第7話 NHKマイルカップ
後から知ったことであるが、その夜の京都は、やんごとなきお方が御滞在中のみぎりということで厳戒態勢が敷かれていたらしい。
ムエタイの殺人技で僕をK.Oした
警官たちは、こんな絶世の美女は疑うに足りないと判断したか、それともある種の威圧感に気圧されたか、素直に散っていった。
「さて、と」
なおも地べたに這いつくばっている僕を冷たい目で見下ろしてくる澤多莉さん。とどめを刺そうとしている目に見えないこともない。
てか、この状況で警官たちは暴行の加害者の言うことだけを聞き入れて散開するものだろうか、普通。
「随分とお久しぶりね。1年と22日ぶりぐらいだったかしら?」
「いや、そこまで久しぶりではないけど……でも決して短い月日ではなかったかな」
続いて澤多莉さんは、なおも片腕を頭上に上げ、もう片腕をヘソのあたりに当て、足を4の字に曲げ、その曲がった足からは靴下がずり下がっているというポーズで驚きを表現している護志田さんに目線を向ける。
「しばらく会わないうちにやるようになったじゃない。こんなお人形さんみたいなカワイコちゃんを連れ歩いちゃって。私が姿を消したのをこれ幸いと、若紫計画発動ってわけね?」
「いやいや、この子はそういうんじゃなく、ただの妹の友だちで……てかそんな計画、考えたこともないから」
どうにかして身を起こす僕に手を貸してくれる人はいない。ポーズを解いた護志田さんも何故か不服そうに口を尖らせこちらを見ている。
「なるほど、そうだったのね」
無機質な口調ではあったが、澤多莉さんは理解を示してくれたようだ。
「で、遺言は以上で良いかしら?」
「何も理解してくれてないっ!」
天地神明に誓って僕はローティーンの女の子をそういう目で見たりしないこと。
彼女の方も競馬への興味が嵩じたあまり今回の旅行に同行してきただけであること。
そもそも顔を合わせては憎まれ口を叩かれてすっかりバカにされていること。
僕は澤多莉さんのコブラツイストに耐えながら、それらの事実を必死に説明した。
「へえ……」
技を解き、改めて護志田さんをまじまじと見つめる澤多莉さん。
「まあ、そういうことにしといてあげるわ」
意味ありげに見える薄い笑みを浮かべる。
「なんですか、なんなんですか、あなたはっ!」
それまで成り行きについていけず、黙っていた護志田さんが、口から泡を飛ばして澤多莉さんに詰め寄る。
「あ、護志田さん、こちら澤多莉さんといって、僕の……」
一瞬どう紹介したものか躊躇。
護志田さんは僕に睨みつけるような目を向けると、また澤多莉さんの顔を見て、また僕、澤多莉さんと首をブンブン二往復ほど振り、ビシッと澤多莉さんを指差した。
「こんなベッピンさんがお前と知り合いだなんて! しかもあんなに肉体的な接触を許されるなんて! おかしい! あり得ない! あってはいけない!」
「いや肉体的な接触っていうか、攻撃を受けただけだから……あれ? ていうか今、僕のことお前って言った?」
「天地がひっくり返ってもあり得ない! お日様が西から登ってそのまま沈まないぐらいあり得ない! お前ごときが!」
「言った! 今完全にお前って言った!」
「クスッ」
実際に『クスッ』とはっきり声に出して笑う澤多莉さんに、護志田さんは再び睨むような視線と人差し指を向ける。
「あ、あなたは一体どういう人なんですか? おにいちゃ…この男と、どういう関係なんですか?」
「関係ね……」
遠い目をする澤多莉さん。
「時には味方、時には敵、恋人だったこともあったかな」
確実にどこかで聞いたことのある台詞を、己のものであるかのように何の衒いもなく吐いてみせる。
「ここ、恋人って……そんな、まさか……」
驚きのあまり二の句を継げないでいる護志田さんの耳元に、澤多莉さんはそっと口を寄せる。
「彼、生まれつきのスケベ男爵よ、気をつけてね」
何だそれ、そんな爵位を賜った覚えはない。生まれつきってなんだ。
釈然としない思いで見ていると、突然澤多莉さんが気持ち悪そうに両手で口元を押さえた。
「うっ……うむむむ……」
「! ど、どうしたんですか!?」
と、澤多莉さんの口の中から次々と万国旗が出てくる。
「今はこれがせいいっぱい」
護志田さんは唖然とするばかり。そりゃそうだろう、いきなりこんな美女にこんな大道芸かまされたら。
