第11話 安田記念

 六月が好きという人がいても少しもおかしくないとは思うが、「へえ珍しいね」と言われる程度には少数派なのではないだろうか。


 僕はといえば(おそらく)多数派に属していた。

 梅雨に突入し蒸し暑い気候になるわ、祝日はないわ、学校行事の中でも最も忌むべき合唱コンクールはあるわ(これはたまたま僕の通っていた学校がそうだったというだけだろうが)、机の中に隠したレーズンのパンがカビだらけで出てきた切ない思い出まである。

 ボーナスもジューンブライドも関係なく、某アイドル防衛隊の一番下の妹が好きとかでもない僕にとっては、まったく好ましく思えるところのない憂鬱な一ヶ月が六月だった。


 それでも競馬に出会ってからのここ数年は、ダービーが終わってしまった寂寥感こそあるものの、まだ安田記念があって、月後半には宝塚記念も控えるというワクワクできる時期ではあったのだが。


 今年の六月は僕史上最悪の憂鬱な季節になるのではないか。

 新しい月を迎えた初日の昼下がり、僕はコンクリートの街中、アスファルトで舗装された道路をトボトボと歩き、そんなことを思っていた。

 革靴の音も心なしか沈鬱な響き。さすがに履き慣れてはきたものの、履き心地は良いとは言えず、とりわけ今日は重たく感じる。


 大人って汚い、とか。

 世の中はクソだ、とか。


 そんなことはただの事実であり、取り立てて愚痴ったりするほどのことではないのかもしれないが、僕は今日ほど大人の世界の汚さを垣間見たことはなかった。

 これからの人生航路、こんな百鬼夜行が蠢くただれた世の中を渡りきっていけるだけの自信はない。いっそイデでも発動してくれないものだろうか。


 あてどなく歩き続け、公園に差し掛かると吸い込まれるように園内に入っていき、足が止まったのは大きな噴水の前だった。

 ここに来ようと意思があったわけではないのだが、或いは知らぬうちに生命の源たる水へと還りたがっているのかもしれない。

 そんなことを思いながら縁に腰をかけ、しばし無になる。目を閉じると水が噴き出し、地面に打ちつけられ、流れ、せせらぐ音。


 嘆くこともなければ怒ることもない。

 人が人を裏切る。太古の昔より幾度となく繰り返されてきた営為。人類の歴史は裏切りの歴史である。

 挫けたり、絶望したりするようなことではない。してたまるか。


 水の音が止まる。

 僕は強い意志で自らを奮い立たせ、目を開いた。

 そこには護志田もりしたさん。


「うわあぉぁぁ!!」


 唐突に数センチほどの間近に少女の顔が現れ、僕はまさに驚倒。思わず仰け反ってしまう。


「あっ」


 少女は咄嗟に手を差し伸べたが、僕はそのまま水へと還った。



 × × ×



「……なるほど。そんなことがあったのですか」


 僕の話を一通り聞き終え、少女はうんうんと頷き、スッと目を閉じた。


 濡れねずみと化した僕は、そんな護志田さんを、ついまじまじと見つめてしまう。

 妹の同級生で年齢は9つ違い、身長は30㎝近く離れている女の子などというものは、ただただ可愛いだけであり、それ以外の感覚も感情も抱きようがない。

 が、こうしてこの白く透明感のある肌、まだ幼さを残しながらも美しく整った目鼻立ちをじっと眺めていると、つい吸い込まれそうな気もしてくる。

 ふんわりやわらかなライトブラウンの髪が陽光を受けキラキラ光るのが眩しかった。


 僕は少し後悔した。

 護志田さんに問われるままに、こんなところで落ち込んでいた理由、今日受けた悪虐で屈辱的な仕打ちのことを話してしまったが、まだ年端もいかない女の子にこんな話をすべきではなかったか。

 この美しい少女が、自らを取り巻く社会というものがこんなにもただれきっていることを知り、無垢な心が傷ついてしまってはいないか。絶望してはしまわないか。


 護志田さんは深い溜息をつくと、僅かに目を開き、細めた目をこちらに向けて問いかけてきた。


「えーっと、話を整理すると、就職活動大苦戦中のところ、珍しく二次面接に進むことができたんですね」

「うん」

「そして、その企業からの案内メールには『二次面接は軽装でお越しください』と書いてあったと」

「そうなんだよ」

「それを真に受けて上はワイシャツだけで行ってみたら、周りの就活生はみんなきっちりネクタイとジャケットを着用してて、向こうの面接官にも『何コイツこんな格好で来てんだ?』って目で見られたと」

