全盛は 花の中行く 長柄傘(二)

 どこでどう噂が回ったのか、賑ひとのいさかいから二月もせぬうちに、すずめは角町すみちょう中見世ちゅうみせへ引き抜かれた。

 最下層の羅生門河岸からいきなり中見世への鞍替えは、これまでに前例がないことだった。

 おまつは我が事のように喜び、ためらうすずめの背中を送り出した。

 あの羅生門河岸こんなところでくすぶっているようなタマじゃない。

 どうか、ふさわしい場所で花開いて欲しい。

 そうしてすずめは巣立ち、おまつはふたたび羅生門河岸の御職へもどった。

 相変わらず吹けば飛ぶような揚代で客を取り、時折やってくる新入りの面倒を見ているうちに、一年が経った。

 奴女郎としての奉公が終わり、おまつは晴れて自由の身となった。はずだった。

 こんな窮屈な場所からとっととおさらばして、ふたたび深川へ戻ってもよかった。深川じゃなくてもいい、品川でも新宿でも、稼げる場所はどこだってある。

 帰る家は、なくなってしまった。

 相変わらず親父や妹の消息も知れない。

 どこへも行く当てがないということは、どこへ行ってもいいということ。

 そう考えたおまつは、そのまま羅生門河岸に居残ることを選んだ。

 吉原ちょうの中にいる限り、すずめの動向が耳に入る。鞍替え先ではもっとも安価な二朱にしゅ女郎からはじまり、またたく間に人気が出て金一分いちぶの座敷持ち、さらには金三分さんぶ平昼三ひらちゅうさんにまで出世していったとか。

 すずめの噂を聞くのが、おまつの楽しみだった。

 ああ、あのは頑張っているんだ、元気にやっているんだ、と励まされた。

 一歩も二歩も先を羽ばたいていくあのを、陰ながら見守りたかった。健やかにんでいけるか、見届けたかった。

 そんな気持ちで、おまつは羅生門河岸で変わらぬ日々を過ごしていた。

 しかしそこへ、ふらりとすずめがやってきた。

「今の見世で番頭新造が足りなくて困ってるの。お願い、おまつ姐さん。人助けと思って来てくれない?」

 聞くとすずめの見世では、病やら所帯を持つとやらで、四人もの番新が次々と辞めていき、おまけに遣手までもが働きすぎて体調を崩して療養しているという。残ったのは年若い新造や禿たち、そして縦のものを横にもしない花魁衆、あとは下働きの者ばかりだという。

 客と遊女の仲を取り持つ番新が足りなければ、客あしらいに手が回らない。あしらいがおろそかになれば、客足も遠のく。お茶を引くことが増えれば、女郎衆は苛立ちや焦りを抱え、それが客にも伝わりますます居心地が悪くなる。まさに負の連鎖だった。

