傷口に雨を

森音藍斗

傷口に雨を

 雨の濡降る帰り道、街灯だけを頼りに僕は歩いた。彼女が本当に後ろについてきているかなんて、信じることができないまま。

 ぱしゃりと雫が跳ね、水溜まりを踏んでしまったことを悟る。僕は後ろを振り返る。彼女はそこに居て、そして泣きながら微笑む。

「私たち、もう終わりね」

 あのとき僕が振り返らなければ、何か違っていただろうか。深夜二時、僕の家まであと三メートルのところで、彼女は去っていったのだ。

 ただ言えることがあるならば、僕らは最後の一瞬まで、確かに愛し合っていた。

 一冊の楽譜を鞄の中から発見したのは明朝五時半、それは彼女からの借りもので、返す機会はもう来ない。雨露に歪んだ紙が痛々しくて、僕は彼女が好きだった曲の、終わりのページを一枚破って灰皿の上で火を点けた。

 だからこれは終わらない歌。彼女が居た筈の過ぎた日を、僕は今も見つめている。


 **


11:28PM

 彼のギターが好きだった。練習中に手を止めて聴き入ってしまうことも多々あった。そんなときはこの小さな部室が世界の全てで、彼がその支配者だった。私はその時間が何より好きだった。小さな音楽サークルで、こんな夜中にやって来る人なんていなくて、だから全体練習が終わったあとみんなが帰って彼とふたりきりになった日は、延々と彼の音を聴いていられた。

 彼の細い指は仕留めるように弦を抑え、撫でるように弦をはじく。力強く、それでいてどこまでも優しく空間に音を刻む。

 彼の口に咥えられたウィンストン・キャスターの紫煙が漂う。灰が落ちる直前に、彼はそれを口から外す。私は安堵の息をつく。

 もう十年目になるという彼のギターを、大学に入ってから始めた私のウッドベースで汚すことなどしたくない。自主練習と称しながらも自分の楽器を床に横たえ、音を鳴らす気など更々ない私の視線の先で、彼は倍音の響きからようやく意識を外して、雨は嫌いだ、と言った。気付けば雨粒が窓をぱたぱたと打っていた。

「楽譜が、濡れますからね」

 私がそう言ったのは、軽口のつもりだった。

 電子書籍が席捲するこの時代、印刷物なんて、幼児向けの絵本よりほかに見ることはなくなった。ノート、参考書、手帳に書籍に楽譜だって、今ではみんなタブレット端末だ。汚れない、嵩張らない、満員電車でだって復習ができる、書き込みが消せる、印刷代が掛からない、必要とあれば画面を共有して、指揮台から各演奏者の楽譜を指差すこともできるし、演奏中には指一本でページをめくることができる。オプションで自動スクロール機能をつければ、最早めくることすら必要ない。

 今や探すだけでも大変だろうに、彼はいつまでも時代遅れな紙の楽譜を使っていた。角が丸く擦れた、めくりすぎてページの継ぎ目が裂けた、書き込みすぎて音符が読めないほど真っ黒になった、雨に濡れて上部が波打った、紙の楽譜。それはサークル内でもたまに揶揄いのネタにされる。

「先輩の楽譜、雨で傷んでるものも多いですから」

「楽譜が濡れるのは別にいいんだ」

 彼の答えは、予想外のものだった。

「濡れるかもしれないことは分かっていて、紙を使ってるんだから」

「どうして紙を使ってるんですか」

 これは度々投げかけられる質問だった。私だけじゃなく、いろいろな人から。

「雨で濡れると歪むから、かな」

 彼から同じ答えを二度聞いたことがない。

 滅多に笑わない彼は、この質問をされたときだけ、こうやって楽しそうに声色を一段階上げるのだ。

 もう真面目に答えてもらうことは諦めていた。

「じゃ、どうして雨が嫌いなんですか」

 質問を変えた直後に、聞かなければよかったと思った。

 弦が切れそうな不協和音が彼のギターから悲鳴を上げ、次の瞬間にはそれは彼に力尽くで抑えられたのだけれど、表情を消した彼はちょっと首を傾げて、言った。

「振り返ってしまったから」

 その意味を問うこともできないうちに、彼はまたギターを弾き始めた。

 それはいつもの曲だった。サークルで練習しているという意味ではなくて、こうやって深夜に部室で楽器を鳴らすとき、彼は決まってこの曲を弾いた。短調のもの悲しい旋律と和音。もう完璧に記憶しているだろうに、彼はこの曲のぼろぼろの楽譜をいつも持ち歩いていて、いつも丁寧に譜面台に置いた。

