第13話 秋華賞
雨に烟る窓外を眺めていると、小さな人影がひとつ現れた。
蓑のようなものをまとい、豆しぼりを頭巾のように巻いているその珍妙な出で立ちの人物は、うつむき加減で一点を見つめ、左から右へと往来していった。
これで3往復目ぐらいだろうか。僕はもはや気にも留めずに、テーブルに置いたタブレットの画面に向き直った。
行きつけの喫茶店『月が丘』の店内はいつものごとく他のお客さんの姿はなく、外の雨音と壁掛け時計が時を刻む音以外は何も耳に入ってこない。
競馬の検討にはもってこいのシチュエーションの筈であったが、どうしてもこの天候のことが気になってしまい、僕はなかなか没頭できないでいた。
暦の上では既に秋も後半だというのに、なかなか夏の残滓が消え去ってくれないことに辟易としつつあったところ、この週末は超巨大台風なぞが到来。
そんなこと言ってる場合かと非難されてしまうかもしれないが、中央競馬を愛好する者としては、週末に襲来する台風というのはキングボンビー以上の忌むべき存在である。
頼むからあっち行ってくれ、もしくは温帯低気圧という名のミニボンビーへと姿を変えてくれという祈願もむなしく、巨大な台風は勢力衰えることなく、明日の土曜日には日本列島に上陸することがほぼ間違いない情勢となってしまった。
早々と土日の東京開催は中止となったが、日曜日に西の地にて行われる牝馬三冠最終決戦にも影響が及ぶことは避けられないだろう。
有力とされる馬がほとんど重馬場や不良馬場を走った経験がなく、直行組かトライアル組かでただでさえ難しいレースを更に難解にしてしまうことになる。
「うーん……」
出走表を見つめ苦吟していると、また視界に雨景色の中を歩いている小柄な人物の姿。
今度は右から左へと通り過ぎていく。
「何やってんだか……」
ボソッと呟くと、その人はまたすぐ左側から戻ってきて、この店の庇の下に立ち止まり、犬猫のように体を震わせて水しぶきを飛ばすと、ドアを開け店内へと入ってきた。
豆しぼりを頭から外し、蓑を脱ぎながらこちらに一目散に向かってくるその人は、言うまでもなく
「これはこれは、相変わらず、冴えないしヒロインじゃないし育たないって面構えしておられますね。こんなところで何されてるのですか?」
「いや、そっちこそ、こんな雨の中何してるの?」
いきなり悪態を浴びせてきた護志田さんに、質問を返す。
「以前、エロ兄ィが行きつけの雰囲気の良い喫茶店があるとか、底辺の虫ケラとしては随分生意気なことを言っていたことをふと思い出しまして、ちょっとドラクエウォークやりがてら行ってみようかと思いまして。あ、タブクリアをいただけますでしょうか」
流れるように人のことをボロクソに言いながら席に着き、注文を取りに来たマスターに対しては即座に礼儀正しい子どもの仮面をかぶってみせる護志田さん。末恐ろしい子ではある。
ていうか普通にオーダー通ってるけど、タブクリアって現存するのだろうか? まあそれについては考えたってしょうがない。
「ドラクエウォーク? まさか家からここまで歩いてきたの?」
「ウォークって名のつくゲームですからね。乗り物の使用は邪道です」
にわかには信じられないことをさらっと言う。僕や護志田さんの住む地元から、僕の通う大学のあるこの辺りまで、電車でも一時間ほどはかかる。
「いやあ、おかげで相当強化されました。特にこの辺りはやたら強モンスターのこころ確定が多くて、あちこち周ってしまいました」
「それでウロウロしてたんだね」
さすがに喉が渇いていたのか、護志田さんはタブクリアがテーブルに置かれるや、ストローも使わずにゴクゴク飲みだす。
「でも、僕もドラクエウォークやってるけど、なかなかレベルも上がらないし、ガチャも渋くて良い装備手に入らないし、結構大変じゃない?」
「そうですか?」
グラスを置き、首をかしげる護志田さん。
「私はしょっちゅう星5の装備が出ますけど。ついさっきも福引券でガチャ引いたら『ロトのガトリングガン』が出ましたし」
