第10話 日本ダービー

 週前半に大雨が降った後は、連日最高気温が30℃に迫り、週末には超えてしまい真夏日に。

 さながら、一日に凝縮された梅雨が明け、もう夏が到来したかのようであるが、夜にはいくばくか暑気は落ち着き、薄暑の候とはよく言ったものだと思わせてくれる。


 が、つい先ほど日付が変わった日曜日未明、ここ東京都府中市のとある一角はむんむんの熱気に包まれていた。

 そこかしこにシートが敷かれ、窒息しそうな人いきれ。しかし不快指数は高いものの決して不快ではない。むしろこうでなくてはと高揚さえ覚える。

 元来の僕は人混みなんて大嫌い、孤独を愛するスナフキン気取りの人間なのだが、競馬の祭典を控えた今このときばかりは人混みの中、密かに心を躍らせていた。


 筈であった。本来なら。


 今年もまた、ダービーデーの第0レース・開門ダッシュに参戦すべく、僕たちは行列の一部となっている。

 見渡す限りほとんど男性で占められている中、僕たちのグループはかなり異質なのだろう。時折周囲の人たちからの視線が向けられるのだが、僕の左隣にいる女性はそんなもの気にも留めず、僕が持つタブレットの画面に見入っている。


「あーもう、サッパリわからないわね。あんな展開もあればこんな展開もありうる。はたまたあの騎手がこんなんして、あの馬があんなんなって……いやそれはないか。そんなことになろうものなら、京王線も南武線も鶴見線も止まってしまうわ」


 何やら苦吟しながら、一人頷いたりかぶりを振ったり。

 その度に彼女の長い髪が僕の頰を撫でたり、腕にとても感触の良いものが当たったりして、僕は気もそぞろ。


 ダービーばかりは現地観戦するのが国民の義務であると上京してきた澤多莉さわたりさんは、今年もエンジ色のイモジャージ姿でこの開門ダッシュへと臨んでいる。

 そんな格好でも美しい人は美しいし、こんな場所にいてもその透き通るような清涼感は少しも損なわれない魔法がかかっている模様。


 しかし、今年はこの人に耽溺はできなかった。


「随分とお悩みのようですが、私が一つ金言をお贈りいたしましょうか」


 僕の右隣から、護志田もりしたさんが言葉を投げる。

 彼女もまた、この開門ダッシュに備えてきたのだろう、ふんわりした髪はゴムで二本にまとめており、いつものガーリーな服装ではなく、中学校名の入ったジャージ姿である。

 どういうわけか徹夜で競馬場に並ぶ許可を親からもらえたらしい。教育方針はどうなっているのだろうか。


 澤多莉さんは、そちらを見向きもせず、表情も変えずに応じる。


「へえ、それはありがたいわね。ひとつ頂こうかしら」

「バカの考え休むに似たり、です」

「ほう」


 左側から冷気が伝わってくる。澤多莉さんはゆっくりと拍手をし、声のトーンを変えることなく言葉を返した。


「すごいすごい。一生懸命国語のお勉強してるのね。覚えたての言葉を使いたがるその感じ、いかにもイキリ中学生らしくて、とても可愛いわ」

「ムムッ 」


 右側からは熱気。いや怒気と呼ぶべきものか。とにかく熱さが伝わってくる。


 冷熱の狭間で、僕はまごまごするばかり。この二人、どうしてこんなに仲が悪いのか。

 美女と美少女、はたから見たら両手に花を実現させているように見えるのかもしれないが、異様な緊迫感の真っ只中で疲弊させられるばかりだった。


 しばしぶつかり合っていた両者の視線がほぼ同時に外され、タブレットの画面に向けられる。


「まあもっとも、今回ばかりは令和の天才美少女馬券師と呼ばれるこの私でさえ本命馬を見出すのに難儀してるぐらいですから、令和のズベタ養分さんには手も足も出ないのも無理はないところですかね」

