第8話 ヴィクトリアマイル

 どこまでも高い空にかかる薄雲を窓外にぼんやりと眺め、今日だけでもかれこれ200回目、連休が明けてからだと12万回目ぐらいになるであろう深い溜息をついた。

 よろしくないことだとは思いはするが、京都から帰ってきてからというもの、溜息製造機と化してしまった自分をどうすることもできなかった。


 あの人と思わぬ再会を果たし、楽しい時間を過ごしはしたものの、滞在中もずっと胸の中に引っかかっていた思いが、今は大きな憂鬱の塊となって、無限に溜息を吐き出させている。


 あの人は東京を離れ、京都で暮らしている。一体どうしてか。

 意を決して尋ねてみたときにあの人が言った言葉。素直に受け取ればどういうことか決まりきっている。


 また盛大な溜息が出る。


「溜息をつくと幸せが逃げていくと言いますが、すでに内部留保分の幸せが尽き果てている場合、何が逃げていくと思います?」


 護志田もりしたさんがこちらに顔も向けずにそんな疑問符を投げかけてくる。


「さあ……」

「周りの人間でしょうね」


 鋭利なナイフで胸を刺されたような心持ち。この子の言葉はいつも辛辣だ。


「いわゆる出物腫れ物でなく、ある程度コントロールが効くものなんですから、もう少し控えることをお勧めします」


 相も変わらずこちらに顔を向けることなく、そんなことを言う。

 きわめて正しいことなのだろうが、若干の反発を覚える。


「うん。忠告は心に留めとく……ところで護志田さん」

「なんでしょう?」

「本来なら一人で気ままに過ごせる筈の場所と時間に溜息を洩らすのと、勝手に人の部屋に入り込んでベッドを占拠するのと、より非難されるべき行為はどちらなのだろう?」


 うつぶせに寝そべり、漫画本を読んでいる護志田さんにそう問いかける。

 チクリとやったつもりだったが、護志田さんはまるで意に介さない様子で、漫画から目を離すことすらしなかった。


「もし現在の私の様態のことをそのように仰っているのでしたらお門違いというものです。こちらの家庭においてエロ兄ィより上位者であらせられるお母さまの許諾をきちんと得ておりますから」

「そうですか……」


 京都旅行から帰ってきて早一週間、護志田さんは毎日のように、というか毎日我が家を訪れていた。

 妹の親友という立場上、元々遊びにくる機会は少なくなかったのだが、最近は妹がいなくて僕が一人の時なんかにもやってきては、こちらが不在を伝えると、


「そうですか。しかしどうしてもあーちゃんと遊びたいので、お帰りまで待たせていただきます」


 などと言って上がり込み、勝手に僕の机を使って宿題を始めたり、勝手に僕のベッドに寝そべって僕の本棚からチョイスした書籍やコミックを読んだりと、なかなかのやりたい放題ぶりである。

 それでいて、いざ妹が帰ってくると、あいつの部屋に30分ほど二人で篭って何やらヒソヒソやってはすぐ帰っていってしまう。一体なんなのか。


 こちらの親は親で、娘の友だちの美少女が遊びにくることは歓迎すべき慶事のようで、護志田さんは我が家において治外法権を与えられている状態だった。


「もしかして護志田さんって、うちの妹以外の友だちがいなかったりするのかな?」


 勉強机に座る僕に足を向ける形で寝そべっている護志田さんに、素朴な疑問を投げかける。


「エロ兄ィと一緒にしないでください。私の交友の広さときたら、幼稚園の頃『一年生になったら』という曲を合唱した際に、小学校進学を待たずとも既に100名以上の友だちがいる人間はどのような感情で歌えば良いのか先生を問い詰めたというエピソードがあるほどです」

「そういう子は友だちできにくそうな気がするけど」

「ま、今が大事な時期という判断ですね」

「大事な時期?」

「独り言です。何でもありません」


 そんなことを言うと、寝そべったまま軽く足をバタバタさせる護志田さん。

 ちなみに今日の彼女は、白系のトップスに、白地に花柄のスカートという白ずくめのコーディネートで決めている。

 スカートの女の子がこちらに足を向けて寝そべっており、足をバタバタさせている姿に何ひとつ動じるところなどないのだが、僕は思わず目をそらし、机の上にある書きかけのエントリーシート------を下敷きにして置いてあるタブレット画面に表示されている出走表に向き直った。


 今年のヴィクトリアマイルは難解そのものだった。

 前で粘りそうな馬、中団から抜けてきそうな馬、後方から突っ込んできそうな馬がどうふるい落としても10頭以上は候補に残ってしまい、逆に絶対的な力上位は見いだすことはできない。

