夜戦と永遠

 夜が深まるにつれ、底冷えする砂漠に霧が這い寄ってきた。露点を越えた空気が飽和し、視界を閉ざす白い闇となる。


「夜明けが近い。朝までにはすべてを終わらせる」

 血に濡れたマイルストームの頭部を右手にぶら下げたままベイリーは呟いた。


「ゼロッド。ここが最後のチャンスだ。メリサとルゴーが城砦に火を放った。灼熱の血盟団は殲滅される。混乱に乗じて私を殺すならいましかない」

「――どうして?」

 ゼロッドは立場を決めかねるかのように眼を泳がせた。


「〈青ざめた淑女〉、わたしがクラリックに命じてサルキアを薬殺した、その時に使われたものだ。それが食事に入れられていたことは気付いていた」

「いつから?」うわごとのようにゼロッドは呟き、ベイリーと眼を合わせない。

「いつから気付いていたと? 砂嵐の後だ。……それより、殺さなくていいのか? わたしをここで殺せたなら、マイルストームを討ち取ったのはおまえの手柄にするといい」


 不思議な達観というべきか、ベイリーはマイルストームの胴体が落ちていったバルコニーの端に、虚空を背にして立ち、両腕を広げた。その頬には涙が伝う。


 ゼロッドは、救いようのない堅物だと思っていたベイリーにこれほど豊かな感情が隠されていたことに驚く。これもあの竜紋サーペインとやらの影響か。


「ベイリー様、私は……」


 ずっと敬愛の対象と見做してきたベイリーに向けてゼロッドは銃を構えた。その理由はわからない。わからないままでいいとさえベイリーは思った。この不器用で生硬な男がここまでするのにはよほどの理由があるに違いない。


「私は真実あなたのことを慕っておりました」

「疑ってなどいない」


 ベイリーは死を受け入れているように見えた。これまでのベイリーとは違う、不思議な包容力とでもいったものが、覚悟を決めていたはずのゼロッドをためらわせていたのだ。


「ベイリー様!」


 飛び込んできたのはメリサだった。怒りと驚愕に肩を震わせている。ゼロッドが動くよりも早く、ライフルの銃床でゼロッドを殴りつけた。鮮やかな手並みで、ゼロッドの手から銃をもぎ取るとそれを階下に投げ捨てる。


「あなたには責任があります。ここでこんな裏切り者の手によってたおれていい人ではない」

 そして驚くべきことにベイリーの頬を掌で打った。打ったメリサもすぐに我に返ると「……申し訳ありません。その、つい」としどろもどろに弁解する。


「構わない。メリサ、君が正しい。気の迷いでこの男に殺されてもいいような、そんな気になったものでな。眼を覚まさせてくれて礼を言おう」


 ベイリーはそう言うと、鼻骨を砕かれて伏しているゼロッドに向き直った。

「おまえの仕業だということはほぼ掴んではいた。しかし、決め手に欠いていた。ここで二人きりになれば、何事か行動を起こすものと思っていた。少々危険な賭けだったようだが」


 ベイリーの言葉を引き取ってメリサが低い声色で続けた。


「ゼロッド、あんたは〈青ざめた淑女〉をベイリー様の食事や飲み物に混入した。あれは生半可な毒物じゃない。精確に分量を調節すれば仮死状態にとどめておくこともできると言うけれど、あんたにはそれは無理。狙っていたのは速やかな死。疑いは当然、クラリックに向く。薬学に通じているクラリックには手段も……たぶん動機もあるから、と」


 動機がある、とはベイリー自身は思いたくなかった。確かにクラリックとの間に感情のわだかまりはある、今回はそれが殺害動機として利用されかけたのだ。


「クラリックに罪を押しつけようとはな」

 ベイリーは軽蔑のこもった視線を浴びせた。これが本来取るべき態度だ。さっきまでの自分はどうしてしまっていたのだろう。


 ようやく、ゼロッドが口を開いた。

「しかし、〈淑女〉は効き目がなかった」

「そう毒が功を奏さないと不審に思ったあんたは鳩で試したのよ。そして死んだ鳩をクラリックに見せることもせず砂漠に埋めた。残念ね、わたしが掘り返してクラリックに解剖させたわ。鳩の体内からは、すぐに見つかったわよ〈淑女〉がね」


 ゼロッドは観念したようだ、すべてを認めるようにゆっくりと大きく息をついた。


「……そうか、あの鳩をな」

「勘違いしていたのは竜紋サーペインのことだ。私はこいつが不調の原因だと思っていた。しかしメリサによると、むしろこれが〈淑女〉を九割方無毒化してくれていたようだ。精神の暗部を他者と通底させるというデメリットはあるが、身体的にはむしろ増強させてくれるらしいな」

