第3話 一滴の雨が、空へと消える

 廃屋に駆けてきた少女。右手には包丁を握っている。透明な水滴と共に赤い水滴が、そして心なしか、そう、それは明確に見えるわけではないが赤い水滴があるからこそ目が見せるもの、脂肪の様なものがべっとりと包丁に着いているように見える。

「私は……」


 少女の顔には殴られた跡が見える。

 少女の服は少しではあるが乱れが見える。

 少女の片足は靴を履いていない。

 少女の片足はひどく汚れ、いや、片足以外にもそこかしこに汚れが見える。


「殺してなんか……、」

言葉に迷いが生じ、次の言葉に詰まる。少女には確信が持てないゆえに断言はできない。しかし否定しなければ自由を求めた少女であっても、きっと内にある倫理が自由への渇望を蝕むだろう。だから、言葉に詰まる。男はその葛藤を静かにまなざしながら待つ。静かな時間だけが過ぎていく。

 雨足が弱まり、少女が重くなっていた口を開く。

「私は、殺してなんかいない。脂肪を、切っただけだ」

内面で苦しい言い方だと自覚している。それと共にこの言葉には自分を踏みとどまらせるための希望を持たせている。自分の目、自分の手、自分の腕、最早自己と一体化したような刃物、それらから得た感覚から、そこまではやっていないはずだ、と。そこにすがる。

 男が机から立ち上がる。そして一歩。脆い床から昇る雨を挟み、男と少女が相対する。

 少女に緊張が走る。感覚を探り呼び起こさせた今、目の前に立った「男」とその大きさは感覚と感情を逆流させるには造作ない要素だ。思考と身体が止まる。いや、思考はにブロックノイズが出現し動きが止まっていくのに、身体は勝手に動く。守るために。刃の切っ先が震えながら男をとらえる。昇る雨の中に赤が混じった銀色が光る。

「さっきも言ったが、何もしはしないよ」

「じゃあ……、なんで、立ったんですか」

「ん、確かにそうだな」

強張り、自分自身に圧迫されている少女とは対照的に男は軽い。目線を右上に向け、考えたようなそぶり。明らかに熟考もなければ、刃を向けられた状況さえも認識していないかの様な軽さがそこにある。時間にして3秒ほど、しかし少女にとってはその何倍にも感じる沈黙後、男は目線を戻し深刻さを一切感じさせない言葉で少女に声を向ける。

「キミの言い方に合わせて言おうか」

男が昇る雨の中に右手を伸ばす。刃の切っ先に、指が触れる。

「キミはこちらの重力に引っ張られるのには相応しくない。引っ張られ過ぎて、最後は潰れるだけだ」

男の指からぷっくらとした赤い水滴がジワリと滲み出す。赤い水滴が、少女を見つめる。

「あっ…………、指を、はなして……」

「キミが離せばいい」

無理だ。包丁の柄が少女の手を強く握りしめ離さない。それどころか最早手だけではなく腕すらもがその重力にからめとられている。少女に可能なのは包丁を男から離すことではない。逆に。


 昇る雨の中、赤いしずくがポタポタと床に落ちる。

 男の指から手のひらにかけて赤い線が現れ、銀色の板を赤いしずくが滴り落ちている。武骨な手が血を流しながらも包丁の峰を強く包み込む。まるで自分の方が強いのだと言わんばかりに。そんな手とは真逆に力のこもっていない、どこか抜けた感じの声が少女の内面に響く。

「もう、いいだろう」

少女は、柄から右手を離す。直後、男が包丁を出口のない壁へと投げ捨て、色あせた壁へと突き刺さる。

「あ……、あの」

「終わりだ」

少女の言葉ができる前に男はその言葉を遮る。その言葉を発している最中にも当然ながら男の意志とは無関係に血が痛みを伴って滴り落ちている。しかし、男は一片の痛さもにじませない声でしゃべり続ける。

「もう何もしはしない。あとはどうとでもすればいい。ただしここやこっちにとどまるのは無しだ。雨が止んだ後、出ていってくれ」

そう言い捨て男は少女から背を向け、元いた机の上に戻り寝転がる。少女からはもう男の傷ついた右手は見えず、まるで何もなかったかのようにさえ見える。

 一方、少女はといえばその言葉を聞き終えるよりも前に右手の力が抜けるのにつられて全身の力も抜け、身体の中に空虚が巡る。緊張が切れた身体は自分の重さに耐えきれずに後ずさり背中が壁へとたどり着く。そして糸の切れた人形の様に少女は膝をつき、倒れる。少女の頬には涙が伝う。罪悪、恐怖、嫌悪といった自分を塗りつぶす感情と、安堵、嬉しさ、感謝といった自分を守る感情がないまぜになった涙を。涙が頬から顎へ、そして重力に囚われて床へと静かに、音なく落ちる。ジワリと床板が濡れる。

 二人の間には沈黙だけが残る。沈黙への波紋は昇り切れずに屋根にぶつかった雨が屋根から落ちてきた音だけだ。やがてその音すらも間隔があき、消えていく。雨が、あがる。

 静かに少女が立つ。涙はもう消えている。男は変わらずに寝転がっている。目も閉じており、右手からは変わらずに血が垂れている。少女は男に近づき、持っていたハンカチをそっと男の横に置き、男への感謝と謝罪の言葉、それをどう言おうとしようかを考える。だが男は変わらずに、少女からの声を拒否するかのように態度を変えずに目をつぶったままでいる。それを見て少女は黙ったまま軽く礼をし、男へと背を向け外へと歩を進める。脆い床を歩くギシギシという足音が消え、土と水が混ざった足音が聞こえる。その音さえも消えていく。男はその音が消えたのを見計らって目を開け、ハンカチを見つめてから静かに呟く。

「手、いってえな」

赤く染まるハンカチを見た後、男はふと入り口を見つめる。廃屋にあった重力を振り払い、走り去っていく少女の背中が見える。彼女は一切振り返らずただただ走る。どこかへ向かうために。その背はどんどんと小さくなり、やがて最初から少女がいなかったかのようにその存在は消える。そして。


 地面に残っていた一滴の雨が、空へと消えていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨が昇る @deko_boko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る