第9話 オークス

 窓から夜風が吹き込み、カーテンを揺らす。

 日中はかなり暑くなってきたが、夜は窓を開け放して、簡単な部屋着でくつろいでいられるような季節になった。僕はベッドに寝そべりながら、大きな伸びを一つ。

 顔を横に向けると、勉強机に向かう少女の姿。テキストやらノートやら広げ、シャープペンシルを持つ手をさかんに動かしている。


 その横顔にほんの一瞬だが吸い込まれる。


 年の離れた妹と同い年の女の子ということで、それまで(見た目は)可愛らしいと感じたことはあったが、真剣な横顔は可愛さでなく凛とした美しさがある。

 時折かすかに上体が動く。今日はポニーテールにまとめている薄茶色の髪が揺れ、白いうなじが見え隠れする。


 護志田もりしたさんはこちらを見向きもせず、シャーペンを動かす手を止めることもなく、それでも言葉は明朗に言った。


「なに人の横顔をジロジロ見て、『このムスメもそろそろ収穫どきかな。グッシッシ』などとヨダレを垂らしているんですか。気色悪いのでやめていただけますか」

「そ、そんなことは思ってないからっ!」

「そんなこと『は』?」


 じっと見ていたことについては事実だっただけに、つい慌てて変な返しをしてしまったのを聞き咎め、護志田さんは身体をこちらに向けた。


「じゃあどんなことは思っていたのですか?」


 意地悪げな目に変わる護志田さん。


「いやその……ほら、勉強の手が止まってるよ、ほら、テスト明日からなんでしょ?」


 話を変えて誤魔化すことは行為として情けないかもしれないが、この言葉そのものには正当性がないわけではない。彼女が今ここにいるのは勉強するためなのだ。

 しかし護志田さんはあっさりと言った。


「テスト勉強などとっくに終わりました。むしろ、まともに授業を聞いていれば殊更に勉強などする必要はありません。オール満点をとらないでいる方が難しいぐらいです」


 随分な自信である。まあ優等生の皮をかぶっている護志田さんにとっては、中学一年一学期の中間テストなどはそんなものなのかもしれない。


「その割には随分真剣な顔して何か書いたりしてたけど」

「私は可愛いだけでなくとても賢いので、宿題や課題は早め早めに済ませるようにしているのです。今は丁度夏休みの日記を先どりして書いていました。後で苦しむのは御免ですからね」

「先どりしすぎじゃない? まだ5月なんだけど」


 どんな未来日記を書いているのか気にはなったが、一応は女の子の日記なので覗き込むわけにもいかない。

 その代わりに、きわめて理にかなった指摘をしてあげることにする。


「勉強してないんだったら、もう夜遅いし帰った方がいいんじゃないかな?」

「むう」


 何か気に障ったのか、頰をぷくりと膨らます護志田さん。先ほどまでの真剣な表情とは大違いであるが、これはこれで実に愛くるしい。


「今日は9時まで勉強しようと、あーちゃんと約束したのです。私と違ってあまり勉強のできる方ではない彼女を置いて帰るわけにいきません」

「妹の親友にあるまじき発言には目をつむるとして、何度か言ったことをまた繰り返すけど」

「それなら別々の部屋でなくて一緒に勉強すればいいじゃないか、ですか? こちらも何度も説明しているじゃないですか。私たちはとっても仲良しな中一女子なので、一緒にいたらキャッキャウフフと遊んでしまい、勉強にならないのです」

「だったら、そもそもうちに来る必要ないのでは?」

「何てことを言うのですか?」


 非難がましい目をこちらに向けてくる護志田さん。


「あーちゃんにとって、親友である私が隣の部屋にいてくれることが心の支えとなり、頑張ることができるのですよ。貴方は妹がテストで赤点取って、クラスに一人はいる『一見優等生タイプなのに実はひどく頭が悪い、残念な意味でギャップのある女子』ポジションに収まってしまっても良いのですか?」

