第2話 高松宮記念
春風があたたかさを運んできて、東京で桜の開花宣言も出て、心も足どりも思わず弾むはずの豊潤な季節が到来した。
にも関わらず、首の骨が外れたかと思われるほどにだらんと項垂れて往来を行く男がひとり------僕だった。
視界にはアスファルトに引きずるように交互に動く薄汚れた革靴が映るばかり。
きちんと前方に顔と目を向けて歩行しなければ自他ともに危険、それぐらいの一般常識は備えているつもりなのだが、どうにも顔を上げることができない。頭が重い、気も重い。
この四月から大学最終学年に進級する僕は、大多数の同級生同様、就職活動に忙殺される春を過ごしている。
企業について研究して、説明会に行き、履歴書やエントリーシートを書き、筆記試験を受け、面接に臨む、そんな日々を当たり前にこなし、売り手市場といわれる状況下で既にいくつもの内定を得ている人もいるという。
一方僕はといえば、大苦戦に疲弊しきっており、投了一歩手前といった状態だった。
もうやだ。就活やだ。やめたい。会社になんて入りたくない。面接受けたくない。もうやだ。何で面接なんてあるんだ。あんなの平気な顔で嘘つく能力だけが問われるものじゃないか。
……まあ、それこそが社会人に求められる資質なのだと言われたらそれまでなのだが。
前方からの通行者が、僕のことを素早く避けてすれ違っていく気配を感じる。
ああ前を向かなきゃ、でも歩きスマホは危険だって啓蒙をあちこちで見かけるけど、いっそここまで露骨に前方を見ず真下に顔を向けて歩いていれば、人って避けてくれるんだなぁ。
などという所感は、社会を生きる者として抱くべきでないのかもしれないが、顔を上げる気になれないどころか、目を開けていることすらたまらなく辛いような気がして、僕はグッと目を閉じた。深いため息が出る。
いやいや、何をやられてしまってるんだ僕は。ちょっと今日の面接官が、こちらを見下してるような感じ悪く見える大人だったってだけの話じゃないか。そんなのごくありふれた話であって、取り立ててメンタルに打撃を受けるようなことでもない。切り替えて次に行けばいいんだ、何の問題もない。誰だってそうしてる、僕だってそうできる。そうできるんだ。
脳内で呪文のように唱えることで無理やり自分に言い聞かせ、グッと力を込めて目を開く。
眼前、10センチと離れていないであろう距離に、人の顔があった。
「…………」
「…………」
「……ぬわぁぁぁぁ!」
吃驚して思わず飛びのく。
「もも、護志田さんっ!?」
いつの間にかこちらの目の前に潜り込み、僕の顔を見上げていたその少女は、見知った人物だった。
「天下の往来を『とぼとぼ歩く』という演技のお手本を見せているかのように、むしろ演出家にやりすぎと言われるぐらいオーバー気味にとぼとぼ歩いているダウナーな人物がいるのでもしやと思いましたが、やはりあーちゃんのお兄さんでしたか」
我が妹のクラスメイトであり親友だというその女子小学生は、まるで台本に書かれた長台詞を読み上げるように言葉を浴びせてくる。
「あまり感心できませんね。それはまあ、あーちゃんのお兄さんぐらいのスペックの人間であれば、日々生きているのが嫌になるようなことばかり起きるのは想像がつきますが、それでも公道を下を向いて歩くのはきわめて危険な行為です。電柱なりなんなりにぶつかって自身が怪我をする分には勝手ですが、他者に迷惑をかける恐れもあります。感心しないどころか、非難に値しますね」
口をつく辛辣な言葉とは相反し、その女の子はとても愛くるしいルックスを備えており、ふわっとした薄茶色の髪とワンピースの裾を風に揺らし、くりっとした大きな目でこちらの顔を見つめてくる。
もし僕が大幅に年下の女の子を愛好するような趣味の持ち主であれば、こんな美少女にお説教されるなどご褒美以外の何物でもなかっただろうが、幸か不幸かそういう嗜好は持ち合わせていない。はずだ。きっと。
小学生の女の子、しかも妹の友達に完全なる正論で注意されたことにいささかの気恥ずかしさを感じ、僕は消え入るような声で言葉を返した。
