雛鶴は 千両にする つもりの名(五)
「なんだよ、おまつさん。幽的でも出たような悲鳴上げてよゥ」
騒ぎを聞きつけた朋輩たちが、開け放した木戸の向こうからのぞき込んでくるのを、「
派手にぶち抜かれたふすまに向かい、「もういいよ、すずめ」と、声をかけた。
「……ちょっとやりすぎたかな。こんな大穴が開いちゃった」
半分ほど開かれたふすまから顔を出したすずめが、面目なさそうに言った。真っ赤に染まった左の指先を、手拭いで拭いている。
「いいんだよ、どうせ元から破れてたんだ」
正確には、三月前おまつが自ら蹴りつけたのだが。
「それよりその指、本当に血が出たみたいじゃないか。この紅いの、どうしたい?」
「これよ。わっちのとっておき」
差し出されたのは、小町紅だった。猪口には椿の花が描かれており、一目で上物だと知れた。
「弥助さんがくれた最後の紅。ずっと使わずに取っておいたの」
よく見ると新品同様の玉虫色が、一部だけぼんやりと薄くなっている。指全体を赤く染めたのだ、相当な量を使ってしまったのだろう。
「形見の品じゃないか。いいのかい、そんな大事なもの」
「いいのよ、弥助さんの恨みを果たすためなんだから。きっとあの
手のひらに載せた猪口をしみじみと見つめながら、すずめは淋しげに微笑んだ。
「そういや、さっきの蓑吉のことだけど、『
「ええ、たしかに。あの様子じゃあ、詳しいことは知らされていないようだけど」
『黒亀』宛の文を見つけたら、楼主の元へ持って行くように頼まれた。
ならば、楼主ははじめから符牒を見抜いていたということか。
「符牒は以前から使ってたのかい? たとえば、身請けが決まる前だとか」
「ううん。この足抜けのために作った符牒だから、弥助さん以外の人は知らないはずなんだけど……」
『黒亀』は、足抜けの合い言葉。
それを、楼主は事前に知っていた。
知っていたからこそ、蓑吉に命じて足抜けの計画書を横流しさせた。
ということは──足抜けの計画そのものが、楼主には筒抜けだったということか。
いつ、誰が教えたのだ。
「あーもう、ここであれこれ考えたって埒があかねえや。ひとっ走り追いかけてって、もういっぺん野郎を締め上げようかね」
さっそく立ち上がろうとするおまつを、すずめは引き留めた。
「もういいよ、姐さん」
「あぁ?」
「もういいの。放っておいて」
「なんだよそりゃ。なんで秘密がバレたのか、知りたくねえのかよ」
「そりゃあわっちも、どうして秘密が知られたのかなって思うよ。でも本当に、もういいの」
「だからよくねえっつーの。だいたいあんた、腹立たねえのかよ。大事な間夫が殺されちまったんだよ。白黒はっきり付けて
気色ばむおまつに、すずめはゆっくりと首を振った。
「でも、今さら弥助さんが還ってくるわけでもないから……」
「すずめ……」
小町紅の器を愛おしげに撫でながら、
「さっきので蓑吉はもう来なくなったと思うから、それだけでも助かったよ。だからもう、満足なの」
満足ってなんだよ──そう撥ねつけたいのを、おまつはぐっと飲み込んだ。
すずめ本人が深追いしないと決めているならば、余所者でしかないおまつがそれ以上口出しするのは筋違いだ。
釈然としないまま、しぶしぶうなずいた。
「……あんたがいいって言うなら、それでいいけど……」
「うん。ありがとう、姐さん。姐さんがいてくれて、本当によかった」
椿の花が開くように、すずめは笑った。
今まで見たことがないような、さっぱりとした晴れやかな笑顔。
その笑顔に、いつまでもウダウダとこだわっているのが馬鹿らしくなったおまつは、ふんと鼻を鳴らした。
「へッ。言っとくけど、貸しだからね。今度なんかあったら……」
言いかけて、おまつはあっと気付いた。
「あの野郎、
それから三日経っても五日経っても、蓑吉は姿を現さなかった。よほどおまつとすずめの芝居が、真に迫っていたのだろう。
あの一件以来、すずめは人が変わったように朗らかになった。
それまで局にこもりきりで、口をきくのはおまつだけだったのに、今では積極的に局から出てきて朋輩たちと話をするようになった。
商売のほうも、丸太のように寝転がっていたのが嘘のように精を出すようになり、ふたたび人気が盛り返してきた。
日に日に羅生門河岸と仲間たちに馴染んでゆくすずめを見ていると、おまつは安堵するより、どこか胸に黒いものが溜まるような心持ちになった。
朗らかになったように見えるのは、つらい過去を振り返らなくなったから。
新しい生き方をするために、気持ちを入れ替えたから。
──本当に?
おまつの目には、そうとは見えなかった。
どこか、そう──あきらめに近いような。
過去を振り切ったのならば、それでいい。
人間、そう長い間後ろを向いたまま歩けるもんじゃない。いつかは転んでしまい、怪我をするだろう。それよりは、前向きに歩き直す方がいい。
だけど、それはここ──羅生門河岸じゃなくてもいいんじゃないだろうか。
本当にここが、すずめの居場所なんだろうか──。
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