おしゃべりなら十分だ
〈大喰い〉の損傷は軽微だったし、まだ走ることはできる。それであっても激しい衝撃にサルキアは舌を噛みそうになった。
屋根のない乗り物から放り出されないためのベルトなど用意していない。そもそも〈大喰い〉は二人乗りの機械だ、増えたのは軽量な女性とはいえ、倍の乗員を抱えていることになる。揺れや衝撃に対処するには、しがみついているしかない。
「サルキア、無事か?」
ジヴが手を伸ばさなければ、投げ出されたサルキアは後背湿地のなだらかな傾斜に全身を打ち付けていただろう。
「やつら急変したぜ。まさか出しぬけに特攻とはな」
言いながら、ガラッドは次の接近に備えてハンドルを握り締めた。あの猛追には、冷静なベイリーにふさわしからぬ憎悪を感じる。
(ベイリーでないとしたら誰だ?)
「重量も硬さも敵わない。あんなのに体当たりされたら一発でお陀仏ですよ、ご主人」
「ああ、悪魔に指差されたのを感じたぜ」
すんでのところで衝突を免れならが、ふたつの機械は何度も左右を入れ替える。砂礫に穿たれた二本の轍は美しい曲線で交差していた。
「あっちへ!」とヴェローナが指す方向は河べりの葦の密生地だ。
背の高い植物の中に分け入ればこちらの姿を隠すことができる。こちらの姿は見えないが、敵の位置は立ち上る蒸気のおかげで特定できる。わずかに優位に立てるとしたら、飛び込むべきだろう。
「このままじゃやられる」
サルキアが息を詰める。さすが王国最新鋭の装甲車だ。ガラッドは後部車両を切り離したその速度に驚きを隠せなかった。
(デカいくせに速いときてる)
「よし、行くぞ、振り落とされないでくださいよ、お嬢さん方」とジヴ。
「その前にやつらの攻撃をもう一度だけかわせるか? ジヴ。その時にヴェローナは――」
「わかってるってば。あっちに乗り移って制圧するんでしょ。おじさんけっこう人使い荒いよね。それよか約束忘れないでよね!」
ガラッドにヴェローナが鼻歌気分で作戦への理解を示す。
「わかってるよ。ただなぁ、砂漠での借りを返さねえとな。そうだ、ヴェローナ、ベイリーを侮るな。奴は手ごわい」
言うが早いか、ガラッドたちは葦をなぎ倒しながら、河の方へ突き進む。
そうはさせまいと悪魔の中指が横合いから迫ってくる。ジヴは急減速でそれをやり過ごした。空振りした装甲車はガラッドたちよりも一足先に葦の密生地に突っ込んでいった。もちろんヴェローナも乗せて、だ。
――ギュルルルル!
続いて飛び込んだ大喰いは片っ端から葦を貪り喰った。その咀嚼音は頼もしいものの敵に正確な位置を悟られるほどではない。
一気に視界が狭くなる。その上、数分前から雨も降ってきたから、まるで夜になったようにあたりは暗くなった。煙る暗色の水彩画の風景に紛れ込んだ錯覚にサルキアは囚われる。ヴェローナが居ないことがこんなにも不安だと彼女ははじめて知ったのだった。
「やつらの居場所は蒸気の柱でわかる」
安心させるようにガラッドは残された片目でウィンクする。
「ねえ、どこへ向かってるの? だって妙な夢を見てるみたいじゃない」
「泥に埃にまとわりつく虫。夢なら醒めて欲しいよな」
「ううん、わたしが言ってるのはね、王宮に暮らしてたことが夢みたいだってこと」
サルキアはうわごとのように呟いた。
霧雨と疾走の組み合わせは世界の手応えを急速に失わせる。
美と虚飾の権化と呼ばれた僭主イルムーサの傀儡としてサルキアが君臨したのは、ほんの短い間だったはずだ。煌びやかな珍品貴宝と媚言に充ちていた宮殿こそが、いまの彼女にとっては懐かしの幻想であり夢に違いない。夢と知りつつサルキアはそこへ返り咲こうとしている。そして追うのは、彼女を夢より放逐した張本人であるベイリー・ラドフォードときている。皮肉な構図だ。
「夢ね、確かにどっちが夢なのかわからなくなることはあるな。自由の身になった今とその前と。‥‥さぁ、この追いつ追われつの楽しい競争もそろそろ大詰めかもな、ジヴ」
「夢に終わりがあるのならいいんですけど。恐ろしいのは夢が終わることじゃない、終わらないことですよ」
蒸気の煙が動き回るのをやめたと見ると、〈大喰い〉は静かに転回した。
