっと顎を引いた。
先ほどまでの、いやこの三月の間の、うちひしがれた様子はみじんもない。
「決めたよ、わっちはね──」
ぐるり、と周囲の野次馬を見渡す。視線に呑まれたのか、男たちがいっせいに後ずさった。
「いつか絶対、自分で自分の身請けをしてやる。身体は売っても心は売らない、間夫なんぞに溺れたりもしない。金輪際、誰のものにもなるもんか」
きっぱりと言い切るその姿。
それはまさしく、当代一の花魁だった。
感銘を受けたおまつの脳裏に、二年前に目にした花魁道中の光景が浮かぶ。
夜桜を背負い、見事な八文字を踏む花魁。
──ああ、あのときの花魁は、この
数多の男が理想と欲望と
あのときはそう感じたが、今は違う。
ここにいるのは己の意思を持って大地に立つ、ひとりの女だった。
ぎりぎりと音がしそうなほど歯を食いしばる賑ひに、すずめは近づいた。
豪華な仕掛けをまとい、本べっ甲の櫛簪で飾り立てた花魁と、すり切れた木綿を着たきりで、べっ甲を模した粗悪な
みすぼらしい河岸女郎に比べ、花魁の方がたじろいているように見えるのは気のせいか。
「わっちの勝手で、ぬしの生き方を変えてしまったのは事実だ。それは詫びておくよ」
すずめの言葉に、賑ひは紅を刷いた目尻を跳ね上げた。
「……エエにくらっしい、何様のつもりか。わっちゃァ己の
「そうかい、じゃあもうなにも言わないよ。いつかは自分のために生きられるといいね」
あと──と、すずめは続ける。
「
と一息に言うと、すずめはくるりと身を翻した。
足音も軽やかにおまつの側へ来ると、「待たせてごめんね、行こう」と一転して微笑んだ。
そうしてその場をあとにしようとしたとき、
「あの、雛鶴姐さん!」と呼び止められた。駆け寄ってきた梅香が、
「わっちにとっての姉女郎は、雛鶴姐さんだけでおざんす。禿だったころから姐さんが一切引き受けてくれて、わっちに諸事教えてくれんした。熱を出して死にかけたときも、姐さん手ずから看病してくださっした。わっちがこの吉原で今も生きていられるのは、姐さんのおかげでおす。ずっとずっと、お礼が言いたくて……」
「梅香」
堰を切ったように思いの丈を打ち明ける妹女郎の肩に、すずめはそっと手を置いた。優しく撫でたあと、
「おまえはあまり身体が丈夫じゃない、病にだけは気をつけて。みどりとたよりも、まだ子どもだ。よく面倒を見てやっておくれ。あとは……自分に自信を持つんだ。おまえはきっと良い花魁になる。誰にも負けるんじゃないよ」
「姐さん……」
「達者でお暮らし。おさらばえ」
またもや泣き出した梅香に別れを告げると、今度こそすずめは歩き出した。
桜吹雪の仲ノ町をゆくふたりの背に、まばらな拍手がかぶさる。「やっぱり雛鶴は当代一だ」と、ため息まじりの声も聞こえる。
しかしおまつは、すずめは、二度と振り返りはしなかった。
ふたりの行く先は、薄暗く青大将の臭いがたちこめる、羅生門河岸なのだから。
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