 私が彼に惚れたいつかの夜から、それは変わらない。

 もう半年以上前、独りが怖くて深夜逃げてきたこの部屋で、彼は独りでこの曲を弾いていた。

 彼が、半端なドミナントでギターを弾く手をとめる。彼は一度も、この歌を、終止線まで奏でない。それもあの夜からずっと変わらない。

 曲名も、終わり方も知らないこの曲を、好きと言うのはおかしいでしょうか。

 ああ、あの夜も雨だった。


00:12AM

 見てはいけないものを見てしまった気がした。

 見てはいけないなんて言われたことはなかったけれど、それで私は悪くないなんて言うのは屁理屈だ。今まで、覗き込んだことすらなかったのだ。彼はいつも私に見えない角度に譜面台を調整していた。

 恐らく彼のその楽譜に、触れたことすらある人はいないと思う。そもそもサークル内での彼は、全体練習と発表用の曲だけひたすらに練習する優等生だ。こうやって深夜に部室を拝借して好き勝手に遊んでいることを知ってる人間を、私は私以外に知らない。

 いつも彼が弾いている曲の題を、はじめて知った。四ページに渡るその曲を弾く間、彼が譜めくりをしているのを見たことがなかった。本当ははじめの見開き二ページだって読んでなんかいないのだろう、すっかり暗譜してしまっているはずだ、こんなに何度も弾いているのだから。私が楽譜を見ただけで、彼の旋律が頭の中に流れ出すぐらいには。

 ページをめくる。

 私の中に流れていた六弦琴が、そのとき、はたりと途絶えた。ページが無惨に破られていた。

 これでは曲が終わらない。

 ぽっかりと虚ろな空白に、一枚の原稿用紙が挟み込まれていた。私は震える手でそれを取り出した。ぺりりと不安な音がした。随分長い間そこを離れたことがないことを示す音だった。二つ折りにされていたそれを開くと、まるで殴り書きのような字で文章が書かれていた。

『雨の濡降る帰り道、街灯だけを頼りに僕は歩いた。』

『「私たち、もう終わりね」』

『彼女が居た筈の過ぎた日を、僕は今も見つめている。』

 私は慌ててそれを閉じた。

 見てはいけないなんて言われたことはなかったけれど。

 私は後ろを振り返った。大丈夫、まだ部屋のドアが開く気配はない。この部屋から玄関ホールの自販機に行って帰ってくるのに五分は掛かる。私は罪悪感と焦燥にもたつく手で、楽譜をもとの譜面台に戻す。さっきまで居た椅子に座り直し、外の雨音に集中する。

 がちゃりとドアが開く音がしたとき、彼の楽譜を閉じてしまったことを思い出した。彼は楽譜を開いたまま出掛けていた。

 背を強張らせる私に、

「雨が弱まったら帰ろうか」

 彼はそれだけ言って、灰皿の隣に湯気の立つ珈琲を置き、再びギターを弾き始めた。


01:46AM

 彼からの提案は突然で、私は反射的に断ってしまった。

「無理です、そんな」

「大丈夫、簡単だから」

 そう言って彼は本日二本目の煙草を灰皿に押し付け、例の楽譜を、いとも容易く私の譜面台に置いた。今それは私の手の届くところにあった。

『あのとき僕が振り返らなければ、何か違っていただろうか』

 彼の字で書かれたその言葉が、私の脳裏で反芻される。

「基音だけでいいから」

 どうやら私にベースラインを弾かせようという彼の提案は本気なようで、私はウッドベースを床から立ち上げスコアの出だし数行に目を走らせる。

「私、弾きながらページめくれませんよ」

「俺がめくるから大丈夫」

「先輩」

 チューニングを直していた彼が顔を上げる。

「どうして、紙の楽譜を使うんですか」

 ページをめくらなければいけないのに。

 彼は笑みを含んだ声で答える。

「触れることができるから、かな」

 はじめはゆっくり、と彼が踵でカウントを取って、イントロからギターを弾く。私は急いでそれを追う。必死でしがみついているうちに、何とかテンポを掴み取る。

 曲が繰り返しに入って、余裕のできた私は彼を上目で見る。彼と目が合う。慌てて楽譜に視線を戻す。彼がちょっとだけテンポを上げる。意地悪、と心の中で思いながらも、口に出すような余裕はない。彼が旋律に聴いたことのないアレンジを加える。予想していなかった私は狂いそうになる指を懸命に動かす。彼が楽しそうに笑う。

 彼がギターの音符をひとつだけ抜いて、流れるようにページを繰った。

 原稿用紙が床に落ちた。

 それでもギターは止まってくれない。引き裂かれたページの、痛々しい傷口が目前に迫る。その先を私は知らない。どうすればいい。目線だけで助けを乞うと、彼は小さく肩をすくめた。肩をすくめられたって困るんだ。曲は失われたページに差し掛かる。

