第一章(飛び地) 追跡者たち

ルードウィン・ザナック

 手先の器用な男だった。

 

 こうして、いまも針を布地の上へ下へと潜らせて、木の葉やら野兎やらの意匠をみるみるうちに形作っていく。やがて繊細な刺繍が仕上がると、ついに冷えてしまった紅茶に口をつけた。手芸ばかりでなく、木彫や切り絵、手品に菓子作りも得意なら、女の髪を編み上げてやるのも上手だった。


「ご満足ですか」

 がさつなウルスラはこういったチマチマした作業を見るだけでもイライラしてしまう質だった。


「どうかな? おぼえたてのステッチ試してみたんだけど」


 きっちりとなでつけられた金髪は、むしろ手を入れないほうが洗練されて見えたかもしれない。頬に散らばるそばかすはルードウィンの顔を若く見せていたけれど、削げた頬のラインと眼もとの翳が、異なった角度からは、やや老成した印象を与えた。指先の丹念な動きは女性的で、武官だったとは信じがたいほどだ。


 生来身体が弱く、ベッドの上であれこれと小さくささやかなものを作り続けるしかなかった幼き日のルードウィンにとって、これらの作業は趣味ではなく、日々を生き抜く糧であり、存在証明だった。他に抜きん出て熱中したものと言えば盤上遊戯の類だ。陣取りや攻城戦を模した古代からのゲーム、ルードウィンはそれらに驚くほど精通したのみならず、自ら新たなゲームを発案することもあった。


「興味ありませんよ。それにここ……よくこんなフンだらけの場所で鳩に見つめられながら刺繍なんてやってられますね」


 ルードウィンの秘書官ウルスラは、良くも悪くも勤勉で、それだけに出世欲みなぎる元士官だった。才気あふれる彼女にしてみれば、シェストラ王国の現行における最大権力者がこんな鳩小屋で絵模様を刺し描いているなど、あってはならないことだった。


「そうかな、息抜きにぴったりだろう? 掃除も欠かしてないから清潔だよ」


 何段かに分けられた棚が設えられた小屋に六十羽ほどの鳩が生育されていた。見慣れぬ来客の存在に鳩たちが落ち着かなくなっている。


「そういう問題じゃ」

「――それにここが、情報の最先端なんだ。執務室に届く頃には萎びてしまう情報もある。素敵な報せを新鮮なまま味わいたければ、ここで待ち構えてるのがいいのさ」

「伝書鳩の報せで何か重要なものが?」

「もちろんあるよ。広大な国土の隅々まで情報網を張り巡らせてるからね。――電信もまだ確実性が薄いしさ。かの発明王ヴィンス・ターナーもこの分野にかけちゃ貢献しなかったようだし。あの爺さんは速く大量に運ぶこと、より遠くまで移動することにしか興味がなかった。く知ることには冷淡だったのさ。孫もなかなかに面白そうだけれど、どうかな? ああ、脱線したね――知るべきことは山のようにあるよ。各地の気候から作物の出来不出来、音楽や装いの流行にも鈍くあっちゃ統治に差しつかえる……」

「一番、気になさっているのはベイリー様の無事でしょう。あなたはいつもあの方のことを気にかけてらっしゃる」

「いつも、気にかけて、か。間違っちゃいない……って!」


 ルードウィンは誤って針で指先をついたようだ。血は流れないが、鋭い痛みは脳天に達した。


「ベイリー・ラドフォード、救国の英雄にして僕の盟友」

 その口ぶりにはどこか虚ろな響きが混じったが、ウルスラはそれに気付くことはない。


「あの方を一番信じてらっしゃるのもあなたでしょう?」

「……ねえ、ウルスラ。これから告げることは極秘事項だ。動揺は禁物だ。冷静に受け止めてくれるかい?」


 この日はじめてルードウィンは秘書官と眼を合わせ、それだけを言うと、また口をつぐんだ。


「何か変事が起こったのですか?」

 ウルスラはルードウィンから小さな巻紙を受け取るとそれを開いて読んだ。


「――こ、これは」

「ベイリー・ラドフォードがレヴァヌの攻防戦で戦死とある。悪魔の中指ミドルフィンガーに託した僕の鳩から届いた報せだから、情報の信頼性は高いと見ていい」 

「だとしたら? 大変ですよ」


 ウルスラはルードウィンが存外に落ち着いていることに不審を抱かなかった。ルードウィンは彼女のこの鈍感さを愛していたのだ。


「これを知られたらマズい。兵力を隠し持った諸侯が雪崩を打って王都に攻め込んでくる可能性もある。それに各地で蜂起した天下盗りの泥棒たちもウジャウジャと蝟集してくるぞ」

