第6話 天皇賞(春)

 目を閉じれば、瞼に浮かぶ光景がある------


 CMなんかにありがちなフレーズのようだが、僕にとって昨年春の天皇賞はまさしくそういうレースで、勝ち馬のレインボーラインはそういう馬だった。

 何度も何度も弾き返され続けてきたGⅠの頂にようやく辿り着いたと思いきや、そのままターフから去って行ってしまった彼の勇姿を競馬場で見れることはもうない。


 チャンピオン不在どころか、今年の天皇賞・春は平成最後にもかかわらず、少頭数だったり最有力馬が回避してしまったり平成の盾男不在だったりと、かなり寂しい興行になってしまった感は否めない。


 そして、昨年との一番の違い。

 もう隣にあの人はいない。


 なのにあなたは京都へゆくの?


 西へと向かう新幹線の中にいる僕に、どこからか古い歌のタイトルのような問いかけが聞こえてきた気がして、僕は「ああ、もちろんさ」と心中で答えた。


 なぜかって? そんなの決まっているじゃないか------


「あの日の光景に、また会うためさ」


 そう声に出した主は僕ではない。

 感傷に浸る身に冷や水をかけるような抑揚のない声が隣から聞こえてくる。


「……的な薄ら寒いモノローグが口から飛び出てきそうなほど物思いにふけっているところ申し訳ないのですが、ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか?」

「……君は心が読める人なのかな?」

「質問に質問で返してはいけないと尋常小学校で習いませんでしたか?」

「僕は戦前生まれじゃないし、そんなこと言ったら、質問をしてもよろしいでしょうかと質問することが、構造上矛盾していると思うけど」


 大人げなく言い返してしまう僕に、少女は冷たい目を向け、溜息をついた。


「まったく、ああ言えばこう言う。そのような頭でっかちな会話スキルしか持ち合わせていないから、いまだに童貞なんですよ」

「…………」


 大きな声で「童貞とか言うな!」とか「誰が戦前生まれだ!」とか叱咤してやりたいところではあるが、いかんせんここは新幹線の車内。マナー違反を犯すわけにもいかず、僕は精一杯険しい表情を作り、隣の少女に向けるばかり。もちろん彼女はそんなものに頓着など見せない。


「まあ童貞をこじらせにこじらせた結果、バーチャル彼女と幸せなときを過ごすという境地に到達できたわけですから、そう馬鹿にしたものではないのかもしれませんね。もしかして遠い目をしていたのは、彼女のことを想っていたからではないのですか? デュクシデュクシ」


 言いながら、僕の二の腕を指先で強めに突いてくる。


「痛い痛い痛い、やめなさい」

「恋人がいたという設定にノッて差し上げてるのだから我慢してください。デュクシデュクシ」


 隣のシートから地獄突きを繰り出してくる小柄な少女は、襟ぐりの大きなブラウスに薄いピンクの花柄があしらわれたジャンスカという、いつにもましてフェミニンな服装をしており、ふんわりした薄茶色の髪には小さなつば付きの帽子が乗っかっている。

 この外見だけは完全無欠に可愛らしい女の子と、何故こうして共に西へと向かっているのか。自分でもいまだによく分からず、いまだに信じられない思いだった。


 一週間ほど前にゴールデンウィークの予定を聞かれ、平成最後のGⅠレースを現地観戦しに京都に行くと伝えたところ、護志田もりしたさんはやれやれとばかりに肩をすくめて、こんなことを言ってきた。


「ゴールデンウィークの京都ですか。人がもはや人なのかどうかわからないぐらい溢れかえっていそうで、少し億劫ではありますが、仕方ないので同行してさしあげましょう」

「は?」

「世間では10連休なんていいますが、我が家はパパが前半の5日間、ママが後半の5日間お仕事で、どこにもお出かけできない非黄金週間を迎えるところだったので、ちょうど良かったです」

「いやいやいや、妹も一緒に行くわけじゃないんだよ? 中学生の女の子が友だちの兄と二人で旅行とかマズいでしょ?」

「何がマズいのですか? 何か良からぬことでも考えているのですか?」

「いや、そういうわけじゃないけど……」


 そんなことを言ってはいたものの、当然ご家庭の許しが出やしないだろうと思っていたのだが、土曜日の競馬後の出立の時間、護志田さんは大きなリュックを背負い駅に現れた。

 お父さん直筆という娘をよろしく頼むといった旨の文言が書かれた手紙なぞ携えていたのは、ご丁寧なのかなんなのか。

 世の中にはちっぽけな常識観には収まらない人もたくさんいるのだろう。


 まあ退屈はしないからいいかと思いつつ、なおもデュクシしてくる傍らの少女をたしなめようと向き直った瞬間、彼女の指先がわき腹の急所に入った。


「うぐげっ!」

「それで話を戻しますけど、質問というのは血統のことです。今まであまり気にしていなかったのですが、やはりどの条件でどの血統の馬が強いかといった傾向は重視すべきなのでしょうか?」


 痛みに悶絶する僕を気にすることもなく、座席備え付けのテーブルに置かれたタブレットの画面に目を戻す。


「う、うん……僕も普段はそんなに血統は重視しない方だし、あまり詳しくもないんだけど、春の天皇賞に関してはかなり顕著な傾向が見えるんで、ある程度参考にはするかな」

「ステイゴールドとハーツクライですよね? この5年間で8連対、キタサンブラック以外はいずれかの産駒が占めているというのは確かに驚異的ですね」


 言いながら、タブレット画面を指で操作し、出走表をつぶさに見る護志田さんの表情は真剣そのものだった。

 皐月賞で本命馬がビリに沈み、連続二桁着順記録が5に伸びた彼女にとって、この平成最後のGⅠレースはどうしても負けられない大レースであるらしい。

 これだけの惨敗続きで、競馬への興味を失わないでいられることには感心するやら、ちょっと怖いやらではある。


「それでワイ兄ィはエタリオウが本命なんですね」

「まあ血統だけが理由じゃなくて、安定した強さって点ならこの馬が一番なんじゃないかなって……ていうか何その新たなアダ名? ワイ兄ィのワイってもしかして猥褻の猥だったりする?」


