空の底から

 飛行船ウィースガム号には十二の船員寝室に加えて、調理室、食堂、倉庫、指令室、男女化粧室など、総勢三十名を超える船員たちの暮らしを支えるに満足な快適さがあった。さながら遊覧飛行船のごとき充実の環境。だからこそ軍用飛行船であることを忘れぬよう緊張を保持する必要がある、とウルスラは心がけていた。


(総督代理にはもっとビシっとしてもらわないと)


 いけないのは、船長のルードウィンが遊戯室に入り浸っていることだ。そこには古今東西の室内遊戯が揃い、業務外時間であれば、船員は誰でもそこで遊びに興じることができた。


 そもそも軍用飛行船に遊戯室が必要なのかという問題はおくとしても、船長であるだけでなくシェストラの総督代理であるルードウィンが、任務そっちのけでゲームにかまけるなど、折り目正しい副官ウルスラにとっては眼に余る光景だった。


「娯楽が必要だと言ったのはウルスラ、君じゃないか」

「限度というものがあります」


 ベイリーが居た頃は、ルードウィンはもっとマメで勤勉だった気がする、とウルスラは思う。そのベイリーが死んだかもしれないというのにルードウィンは動揺した様子を見せない。


(どこか変だ)


 遊戯室に比べて驚くほど質素な司令室でウルスラは疑い深げにルードウィンを眺めやる。


「カリカリしないで、ほら教えてあげるから」

「やりません」


 ルードウィンが差し出したゲームの駒を叩き落とし、ウルスラは盤上へ身を乗り出して迫る。


「怒ってるのはヴェローナのことだろ」

 何度も説明したはずだけどな、とルードウィンはため息をつく。


 彼女とは、ルードウィンが個人的に契約を交わしているのであって、正式にシェストラ王国の軍隊に所属してはいない。得体知れない野良猫に軍の糧食を与える筋合いはないというのがウルスラの主張だった。


「そうだけどさ、ヴェローナの戦力は兵士百人分にだってなる。一方、食事は大人の兵士の半分にも満たない。費用対効果は抜群だろ?」


 ヴェローナの回収早々、ウルスラとの間にひと悶着が起きた。それが尾を引いているのだろうとルードウィンは睨んでいる。糧食だのなんだのは難癖の材料に過ぎないだろう。


「失礼ですが、わたしには信じられません、あんな小娘が我が国の精鋭たちの戦闘力に匹敵するなど……それに彼女、結構食べますから!!! わたしより食べてますから!」

「それは悪かったよ。食欲に関しては僕の先入観だったよ。そうかあれでよく食べるのか。そうか」


 体毛の薄いルードウィンには髭が生えない。つるつるした顎を撫でながら、うんうんと何度もうなずいた。


「そうなんです!」

 こんなに必死なウルスラをルードウィンははじめた見た気がした。


「まぁいい。君たちの間に少々摩擦が生じたのは知っている。ただし、食欲はともかく、ヴェローナの有用性については疑う余地はない。これからの過酷な任務にはひとりでも多く腕の立つ仲間が居たほうがいい」

「信頼に足る同志であれば仰る通りです。しかし、彼女は副官であるわたしの質疑に応じず、あなたの権威すら侮った発言をしました。そんな者を同じ船に乗せては士気に関わります」


 平滑道路でウィースガム号に回収されたヴェローナにはウルスラが応接した。ルードウィンへお目通りする前の形式的な質疑だったのだが、その場に居合わせた者によれば、ヴェローナの対応はお世辞にも礼節に叶ったものではなかったという。


 有り体に言えば「うっさいブス」とウルスラを一蹴したらしい。


「さっさとあの寸足らずの狸野郎に取り次いで消えろ」


 報告を受けたルードウィンは頭を痛めた。

 プライドの高いウルスラの顔がどんなふうに引きつったか、想像に難くない。いや想像もしたくないほどの空気になったに違いない。


「性格と態度に問題があることは僕から謝ろう。ただ、実力に関してはその人格の難を差し引いても余りあるものだと保証する」


 ルードウィンの殊勝な物腰にもウルスラは丸め込まれなかった。


「納得いきません」


 ゼロッド同様、ヴェローナには数え切れぬほどの汚れ仕事を頼んだし、これからもそうするつもりだった。ここでご機嫌を損ねてはよろしくない。いずれ清算すべき関係であっても、いまはまだ彼女の力が必要だった。