「え? 嘘でしょ? 自分で自分に二つ名を付けるなんて、中学生にしても痛すぎない? もしかして、炎を見たら第二の人格とか現れたりしちゃう人?」


 またすぐにガンのくれ合いとばし合い。せめて人を挟まないでやってもらえないものだろうか。

 健気な僕は、この一触即発の状態を何とかすべく試みてみる。


「へ、へえー、二人ともそんなに悩むなんて珍しいね。いつもなら即断するのに。案外気が合ってたりして」


 我ながら上手くないなあと思いはするものの、それにつけても二人の反応は芳しくない。というよりほぼ無反応だった。

 両者ともタブレット画面に表示されている出走表を見つめ、しばし無言。


「えーっと……」

「こんなチンチクリンの小娘と一緒にしてくれた人間への懲罰はおいおい考えるとして、やっぱり今年のダービーが難しいのは動かせない事実ね」

「お腹の中も乳首も真っ黒な女の人と一緒にされたのは絶望案件ではありますが、ダービーが難しいという事実についてだけは同感と言わざるを得ませんね」

「あいにくだけど、私のお腹の中は最内枠のごとく真っ白、ビーチクは大外枠のピンク色よ」


 自分の胸のあたりに手を添え、そんなことを述べる澤多莉さんはさておいて、二人ともレースへの見解自体は一致しているようだ。


 と、思いきや。

 二人が口を開いたのは同時だった。


「いかんせんどの馬もイマイチでね。これは買えるっていうのがいないのよね」

「どの馬も本命にしたくなるメンバーで、切れる馬が全くいないのです」


 そして始まる深夜の大論陣。

 澤多莉さん護志田さん大いに語りき。


「前走逃げて新境地を開拓したロジャーバローズが最内枠……何かやってくれるんじゃないかと思わせます」

「レッドジェニアルごときに捕まった馬がこの舞台で通用するわけないし」


「特別戦でもない500万下をかろうじて勝った馬に、GⅠどころか重賞も勝ったことのない竹之下とやらが鞍上。ヴィントは問題なく切りね」

「初めての重賞制覇が令和最初のダービー……そんなとんでもないドラマが待っているような気がしてなりません」


「前哨戦で勝っておきながら皐月賞を回避したエメラルファイトは、その分消耗も少ないはず。要注意の一頭です」

「状態が整わずに皐月賞を回避してきた馬はダノンプレミアムでさえ掲示板に入れなかったのよ。そのエルメスノララァとやらはダノンプレミアムより強いのかしら?」


「池添騎手は一発がある人ですから。穴馬とはいえサトノルークスは買い目に入れたいところです」

「え? 池添に一発穴に入れてほしい? 深夜だからって何言ってるのあなた?」


「ダノンチェイサーが回避したことにより抽選枠が増えて、そこにかつてその馬に勝ったことのあるマイネルサーパスが入る。こんな運命のイタズラ、あるでしょうか?」

「丹内は足んない。以上」


「サートゥルナーリアはもはや問答無用。どう考えても強いと判断せざるを得ません」

「ダービーに勝つには運が必要と言われているわ。果たして飲酒運転でお縄になった調教師や、斜めに走って皐月賞勝った馬に運が向くものかしら?」


「皐月賞の上位3頭の中で、唯一東京での勝ち鞍があるダノンキングリー。もしかしたら一番固いのはこの馬かもしれませんね」

「ダノンはマイルのGⅠしか勝てないという契約を悪魔と結んでるらしいわよ」


「武豊がメイショウの馬でダービーに臨む……競馬ファンにとってこんなに胸が熱くなることがあるでしょうか」

「あなた競馬始めてから三ヶ月やそこらじゃなかった?」


「戦いを重ねるごとに弱くなっていくニシノデイジーをここで買う人間はよほどの物好きね」

「日の出の勢いのキングコング西野さんのことを考えると、ニシノと付く馬は抑えておきたくなります」


「クラージュゲリエは一度も掲示板を外していない隠れた実力派です」

「モレイラが乗ったときしか勝ってないわね。三浦ってモレイラ? モレイラって三浦?」