「どうするんですか!」

「すべて手を打っておくから平気さ」あっけらかんとルードウィンは言った。「僕が留守にしてもね」

「ちょ、ちょっと待って、全然話が見えません。きちんと説明してください」

「ベイリーが死んだ。読んだ通り、それでも残ったメンバーは玉座を追う旅を続けると言ってきた。……うん、どこか臭うんだ。彼らは優秀だが、司令官抜きで悪魔の中指を走らせるとはね、どうも考えにくい。帰還しろ、と命令したんだが……ベイリーの意思を貫いて玉座を確保するまでは帰れない、と総督代理である僕の命令を突っぱねてきた」

「意地になってるんじゃ?」

「かもしれない」


(むしろ挑発だろう、疑心暗鬼のまま神経を逆なでするつもりだ。不安を煽り軽挙を促すためか)


「さらに」とルードウィンは続ける。「別便で届いた情報によれば、処刑されたはずのサルキア公女の生存が確認されたという」


「なんですって?!」

 今度こそ、ウルスラは飛び上がらんばかりに驚いた。その化粧っけのない顔は意外にも表情豊かだ。


「あまりに信じがたい情報が飛び交っている。どれもが本当であれば、王国を揺るがしかねないものばかりだ。だからこの眼で確かめねばなるまい。僕も行くことにしたよ」


(たとえ罠だとしても)


「ダメですよ。ベイリー様もルードウィン様もいなかったらこの国は……それに誰が鳩の世話するんですか?!」

「はは、それは考えてなかったな。よし、しっかり申し付けておこう。間違っても君にやらせたりしない」

「当たり前です。というか、私を置いていくつもりですか? 行きますよ。絶対に」

「危険だよ。チマチマ小さなものを作り続けてきた僕がさ、何の気まぐれか巨大なものを造ったんだ、縁起が悪いだろ? そんな代物に命を預けられるかい?」

「この命は王国のために捨てた覚悟でいますから!」

「それはそれで失礼だよね」

 ルードウィンは苦笑した。


「でもまぁ、君の働きも必要になりそうだ。誰も見たことのない眺めが楽しめるはず。行こうか。空飛ぶ巨獣の背に乗って」


 ルードウィンの背後には額装された一枚の絵が飾ってある。鳩舎にはふさわしからぬ装飾品に見えたが、よく見ればそれは絵画ではない。細かな幾何学的な線と数値がびっしりと書き込まれた設計図だった。


「完成したのですね?」

「ハーフサイズの試作品だけどね」


 ウィースガム号、これはルードウィンが建造を指揮していた、史上最大のメタルクラッド型蒸気飛行船だ。膜材にジェラルミン、肋材にミレット合金を使った代物で、気嚢の内部容量は60万バルム。速度は時速にして340ヒスローに達する。


「王棋でも飛翔車ラタードの使い方は天下一だったからね。負けなしさ」

 それはルードウィンが得意とするゲームのひとつだ。ルードウィンは古今の定石と戦術をとてつもない記憶力で頭に放り込み、まるで健啖家の食事のように平らげる。


「……あの、ベイリー様の死に衝撃を受けておられないのですか」

「信じちゃいないよ、あいつがそう簡単に死ぬはずがない」


(残念ながらね)


 ウルスラは、これを二人の信頼の証と受け取ったようで「ですよね、きっと何の間違いに違いありません」と誰へともなく言い聞かせた。

「悲観しても仕方がない。すべての可能性をいったん受け入れる。感情はいつも後回しさ」

「ええ」

「迅速に事を運ぼう。乗員は追って発表する。当面の目標は総督ベイリー・ラドフォード及びサルキア公女の生存確認と玉座の回収だ。王位継承者と正当なる玉座の二つがあれば、留守の間に王都を掠め取られても奪還は容易だろう」


 他にもルードウィンは細かないくつかの指示を出し、聞き終えると、ウルスラは矢のように鳩舎を飛び出していった。


(ベイリー。君は生きてるのかい? 〈淑女〉と死神に狙われて生き残ったとすれば……)


 ひとりきりになったルードウィンはまた手と針を動かし始める。


 熟考に一番いいのは、ささやなか作業に身を投じることだ。推測可能な未来とその分岐を、サテンステッチで埋めていくように塗り潰していく。そのほとんどが袋小路に突き当たるが、中には、望む未来に抜けられるコースがあるものだ。


 大局を見据えるゲームの差し手であることは大切だが、時として己が駒にならなければ乗り越えられない局面もある。そして、いまがその時だとルードウィンは感じていた。

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