水晶の鼎
光走船の軌跡は尾を引いて夜の河面を照らした。
中天へ向けて駆けあがる満月と
天地には、二つの河が合わせ鏡のように対置する。ウェスはふと故郷で湖上の船に寝そべって眺めた星空を思い出した。隣にいたスタンがここにはいない。片方の肺を失ったような喪失感に喉が詰まった。
「目指すのは……あの首だ。もっと、もっと前へ来い」
極度の集中の中、ウェスはうわ言のように呟いた。
陽光を放出する長陽石は、船にいつにない力強さと速さを与えた。
船の操縦をひとつ誤れば、あっという間にハイドラの胃の中へ直行してしまうだろう。
それでなくても九つの首はのたうち暴れる巨大なホースと見做すこともできる。先端に衝突すれば、人間の乗り物などたやすく破壊される。
光の尾を引く船と九つ首を持つ怪物。
どちらも幻想めいた非現実感をまといながら――いま雌雄を決するために向かいあった。
サルキアの指定した首はひとつだ。その口にベイリーの身を放り込む。それがウェスとガラッド、そしてメリサに課せられたミッションだった。忘れてはいけない。ラトナーカルもいた。竜猿は慣れないはずの櫂を器用に漕いで光走船の疾走に一役買っていた。誰もが、旅のはじめに玉座を目指したメンバーではない、あり合わせの急ごしらえのチームだ。
「すげえスピードだ。機体が軋んでる。ウェス、おまえ、こんな速度をコントロールしてやがるのか」
「こいつはボクの一部みたいなもん。だからって恐くないわけじゃない。視界がほぼない上に、なぜか水流が荒れてる。突き出した岩に当たったら一発でお陀仏さ。せいぜい振り落とされないでね。メリサ、三時の方角に撃って!」
暴れ馬と化した愛機を駆りながら、ウェスが指示を出せば、メリサは曳光弾でハイドラの首を威嚇するが、その挙動には恐怖から来る拭いきれないぎこちなさがあった。
「ベイリー様、よりによってあなたをあんな怪物に食べさせるためにこんなぁぁあああああああ!」
ウェスが急激に旋回したためにメリサは悲鳴を上げた。曳光弾もわずかに逸れる。
船外に跳び出しそうになったメリサを腰をガラッドがぐいっと引き寄せた。
ガラッドの隻眼に神話めいた怪物の跳梁が映り込んだ。ごくりと何度目かの唾を呑み込む。
「冗談じゃねえ、冗談じゃねえくれぇ最高だぜ」
「おっさん舌噛むなよ」ウェスだけが冷静だった。「タイミングが重要だ。あの首、あいつにギリギリまで近づく、といっても7スローほどが限界だと思う。何度もチャ
ンスはない。――待って。どうもおかしい」
「何がだ?」
「河が、だよ。どんどん潮の匂いが強くなってる」
「そりゃ海がすぐそこだからだよ」
「いや、まるで海が迫ってきてるみたいだ」
「海が動くかよ」
「動くよ」きっぱりとウェスは言った。
こいつにとっちゃ、とガラッドは思う。
(海でも山でも動かせるだろうぜ)
すると河と海とが擦れ合う音――それは誰にとってもはじめて鼓膜に触れる振動だった。
「やっぱりか。こんな時に!」
ウェスは空を見上げ、今夜が満月であることを確かめた。
「何?!」メリサが眼を丸くしてウェスに顔を近づけた。「空になんの関係が?」
「どうやら」とウェスが言った。「――
「んだよ、それって?」とガラッド。
穀倉地帯の元農奴が知るわけがない。月の力が海を内陸に押し上げることがあるなどとは。
「潮汐力で、満潮時に海水が河を遡るってやつ?」
「そう、この河口の形状……おあつらえ向きってわけか。ってことは
「
「垂直の壁みたく押し寄せてくる波さ。光走船にぶつかれば確実に転覆するだろうね」
ウェスの天才は、知識や情報に過ぎないことに実感を引き寄せられることだ。湖水地方の少年が海嘯という未知の現象を脳内で何度も事細かにシュミレートしていたなどとは、誰が信じられるだろうか。
「落ちればハイドラの餌だ」
「俺の人生ここで詰みかよ」
「おっさん、祈る神様は?」