「ひどいだろ! そんな悪辣な組織がのうのうと存在しているなんて信じられないかもしれないけど------」

「しょーもないっ!」

「しょーもない!?」


 信じがたい言葉を聞いて目を丸くする僕に、護志田さんはビシッと指を差してきた。


「よくよく聞いたら、どこにでもあるただの就活あるあるじゃないですか! その程度のくだらないことで世界への恨み言を述べたり、絶望に沈んだり、しょーもなさすぎますっ!」


 遠慮の欠片もなく、ズバズバと言ってのける護志田さん。


「大体、単なるエロ兄ィのリサーチ不足じゃないですか。他の人たちがちゃんとした格好で来てたってことは、就活サイトなりで調べれば、その企業がそういうところだっていうのはわかったんじゃないですか? そうでなくても念のためカバンの中にネクタイを入れておくぐらいの用意はしておくべきなのではないでしょうか?」


 彼女の言い分では、今回の受難は全面的に僕の自業自得ということらしい。

 なんてことだ。この少女も修羅の国の住人だったか。おっかない。


 ガックリと肩を落とす僕を見て、護志田さんはまた溜息をついた。どうやら絶望の溜息でなく、呆れによるものだったらしいが。


「それでこんなに落ち込んで、ずぶ濡れにまでなって、バカとしか言いようがないですね」

「いやずぶ濡れは君のせいなんだけど……」

「そうして何でも他者のせいにしてるから、いつまでたっても人間的な成長が見られないんですよ」


 護志田さんは、ライフゲージ残りわずかの僕に容赦なくとどめを刺そうとしてくる。


 と、思いきや。


「本当に……バカな人ですね」


 ふわっとした感触。


 護志田さんは僕の頭を包み込むように抱きかかえてきた。


「え? え? え?」

「よしよし、ひどい目に遭いましたね」


 抱きかかえた頭をやさしくポンポンとたたいてくれる。


「でも良かったじゃないですか。そんな不誠実な企業に就職しても後悔するだけです。きっともっと良い会社が見つかりますよ」


 いつもの慇懃無礼な口ぶりでなく、小さい子に言って聞かせるようなやさしい声。

 僕の心の中でこわばっていた何かが、みるみる解きほぐされていくのを感じる。


「さて」


 甘い香りを残し、護志田さんは僕から身を離す。


「明日はGⅠです。気を取り直して、安田記念の検討といきましょうか」

「え? え? …………えっ?」


 たった今起きた出来事を消化しきれないでいる男をよそに、護志田さんは勝手に僕の鞄からタブレットを取り出すのだった。



「さて、何と言っても注目はダンプとモアイの牡牝最強決戦ですね」

「そんな略し方初めて聞いたけど」


 ふたり、隣に座りタブレット画面を覗き込む。神の采配か奇しくも隣同士の馬番号となった2頭の名前を、護志田さんは指で行ったり来たりさせている。


「とはいえ、この2頭はそれぞれ不安点もあります。わかりますか?」


 心なしかいつも以上に自信に満ち溢れたように見える態度で問い掛けてくる護志田さん。


「えーっと、不安点ねえ……」

「わからないですか? まあダービーでサートゥルナーリアなんて買ってたヤカラには少し難しいかもしれませんね。まして、もっとトンチンカンな馬を本命にして、尻尾を巻いて京都に逃げ帰った人物に至っては何一つわかりようがないでしょうね」


 どうやらダービーで穴馬を本命にして見事に的中したことで相当自信をつけたらしく、尊大に胸を張っている。

 余談であるが、同じく穴馬を本命にしていてブービー17着だった澤多莉さわたりさんは、勝ち誇る護志田さんに向かって『くそっ! おぼえてやがれ!』と小物の悪役みたいな捨て台詞を吐いて走り去っていったのだった。