「なんか……変わってないね」
「フフッ、あなたこそ変わらないわね。アメリカに渡った谷沢のようだわ」
「まるで成長していないってこと?」
微笑する澤多莉さんと、しばし無言で対峙する。
冷たい夜風に彼女の長い髪がまた揺れる。彼女の冷たいようでもあり、触れれば火傷しそうでもある瞳から目をそらさないでいられたのは、夜だったからだろうか。
「澤多莉さん、あの……」
僕が口を開いた瞬間、澤多莉さんの目線が下がった。
それにつられて僕も下を向くと、そこにはパンパンに頰を膨らませた美少女がいた。
澤多莉さんと護志田さんの視線がぶつかり、ほんの一瞬火花が散ったような気がした。
かくして。
僕は京都の地で思わぬ再会を果たし、龍と虎は……いや。
「あら、そんなに頰を膨らませていたらカワイコちゃんが台無しよ。あなたのようなタイプが水準以上のルックスを保持できるのは今だけなんだから、せいぜい可愛らしく振る舞いなさいな」
「へえ。さすがに劣化がすでに進行している方の言葉には説得力がありますね」
「うふふふ」
「えへへ」
邪龍と狂虎は出会ってしまったのだった。
× × ×
元号が変わり、大型連休も後半に差し掛かった金曜日。あっという間に東京に戻らねばならない日を迎えてしまった。
旅の大目的だった天皇賞開催の京都競馬場はもちろん、名所旧跡、寺社仏閣、飲食店、ただの往来にいたるまで、三人で巡ってきた京の都はどこもかしこも人だらけだった。
ここ三条河原も夕涼みをしている人間の人口密度が高すぎて、むしろ暑苦しいスポットと化している。
そんな場所にいても、澤多莉さんは白いブラウスとスカートのセットアップといった出で立ちも、その表情も涼やかに、タブレット画面の出走表を見つめていた。
「GⅠ馬が2頭も、とりわけ桜花賞をあんな勝ち方した馬がマイルカップの方に出てくるなんて、他の陣営にしてみたら冗談じゃないって話でしょうね」
「うん。それは間違いなくそう思うだろうね」
「ファンにしてみても、一冠取っておいて二冠目取りにいかずここ使うってのが、もう使い分けも極まれりって感じで、正直面白くはないところよね」
「うん……まあ距離適性ってのも嘘ではないんだろうけど、クラシックにはチャレンジしてもらいたいとは思うよね」
競馬の検討をしているときの澤多莉さんは、相変わらず真剣そのものといった表情をしており、僕はなんだか嬉しかった。
「こうなってくると、意地でもグランアレグリアなんて買うもんか、って思ってしまうわよね?」
こちらの顔を覗き込んでくる。試すような目つき。
「う……うーん、でも、ファン心理と馬券は別っていうか、少なくとも切るってわけには……」
「グランアレグリアが本命なのね?」
「…………はい」
消え入るような声で答える僕。
澤多莉さんは呆れ果てたような盛大なため息。
「相変わらず何の面白みもない、というよりくそつまらない競馬をやっているのね。このままおめおめと生き続けるよりは、いっそのこと蒸発してしまった方がいいんじゃない?」
「……澤多莉さんこそ、相変わらずだね」
本当に、こんな物言いも相変わらずで、僕は嬉しく……ないこともなかった。
「そう? ……これでも、変わったところだってあるのよ」
静かにそんなことを言うと、遠い目をして川面を見つめる。
今、彼女は京都で暮らしているらしい。
単位は三年次までにすべてとり終え、残すは卒業論文だけなので、中間発表の日と提出日以外は大学に行く必要は無いからと説明してくれたが、一体どうして京都に来たのか、ここで何をしているのかははぐらかして教えてくれなかった。
「私も女だってことよ」などと言われてしまっては、それ以上聞くこともできない。
と、柔らかく甘い感触が頰を撫でた。
「でも、変わらないことだってあるんだけどね」
澤多莉さんの頭が僕の肩にもたれかかってきて、僕は硬直、そしてあわあわしてしまい言葉が出てこない。やっぱり成長していないらしい。
風が吹き、彼女の髪が僕の頰をくすぐる。
「…………」
僕の頭も澤多莉さんの側に寄せられ、もたれ合う形になったが、ものすごい抵抗力とともに押し戻される。
「!?」
「ぬぁにをしてるんですかっ!」
僕と澤多莉さんの顔と顔を両腕で引き剥がしたのは、言うまでもなく護志田さんだった。
