第4話 桜花賞
週中までの花冷えが嘘のような暖かい陽気に恵まれた金曜日。てか暑ちぃ。
新年次の履修登録のため久々に訪れた大学で、僕はただでさえ暑い中、この時期特有の熱気に少しばかりあてられていた。
みんながみんなというわけでもないのだろうが、キャンパス内は全体的に新しいスタートへの期待感のようなもので溢れており、目下就職活動苦戦中の身としては、息も詰まること請け合いだった。
どこかの学部の入学式が終わったのだろう。講堂の方向から見るからにフレッシュな男子たち女子たちがワラワラと現れ、各部活やらサークルやら諸団体の新歓部隊が群がっていく。
三年前にラガーマンたちに囲まれてちびりそうになったトラウマに震えつつ、僕は広場の片隅に据えられたベンチに座り、目の前の光景をじっと見つめていた。
息苦しさを感じながらも、このような場違いなところに留まっている所以について詳述するのは、あまりにも情けなく女々しい話なので御勘弁願いたい。
ともあれ、かれこれ二時間近く広場を眺めていてもあの人は現れなかった。或いは群衆の中を通りすぎたのに気がつかなかったのか。いや、僕は日本ダービー出走10分前の東京競馬場でもあの人を見つけだせる自信がある。
しかし彼女の姿はどこにもない。何となくだが、現れそうな雰囲気も無いように思えた。
そっと溜息。もう履修登録は済ませたし、さっさと帰ることにしよう。
家を訪れる勇気もなく、こんなところで時間を過ごし『偶然の再会』に期待するなど成人男性のすることではない。
ベンチから立ち上がろうとしたそのとき、喧騒の中に聞き覚えのある声があることに気づいた。そちらの方に顔を向ける。
「まったく呆れました。最高学府において、そのような屁理屈を弄する方がいらっしゃるとは」
そこにはやはり顔見知りの人物の姿があった。自身の倍ほど背丈のある男性複数人に囲まれながらも、怯まず喰ってかかっている。
「この字を使った言葉の一例を恣意的にピックアップして貶めるというのはいかがなものでしょうか。それなら平成という元号は『平民と成金』つまり貧富の差が拡大する時代になるという解釈ができるのですか? それとも『
先日発表された新元号について批判したビラを配っていた人たちは、突如現れた少女に舌鋒鋭く言い募られ、気まずそうな表情を浮かべるばかり。徐々に周囲の注目も集まってきている。
僕は見なかったフリをして立ち去りたい気持ちを何とか抑え、護志田さんの回収に動いた。
× × ×
図書館付近の芝生エリアは人もまばらで、静かな空気が流れていた。
「どうして邪魔をしたのですか。あの方々の主張するところをとことん伺い、熱い議論を交わすつもりだったのに」
「そういう行動が間違ってると断定はしないけど、好きこのんで無用のトラブルに巻き込まれに行くこともないから」
納得できかねるといった様子で頬を膨らます護志田さんを宥めながらベンチに座らせる。
「そもそもあの人たちは本当にここの学生さんですか? どう見てもおじさんじゃないですか。あのような活動をしていると他の人より早く老けてしまうんですか?」
「あの人らは僕が入学したとき既におじさんだったけど、まあその話はこのへんにしとこうか」
あまり突き詰めて話すべき内容でもない。どうにかして話頭を転じさせる。
「ところで、護志田さんはどうしてこんなところに?」
彼女は真新しいブレザーに身を包み、チェックのスカートをはためかせている。今朝、我が妹が着ていたのと同じ学校制服だった。
中高生が学内にいるのはさほど珍しいことではないが、これだけの美少女となると話は変わってくる。先ほどの広場ほどではないが、いくつかの視線が断続的に向けられてきている。
「今日は中学校の入学式だったのですが、ああここで三年間を過ごすんだなあと思ってたら妙にハイな心持ちになってしまいまして、この際、将来通学するかもしれない高校や大学も見に行ってみようと思い立ちまして」
随分と変わった子である。そのために、わざわざ地元から電車を乗り継いで一時間ほどかかるこの大学まで来たらしい。
「まあ、あーちゃんのお兄さんと同じ大学に通うほど落ちぶれるつもりもありませんが、大学受験の時期に何かしら重篤な疾患にかかり、すべり倒した後の更にすべり止めぐらいにしか進学できないケースもあるかと思い、訪れてみたわけです」
「僕だけじゃなくて、見渡す限りの人たちみんなここの学生だから言葉には気をつけようね」
「大丈夫です。あーちゃんのお兄さん以外には聞こえない程度の声量で話していますから」
大人として注意してみるも、何ら悪びれる様子のない護志田さん。
愛くるしい見た目と慇懃な言葉遣いとは裏腹に、なかなか性根は捻じ曲がっていることが、ここのところの付き合いで段々わかってきた。