× × ×
荒れ牛を御すようにヴェローナは装甲車の上にしがみついていた。
最後の交錯で乗り移った彼女は勢いを増しつつある雨に打たれて、ぎこちなく頬を緩めた。砂漠の街で取り逃がした獲物にここで再会した喜びだった。
死神が人間離れした膂力でキューポラのハッチをこじ開けようとするその音をベイリーたちはもちろん耳にしていただろう。
「聞いてるベイリー? あんたを
主を変えながら、依頼されるまま怨みのない相手の命を奪い続けることにヴェローナはついぞ疑問を抱かなかったが、薄い油膜のごとき倦怠が何層にも重なって、いまや彼女に行く先を見失わせていた。
「ねえ、聞いてるベイリー? サルキアを王座に押し込んだら、わたしは波止場とボートを手に入れる。そこで愛する人と平凡で変わり映えのしない毎日を過ごすの。歳を取って、本物の死神が迎えにくるまで」
キューポラのハッチが弾け飛んだ。
悪魔の中指は急停止する。装甲車の内側から雨と逆行するように銃弾が連射されるが、それはどれもあたらない。のけぞって回避したヴェローナは、アンバランスは体勢になりつつも装甲車にしがみついて落ちることはない。
「ちっ! 無駄な抵抗だっての」
ルードウィンの飛行船からくすねてきた手榴弾を手に、ヴェローナは確信めいた言葉を放つ。ピンを抜いてそれを車内へ放り込めば、ケリがつくだろう。
「詰みだよ、あんたら」
「気をつけろヴェローナ!」
ガラッドの声が飛んだ。勝利の確信がわずかに揺らぐ。
「悪魔の中指には底部にも出口がある。床下から抜け出てくる!」
それは砂漠の城砦を攻略した方法でもあった。ベイリーらは装甲車を潰走させたかと見せかけて城へ通じる秘密の通路へと進入したのだ。
「だったら!」
天性の状況判断力をヴェローナは見せた。
車内に投げ入れるつもりだった手榴弾を、そのフォームのまま戦車の履帯のそばに放ったのだった。数多い死地から彼女を救い上げてきたのは、驚異的な身体能力でも呪力でもない。戦闘の機微を嗅ぎ取る能力のおかげだ。
「死ね、アバズレ!」
鬼の形相で飛び出てきたのはルゴーだった。床下から抜け出た後、葦の影にいったん身を潜めていたのだろう。このタイミングなら、走行を停止する前に脱出をはじめていたに違いない。ベイリーが即興で組み立てる戦略もまたヴェローナの勘に劣らぬ出色の出来栄えだったが――。
「そこは危ないよん」
――ドンッ!!
復讐の念に染まったルゴーが憤怒の表情のまま紙のように舞った。
「だからさ、言ったじゃん」
ケラケラとヴェローナが笑う。
ルゴーが放ったはずの弾丸は、大きく逸れて、悪魔の中指の装甲に跳ね返った。双子の兄弟の仇をとるはずだった銃弾は、しかし、死神ヴェローナの肉体に触れることさえできなかったのみならず、あろうことか双子の兄弟は同じ少女によって致命傷を負わされることになった。
「あんたはベイリー・ラドフォードじゃないよね」
装甲車の上から訊ねたのは、ルゴーの息が絶えていなかったからだ。
至近距離で手榴弾を爆風を受け、片足を吹っ飛ばされているのが見て取れる。気絶していないのは幸か不幸か。呪うべき相手の顔をその眼に焼き付けて死ねるのは、たぶん幸いと言うべきだったろう。
「ヴェローナ、ひとりは確保したぜ。もうひとりもすぐにジヴが仕留めるだろう」
景気のいい声がしたかと思うと、葦の壁を割って、クラリックを盾にしたガラッドが現れた。
「ベイリー、今度ばかりは俺の勝ちのようだな」
勝ち誇るガラッドに応ずる声はない。
「どこだベイリー? まさか部下を見捨てて逃げたわけじゃあるまい?」
「……た、大将は逃げはしない、おまえらなんて……すぐに」
肺が押しつぶされたような、ひゅうひゅうという擦過音が聞き苦しい。ルゴーの瞳が色を失っていく様をクラリックは嗚咽とともに見つめていた。
「ルゴー!」
「ク、クラリック、ひでぇ降りになってきたな。これじゃあ……びしょ濡れ」
「馬鹿だな。雨はそれほどでもない……おい、ルゴー!」
ガラッドの拘束を振りほどこうとクラリックが暴れるが、細腕の優男では死んだ仲間の元へ走ることもできない。