 相変わらずこちらの言葉には耳を貸さず、護志田さんは出走表を見つめて「ナルホドナルホド」などとブツブツ言っていたが、やがて顔を上げ、その大きな瞳をこちらに向けてきた。


「おかげで答えが出ました。どうやら私も令和を迎えることができそうです」

「よくわからんけど背水の陣で臨んでるんだね」

「ズバリ、本命馬はこの馬です!」


 力強く指差した先は、タブレット画面の一番端にある馬名だった。


「ロードヴァンドール?」

「そうです。ハレ兄ィがそこまで血統血統と騒ぎ立てるのであれば、私は敢えてその逆を狙って長距離実績のほぼ無いダイワメジャー産駒でいきます」

「いやそこまで血統推しではないんだけど……てかハレ兄ィのハレって破廉恥のハレじゃないよね?」

「栗山求のごとき机上の空論、私が打ち破ってさしあげましょう!」


 ビシッと指で差されてたじろぎながらも、きっと世の女子中学生でその血統評論家のことを知っているのなんてこの子ぐらいだろうなと変に感心をしたり。


 そうこうしているうちに、新幹線は目的地へと到着した。


 × × ×


 人混みの駅構内を抜けると、少し肌寒さを感じた。昨日今日は東京もかなり気温が下がったが、京都の地は更に冷涼なように思えるのは、単に夕刻を過ぎ夜になっていたからだろうか。

 傍らの護志田さんは、駅の大階段に続き、今度はそびえ立つ京都タワーを物珍しそうに眺めている。


「これが京都タワーですか。高さこそ見たところスカイツリーの20分の1ぐらいですが、趣がありますね」

「うん、そこまで低くはないけどね」

「京都には初めて来ましたが、心なしか行き交う人々の空気感がはんなりしてる気がしますね」

「よくわからない感覚だけど、多分駅の近辺にいる人たちはほとんど観光客だと思うよ」


 とか言ってはみるものの、目を輝かしてあちこち見ている護志田さんは、年相応に旅先ではしゃいでいるようで、非常に微笑ましい。


「じゃあとりあえずホテルにチェックインして、荷物置いてから晩ご飯でも食べにいこうか」


 念のため述べておくが、僕と護志田さんとは同じホテルの別の部屋を予約してある。


「おや何ですか、いきなり旅慣れた雰囲気を出してきて。もしかして格好つけてるんですか? 慣れたエスコートで惚れさせようとしても無駄ですよ。デュクシデュクシ」

「そんなつもりはないけど……痛い痛い」


 どうやらこちらが思っている以上にはしゃいでいるようだ。

 また急所に入らないよう護志田さんの突きを受け流していると、突然首の後ろに強い衝撃が走った。


「ギャッ!」


 出たことのない呻き声が喉から出て、衝撃に遅れて激痛が走る。痛みだった。

 もちろん護志田さんの仕業ではない。彼女は僕の傍らで驚きのあまり目を丸くしている。


 いきなりのことに恐慌状態になりながらも、僕はかろうじて振り返った。

 と、白い何かがふわっと舞い上がった。それが人であること、どうやら女性であることに気がついた時には、スカートの中から服よりも更に白く美しい脚が目の前に伸びてきていた。


「えっ?」


 呆けるように突っ立っていた僕の右頰が、膝で横に打たれる。


「!」


 痛いなんてもんじゃない。頬っぺたに膝蹴りを喰らったのだ。

 僕は崩れ落ちそうになったが、それより先に今度は左頰を膝で打たれる。

 そして更に右、次は左、右、左……膝で往復ビンタを喰らうような格好になる。一撃一撃が重く鋭い。

 僕は倒れることもできずに首から上だけを激しく左右に振らされていた。


「こ、これは……ティムティム人形の舞!」


 護志田さんの声が聞こえてくる。

 いや何その技。てか誰か止めて。しんじゃうしんじゃう。


 ようやく攻撃が止み、仕掛けてきた何者かがスタッと着地すると同時に、僕は膝から崩れ落ち、倒れ伏した。


 意識が遠のきそうになる。一体何なのか。なぜ僕がこんな目に遭うのか。

 いきなり身の上に起きた出来事の意味不明さと恐怖に怯えながら、僕はゆっくりと顔を上げた。


 目の前にはひとりの女性が立っていた。

 白いワンピースに身を包み、長い黒髪を夜風にたなびかせた、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。


「あら、児童買春の現行犯を成敗してやったと思いきや、どこかで見たことある顔じゃない」


 透きとおるような美しい声。


「かねがね東南アジアで少女を買うぐらいはやりかねない人間だと思っていたけど、まさか手近な京都でやらかすなんてね。見直したわよ」


 あまりに大きすぎる驚きに見舞われると、まともに驚くことすらできず、ただわけのわからない感情とともに身体の温度だけが上がるのだと知った。

 何とか発することのできた声はかすれきっていた。


「そ、それを言うなら見損なったでしょ……ていうか……そんなことしてない……から」


 あまり上手にツッコむことはできなかったが、澤多莉さわたりさんは口元を綻ばせてくれた。


(つづく)



 ◆天皇賞(春)


 護志田さんの本命 ロードヴァンドール

 僕の本命 エタリオウ

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