「ともかく」とルードウィンは話を締め括る。「君の言い分はわかったが、これで決定だ。ヴェローナはこの旅に同行させる。以上」


 肩をいからせ憤懣やるかたない様子でヴェローナは指令室を出た。ルードウィンはため息混じりに副官の背中を見送ると、またゲームの駒を動かして思案にふける。


「――人は人を押しのける」


 飛行船が乱層雲をまたいで飛翔するにつれて、ルードウィンの思いも過去へ未来へと蛇行しながらすすんでいく。


 彼は名門貴族の長子でありながら、蒲柳の質であり、幼き日から幾度も病苦にさらされた。腸チフスに罹り、その後遺症で軽度の難聴になったこともあり、両親をやきもきさせるだけでなく最後には失望させてしまう。転地療養の末、ようやく頑健になったと思えば、今度は跡取りになると皮算用していた弟に疎まれるといった具合にルードウィンはいつも誰かの厄介者だった。軍に入隊したのは、弟の目論見を叶えるため戦地で死ぬつもりだったからだ。危険な任地を選んで転戦するうちにベイリーと出会い、不可能なゲームを繰り返すなかで、王都奪還という大がかりな三文芝居に加担していたというだけだ。


「他人の邪魔になるまいと目立たぬ場所へ流されるように……息をひそめて生きてきた」


 だが、ベイリーと共に王都を奪還した日、人生に何も望まなかったルードウィンについぞ知ることのなかった、ささやかな想いが兆したのだった。それは、いつも他人に押しのけられてきたルードウィンが生涯でたった一度だけ、己の欲望とエゴのために他者を押しのけることだった。


 ――たった一度きりの我儘。


 許されるなら、誰よりも手強く魂の底から畏敬を抱くような人物を相手取り、持てるすべてを投じて戦いたい。そんな相手はどこを探せばみつかるのか。もちろん探す必要などなかった。親友であることを除けば、なにもかもを賭けて挑むにふさわしい相手がすぐそばにいた。


 こうして傍観者だったルードウィンは長い惰眠より眼を覚ましたのだ。


「ベイリー・ラドフォード。君の手筋は直情的で王道すぎる。僕がいなけりゃ何度死んでたか。しかし、僕もまた君のおかげで策に溺れる道化師にならずに済んだ」


 ルードウィンは、白の飛翔車の駒で、黒の魔将の駒を取り除けた。勢い余って盤上からだけでなく卓上からも転落した悪魔は仰向けに天井を睨みつけている。頭を低くして駒を拾ったルードウィンは、自分のブーツが乾燥してくすんでいることに気付いた。


× × ×



 ヴェローナは俯せになって寝台と至近距離で向き合っていた。


 新造の飛行船の倉庫は、埃っぽくも黴臭くもない。マットレスに顔を押し付けて柔らかな息苦しさに耐えていると、ふと寝台もベッドも床板も消えて遥か下方の大地に落ちていく気がした。熟した果実が地面に叩きつけられて潰れるように自分も飛散するのだろうか。ヴェローナは己の死に様を甘い妄想として眺めやるのが好きだ。


 死の甘い幻視を邪魔するようにひとつの気配がある。


(だれだ?)


「君はなんでここに? また僕がウルスラに叱られるだろ」

「あんたこそ、出ていきなよ」


 与えられた個室を出て、この倉庫に陣取って暮らしていたヴェローナにとって、後からやってきたルードウィンの方が侵入者なのだった。それにしてもヴェローナに気配を悟られぬまま近づくとはルードウィンの存在感が薄すぎるのか、それとも――。


