雛鶴は 千両にする つもりの名(四)
翌々日、朝から降り続いた雨はいよいよ激しくなってきた。
昼見世も終わろうというころに、蓑吉はやってきた。閉じられた木戸を叩きながら、
「よお、雛鶴。いい加減に観念しろよ。だいたいお前、今は客を選り好みできる立場じゃねえだろ」
そこへおまつは隣から顔を出し、
「あんた、一昨日も来てただろ」
と、声をかけた。先日と同じ頬被りをした蓑吉は、現場を見られた盗人のように肩をそびやかせた。
「なんだてめェ。俺はこっちの女に用があるんだ、引っ込んでな」
「あれ、あんた知らなかったのかい。そこはこないだから空き部屋だよ」
おまつがそう言うと、蓑吉は手拭いの間からのぞく目を剥いた。
「はあ? そんなわけねえだろ。ここにいるってちゃんと調べは付いてて……」
「そうさ、一昨日まで確かにいたんだけどね……」
途中で言葉を切り、おまつは蓑吉の横に立った。ずぶ濡れになった派手な格子柄の肩に手を置き、
「ねえ、この雨じゃああんたも難儀だろ。ちょいとあたしのとこで着物を乾かしていきなよ」
蓑吉の肩から肘にかけて指をすべらせ、太い手首をつかんで
「隣の
流し目を使い、口許を引き上げる。乳に置かれた五指に、力がこもった。
蓑吉の目に、警戒とは別の光が宿っている。
「……ちょいの間だからな。あと、線香は一本っきゃ立てねえから、そのつもりでな」
結局蓑吉は、本当に線香を一本しか立てなかった。
実際は三本分かかり、その分のお直し代が必要なのだが、今回は特別にまけてやることにする。
煙管を吸い付けてから渡してやると、蓑吉は床に腹ばいになったまま受け取った。
雨は依然として降り続いており、局内は薄暗い。まだ七ツ前だが、行灯に火を入れる。
おまつは始末した枕紙を片付けてから、蓑吉の隣に寄り添い、
「あんた、いい男だねェ。あたしゃこの商売長いけど、初見で〝はずした〟のはあんただけだよ」
とささやいてやると、蓑吉はまんざらでもなさそうに煙を吐き出した。廓者のくせに女郎の〝振り〟が見抜けないとは、よほどおぼこいのか単なる間抜けなのか。
歳はおまつより二つ三つ下だろう、頬被りを外した素顔には少年のあどけなさが残っていた。客商売である廓者は、表面上はどれほど愛想が良くても目の奥が冷えている者が多いが、蓑吉はそれほどでもない。まだ芯まで
その蓑吉は、ひととおり煙管を吸ったのち、
「ところで、隣の女のことなんだが」
と、切り出してきた。
おまつは「かかった」と
「三月ほど前だったかね、えらくいい女が越してきたんだが、これがまァ辛気くさいのなんのって。いつ見ても死にそうな
果たして蓑吉は乗ってきた。がばっと身を起こし、煙管を盆に戻した。
「そう、その女だ。で、今はどうしてる? 今日は留守なのか?」
「留守っていうか……」
「なんだよ、さっさと言えよ」
もったいをつけられじれったくなったのか、蓑吉は先を急かした。
「……あんま大きな声じゃ言えないけどさ……」
急に声をひそめたおまつの方に、蓑吉は身を乗り出した。「な、なんだよ」
「首ィ、くくっちまったんだよねえ。あの
「……は?」
意味が飲み込めぬのか、蓑吉は呆けた声を上げた。
「つい一昨日のことだよ。ああ、いやだいやだ」
まだ火種の残る煙管を吸いながらそう言うと、蓑吉は明らかにうろたえはじめた。
「な、そ、そりゃどういうこった。首くくったって……」
「そのままだよ。あんたが帰ってからしばらくして、いつまで経っても木戸が開かないからってんで、お内儀さんに言われてあたしがここのふすまを開けたんだよ」
ほら、そこの。
指で差し示してから続ける。