「だから……効かなかったのか。やはりあなたは天命に守られている」

 ゼロッドは情けない声を出した。


「僥倖ではある、だが、それだけだ」


 毒の混入を知って以来、ベイリーは装甲車での食事を控えた。毒の影響は速やかに消え、節食の倦怠感はあったものの、いくつかの症状は消えた。これでやはりベイリーを狙った毒の線が確実なものとなった。


「やはり私が救国の英雄ベイリー・ラドフォードを殺すことなんて不可能だったのですね」

「貴様は成し遂げたさ。大半はな」

 冷たく、しかし慰めるようでもある口調でベイリーは言い捨てた。


「誰の差し金だ? おまえに私を殺す理由があるとは思えない」


 今度はゼロッドの方がベイリーを憐れむ表情で首を振った。

「それを聞けば、あなたはきっと後悔します。あなたでさえ耐えがたい真実というものある」


 メリサは激情にまかせて、ゼロッドをブーツの先で蹴りつけた。

「もったいぶってる場合でも立場でもないんだよ。わたしたちはこの夜を抜け出さなきゃならない。裏切り者に足止め食ってる暇はないんだ!」

「やめろ、メリサ。――ゼロッド、気兼ねは無用だ。なぜ、こんなことをした?」

 ゼロッドはゆっくりと膝を立て、鼻血を拭った。


「……イレナのことを話したことはなかったですね」

「詳しくはな。おまえの婚約者だったか」

「イレナの父は宮廷料理人としてイルムーサに重用されておりました。しかし、イルムーサの失脚とともにイレナの父も地位を失ったのです」


 美と虚飾の権化と呼ばれたイルムーサは料理にも強いこだわりを見せたことは有名だった。イレナの父はイルムーサの舌と美意識を満足させられる数少ない一流の料理人だったはずだ。ベイリーは王都を制圧したのち、イルムーサに追従した臣下の何人かを粛正したが、その中にイレナの父が入っていた記憶はない。


 政変に翻弄される家族であれば、星の数ほどいる。だが、ゼロッドの婚約者の家族がそうであるとは知らなかった。


「イルムーサ失脚の反動で、イルムーサに近しかった者たちのかなりの数が恨みを抱いた者たちに殺されたのです。あなたはそれを推奨はしなかったが、禁止もしなかった」

「ああ」

「イレナの父は、イルムーサ時代の悪事を握られました。それを盾に私は脅され、あなたの殺害を命じられた。私が逆らえば、イレナの父は迫害を受けることになりましょう。たとえ、それが償うべき悪だとしても、私はどうしても彼女を苦しめるわけにはいかなかった」

「打ち明けてくれれば、そんなことはさせなかった」

「たとえあなたでも王都を離れてしまえば、その影響力は弱まります」

「私を殺せと命じたのは誰だ?」


 ややあってゼロッドは口を開いた。


「ルードウィン・ザナック」


 ――思わず、ベイリーはゼロッドに詰め寄りそうになった。それだけではない。胸倉を掴んで、戯言をほざく口を引き裂いてやりたくなった。ルードウィンは、すべてを預けられる腹心であり、気の置けぬ戦友でもある。


「嘘だ」狼狽を隠せぬままベイリーは言った。


「彼はあなたに取って替わろうとしています。この旅でベイリー・ラドフォードが不慮の死を遂げれば、王都は簡単に乗っ取れましょう」


 確かにベイリーは何の疑いもなく、王都の全権をルードウィンに託してきた。ベイリーの居ぬ間に権謀術策を張り巡らせ、自らのために臨時政府を作り替えることなどルードウィンにとっては、たやすいだろう。しかし、あのルードウィンがそんなことをするとは信じたくなかった。


「ルードウィンは恐ろしく頭が切れる。だからこそ身に過ぎた野望などには近づかぬだろう。奴は鳩の生育が生きがいの優しい男だ」


 それに今回の追跡行に随行すると言ってきかなかったのもルードウィンだ。クラリックとどちらを連れていくか真剣に悩んだのも記憶に新しい。あれらすべてが……


「演技だったというのか?」

「ベイリー様、あなたは知りません。あの男こそ、かのイルムーサさえ寄せ付けぬ本当の悪魔なのです」


 羞恥に塗れていたゼロッドの顔は、勝ち誇ったものへと変じた。抱え込んでいたものをすべて吐き出した解放感か、それとも絶望に開き直ったふてぶてしさか。


 メリサは睨み合う二人の男たちに割って入った。

「火が回ります、まずは脱出です!」

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