「死んだな」傲然とヴェローナが言った。
ルゴーがなぜ激情に駆られて飛び出したのか、その理由をこの少女は本人の口から告げられて知ることさえなかった。兄弟の仇だったということもわかってはいなかったし、知ったところで意に介しはしなかったろう。無数に横たわる死者の列。ヴェローナにとってはいつもの風景だった。漁師における海のような。
「死ぬのは――」
その時、完全なる死角から、ふいに一発の銃弾が放たれる。
「――君もだ」
ヴェローナの背部から胸へと、短く、そして暗いトンネルが穿たれた。
ずり落ちるようにヴェローナは装甲車の砲台近くにへたり込む。
「やはり手榴弾は装甲車の中に投げ込むべきだったな」
こじ開けられたキューポラのハッチ、装甲車へ乗り込む狭い空洞から上半身を現したのは、ベイリー・ラドフォードその人だった。砂漠の攻防戦の時のように、乗組員すべてが底部ハッチから脱出したかと見せかけてひとり残っていたのだ。
「そんな」ガラッドは我知らず呻いた。
ガラッドの経験を逆手にとった戦法だった。
ヴェローナへのアドバイスが裏目に出た。装甲車はも抜けの殻となっているという先入観が事態を予期せぬ方向に導いた。
「ルゴー」
二度も死神の手を逃れた男、
「ナローの仇はとったぞ、そして、おまえの仇もな」
「くそったれ!」
ヴェローナに潰されたガラッドの片眼が疼く。その痛みが唯一、死んだ少女との繋がりだった。ガラッドにとってヴェローナは利用できる強力な駒でしかなかったが、捨て駒以下の、牛馬の如く扱われる人間への同情を一番持ち合わせているのもまたガラッドに他ならない。
「イイ男を見繕ってやるって約束したじゃねえか」
「非情な商人が、殺し屋の少女のために泣くのか、それとも雨か? おまえの眼から流れているのはなんだ? ガラッド・ボーエン」
「てめえ、はじめて俺の名を呼んだな? いつだって眼中にねえみてぇな面してやがったくせに」
「マイルストームの腰巾着はやめたのか。あの世でだって続けられるぞ」
「挑発はそこまでだ。おまえの部下はこうしてこちらの手にある。黙って降参するんだな。それともあんたは部下の命よりも勝利が好きか?」
クラリックはふるふると首を振った。
「ベイリー様、わたしのことはどうか構わずに」
「安い意地を見せんじゃねぇよ、三下が」
ガラッドはクラリックに強烈な頭突きを見舞った。昏倒しかけるクラリック。
「どうする気だ? こいつを見殺しにすんのか」
ヴェローナを貫いたのと同じ銃を向けられながらも、ガラッドは凄んだ。
「いたずらに傷つけ合うつもりない」
「その鉄屑でぶっこんで来たのはそっちだろうがよ」
「ヴェローナ・リジュイー。あの少女には殺されるだけの理由があった」
「そりゃたんまりあるだろうさ」
「ナローは……ルゴーの兄弟は」
「おしゃべりなら十分だ」
雨の中、睨み合う二人だったが、根負けしたようにベイリーが銃を捨てる。
「わかった。降参する。クラリックに手を出すな」
言いながら、ナローの変わり果てた姿を一瞥し、
「部下を失うのは――失うのに慣れるのはうんざりだ」
煙るように降る雨の中、ベイリーは濡れそぼった姿で両手を掲げた。
× × ×
レイゼル、そしてヴェローナ。
この旅に出てから女には負け通しだ。
(なんだ、僕が弱くなったのかよ、それともこいつらが特別なのか)
ジヴは穏やかならぬ心境だった。
メリサはジヴの驚愕を察してほくそ笑む。
彼女は装甲車から抜け出して、単独行動を取ったのだった。ベイリーたちの命運を向こう見ずなほど信じていた。
ここで為すべきことが彼女にはあった。
「なによ、わたしが高嶺の花っぽいからって、げんなりしないでよ。男なら、当たって砕けろの精神でさ、ほら! どーんと来なさいって」
「嫌いなタイプだ」
とジヴがぼそりとこぼす。
メリサの体術はヴェローナには遠く及ばぬにしろ、レイゼルに迫っていた。ジヴの剛腕をもってしても容易には捕えられない。ぬかるんだ足元が動きを制限するのは、両者とも同じ条件のはずだった。
三度目の拳をかわされて、ジヴは歯ぎしりする。
