パパと呼んでくれるなら

 ケンタウロスとダンスをするのは新鮮な経験だった。


 トライロキヤは補助後肢を器用に操り、差しさわりなくレイゼルと踊ることができた。


 レイゼルが宮殿に慣れ、右手の義手に慣れるのに時間はかからなかったが、トライロキヤを父と呼ぶのは少々手間取った。


 ――いや、レイゼルではない。


「君はクローデルだ」


 あれこれと考えたあげくトライロキヤはそう決めたようだ。


 トライロキヤは、レイゼルにリハビリの期間である数日を彼の娘であるクローデルとして過ごして欲しいと申し出た。衛兵に殺されかけたレイゼルはトライロキヤによって九死に一生を得たものの、そのダメージは大きい。


 犬の数も大幅に減じたことでもあるし、しばらく宮殿に留まってゆく末のことを考えてはいかがか、と説き伏せるその声色はどこか催眠的だった。


 いくら、タフなレイゼルであっても、犬たちを失ったことで思った以上に参っていたのだった。トライロキヤはそこに付け込んだとも言える。


「私の娘として過ごしてくれないだろうか。宮殿で育てられた淑女として」

「バカげたお遊びだな」レイゼルは軽蔑も露わに言った。


 とはいえ、命の恩人のたっての頼みをすげなく断るのは北の民の流儀ではない。仕方なくレイゼルはこう答えた。


「限度によるが、許容範囲の内でなら、あんたの玩具になってやろう」

「本当? 凄いぞ。君だってすぐに楽しくなるはずだ!」


 髭だらけの顔をくしゃくしゃにしたトライロキヤの喜びようを見るとレイゼルもまんざらでもない気分になったが、それでいてどこかモヤモヤした不安も胸に渦巻くのだった。


(この男がどこまで本気なのかはさておいて、確かにしばらくはここに逗留する必要があるだろう)


 そんなわけで、レイゼルはクローデルとなった。

 この宮殿で花よ蝶よと育てられた貴族の娘を演じて思ってもいなかった日々を過ごすことになった。レイゼルとて領主の一族として作法やマナーを躾けられてきたから、一通りの宮廷儀礼はこなせる。堅苦しいドレスや慣れない化粧は、機械の小姓たちがそつなくやってくれた。


「きれいだよ、クローデル。君はこんなふうであるべきだ」

 うっとりと謎の男トライロキヤは言った。


 幾たび訊ねても彼の来歴は判然としない。宮殿はレイゼルには理解の及ばぬ技術で機械化されているものの、トライロキヤがそれに精通しているというわけではなかった。宮殿そのものに備わる医療システムにレイゼルを委ねたということらしい。


 そしてもちろんクローデルという娘がいたのでもない。クローデルとは彼の妄想にいつしか住み着いた寄生者に過ぎない。


「そう言われてもな……わたしは」

「クローデル。君はそんな言葉遣いをしないだろう」

 トライロキヤはレイゼルの唇に指を立てた。


 レイゼルは慣れない三文芝居を演じてみせた。


「はい。父上、とてもうれしゅうございますわ。父上が紫紺のドレスが似合うとあつらえてくださったのでしたね」

「ああ、氷の中のターコイズのようだ」


 背中の大きく開いたドレスにプラチナのつらら型イヤリングといういで立ちで、レイゼル=クローデルは舞踏会にデビューした。


「こうして娘と踊るのが夢だったのだ」

「光栄ですわ、お父様」


 踊る影法師たちがホールに現れて、たったふたりの宮殿に偽りの賑わいを添える。触れることができそうなほどリアルではあったが、それは精微な立体画像でしかなく、華やかな装いの貴婦人たちも、男たちの優雅なステップも何もかもが実体を欠いていた。


(ここには切れば血のでるような本物はない。どれだけ魔法じみていてもすべては過去の遺物。たとえようのないほどの退屈と倦怠。――だが、それとて悪くない)


 日々は流れるように過ぎた。生暖かい穏当さにずぶずぶと身も心も沈みゆくのがわかった。あり得べきもうひとつの人生とはこのようなものだったかもしれない。飢えた領民の顔も、狩りの高揚も知らぬ人生があってもよかった。雪原に散る狼の足跡と血痕を見ぬまま終える人生があってもよかった。


「うまいぞ、クローデル」


 トライロキヤの顔には鼻梁を跨ぐようにしてケロイド状の傷がある。顔が上気すれば傷は赤みを帯びて淡く発光するように見えた。


「はい。お父様」


 従順で世間知らずの娘を演じる照れくささも次第に薄れた。

 ふと気づけば、本当に目の前の男が父親だと思えることもあった。己がレイゼルでなくクローデルだと信じかけてしまうことも。母から貰った鶯の長陽石を眺めて、それが何なのかわからず茫然とし、ようやく思い出した時にはゾッとした。


(ここにいれば見失ってしまう)


 美しい機械の右手が馴染むにつれて、節くれだった元の右手の記憶が遠ざかっていく。身体は回復したといっていい。力を増した犬たちはたった三頭であっても、前よりも力強く橇を引けるだろう。


(でも、なんのために?)


 犬たちと何を求めて旅をしていたのか、レイゼルにはもはや思い出せない。首筋の紋様が忘れていた情動をかき立てる気がしたが、それが何なのかわからない。


 ダンスと読書と沐浴と長い晩餐。

 それを永遠に繰り返すだけの自動人形にレイゼルはなりかけていた。


 それでも胸の奥底でと叫ぶものがあった。


 ここはあまりに快適に出来すぎていて白の原野からも、うねる砂丘からも限りなく遠い。そして出来すぎている割に決定的に欠けているものがひとつだけある。


 不自由のない暮らしをお膳立てしてくれながら、ソレがないというのはあまりに不自然だった。立ち遅れた北の大地の貧家であってもソレはあるだろう。


 自己像を確認するために欠かせない輝く表面インターフェイス。その不在ゆえにどれだけ美しいと褒めそやされても信じることができない――そのモノ。


 ――そう、この宮殿には鏡がなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る