「そしたら隣の
おまつは両手で自らの肩を抱き、ぶるぶると震えてみせた。すっかり声を喪った蓑吉にかまわず続ける。
「首くくる前に手首を切ってたみたいでさ、左の手からこう、つう……っと血がしたたり落ちてね。畳に血の海を作ってたんだよ。でもそれじゃ死に切れないと思ったのか、あんなことになっちまって……」
せっかくの別嬪も、ああなっちゃあおしまいさね。
そう言って蓑吉の方を見やると、薄暗い中でもそれと分かるほど顔色が真っ青である。
あと一押しだ。
おまつはひときわ大きく身を震わせると、
「訳ありだろうとは思ってたが、まさか自害するたァね。……ああ、そうそう。どうもね、恨みを残して死んだようだよ」
「う、恨み?」
恐怖と動揺で声が裏返った蓑吉に、とどめを刺す。
「そう。煙草盆の上に遺書が載っててさ。そこに『蓑吉殿 恨みまゐらせ候』とかなんとか書いてたみたい」
続けて「あたしは中を読んじゃいないけど、そこまで恨みを残して死ぬったァ、よっぽどだったろうねえ。その蓑吉ってやつァ、どんな悪党なんだか」と畳みかけたが、もはや当人はそれどころではないらしい。がたがたとこちらにまで音が聞こえてきそうなほど身震いしている。
「ところで、まだ名前を聞いてなかったね。あんた、なんて名だい?」
「あ、お、俺は……」
下帯ひとつで泡を吹かんばかりに震えている蓑吉にたずねるが、答える余裕などなさそうだった。
おまつは酒を用意するふりをして背中を向け、行灯の火をそっと消した。突然灯りが消え、情けない悲鳴が上がる。
「あらやだ、急に消えちまった。油が切れたのかね……。えっ?」
がたん、と隣との境にあるふすまが揺れた。ぎゃっ、と蓑吉がふたたび悲鳴を漏らす。
「ちょっと、どういうこったい。隣は誰もいないはずだよ!」
おまつもまた恐ろしげに叫び、反対側に飛びすさる。蓑吉は腰が抜けたのか、床の上で動くこともできない。
そのうち、ふすまの揺れはひどくなり、今にもこじ開けられそうなほどになってきた。
そして──。
『……のきち……』
地の底から這い出るような、低い声。それが、ふすまの隙間から漏れてきた。
『みのきち……。許すまじ……』
「ちょ、いやだよ。悪い冗談はやめとくれ!」
わざとおまつが金切り声を上げると、恐怖が
「ひ、雛鶴……。おまえなのか……?」
『蓑吉……。よくもわっちと弥助さんを殺しんしたな……』
名指しで恨み節を聞かされて耐えきれなくなったのか、蓑吉はとうとう泣き声を上げた。
「違う、俺じゃない。俺のせいじゃないんだ!」
『いいや、違いィせん。おまえがわっちと弥助さんを追い詰めんした……』
「本当に俺のせいじゃないんだ。聞いてくれ、雛鶴。俺は、
『……頼まれた……?』
「そう、そうだ。『黒亀』宛の文をおまえが出したら、
頼む、信じてくれ。
蓑吉は泣きながら両手を合わせて拝みたおしていたが、突然「ひいっ!」と締められた鶏みたいな声を上げた。
揺れていたふすまの一部に、びりっと裂け目ができたのだ。
見る見るうちに裂け目は広がり、そこから紅く染まった女の爪先が、にゅうっと突き出てきたではないか。
おまつが上げた大仰な叫び声に、うなるような女の恨み節が重なった。
『蓑吉……。おまえも冥途へ連れて行かねば、わっちは死んでも死にきれんすわいなァ……』
「か、か、勘弁してくれぇーっ!」
とうとう蓑吉は、まだ濡れている着物をひっつかんで、三和土へと転げ落ちた。そのまま下駄も履かず、土砂降りの中を駆けだしていった。
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