「まあ、それは嫌だけど……」


 という理屈で、護志田さんはここに居座り続け、僕のリラックスタイムを失わせているのだった。

 ちなみに、仕方ないので気を遣ってこちらが部屋から出ようともしたのだが、


「私が部屋に一人でいる間に金品がなくなったなどの被害を捏造されて、何かしら破廉恥な要求でもされたらたまったものじゃありません。ここにいてください」


 などとこの上なく人聞きの悪いことを言われてしまい、外出することもできず、こうして夜のひとときを護志田さんとともに過ごすことを余儀なくされていた。


 こちらの諦め顔をどう捉えたか、護志田さんは首を傾げた。


「何かさっきから不服そうですね……ははーん、わかりました。さては私が御相伴にあずかったがために、夕食のすき焼きの取り分が減ったことを根に持っているんですね」

「いや、別にそんなことは思ってないけど」


 ていうか気付いていなかったが、言われてみたらその通りだ。くそうこのコムスメめ。


「フフッ、実はそれはこちらの策略だったのです」

「策略?」


 護志田さんは満面得意げな顔になる。


「ここに来る途中、スーパーでそちらのお母様がお肉と卵と春菊を購入しているのを見かけて、どうやら今夜はすき焼きにするらしいと当たりをつけ、急きょ勉強終了時間を夜6時から9時へと延長したのです。いやあ美味しくいただきました」

「ノリスケのやり口か」


 この年齢でそんな渡世をしていてこの子は大丈夫なのか、ある日突然我が妹に絶交されたりしないだろうなと少し心配になる。


「さて、と」


 そんなこちらの心配を忖度する様子もなく、護志田さんは手元のノートを閉じた。


「日記の方は8月32日まで書き終わりましたし」

「何それ怖い」


 護志田さんは薄笑いしながら寝そべっている僕の顔を見やってくる。


「何……?」

「ここからは……ベッドで勉強しようかな」

「!?」


 童貞中学生をからかうような発言をしたかと思いきや、ベッドで寝そべる僕の隣に、躊躇なく横たわってきた。


「なっ、ななななな……」


 こちらは大学四年生、相手は中学一年生、当然妙な意識などすることはないのだが、女性とベッドをともにするという大イベントが突然発生し、激しく動揺してしまう僕。

 すぐ間近にある護志田さんの顔が、くすりと笑う。吐息が鼻をくすぐる。


「大丈夫です。私がリードしてあげますから」


 そう言うと、護志田さんはいきなりファスナーを開け、僕のモノを取り出すと、その小さな手にとった。


「わ、結構大きいんですね」


 黒光りしている僕のモノを見て、目を丸くしていたが、慣れない手つきでいじりはじめた。


「あ、護志田さん、ダメだよ。そんな風にいじられたら……壊れちゃうよ」

「…………」

「だからダメだって、そんなに指でクリクリしたりしたら、変な風になっちゃう。あっ、ダメ」


 気づいたら、こちらをジト目で見ている護志田さん。


「……何?」

「いや、気のせいかもしれませんが、私がタブレットケースからタブレットを取り出して、操作している様子をライトノベル的な嘘エロの描写されてるような気がして」

「? 何それ?」


 唐突にわけのわからないことを言う。


「まあよくわからないけど、精密機械なんだからもう少し丁寧に扱ってもらえるかな」

「はーい」


 かくして、今宵もまたGⅠの検討が始まるのだった。



「さて、今回のオークスですが、難しい人にはとことん難しく、簡単な人には楽勝な一戦でしょうね」

「ほう、その心は?」


 二人ベッドに横になり、タブレット画面の出走表を見つめる。

 この光景を人に見られたらという懸念はあったが、我々は競馬に真摯に取り組んでいるのであり、疚しいところなどはどこにもない。


「ものすごい怪物かもしれなければ、いざGⅠを走ってみたら案外通用しないかもしれない馬が二頭ばかりいますから」

「この馬と、この馬かな?」


 馬名を指差すと、護志田さんはこくりと頷いた。


「はい。コントラチェックもラヴズオンリーユーも強い勝ち方をしてここに来ましたが、そこまで厳しい相手とぶつかってないですし、左回りは今回が初めて。その二頭をどうとらえるか迷いなくバシッと決められれば、簡単なのではないでしょうか」