「そんな武器あるの? チート級過ぎない?」
「昨日も『凌辱の触手』が出ました」
「それって味方側の装備?」
果たして僕とこの子がやっているのは同じゲームなのだろうか。
「自分の足で歩けば歩くほど強くなれるのですから、頑張りましょう。明日は一緒に100キロ強歩しましょうか」
「明日は不要不急の外出は控えた方がいいと思うよ」
「何ですか折角誘ってさしあげているのに意気地なしですね。エロ兄ィなんてもう知りません。自分の部屋で三本目の足でもコスってればいいんです」
頬を膨らませる護志田さんだったが、すぐに表情を切り替えると、僕のタブレットを手元に引き寄せた。
「ま、自分が歩くことにかまけすぎて、馬が走ることを疎かにしてはいけませんね」
タブクリアのおかわりを頼むと、真剣な顔でタブレット画面の出走表に向き合う。
「秋華賞……牝馬三冠の最終戦でありながら、桜花賞馬もオークス馬も出てこない。ならば両方3着だったクロノジェネシスを買っとけば良いかとも思われますが、京都も初めて道悪も初めて……難しいですね」
「そうなんだよ。僕もこんな天候じゃなければ迷わずクロノジェネシスでいくつもりだったんだけど」
「ふむう」
二人して腕を組み、考え込む。
ふと、懐かしさのような感覚。
「そういえば、護志田さんとこうして競馬の検討するのも随分久しぶりだね」
そう口に出した僕に対し、護志田さんは不審そうに眉根を寄せてみせる。
「何言ってるんですか。つい二週間前のスプリンターズステークスのときも、面白おかしく丁々発止のやりとりをしつつ一緒に予想したじゃないですか。忘れてしまったのですか?」
「そうだったっけ……」
何故か思い出せないのだが、きっと僕の記憶が抜け落ちているのだろう。そうに違いない。
僕は自分を納得させ、過ぎたことは忘れて今回の予想へと意識を集中させた。
「……うん、やっぱりクロノジェネシスかな」
「ほう?」
「この世代ではこの馬がトップクラスなのは間違いないし、馬場が悪くなって馬券も荒れるかと思いきや、案外力上位がすんなり勝つってことの方が多い気もするし」
「なるほど。確かに二年前の秋華賞も重馬場でしたが、1着から3着まで今やみんなGⅠ馬ですね」
納得げに頷いてみせる護志田さんだったが、ふと何かに気づいた様子でこちらに顔を向ける。
「そういえば、確か貴殿は桜花賞でもオークスでもこの馬を本命にしていませんでしたか?」
「貴殿て。でもまあ、確かにそうだったけど。それに阪神ジュベナイルフィリーズでも本命にしてたかな」
「……なるほど」
護志田さんの眼差しが、白い目へと変わる。
「特定の3歳女子に異常な執着。ロリ兄ィの面目躍如といったところですかね」
「やめてくれるかな、そういう言い方!」
思わず声を荒らげてしまう僕だったが、護志田さんは素知らぬ顔で受け流し、おかわりのタブクリアを、今度はストローで飲んでいる。
「まあ、そんなエロロリ兄ィを見ていたら、秋華賞の勝ち馬も見えてきました」
「?」
「貴方のような性犯罪者予備軍は、いつか本当にやらかしてしまい、塀の中に入ります。出てきても当然まともな職になどありつけず、待っているのは借金まみれの生活。日々非生産的に暮らし、やることといえばせいぜい街で見かけた高級車へのイタズラぐらい。そして行き着く先は……」
ビシッと出走表の、かなり端の方を指差す。
「希望の船・エスポワールです!」
「いやだぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫する僕に、護志田さんは哀れむような口調で言葉を贈ってくる。
「パー買い占め派には気をつけてくださいね」
ざわ……ざわ……
(つづく)
◆秋華賞
護志田さんの本命 エスポワール
僕の本命 クロノジェネシス
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