 ベースの消えた世界で、音楽は止むことを知らず、それはつまりいつもの彼と同じであるはずなのに、なぜかいつもより寂しそうに聴こえた。

 コードを追う必要のなくなった私は、彼を見つめる権利を手に入れた。

「あのとき僕が振り返らなければ」

 フレーズとフレーズの間から覗くように聞こえた声に、彼の右手を眺めていた私ははっと顔を上げた。

 彼の口元は何事もなかったかのように閉ざされていて、けれど、今の囁きは紛れもなく彼の声。

 ギターの余韻が長く残り、曲が終焉を迎えたことを知った。

 終わらない歌が今、終わった。

 彼が無造作に原稿用紙を拾い上げ、それを楽譜の傷口に丁寧にあてがって、閉じた。

「どうして、紙を使い続けるんですか」

 私は同じ問いを繰り返す。

「破ることができるから、かな」

 彼はもう冗談めかして笑うことはなかった。

「帰ろうか」

 私たちは楽器を片付け始めた。雨はまだ降っているようだった。


02:10AM

 ふたりとも大学の近くに独り暮らしをしているので、街が寝静まった時間に帰途に着くのも珍しいことではなかった。彼は私の夜道を心配しなかったし、私はそれで構わなかった。昨日までは。

「気を付けて」

 例になくそんな言葉を掛ける彼に、私は首を横に振った。

 雨の濡降る帰り道、彼の背中を頼りに私は歩いた。傘の半径が恨めしい。彼に手が届かない。一ブロックがやけに冗長に感じた。

 彼が不意に立ち止まった。それで私は、三メートル先のアパートが彼の家であることを知った。

「俺が雨嫌いな理由、分かった?」

 私に背を向けたまま、彼が言う。

「紙を使い続ける理由も」

 雨音に掻き消されそうな声だった。

「先輩」

 彼はきっと、私があの原稿用紙を見たことを知っていた。

「私、どこにも行きませんよ」

 彼がまた歩き出す。ひとつのドアの前に止まり、ポケットから出した鍵でそれを開ける。

 彼は振り返らないまま、後ろ手で扉を抑えて私に入ることを促した。

 濡れたまま玄関に畳まれた安物の傘、シンクに投げ出された汚れた食器、洗濯機に引っ掛けられた服、本棚を埋め尽くす文庫本と楽譜、数本のギター、それから、床を埋め尽くす原稿用紙、それらで彼は構成されていた。

「どうして紙を使うんですか」

 こんなに生活を圧するまで。

「埋もれることができるから、かな」

 この期に及んで、彼は徒に笑う。


05:34AM

 死んだように眠った彼と私は、空が白む頃に目を覚ました。

「おはよう」

 寝起きの掠れ声は、泣いた後のように聞こえた。

「おはようございます」

 彼はテーブルの上のものを乱雑に押し退け、ベッド脇の灰皿をそこに置いた。

 彼の鞄から出てきたやつれた楽譜は、この空間によく溶け込んでいた。

 彼が原稿用紙を取り出した。もはや楽譜の一部と化した、それを私が引き剥がした、二つ折りの原稿用紙。

 彼が次に何をするかは手に取るように分かった。

 彼が灰皿の上でそれに火を点ける。言葉が消える。過去も消える。黒くくしゃくしゃになって消える。デジタルデータと違って、どこにも残らない。もう、あの文章は二度とは読めない。この世界から抹消された。

「どうして私を連れてきてくれたんですか」

 静かに炎を見つめる彼に、私は聞いた。

「俺の我儘に付き合ってくれたからね」

「我儘って」

「ベース、弾いてくれたでしょ」

 あんなの我儘に含まれない。弾かせてもらった私こそ、お礼を言いたいくらいなのに。

「先輩」

 ん、と何の気なしに反応する彼は、顔を上げない。

「どうして紙を使ってるんですか」

「灰になるから、かな」

 少しの沈黙があった。

「先輩、私、ベース上手くなるので」

 静寂を崩さないように喋るのは難しい。彼の横顔が笑うのを無視して続ける。

「また弾かせてください」

「いいよ」

 彼が肯ったことに安堵して、彼に今すぐ死ぬ気がないことに安堵して、私はようやく姿勢を楽にした。

 原稿用紙が燃え尽きる間際の微かな火をいっぱいに吸い込んで、彼は紙巻煙草を灯した。

 漂う紫煙は彼の呼吸を可視化していた。

 紙は、灰になるように出来ていた。彼もそうやって生きていた。そして、私もそうでありたいと、今、そう思った。

 白濁した空気の向こうの彼の目は澄んでいた。

「私にも一本頂けませんか」

 人生ではじめての煙草を吸った。

 煙がつんと目に沁みて痛かった。


 雨が止んだ。

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傷口に雨を 森音藍斗 @shiori2B

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