「僕は靴磨きさ。船員たちのブーツの手入れは譲れない日課なんだよ」


 見れば、椅子に掛けたルードウィンは、床に無数のブーツを並べて、ひとつひとつを丁寧に磨いている。


「靴も備品だからね、ずさんな部下たちに任せてたら、痛むばかりだ。こうして僕が手ずから手入れして国庫を負担を減らしてるというわけ」

「そういうところ胡散臭い」

「と言われてもね」


 肩をすくめるルードウィンのすぐ前に、横臥の姿勢からエビのように跳ね上がったヴェローナが空中で身を捻って軽業師よろしく着地した。


「あの女殺しちゃダメなの?」

 わかっている。ウルスラのことだろう。


「ダメだ。殺すことの他に、殺さないことも報酬のうちだ」

「それはわたしの仕事じゃない」

 ヴェローナはむくれたように顔を背け、ぶつぶつと文句を言う。


「誰彼なしに殺すのは殺し屋でも死神でもない――そんなものは疫病だ」

「えきびょー」語感を舌の上で転がしてみたものの、意味は判然としていないようだ。

「暇なら手伝ってくれよ」

「ヤダよ、おっさんのムレムレの足の酸っぱい臭いがぐんぐん押し寄せてきてるってのに」

「そう言われると僕も気が進まなくなってくるなぁ」


 ルードウィンはげんなりした面持ちで、しかし手は休めず、磨き込んだ靴の表面に息を吹きかけては、その光沢をチェックした。


「ねえ」

 とヴェローナが呼びかけた。


 倉庫にはひとつだけ窓があり、大空を円形に切り取っている。ヴェローナが置いた寝台はちょうど小窓の真下にあった。


「なんだい?」

「次は確実に仕留めるよ。でも、誰が信じるだろうね、あんたが盟友ベイリーを殺そうとしてるなんてさ」


 ルードウィンは手を止めた。


「死んだって噂もある。だとしたら君の仕事はもうない。タダで空の旅を楽しんで、次の引き金に指をかけるまでは愉快に暮らせばいい」

 

「少し残念そうな顔してる」


 そう言われて、仮面の感触を確かめるようにルードウィンはその頬をペタペタと撫でた。


 ヴェローナは気難しげな上目遣いになって、

「土壇場になってわたしを止めないでよ。最高潮にまで集中された呪弾の発射を阻んだら、行き場を失った呪力はあんたに向かってくよ」

「心配しなくていい。それより、弾切れは御免だよ。ここにある材料はなんでも使っていいから、できるだけ数多くストックしておいてくれ。次は確実に仕留めるんんだ。ただし誰にも気取られぬようにな。僕は救国の英雄であり親友であるベイリー・ラドフォードを失ってなお国を支える健気な愛国者になるのさ」


 倉庫には弾薬や被服、食料の他に何やら怪しげな薬草やら鉱物が保管されていた。呪弾を造る工程は複雑で手間がかかる。材料と作り方を知っていたとしても、膨大な呪力をひとつひとつの小さな弾丸に圧縮する技量は一握りの呪術師にしか望めない。


「この船にも呪力が使われてんだよね」

「やはり気付いたか。水素ガスに呪力を混合してね、通常より大きな揚力を発生させることに成功した。王都中の呪術師をかき集めて十日がかりさ」


 ウィースガム号はあくまで試作品であり、本来のサイズの半分に満たない。重い蒸気機関を搭載するには気嚢に収まる水素の量が足りなかったのだ。呪術師の力を借りたのは苦肉の策だった。


「わたしだったら、ひとりで半分の時間でできるのに」

 子供っぽくもヴェローナは大風呂敷を広げた。もし、それが本当なら、とルードウィンは思う。


(本物の化け物だな)


「次は君に頼もう。ヴェローナ」

「やんないよ、やれるってだけで。わたしの本業はコレだもん」


 ライフルを構える仕草をするだけで、ルードウィンの背中に冷たいものが走るのは、ヴェローナの積み重ねてきた血なまぐさい実績が、ある種の風格をまとっているからだろう。


「ウルスラにも訊かれた思うんだが、君を拾った時にいっしょだったのはウェス・ターナーとスタン・キュラムで間違いないか」

「そだよ。友達になったんだ。だからさ――」


 ヴェローナは死神の面目躍如とも言うべき、色濃い殺気を解き放った。


「迂闊に手を出すなよ、ルードウィン。玉座を取り合うのは勝手だけど、ただでさえ少ないわたしの友達にちょっかい出すつもりだったらさ、いまのうちに遺書書いといたほうがいいよ」


「努力するよ」と粟立つような恐怖感を押し殺してどうにかルードウィンは平静を装った。


「――殺すより味方にしな。あいつらのマシン。あの仕組みを飛行船に応用すれば、よくわかんないけど、きっと世界の空はシェストラが制することができるってさ」


 雲の上では日照条件には変動がない。この星の昼側を飛んでいる限り永遠に晴天だから、光で走るウェスたちの動力システムは最大限に威力を発揮するはずだ。


「世界、それに空か――」


 この時、日陰者だったルードウィンに新たな野望の火が灯る。世界という概念が地表の国々を指し示していた時代に、空と高度という立体性が加わったのだ。


 ベイリーを排した後、自分が何をしたいのか、本当に考えたことがなかった。戦略であれば先の先まで読み通すこの男が自分の身ひとつの未来についてはまるで無頓着だったのだ。


 この惑星を支配するというバカげた夢を見た王は何人も居たが、変転極まりない歴史の濁流の飲まれて皆消えていった。しかし、ヴェローナの言葉はルードウィンに身の丈の超えた壮大なヴィジョンを描かせた。


「もし、そうなったら、その時は……」


 うわごとのようにルードウィンがつぶやいたその時、ウィースガム号は激しい振動に見舞われたのだった。

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