「アーモンドアイは海外帰りってこと? でも追い切りの映像見る限り、全然心配なさそうだけど」

「チッチッチッ」


 おずおずと言ってみる僕に対し、護志田さんは人差し指を横に振ってみせる。


「調教の映像なんて素人が見てわかるものではありません。問題はこれまでの戦歴です。アーモンドアイはジャパンカップを勝ったことで、牡馬のトップクラスよりも強いという位置付けになっていますが、果たしてそれが正しいのでしょうか?」

「?」


 あの超絶レコードを叩き出したジャパンカップを目の当たりにした身として、それは疑いようもないこととしか思えないのだが。


「ズバリ、2400におけるキセキやスワーヴリチャードよりも、マイルにおける今回の対戦相手の方が手強いと私は見ています。しかもJCのときは53だった斤量が今回は初めて背負う56。言われるほど、力さえ出し切れれば楽勝というわけでもないと見ています」

「なるほど……」


 そう言われてもあの馬ばかりは規格外に強いようにしか思えないのだが、彼女の言い分も間違っているとは言い切れない。


「一方のダノンプレミアム、こちらに至っては今までほとんどのレースがスローペースで、GⅠの厳しい流れに晒されたらまるで弱いかもしれない可能性さえあると見ています。ついでに58の斤量も初めてならシーズンで3戦目を迎えるのも初めて。もはや不安点の総合商社です」


 ロジャーバローズの的中でよほど自信をつけたのか、むしろ自信過剰気味の護志田さんであるが、彼女なりの根拠を述べる様子は確かな成長を感じさせる。

 もはやイチローがメジャーをクビでナックビーナスなどというこじつけかつ非礼極まる理屈で本命馬を選んでいた彼女ではないのだ。


「さあ、そうなると本命とすべきはどの馬か……」


 言いながら、出走表の端から端まで差してみせる。


「エロ兄ィにわかりますか?」

「うーん、そうなるとやっぱり内枠でスムーズに先行できそうなアエロリットが優勢ってことになるのかなあ?」

「そう思うでしょうね。シロウト連中は」


 自信過剰を飛び越え、どうやら図に乗っているらしい護志田さん。


「しかし府中での逃げというのは簡単じゃありません。ハイペースだと当然長い直線を粘り切れず、スローだとキレ勝負でつかまってしまう。速すぎず遅すぎずの丁度良いさじ加減が必要なのですが、果たして後ろに超強力と思われる馬がいる状況で、ときに詐欺師扱いされている騎手にそれだけのミッションをやってのけることができるでしょうか?」

「戸詐欺ってのは、馬券外した腹いせに呼ぶ人がいるだけだから」


 護志田さんは指を外枠の方に持っていく。


「ダノンプレミアムは不安点だらけ、アーモンドアイも人気を考えたら割りに合わない、そうなると……」


 指を止めたのはその隣。


「ペルシアンナイト?」

「はい、この馬こそがここで買うべき1頭です」


 確かに実績のある馬であるが、この春はどうにも低調で、特にメイチと思われた大阪杯では僕も本命にしていたのだが、全く見どころのないガッカリな内容で二桁着順に沈んでしまった。

 また、輸送が得意ではないのか好成績はほとんど関西の競馬場に偏っており、特に東京ではここ4戦まったく馬券に絡んでいない。


 そんな馬がどうして本命なのか問う僕に、護志田さんは後ろに倒れるのではないかというぐらい胸を仰け反らせ、答えてくれた。


「そこまで言うなら教えてあげましょう。実は今回はミルコ・デムーロが勝つ番なのです!」

「?」


 まさかと思う僕に、護志田さんは口から小さな泡を飛ばす勢いでまくし立ててくる。


「私以外の誰一人気づいていないことなのですが、令和に入ってからのGⅠ競走、デムーロはNHKマイルで優勝、ヴィクトリアマイルでビリ、オークス優勝、ダービービリと交互に来ているんです! つまり今度は優勝する番です!!」


 護志田さんは、リンゴが落ちることで閃きを得たニュートンのごとく目を輝かせている。


「…………」

「どうですか? すごいでしょう!!」


 僕は渾身の台詞を言うために息を吸い込んだ。


「しょーもないっ!!」


(つづく)



 ◆安田記念


 護志田さんの本命 ペルシアンナイト

 僕の本命 アーモンドアイ

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