「あ、うん……気をつけるよ」
「わかれば良いのです。過ちを犯した誰しもが素直に非を認め、悔い改めるようになれば、世の中はもっと清浄になって、支配層にとって管理・統括しやすくなることでしょう」
何やら穏やかではない発言をしたかと思えば、軽く首を傾げ、またこちらを下から覗き込んでくるというキュートな仕草を見せてきて、
「ところであーちゃんのお兄さんは、その服装から察するに、これから就職面接に行くのではないですか? もしそうでしたら私が必勝法を教えてあげますよ」
「必勝法?」
面接は終えてきたところなのだが、必勝法という言葉には興味を惹かれてしまう。
「ええ。聞くところによると面接のとき、ミニスカートを履いて、着席時にわざと下着を見えるようにすると、合格率がグンと上がるそうです」
「それは眉唾な都市伝説だから! それに男の僕には使えない技だし」
「ふー、わかっていませんね」
立てた人差し指を横に振り、呆れ顔を見せてくる護志田さん。
「何事も応用ですよ。女性が下着をチラ見せすることで内定をとれるのであれば、男性は股間の部分をはち切れんばかりにビンビンの状態にして面接に臨めば、一目置かれること間違いなしです」
「すぐさま退室させられるわ!」
と、周辺からいくつかの視線が向けられていることに気づく。
ここは往来の真ん中である。リクルートの学生と女子小学生が何やら激しく言い合っている光景は、問題なく素通りできるものではないだろう。
「えっと……護志田さんはどうしてこんなところに?」
声を潜めて尋ねる。
「卒業式に付ける髪飾りを買おうかと思いまして。この辺りは良い雑貨屋やアクセサリー店が多いので」
「ああ、卒業式、今度の月曜日だっけ」
そういえば我が家でも小学校の卒業を控えた妹本人はもちろん、両親もあれやこれやと準備に忙しそうにしていた。
「そう、それじゃあ……」
あまり道の真ん中で立ち話をするのもどうかと思うし、ヘタをしたら通報されかねないので、話を切り上げようと試みたが。
「立ち話もなんですし、そこのベンチに、黄色い服を着た赤髪パーマのピエロと一緒に座りましょうか」
「えっと、これはこの店でハンバーガーとか買った人が座って食べるためのベンチなんじゃないかな」
「そうですか。では私はシェイクがいいです。ストロベリーとバニラのハーフアンドハーフでお願いします」
「そんな裏メニューあるかなあ……」
かくして。
春の陽気に恵まれた午後、中身はともかく外見はものすごく可愛らしい美少女とベンチに座りシェイクをすするという、その嗜好によってはたまらなく幸せであろうひとときを過ごすことになったのだった。
「ところで、卒業式イブの日にはドクター高松記念という大きなレースがあると聞き及びましたが」
ストローから口を離し、護志田さんが問いかけてくる。
「あ、うん、よく知ってるね。高松宮記念だけどね。世が世ならとんでもなく不敬な発言になってたところだから気をつけた方がいいよ」
「あーちゃんのお兄さんは、どの馬が勝つと見てるんですか? やはりダノンスマッシュですか? それともモズスーパーフレアの逃げきりですか?」
「……本当によく知ってるね」
「こないだのフェブラリーステークスは苦いレースでした……ていうかあの内田とかいう騎手なんなんですか? あの日初めて馬に乗った素人さんですか?」
あの時ノンコノユメを指名していた護志田さんは、GⅠ12勝の大ベテランにひどく失礼なことを言うと、闘志に燃えた目をこちらに向けてきた。
「なによりも、私の選んだ馬がビリから2番目で、あーちゃんのお兄さんが選んだ馬が前から2番目というのは、私にとって耐えがたい屈辱です、恥辱です、凌辱された気分さえします」
随分と過激なことを口走る。
「その後私は研究に研究を重ねました。あーちゃんのお兄さんごとき霊長類最低男子に負けたままでは、私はおヨメに行くこともできません。リベンジしなければならないのです……」
