傾城は やはらかにして 歯が立たず(一)

 蓑吉を追い返してから十日ほど経った。

 かつては京町二丁目の木戸をくぐれなかったすずめも、今は臆せず通れるようになり、おまつとともに揚屋町の湯屋へも行くようになった。

 朔日に植えられたときはまだ五分咲きだった桜も、すっかり満開になっている。

 ふたりで湯を使った帰り、すずめはお菜の入った鉢を抱えてご機嫌であった。

「やっとむき身切り干しが買えたねえ。早く帰って朝飯にしたいな」

「おみつさんが飯ィ炊いてくれてるってさ。もうそろそろ炊きあがる頃だ」

「同じ飯なのに、おみつさんが炊いてくれたのは美味しいよね」

「まったくだ。こないだあんたが炊いた飯はベチャベチャだったもんね。どうやったらあんな糊みたいなのが炊けるんだか、逆に不思議でしょうがねえよ」

 笑いながらそう言うと、すずめはぶうと頬をふくらませた。

「しょうがないでしょ、飯炊きは初めてだったんだもの」

 そんなたわいのない会話をしながら仲ノ町を歩いていると、ふとすずめが顔を上げ、

「あれ、この木だけ散るのが早いね」

と、一本の桜の下で立ち止まった。

 それは、水戸尻にもっとも近い──大門からもっとも遠いともいえる──桜で、すでに散りかけており、路上にもちらほらと花びらが落ちていた。

 すずめは下駄を鳴らして青竹の囲いに近づくと、目の前に降ってきたひとひらを、鉢を持っていない方の手のひらで受け止めた。

「どうしてこの一本だけ先に散ったんだろうね」

「さあてね。もう、咲くのに疲れちまったんじゃねえか」

 適当に答えると、すずめは少し笑って、

「あきらめの早い桜だ。もうちょっと踏ん張って咲いてりゃいいのに」と手の中の花びらにささやき、ふうっと吹き飛ばした。

 哀れみを含んだ、寂しい横顔。

 吹けば消えてしまいそうな、はかない笑み。

 おまつの胸は詰まった。

 もうちょっと、踏ん張って咲けばいいのに──。

 桜のことか、それとも──。

 そこへ、

「おや。どなたかと思えば、雛鶴さんじゃおざんせんか」

と、甘やかな声がかけられた。

 振り向くと、派手な仕掛をまとった女が、見習い遊女である振袖新造ふりそでしんぞうひとりと、禿かむろふたりを引き連れて立っていた。

 すずめよりやや年かさだが、むせるような色香をまとっており、種類は違えど圧倒的な美貌の持ち主だった。

「やっぱり息災でありんしたか。こないだから蓑吉が『雛鶴の幽霊を見た』と、すっかり怯えてね。さてはとうとう、渡辺綱わたなべのつなに討ち取られたかと思っておりんしたよ」

 女は嫌味なほどの鼻声で、すずめに話しかける。しかし当のすずめは顔色ひとつ変えず、

「はて、どなたかとお間違えでは? わっちはそんな名じゃないんでね」

「あらいやだ、雛鶴さんたら。八角屋でご一緒だった、このにぎわひをお忘れでありんすか。いっそ薄情じゃおざんせんか」

 賑ひと名乗った女郎は、「のう梅香うめか、おまえなら雛鶴さんのお顔をよっく覚えておりんすわいな」と、傍らの振新へ語りかけた。梅香と呼ばれた若い娘は、白布を貼り付けたような表情で固まっている。

 もしかして──この梅香という振新は、かつての雛鶴の妹分か。

 姉女郎が鞍替えさせられ、賑ひ付きにさせられたのか。

 それならば、この娘の辛そうな様子も合点がいく。

も、しばらくは姐さん姐さんと泣いておりんしたが、今ではすっかり元気になりんしたよ。これ梅香、おまえも棒きれみたいに突っ立ってねえで、お世話になった姐さんへ挨拶しなんし」

 今にも泣きそうな梅香の肩をなぶるように、ぐい、と押し、賑ひは艶やかに笑った。芙蓉の花のように美しいが、どっこい根っこは泥で真っ黒らしい。

 たまらずおまつは口を出した。

「ちょっと、人違いだって言ってんだろ。ひなづるだか籠釣瓶かごつるべだか知らねえが、このはそんな名前じゃねえよ」

 すると今初めておまつの存在に気付いたように、賑ひは首を巡らせた。柳眉を寄せ、

「コウ、先ほどより青大将の臭いがきつうおざんすな。鼻が曲がりんすわいな」

と、袂で鼻先を覆ってみせた。

 なんと根性悪な女だ。頭に血が上ったおまつが「なんだ手前てめぇ……!」と食ってかかろうとするのを、すずめは静かに制した。

 その横顔は、先ほどまでの消え失せそうな弱々しいものではなかった。

 顎を引き、凜としたよく通る声で、

「わっちはあんたみたいな花魁とは縁のない、ただの河岸女郎ですよ。ただね……」

 切れ長の双眸が、泣きべそをかく梅香と、それをいたぶる賑ひに据えられる。

「妹分は可愛がっておやんなさいよ。花魁てのは、妹女郎の手本になるんでしょう? そんなんじゃあ、花魁の名折れですよ」

 余裕の笑みを浮かべていた賑ひが、さっと表情を引き締めた。

「それじゃ、おじゃまさま」

 そう言うと、すずめはいきり立つおまつを促してきびすを返す。下駄を鳴らして去って行くすずめを、賑ひは唇を噛んでにらみつけた。




 すずめの後を追おうとしたおまつの背中に、賑ひの声が飛んできた。

「……堕ちてなお、〝八角屋雛鶴〟は健在でおざんすな。でもそれも、もう終わりさ」

「姐さん、それは……!」

 あわてて梅香が遮ろうとするのを、賑ひが邪険に振り払う。顎を上げて勝ち誇ったように、

「来月には、わっちが『雛鶴』を襲名することが決まってね」

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