 もう何度目になるか、1枠1番から8枠18番までの馬名を眺め、溜息をついた。やはりわからない。いっそサイコロでも振って買い目を決めた方が当たる可能性が高いのではないだろうか。


「あーもう! いつまでもウジウジと鬱陶しい人ですね! アダ名をエロ兄ィからウジ兄ィに変更しますよ?」


 護志田さんが跳ね起きて、こちらに詰め寄ってくる。


「うん、そもそもエロ兄ィを呼び名として定着されてるのが甚だ納得しかねるんだけど」


 今の溜息の意味を誤解しているであろうことよりも先にそっちの方を指摘したのは失策だったか、護志田さんは更に顔を近づけてきた。


「いいかげん踏ん切りをつけたらいかがですか? いつまでも元カノに未練たらたらなんて、みっとも情けないとは思わないのですか?」

「うっ……」


 言葉のナイフが今度は肺腑にまで届く。

 更に護志田さんは容赦なくグリグリと抉ってくる。


「もしかして焼けぼっくいに火がついて、よりを戻せるかもなんて儚い期待を抱いてたりはしませんよね? それはあり得ません。絶無です。京都に引っ越した理由を聞いた時に何て言われたか覚えていますか?」

「……うん、覚えてるけど」

「『私も女だってことよ』あのお方はそう言ってました。その言葉がどういうことを意味するのかは、いくら論理的思考力が著しく欠けているエロ兄ィといえど察しはつくでしょう」


 もはやライフがゼロの僕に対し、護志田さんは心なしか目をキラキラさせ、更に顔を近づけてきて言い放った。


「彼女は新しい恋に生きているのです!」


 完全に貫かれ、僕の胸は空洞になった。

 わかっていなかったわけではないのだが、はっきりと言葉にされることの痛撃は並大抵ではない。

 護志田さんの言葉、摘示された事実を飲み込むことができない僕の頭に、ふとあさっての方向から思考がよぎる。


「あれ? でも、その話してたとき、護志田さんいたっけ?」


 どっちだったかなぐらいの、何ということもない素朴な疑問だったが、護志田さんは慌てたようなそぶりを見せ、こちらに向けた手のひらをブンブン横に振った。


「なな、何を言ってるんですか! 私がお二人のことが気になるあまり、盗聴器を仕掛けて会話を盗み聞きしたりなんて、するわけないじゃないですか!」

「いや、そんなことは全く思ってなかったけど……」

「そうですか。なら良いのです。もちろんGPSを仕掛けてこっそり逢引していないかチェックしていたなんてこともあり得ませんので悪しからず。そんなことより競馬ですよ競馬。エロ兄ィはあらゆる嫌なことつらいことから競馬に逃げてきた人間じゃないですか」

「それは人として相当まずいと思うけど」


 急激に話を変える様子は何かやましいことでもあるかのように見えなくもなかったが、きっと僕がこれ以上陰々滅々とならないようにとの、この子なりの気づかいなのだろう。

 その気持ちをありがたく受け取り、しばしの間、日曜日に行われるGⅠレースの検討に没頭することにした。


「拝察するに、抜けて強い馬は見当たらない。反面そこそこ強そうな馬は大勢いすぎる状況に、もうわけがわからん、いっそのこととらのあなでコミックLOを買ったときのレシートに印字されている数字で本命馬を決めてしまおうなどと思っているのではないですか?」

「そういう店には行かないし、そういう雑誌は買わないけど、難しくて頭を悩ませているのは事実かな」

「そんな哀れな馬券下手さんに、令和の天才美少女馬券師と巷で評判のこの私めが、ズバリ勝ち馬を教えてあげましょう」


 両手を腰に当て胸をそらしてみせる護志田さん。よほど先週のカテドラル指名が誇らしいようだ。

 まあ勝つには至らなかったが、素直に賞賛すべきことだろう。


 なお、中学一年生の護志田さんは当然勝馬投票券の購入などしていないのだが、もし買うとしたら本命の複勝一点勝負とのこと。

 7戦目にしての初勝利だが750円ついたので収支プラスに転化、ちょっと気になってた洋服を買うぐらいの利益にはなったらしい。もしも馬券を買っていればの話であるが。


「どれどれ」


 机の上のタブレットを覗き込んでくる護志田さん。真新しいシャツの香りが鼻腔をくすぐる。


「ふむ、最終確認をしてみましたが、やはり本命はあの馬です。何かの間違いが生じたとしても2着か3着でしょう。今週もまた勝ってしまいました」


 勝利宣言まで飛び出す。そこまで自信があるのか。

 と、護志田さんが何かを閃いたといった素振りで、人差し指を立てる。


「そうだ! 戯れまでにですが、私とエロ兄ィとでそれぞれの本命馬を同時に指差すというのはどうでしょう?」

「同時に指差す?」

「はい。これはあーちゃんの発案……ゲフンゲフン……ではなくて、相手の本命を先に聞いてしまうことで自分の予想にブレが出ないようにという、意志薄弱のエロ兄ィへの思いやり溢れた趣向となっています」