ひどく失礼な言葉を呟くと、スッと立ち上がり、こちらへとビシッと指を向け、大きな声でこう言った。
「倍返しだあっ!!」
春の風が吹き抜ける。
「えーっと……今どきそれを全力でやる人がいるんだ、しかも女子小学生がって、ささやかな感動すら覚えてるんだけど、とりあえず落ち着こうか」
「はい」
ちょこんとベンチに座る、案外素直な護志田さん。
「でも競馬ファンとしては、動機はどうあれ興味を持ってくれたことは嬉しい気がするかな」
「なっ……べっ、別にあーちゃんのお兄さんのためじゃないんだからねっ! かか勘違いしないでよねっ!」
「? 別にそんな風には思ってないけど」
またよくわからないノリを始める。本当におかしな子だ。
「そ、それより最前の質問にまだ答えてもらっていませんよ。本命はどの馬なんですか?」
「ああ、そうだね……僕はレッツゴードンキにしようかと思ってるんだけど」
「レッツゴードンキ?」
護志田さんは眉を顰め、呆れたような口調に変わる。
「見損ないましたよ。そんなくだらない馬券を買うなんて」
「下らない?」
「ええ、大方昨日引退したイチロー選手と岩田騎手が同い年で、同時期に兵庫県を拠点に活動してたからとかそんな理由で選んだのでしょう? くだらない。そんなこじつけは思考の放棄に他なりません」
「いやいやいや! 僕もどちらかといえばサイン馬券は否定派だから! 2年連続2着で舞台適正は間違いないし、前走見てこれはまだまだやれるかなって思って」
「そうですか。まあ、それならそういうことで構いませんが、わざわざ外れる馬券を買うなんて酔狂なお方ですね」
なんだろう。僕の本命馬や買い目は常に馬鹿にされる運命なのだろうか。
「それじゃ護志田さんは、研究に研究を重ねた結果、どの馬が来ると思うの?」
少しばかり大人気ない聞き方になってしまったかもしれないが、僕とてここまでコケにされて黙ってはいられない。
「それはもちろんナックビーナスですね」
自信満々に言う。確かに強豪の一角ではあるが、前走前々走とモズスーパーフレアに負けており、格付けが済んでしまった感もある馬だった。
「ナックビーナスかあ、厳しいような気がするけど、どうしてこの馬にしたの?」
「気がつきませんか? ナックビーナスのお父さんはダイワメジャーという馬なんですよ」
ん? ……まさか。
「それに、ナックビーナスという名前の中には『クビ』という言葉が隠されています。『メジャー』を『クビ』……これは偶然にしては出来すぎだと思いませんか!?」
「そっちこそサイン馬券かい! あと、レジェンドに敬意を欠きすぎだから!」
「大野の野は野球の野です」
「くだらない!」
思わずまた大きな声が出てしまい、辺りの視線に首をすくめる。
ファーストフードの店頭にあるベンチでリクルートスーツの大学生と、小学生女児がシェイクを飲みながら口論のように激しく言葉を応酬する。これはこれで奇異な光景であろうし、通報されないとも限らない。ここはさっさとお開きにした方が良いだろう。
「ま、まあ、お互いの本命馬も出揃ったところで、そろそろ……」
「もう少しで飲み終えますので待っててください。まずは雑貨屋さんに行きましょう」
「えっ?」
「私はあーちゃんのお兄さんの競馬予想に付き合ってあげたんですから。今度はそちらが私の買い物に付き合う番です」
ごく当然であるかのように言うと、ストローに口をつける。
「いや、付き合ってもらった覚えはないんだけど……参ったな」
もう結構溶けているであろうシェイクを喉に流し込み、護志田さんはストローから口を離した。
「おいし♪」
天使の微笑み。
もし、ものすごく年下の女の子を愛でる人であれば、こんな子には買い物に付き合うどころか何でも買ってあげてしまうことだろう。
でも僕は。
(つづく)
◆高松宮記念
護志田さんの本命 ナックビーナス
僕の本命 レッツゴードンキ
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