「畜生、なんだってそんなに水すましみてえにスイスイと動ける?」
「ふふふ、歩法にコツがあるの。地の利を得るのは兵略の基本っしょ」
と、もっともらしいことを並べるメリサだったが、彼女とて系統だった格闘術を学んだ経験はない。〈寄合〉の血統の記憶から引っ張り出したスキルが自然と発現しただけだ。
「この旅でわかったことがあるの」
またもやジヴの渾身の一撃をひょいと潜り抜けて、メリサがいたずらっぽく笑う。
「わたし、自分のこと強いって思ってる男をぶっ飛ばすの大好きなんだって」
言いながら、細腕から繰り出されたとは思えぬ打撃をみぞおちに放り込まれて、ジヴは身体を折り曲げる。
「田舎じゃならしたクチだろうけど、世界は広いんだっての」
見下ろされて投げつけられた言葉は打撃以上にジヴの肺腑をえぐった。
「うるせぇ、僕は誰にも負けやしなかった」
(この旅に出るまでは)
「ふぅん、だったら、あんたの相手はみんな弱かったんだ。弱い者イジメのゴロツキが気張っちゃって王様の椅子を掠め取ろうなんて、それは無理」
「弱い者イジメだと?」
メリサの侮辱は、ジヴの奥底に火をともさずにいなかった。
「あんたらの草刈り機に隠れてるのが――あれが誰なのか薄々はわかってる」
「黙れ」
「あの娘をベイリー様に会わせちゃいけない。クラリックにもね。これは女の直感。だから、人知れず、わたしがここで始末する」
葦の壁の向こうでガラッドとベイリーとヴェローナがどんな状況を作り出しているのかはわからないが、サルキアの存在を悟られているのだとしたら、それを守るのが、ジヴの使命であるはずだった。ただ、そんな役割さえ忘れさせるほどの激情にジヴは飲み込まれつつあった。たとえ、それがメリサの策略だとしても。
「弱い者を虐げる。それが僕だと?」
許さない。ジヴはあっさりと決めた。
(こいつは必ず泣かせてやる)
ガラッドとジヴがこれまで何を勝ち取ってきたのか、この女は知らない。ここに降りしきる雨なんてものの数じゃない。もっともっとたっぷりの雨水と泥をすすって来たのだ。
「どうやら」とメリサは眉をひそめて一歩下がった。
ゆっくりと立ち上がるジヴはこれまでとは別人のような眼をしている。
(僕たちが戦って来たのは、いつだって自分より強い相手だったさ)
「逆鱗に触れたってやつ?」
「口数の多い女だ。それに頭も悪そうだ」
「顔は言うまでもないけど、頭だって人並み以上だよ」
言い終わらぬうちに、突き上げるような蹴りがメリサを襲った。
交差した腕でのガードごとメリサは吹っ飛ばされる。ついにメリサの背中が抽水植物の根に張った水に触れる。
「おしゃべりなら十分だ」
「――なんだ、拳だけが得意なわけじゃなかったんだね。意外性のある男ってセクシーかも」
「折れた腕で吠えてろ」
バレたか、という表情でメリサは舌打ちする。
ジヴの見立て通り、メリサの片腕にはいまの蹴りでヒビが入っていた。
「あんた強いよ、ベイリーの側近だってのも納得だ。でも、少なくとも、あんたより強い女を三人知ってる」
「へぇ、参考までに誰だか教えて」
メリサのへらず口は収まらない。ジヴの反撃は予想外だったにしろ、いまだ余裕を伺わせてはいる。それでも額を伝う雨には、冷たい汗も混じっていたはずだ。
「白狼レイゼル・ネフスキー、死神ヴェローナ・リジュイー、それにうちのお袋だ」
「光栄だね」
「で、いまからが、僕の最初で最後の弱い者イジメだ」
「光栄だね」
と――ついに言葉は絶えた。
残るは雨音と、二人の男女の激しく触れ合う、鈍い響きのみ。
二人の攻防は破綻のない演武のようだった。粗削りなジヴの攻勢にメリサの流麗な体捌きが応じる。長雨も、戦いも、続いている間は永遠に終わらぬかと思わせる。が、それは物足りほどあっけなく終わることもある。
拳足の一閃は、横ざまに雨滴を切り裂く。
そんな間延びし、引き延ばされたような、まさに永遠と見える刹那の中にさえ、終わりの兆しは萌え出している。
つまるところ、最後に立っているのはひとりだ。
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