「生憎お近づきになってねえ」
「そっか」御愁傷様といったところだ。
「おいウェス。おまえ笑ってんのか? 楽しいのか?」
ウェスは片手を頬に添えた。触れてみなければ自分の表情もわからないのだ。
「――どうかな」
「イカれたガキが。命預けるこっちの身にも――」
船体が大きく揺れた。
「ウェス。あの時みたいに」とメリサ。彼女が言ってるのは、雪山でウェスが雪崩を奇跡のように乗りこなした事を言っているのだった。
「わかってる」ウェスも同じ体験を反芻していた。雪の分子がまるで紙飛行機を運ぶそよ風のようウェスたちを乗せてくれた美しい数秒を。
「またできる?」
メリサの懇願に似た問いにウェスはもう答えなかった。
昼と夜が入れ替わった直後、いまや河と海が――つまりは淡水と海水がぶつかり混じり合おうとしているのだ。さらに言うならば低きに流れようとする水と月に引き上げられる水の衝突とも言えた。重力と引力の拮抗。ここは異なる二つの力が邂逅する世界の最果てだった。
「
「タイミングはもっとシビアにデリケートになる。だろ?」ガラッドは自分が少年の歳頃だった時を思い返した。これほど馬鹿でもなければ聡明でもなかった。ましてやこれほど大胆でも。
(ウェス・ターナー。わかったよ。俺がおまえを誘ったのは、ただ、おまえみたいな友達が欲しかっただけなんだな。ガキの頃夢見た自由ってやつはよ、きっとおまえみたいな面してんだろうさ)
ウェスの耳には誰の言葉も、ましては声にならぬ想いなどは届かなかった。
波を受ける角度によっては船は砕け散る。ラトナ―カルが漕ぐ手を止めないままでウェスを守るように身を覆いかぶせた。メリサの手から最後の曳光弾が放たれた。
深緑の濁流が海から押し寄せてくる。まるで二種類の違う生き物のように対峙し互いに押し合うようだ。やがて淡水は海水に屈服し、陸へ続くその領土を謙譲した。
波の高さは予想以上だった。ウェスの背丈を遥かに超えて迫ってくる。軽く接触しただけで飲み込まれるだろう。波頭が崩れる瞬間を掴み取って、不定形な水のうねりに乗る必要がある。気付かれぬまま疾走する荒れ馬に騎乗するのに似た離れ業だ。
別の喩え方だってできる。
メリサ曰く、
「ウェス、こんなとこは簡単よ。君ならできる。赤い絨毯の上をタキシードでスキップするみたいなもんだわ!」
「なんだっていい! とにかく成功させろ!」
ガラッドの絶叫は
「いまだ!」
波と直角に走っていたウェスは急旋回し、波のベクトルに船首を一致させた。ふわりと内臓が浮き上がる感覚があったかと思うと滑るように光走船は河上へとひた走った。
「波に――乗った!」
メリサは喝采を叫んだ。
波と共に船は疾走し、襲い来るハイドラの口を何度もかすめるようにして、目的に首に近づいた。至近距離で眺める口腔とそこに密生する触手は冒涜的で直視しがたいものだった。まだ息のある人体をそこへ放り込むなど、たとえ不倶戴天の敵であったとしても抵抗感は拭えない。
「本当にいいのか?」口早にガラッドはメリサに言った。ベイリーに一番思い入れがあるのはメリサに違いなかった。
「やって。わたしはベイリー様を信じる。この人は、どんな戦火にも毒にも罠にも耐えた。今度だって戻ってくるはず」
「ああ」
ガラッドはそのおぞましくも深い穴へ向けて、幾度となく火花を散らしてきた相手を放り込んだ。名残り惜しそうに口元を歪めたが、その心中は計れない。
三人と一匹は――随分と長いことラトナーカルの尻の下敷きになって省エネモードだった生首のジャックス以外は――怪物の体内に吸い込まれていくベイリーの姿を見送った。
「ぷはっ! やっと息が継げる」
「何よ、この首?!」とメリサが言うが早いか、船底に横倒しのジャックスは「おいらぁ、ジャックス。この阿保船に乗ってるたったひとつの良識だぁ」とまくし立てた。