 そこで思い出したのが、おまつだった。

 おまつは人の間に立つのがうまい。

 若いころから世間の荒波に揉まれてきたこともあり、客層を分別する目も確かだし、なにより面倒見がいいので年若い新造や禿たちに信頼されるだろう。

 年季が残っていれば厄介だが、返す借金のないおまつは身軽だ。その点でも都合は良かった。

 すずめは、そう考えてやってきたという。

 突然の申し出に、おまつは面食らった。

「あたしはそんな大層なモンじゃないよ。それに岡場所上がりだ、番新って柄じゃねえよ」

 番頭新造になれるのは、吉原での経験が豊富な元女郎だけだ。

 文の書き方や床の付け方、独特のしきたりなど、あらゆる諸分しょわけに精通していないと務まらない。

 おまつは女郎の経験こそ長いが、吉原にいたのはほんの三年ほどで、それらを会得しているとはお世辞にも言えなかった。

 それに──。

 もうひとつの理由が喉元まで出かかったが、寸前で飲み込んだ。

「──やっぱり、あたしには無理だよ。ほかを当たってくんな」

 だがすずめは首を振り、

「しきたりやら諸分なぞ、あとからなんとでもなる。今一番必要なのは、姐さん自身なのよ」

 妓楼に必要なのは、身体を売る肉人形じゃない。

 女郎も人なら客も人。人と人との繋がりだ。

 その繋がりを円滑にできるのは、おまつだけ。

 そう、すずめは熱心に口説いてきた。

 人助けだと言われれば、どうにも断りにくい。まずは通いからでも、と引き受けてみた。

 いざやってみれば遊女と客との間を取り持つ仕事は意外と面白く、また親元から引き離されたばかりの禿や新造たちの世話も苦にはならなかった。

 働きぶりが認められ、おまつは番頭新造として正式に雇われることとなった。岡場所上がりの河岸女郎が中見世の番頭新造になることも、これまた前例がないことであった。

 そうして中見世で一年ほど勤めたあと、すずめに新しい鞍替え話が舞い込んだ。

 京町一丁目の大見世・高砂屋への移籍だった。

 高砂屋は新興ではあるが、今最も勢いのある妓楼で、抱え遊女もいずれ劣らぬ上玉揃いと評判だった。その高砂屋は、いきなり平昼三の地位を約束すると話を持ちかけてきたのだ。

 鞍替えを承諾したすずめの付けた条件は、ただひとつ。

「番頭新造のおまつとともに」

 そうしてすずめは『鳳』、おまつは『常磐』と源氏名を変え、高砂屋へ入ることとなった。

 あれから二年。

 すずめ改め鳳は、ここでも上妓への階段を駆け上り、平昼三からとうとう最高位の呼出しにまで成長した。

 今でも鳳は、羅生門河岸で過ごした日々を忘れていないと、恥じることなく上客の前でも昔話をする。

「あの日々があったから、今のわっちがおりんす」

 そう話すときは決まって、隣にいる常磐と顔を見合わせ笑うのだった。




「たしかにさ、あんたは羅生門河岸こんなとこでくたばるタマじゃないとは思ってたけどね。まさか再び呼出しに返り咲くたぁ、恐れ入るわな」

 昔のように伝法な口調に戻った常磐が苦笑すると、

「当然さ。わっちが踏みにじられっぱなしでいられるとお思いか。やられたら十倍にして熨斗つけて返さないと気が済まねえ」

 すっかり支度のととのった鳳は立ち上がり、鳳凰に松模様があしらわれた黒綸子りんずの仕掛を褄取って、窓際の出格子に腰掛けた。馴染みたちが競って「鳳の晴れ着は俺が」「いやわしが」と申し出るのを撥ねつけ、自腹で仕立てた仕掛である。