「まったく油断も隙もない! ちょっと人がお花を摘みに行っている間に、乳繰り合ってからに!」
「あら、誰かと思えばシン・アスカちゃんじゃない」
「なっ……! なんですか! 人を前作の主人公が登場した途端食われに食われて、最終的には歴史的な完全敗北を喫した偽主人公みたいに言わないでください!」
余程ウマが合わないのか、滞在中この二人はずっとこんな調子だった。
二人とも、僕以外の人の前では血統書付きのネコをかぶっており、決してボロを出さない人だったはずなのだが、お互いが相見えるときは野生のヤマネコのごとく牙を剥き出しにしていた。
「そんなことより、そろそろ行かないと新幹線の時間に間に合いませんよ! 河原でアオカンなんてしてる場合ですか!」
「いや、してないしてない。てか声大きいから」
周辺の人たちが何事かとこちらに視線を向けている。川の向こう側にいるダースベイダーとストームトルーパーもこちらを見ているような気がする。
本当ならこの土日も京都競馬場で澤多莉さんとともに競馬観戦をしたいところだったが、間の悪いことに明日土曜日の午前から面接が入ってしまったのだ。
ゴールデンウィークまっただ中に選考を行うなんてブラック間違いなしと辞退しようかとも思ったのだが、何だかそれは自分にも澤多莉さんにも誠実でないような気がして、僕たちは今夜の電車で東京に戻ることにしたのだった。
「そう。それじゃ京都駅まで送ろうかしらね。
「そんな便利な呪文使えるんだったら東京まで送ってくれると助かるんだけど」
軽い気持ちでそんな返しをする僕を、澤多莉さんは真剣な眼差しで見据えた。
「冗談よ」
「でしょうね」
護志田さんは余程急いで向かわないとまずいと思っているのか、僕の襟首をつかみ、引っ張り上げようとしてくる。
「キー! そんなお互い理解し合ってますみたいな不愉快な目くばせしていないで、早く行きますよ! そもそもこんな処刑場があった地でよく座り込んでいられますね。そこら中地縛霊だらけですよ!」
また辺りの人たちの視線が集まってくる。確かに一旦ここから離れた方が良さそうだ。
「うん、わかったわかった。あ、でもNHKマイルの本命、まだ聞いてなかった」
「そんなのカテドラルに決まってるじゃないですか! 秋に中山と東京で大敗したのは輸送に弱いとかでなくただの調子落ち、ヴェロックスに勝ったり、前走の驚異的な末脚こそが本来の姿です!」
「フッ」
澤多莉さんが鼻で笑った。
当然、護志田さんは敏感に反応する。
「何がおかしいんですか!」
「いえ、競馬を始めてから6連続で本命馬が二桁着順に沈んでるって聞いたけど、さもありなんだと思って」
「……そんなことバラしてたんですか」
逆三角の形にした目をこちらに向けてくる護志田さんだったが、にやりと口角を上げると澤多莉さんに向き直った。
「フフッ。そちらこそ変な穴馬ばかり狙う結構なヘタッピさんだったと聞き及んでいますが、そんな逆神の本命にされる哀れな馬はどの馬なんでしょうか?」
「……おしゃべりが過ぎる舌は引っこ抜いた方が良いのかしらね」
こちらからは氷のように細く冷たい目。
僕は先刻とはまったく異なる意味であわあわしてしまい、しどろもどろ。
「まあいいわ。私も今や京都の人間、東京モンに手土産のひとつも持たせずに帰しては恥というものだわ。日曜日に3歳マイル王になっている馬を教えてあげる」
そう言いながら立ち上がると、夕陽を背後に、両手を腰に当ててみせる澤多莉さん。
僕も護志田さんも、思わず固唾を呑んで見つめてしまう。
「でも京都人は現実的なの。以前のように何でもかんでも穴馬ってわけでなく、堅実に勝ちに行くのが京風澤多莉の特徴よ」
「京風澤多莉って」
グランアレグリア本命といった僕を罵倒したことと矛盾しているような気もしなくはなかったが、そこは追及させないだけの迫力を纏っていた。
「私の本命はね……」
彼女の本命馬を聞き、ああやっぱり変わっていないなと思う僕なのであった。
(つづく)
◆NHKマイルカップ
護志田さんの本命 カテドラル
澤多莉さんの本命 プールヴィル
僕の本命 グランアレグリア
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