「まあそれが難しいんだけど」


 しかし、馬券を買う以上は蓋を開けてみなければわかりようがないことを、蓋を開ける前に決めつけなければならない。


「でも僕は桜花賞組の方を高く見積もりたいかな」

「ほう、これは珍しい。私も同意見です。おめでとうございます。さぞ心強いと思っておられることでしょう」


 先週、本命馬が14着だった人と意見が合致したことを、15着だった僕は心強く思うべきなのだろうか。


「それで、桜花賞組の中から、どの馬を本命にするのですか?」

「うん、まあ無難だけどここかなって」


 また出走表を指差す。1枠2番・クロノジェネシス。


「なるほど。察するにシゲルピンクダイヤやダノンファンタジーは距離に不安があるし、東京2400に伸びても良さそうなのがクロノジェネシスというわけですね」

「うん。まあそれだけに人気はするだろうけど」

「まったくかわいそうなことです」

「かわいそう?」


 護志田さんを見ると、心底気の毒がっているようないたたまれない表情をしている。


「あーちゃんがあまり勉強できないのは、兄に似てしまったからなのですね。思考力・判断力に劣った血統に生まれてしまい、親友として不憫でなりません」

「いや、それ僕や妹だけでなく、親や先祖もディスってるから。よく晩御飯ご馳走になっといてそういうこと言えるね」


 こんな毒舌少女のことを、うちの両親は品行方正な女の子だと思っており、訪問してくるたびに下にも置かない歓待をしているのだから泣けてくる。

 もちろん今とて、こちらの言葉を聞き入れる素振りなど全く無い。


「そんな哀れな愚民を導くのも賢人のつとめ。ノブレスオブリージュです。勝ち馬を教えて差し上げましょう」


 人ん家のベッドに寝転んで何がノブレスオブリージュだか知らないが、護志田さんは仰々しい手つきで出走表を指差した。


「アクアミラビリス?」


 これまたとんでもない穴馬。桜花賞組は桜花賞組でも、13着に沈んだ馬である。


「信頼と実績の桜花賞上位馬か、もしかしたら化け物かもしれない別路線圧勝組かという二元論で考えるのがナンセンスです。もう一つ『前回化け物候補だったけどダメだった馬が、本当はやっぱり化け物だった』パターンを忘れてはいけません」


 確かに、アクアミラビリスは前々走のオープン戦をとんでもない豪脚で勝ち上がり、桜花賞では有力馬の一角だった。


「この馬が負けているのは中山と阪神です。もしかしたら直線に急坂のあるコースが苦手で、平坦コースやなだらかな坂であればハイパフォーマンスを見せるタイプかもしれません」


 なるほど。まあ絶対に無いとは言い切れないか。

 改めてタブレット画面を見やる。


「あっ、もう9時過ぎてるよ」

「……まさか、ベッドをともにしておきながら、コトが済んだらさっさと帰れということですか?」

「いや、だからそういうノリはもういいから」

「フフ、下半身がカチカチになってるくせに」

「足かな? 最近鍛えてるから足の筋肉がついてるのかな?」


 そんなバカ話をしてテスト初日前夜を過ごした護志田さん。

 五教科の合計点で我が妹を下回って、期末テストに向けて猛勉強することになるのだが。


 それはまた、別の話。


(つづく)



 ◆オークス


 護志田さんの本命 アクアミラビリス

 僕の本命 クロノジェネシス

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