 すぐ横に、常磐も並んで座る。鳳ほど豪奢なものではないが、とっておきの晴れ着である三枚がさねに身を包んでいた。

 羅生門河岸にいたころは、自分が絹の着物に袖を通す日が来るなどとは、思ってもみなかった。まこと、運命とは分からぬものである。

 ふたりで往来を見下ろすと、馴染みの茶屋の者や船宿の内儀、芸者衆などが続々と入口の暖簾をくぐっていくのが見えた。鳳の披露目の祝いのためだ。

 今朝早く、仲ノ町に桜が植えられた。

 きっとその桜を目当てに、多くの遊客がやってくるだろう。

 雛鶴の、すずめの、そして鳳の晴れ姿を目にするだろう。

 羅生門河岸で隣同士になってから四年。

 まさかあのときは、こんな風にふたりで並ぶ日が来るとは、予想もしなかった。

 ふふっと笑った常磐は、傍らの花魁にたずねた。

「十倍にして熨斗つけると言うが、絵は描いてあるのかい?」

 すると鳳は「もちろんさ」と、華やかな笑顔を浮かべた。

 客の前では絶対に見せない、最高の表情だ。

「まずは手始めに、桂屋の旦那だ。あの助平親爺、凝りもせず次の〝雛鶴〟を探してるらしい」

 四年前に請け出された賑ひは、妾宅での間男が旦那にバレ、叩き出されたという。

「引っかけるなァいいが、また身請けだと言い出したらどうするね?」

「そのときは、千両まとめてあの臭い口に突っ込んで、日本橋におわす奥方様の前に叩ッ返してやるつもりサ」

「そりゃ怖い。いかな大店おおだなの旦那でも、かかあの前では金槌の川流れだわいな」

 それから、と鳳は続けた。

「あとは弥助だ。どうせ女郎相手の商売を繰り返してるだろうから、悪所を探せばすぐに見つかるはず。しかし籠の鳥の身じゃあ仇討ちもかなわない、これは年季ねん明けのお楽しみにしておこう」

「見つけ出した暁には、どんな仕置きを考えているんだい?」

 常磐の問いに、鳳は軽く首をかしげてから、

「そうさね、とりあえず金的を握りつぶさせていただくとして……。その後は特に考えてないね」

「金的だけじゃあ足りないよ、ついでに竿も折っちまいな。二度と悪さができないように、身をもって思い知らさねえとな」

「そりゃあいい。野郎もご自慢のがなけりゃあ、おまんまの食い上げだろうて」

 ふたりは声を揃えて笑ったが、

「……もしひとができたら、遠慮なく吉原ここから出て行ってね。姐さんには年季もないんだから、わっちに気兼ねしないでちょうだい」

と、鳳は言った。

ひとねえ。あたしみたいな擦れっ枯らしを気に入る男なんざ、いやしねえだろ。いたとしたらよッぽど物好きだ」

「でも……」

「いいんだってば。もう男は懲り懲りだ」

 苦笑しながらそう言ってやると、鳳は長いまつげをそよがせた。

「姐さん……」

 出格子に置いた手に、鳳の手が重なる。ほっそりと白い指と、艶やかに彩られた爪紅。そして、折れそうな細い手首。

 いつだったか、自暴自棄になり客を取っていたすずめの、骨ばかりの手首を思い出す。

 あのころから細さは変わっていないが、芯の強さは明らかに違う。

 折ろうったって簡単には折れない、一本筋の通った力強さが感じられた。

「じゃあ、こうしよう。わっちの年季が明けたら、一緒に大門を出よう。そんで、妹さんを探そうよ」

と、鳳はいつか常磐が語った妹のことを持ち出した。

「大丈夫、ふたりで探せばきっと見つかるよ」

 真っ直ぐにこちらを見つめてくる鳳の瞳に、夕陽が入り込んできらきらと輝いている。

「どうせわっちには、吉原ちょうの外に行く当てなんかないんだもん。何年でもお付き合いするよ。ね、いいでしょ?」

 妹さんさえ嫌じゃなければ、わっちも姉さんにしてほしいな。それから三人で暮らせたらいいな、などと笑いながら言う。

 常磐はそれには答えず、ただ微笑み返した。

 それだけで、十分だった。

 お互い手を重ねて見つめ合うふたりへ、障子の向こうから声がかけられた。

「まあまあ、相変わらず仲がよろしいことで」と、高砂屋の楼主と内儀、そして遣手とが、そろって挨拶へとやってきた。

「鳳おいらん、本日はよろしくお願いしますよ」

「アイ」

「常磐さんも、万事取りまとめておくんなんし」

「お任せくださっし」

 すました顔で返事する鳳と常磐に、三人は上機嫌だ。

 この美しい花魁と気働きのよい番新が、よもや先ほどまで男の急所をつぶす算段を立てていたとは、夢にも思っていないだろう。

「さて、そろそろ道中をはじめようかと存じます。参りましょうか」

 楼主がぱんと手を打ち、みなが席を立ちはじめた。

 出格子から腰を上げた鳳に、常磐は「そうそう」と、思い出した用件を伝えた。

「おいらん。あの櫛を、ちっとお借りしたいのですが」

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