「ところで、大学生といえば学業以上に、恋人や友だちとキャッキャワイワイとキャンパスライフを送るのが本分だと聞き及びますが、あーちゃんのお兄さんはおひとりなのですか?」
護志田さんの表情に同情の色が浮かび上がってくる。
「もしやあーちゃんのお兄さんは、大学生にもなって、ぼっちの身の上に陥っているのですか……?」
「あっ、えーっと……」
年下の女の子にコレを言われるのはかなりキツいものがある。僕は何とかしてまた話題を逸らすことにした。
「そ、そういえば前から気になってたんだけど、その『あーちゃんのお兄さん』って呼び方ってどうなのかな。何だかまどろっこしくないかな?」
「そうですか。ではどう呼べば良いでしょうか? 苗字だとあーちゃんと同じなので何か変な感じがしますし」
「別に名前で呼んでくれて構わないけど」
無事話題が変わったことにホッとしつつ答えると、護志田さんは首を横に振った。
「いえ。たとえ敬称や氏を付けるとしても、赤の他人の男性を下の名前で呼ぶことには抵抗があります。私が下の名前で呼ぶ男性は、私のおムコさんになる人と、ペットのネコちゃんだけと決めているのです。ちなみに、以前パパにドラゴンボールという漫画を読ませてもらったことがありますが、主人公のことは『孫くん』と呼んでます」
「君はブルマか」
おかしなこだわりを見せる護志田さん。やはり変わった子である。
「でもちょうど良かったです。実はこないだあーちゃん家へ遊びに行ったとき、みんなであーちゃんのお兄さんのあだ名をつけようということになったのです」
「あだ名? 僕の?」
「ハイ、大盛り上がりの6時間半でした」
「長っ!」
あまり良い予感はしないが、聞いてみる。
「それで、何てつけてくれたの?」
「エロ兄ィ」
「…………」
「あれ、お気に召しませんでしたか? では他のあだ名にしましょうか?」
「…………一応聞いとこうかな」
「ロリ兄ィ」
「失敬だろ!!」
思わず大きな声を張り上げてしまう。
「だ、第一、エロとかロリとか、そんな不名誉なあだ名を付けられる謂れはまったく無いし! 皆無だし!」
少しばかり必死になってしまう。
「そうですかねえ」
護志田さんは腕を組み、ジトッと細めた目をこちらの顔に向けてきた。
「神経衰弱に夢中になってるナナちゃんのスカートの中をチラチラ見ていたことから命名されたあだ名なので、決して無根拠というわけでもないのですが」
「んなっ……!」
僕はしどろもどろになりつつ、そういうのは人間の神経系のつくりとして、疚しい気持ちは微塵もなくとも反射的に目がいってしまうようになっていて、決してローティーンの女の子に対して劣情を抱いたことなど一切ない、天地神明に誓って有り得ない、そんな年下の子はそういう対象になるはずがないと必死に説明をした。
「ふーん、そうなんですね……」
護志田さんは何故か不服そうに口を尖らせ、ブレザーの襟を摘んだりしている。
何とかまた話題を変えないといけない。
「そういえば日曜日は桜花賞だね。何が来るかなぁ? 僕はクロノジェネシスが強いんじゃないかと思ってるんだけど、先行できそうなグランアレグリアの方が有利かなあ?」
「3歳牝馬……」
護志田さんの呟きを聞き、額を一滴の汗が流れるのを感じる。
「やっぱり小さな女の子が好きなんじゃないんですか!」
ビシッと指を差され、僕はまたしても泡食ってしまう。
「いやいやいや! 馬の3歳って人間にして17歳ぐらいだから! だから全然セーフ! ……あれ? セーフじゃないのか……?」
「まったくロリ兄ィには呆れ果てますね」
「そのあだ名を定着させないで!」
「もしかして、私の制服姿を見てコーフンしてしまってるのではないですか?」
なぜか嬉しそうに言う護志田さん。
遠巻きにこちらを眺める男女の数が心なしか増えてきた気がする。
これ以上この場所でこの子と喧喧諤諤して注目を集めてしまうのもまずいだろうか。
何より、学内で中学校の制服を着た美少女と一緒にいたなどと、もしあの人の耳に入ったりしたら、どのようなむごい仕打ちを受けることになるか想像もつかない。
もう帰ることにしようと切り出したところ口を尖らせたが、乗換駅近くのパーラーでパフェをおごってあげると持ちかけたところ、護志田さんはパッと顔を輝かせた。ああくそ可愛いなあ。
そんな彼女は、最近岩田のイン付きという事項を覚えたそうで、今の内側優勢の阪神ならそれが炸裂するはずだと力強く主張するのだった。
(つづく)
◆桜花賞
護志田さんの本命 ノーブルスコア
僕の本命 クロノジェネシス
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