「有力馬がどれも先行して潰し合いになれば、後ろから末脚を発揮するレッドジェニアルの出番になりそうです」

「ロジャーバローズごとき捕まえるのに苦労した馬がこの舞台で通用するわけないし」


「アドマイヤジャスタみたいに皐月賞で0.9秒も差をつけられて負けている馬が勝とうものなら、みんなドン引きしてしまうわね」

「昨年のワグネリアンが皐月賞で0.8秒負けていたことを覚えてない学習能力の無い人間はそうかもしれませんね」


「皐月賞でほぼ勝ちに等しい競馬をしたヴェロックスは言うまでもなく有力です」

「中内田は2歳のGⅠしか勝てないという契約を悪魔と結んでるらしいわよ」


「ランフォザローゼス? 福永でしょ?」

「確かにそうですね」


「横山典さんが騎乗停止で息子が乗ることになったリオンリオンは論外。小堺ジュニアがサイコロトークをして盛り上がると思う?」

「ゲストが明石家さんまクラスなら普通に盛り上がりますね」


「タガノディアマンテはあり得ない。令和最初のダービージョッキーが田辺になるなんて、永遠の恥辱になるわ」

「田辺に親でも殺されたんですか?」


「ナイママはどこにいるのか気づかナイママ終わるでしょうね」

「プーッ! クスクスクス、何ですかそのハイグレードなジョークは! 反則ですよ! お腹痛い!!」


「弥生賞ではスタートでぶつけられた上に、コーナーで大きなロスのあったにも関わらず、2着まで上がってきたシュヴァルツリーゼが気になって仕方ありません。キャリアが浅いだけに可能性も未知数かと」

「は? 何言ってんのよタコ娘。鈍器で殴打するわよ」


 ウマジョと未来のウマジョ、大いに語りき。一頭一頭見解を述べては、激しく睨み合い、火花が散る。

 つい口を挟んだりツッコミを入れたくなる言い様も多々あった、というか大半だったが、ここはぐっとこらえる。

 角行が縦に動いたり、桂馬が五つぐらい先のマスに飛んでいってしまうような将棋の対局を傍で見ていれば、僕と同じ気持ちを味わえるだろうか。


 と、澤多莉さんがこちらに水を向けてくる。


「ちょっと。動きの速さについていけないヤムチャみたいな顔してないで、あなたの見解も聞かせてみなさいよ」

「そう言われるのは甚だ心外だけど、まあやっぱり三強には逆らいがたい気がするかなあ」

「なるほどね」


 また平凡でつまらないだとか、何も頭を使っていない予想だとか言われるかと思いきや、すんなり頷く両名。


「まあ年に一度の大舞台だし、たまには男性を立ててあげても良いのかもしれないわね」

「そうですね。ダービーぐらいは特別にエロ兄ィと同じ馬を応援するというのも、一興かもしれませんね」


 意外すぎる展開。今日も日中は気温が30℃を超えると聞いているが、ひょっとしたらまた雹でも降ってくるのではないだろうか。

 まあ美女と美少女にそんなことを言われ、男冥利に尽きる思いが無いと言っては嘘になるが。


「どうせ三強とか言いつつ、実際は一強だと思ってるんでしょ?」

「そうですよ。エロ兄ィの考えを推察することなんて余裕のよっちゃんイカです」


 基本的には本命党の僕である。

 いつも人を見透かしたようなこの二人にかからなくても、さすがに今回の予想は読まれてしまうだろう。凡人の僕にはやはりどう考えてもあの馬が頭一つ抜けていると思える。


「それじゃ、みんなで応援する馬をせーので指差しましょうか」

「そうですね」


 二人に合わせ、僕も人差し指を立て、タブレットの画面を差すスタンバイ。

 こういうのもたまには良い。というよりグループで競馬観戦する醍醐味かもしれない。


「「「せーーのっ!」」」


(つづく)



 ◆日本ダービー


 護志田さんの本命 ロジャーバローズ

 澤多莉さんの本命 サトノルークス

 僕の本命 サートゥルナーリア

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