 なぜか声弾ませて説明してくれる護志田さん。


「まあ、それはわかったけど……でも、今回は勝ち馬を教えてくれるんじゃなかったの?」

「えっ……?」


 今度はしばしフリーズする護志田さん。

 やがて頭を抱え、かぶりを振って何やら呟きだした。


「そうでした……ああ、そんな余計なことを言ったがために『偶然指先が触れ合ってドキドキ作戦』が頓挫してしまうとは……迂闊でした。折角考えてくれたのにごめんあーちゃん……」


 何を言っているのかはよく聞き取れないが、自信満々で胸を張っていたと思いきや、急に落ち込みだしたりと忙しい子である。


「ま、まあ、よくわからないけど、言ったとおり同時に本命馬を指してみようか。僕も自信はないけど、一応この馬かなっていうのはいるし」


 パッと顔を輝かせる護志田さん。


「そうしましょう! そうしましょう!」


 ぴょんと飛び跳ねるように僕の側へと寄ってくる。こんな無邪気なしぐさはこの少女がつい二ヶ月前まで小学生だったことを思い出させる。


「じゃあいきますよ……ドキドキ」


 緊張したような面持ちでタブレットの画面を見つめる護志田さん。微かに頰が紅潮しているようにも見える。


「せーの……!」


 僕と彼女はそれぞれの本命馬を指差した。

 僕はフロンテアクイーン、護志田さんはアマルフィコースト。8枠18番と1枠1番、大外と最内だった。


「アマルフィコーストかあ、相変わらず大穴狙いだなー。でも実は僕も少し気になってはいるんだよね。京都牝馬ステークスでは先行した馬で唯一上位に残ったし、前走もしっかり結果を……」


 と、護志田さんが俯いてプルプル震えていることに気付く。


「? どうしたの護志田さ……」

「何で大外の馬なんですか! よりによって! そんな遠くの!!」


 何か気に障ったのか、口から泡を飛ばす勢いで詰め寄ってくる護志田さん。


「遠く……? ま、まあ外枠歓迎ってタイプの馬ではないけど、東京のマイルならそこまで極端に外枠が不利ってこともないし、コース替わりしたとはいえ現に先週のマイルカップも……」

「このいくじなしっ!」

「なぜっ!?」


 いわれなき罵声を浴びて戸惑う僕に、護志田さんはジト目を向けると、本日僕が何度となく洩らしたのよりもはるかに深い溜息をついた。


「まったく使えない人間です。私と同じ正解に辿り着くのは能力的に難しいとしても、東京の鬼のレッドオルガとか、GⅠで穴を開けがちなクロコスミアとか、せめて人気どころのラッキーライラックあたりを差してくれれば、私の指も届……ゲフゲフ……まあ、馬券師として多少の評価はできたのですが」

「なんか推奨馬が内枠に偏ってるんだね……あ、でもクロコスミアはちょっと気になってはいるかな」


 個人的にこの馬名は確かに無視できない。


「昨年のエリザベス女王杯で澤多莉さんが本命にしてて、じゃあ僕もってヒモに入れたんだけど、そしたら3連複的中したんだ」

「…………」


 懐かしいような、つい昨日のことであるかのような、大切な思い出を話す。

 護志田さんも静聴してくれている。


「でも当の澤多莉さんはいつも頭固定だから外しちゃって、あの時のなじられようときたら凄かったなあ。『私のおかげで勝ったんだから、払戻額の400%を支払いなさい』とか言うんだよ? 何だそれって感じだよね?」


 ちょっとした笑いどころのつもりだったのだが、護志田さんは無反応。


「そういえば澤多莉さんだったらどの馬を本命にするかなあ? またクロコスミアかな? いやミエノサクシードあたりもありそうな気がするぞ」


 そんな視点で出走表を改めて眺めてみる。

 と、傍らの護志田さんが何かをボソッと呟いた。


「……ぁっくゆ……」

「え、何?」


 聞き返そうとそちらに向けた僕の顔面に。

 少女の拳がめり込んだのだった。


(つづく)



 ◆ヴィクトリアマイル


 護志田さんの本命 アマルフィコースト

 僕の本命 フロンテアクイーン

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