「どうやって動いてんだ?」ガラッドが物珍しげに手を伸ばしたその時、逆巻く波が別方向から襲い掛かった。一瞬の気のゆるみを突かれたウェスの対応が遅れた。
「きゃああああああああ!」
波が過ぎると、船に残っていたのは、ラトナーカルとウェスだけだった。
ウェスは放り出されまいとラトナにしがみついたし、ラトナーカルもまたウェスを手放すことはなかった。
自己紹介を終えたばかりのジャックスが波間に沈みゆくが見えた。
集合写真から二人の姿だけを拭い取ったかのようにメリサとガラッドの姿はない。
× × ×
大逆流。
その特異な自然現象をジヴは昔の仲間から聞いたことがあった。
それは日食と似て、ジヴの見慣れた現実を揺さぶった。河は海に押し戻された。まるで積年の借りを返すかのような狼藉。あるいは躊躇いなき暴威。
岸で待つサルキアとジヴはほとんど一糸まとわぬ姿で肩を寄せ合っていた。憑依症状より回復したサルキアは、しかし、どこか寝惚けているようにしゃっきりしない。
「なんてことだ!」
しかし、信じがたいことは続けざまに起こる。
ジヴだけが見ていた。
悪魔の中指をまるごとハイドラがさらっていったのを。装甲車の中は安全だというメリサの当ては外れたことになる。対して、無防備な裸で大人しくしていろというウェスの方針は効を奏したのだった。
内にいるはずのルードウィンとクラリックがどうなったのは知る由もない。いや、存外に早くに成り行きを知ることができるかもしれない。ベイリーを喰らった怪物は、まるで九つのサーチライトのように口から強烈な光を吐き出していた。
サルキアが幻視の中で見た変成の光、それはまさにそれそのものだった。
「サルキア、大丈夫ですか。きっとガラッドさんたちが成功させたんです」
「……ああ」夢を見るような視線は定まらないまま、飛び交う光線を追いかけていた。
「あなたに賭けたんですよ。現実離れしたあの案にね」
「記憶が曖昧なの」
「あれがデタラメだったのなら、あなたが唯一の王位継承者とはいえ、メリサ、あの女はあなたを許さないでしょう」
「わかってるはず。見て。たぶん三人は……あの怪物のお腹の中で玉座に触れたんだわ。そして起こるべきことが起きた」
まさにハイドラの異変は、サルキアの案が故のないことではないことの証明だった。九つの首はいまや天に向かって垂直の塔のように上昇していた。
「――なんだ?」
光を放つ九つの列柱。
それはみるみるうちに色を変えていった。まるで石に変じてしまったようだ。
「動かないぞ、死んだのか?」
「内部からあの光を浴びたから、もしかしたら……ううん、わからない」
結晶化したかに見えた怪物はすこしずつ透き通っていった。クリスタルのように煌めきながらそそり立つ巨大な柱、または、ある種の樹木とも見えた。やがて強烈な光が途絶えるとその繊細な内部構造が透けた。おぞましい化け物もこうして見ると巨大で前衛的な彫刻、それもこの世界に二つとない精微な美と認めざるを得ない。
「樹なのか。水を吸い上げてる」
天空へ向かう支流。それは天の川への合流を望むように――星々の世界に伸ばす手にように見えた。
ジヴは眩暈がした。
めまぐるしく生じる出来事はどれも想像の範疇を超えている。たとえ、竜が天を舞っていたとしてももう驚かないだろう。この世界は驚異そのもの、泡立つ神秘そのもの、神の手になる星図はどこまでも拡がっている。柄にない詩情に圧倒されたジヴだったが、気の利いた言葉が出てくるわけもない。それでもサルキアに肩を揺さぶるくらいのことはした。
「みんな生きてるのか? ガラッドさんは? ウェスは?」
我に返ったジヴはとりあえずそれだけを口にした。
サルキアは首を振る。この世に確かなものはないとでも言うように。
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