第2話 比喩としての重力についての会話
地面に降る雨よりも空へと昇る雨は遥かに静かだ。もしもこの世界の雨が降る雨ならば今頃この廃屋は地面と屋根が織りなす雨音に強く抱かれ、沈黙すらも激しい雨音で包んでくれただろう。しかし、昇る雨は少女と男の間に広がる沈黙を抱くほどにこの廃屋を包んでくれはしない。廃屋の空気を沈黙がじわじわと蝕んでいく。一人だけだったならば当然であった沈黙も、二人いるが故に重さを帯びてのしかかる。誰かがいるからこそ、沈黙は重力を帯びる。
床板が雨漏りによってじわじわと濡れるように沈黙が少女の意識を濡らし、ふと、ただ何となく少女は右手を伸ばす。一瞬の空白。右手の延長線上で雨粒が爆ぜ、水滴が床へと散らばっていく。それらの水滴がすべて床につくのを見て、少女の口から静かに、雨漏りの様な言葉が漏れでる。
「残念。空に、逃げられなかったね」
場に言葉の余韻が漂う。その余韻が消えようとした矢先に寝転がったままの男が口を開く。
「で、キミは逃げてきたのかい?」
「私は……」
答えに詰まる。詰まる自分に対して少女の頭の中でトゲが沸き立つ。「逃げてきた」、少女の中でそれは認められない。だから今から少女が放つ言葉は比喩だ、お為ごかしだ、虚飾だ。でもそれでも少女は自分の中にあった詩的な感性を引っ張り出し、こう答える。
「振り払っただけ。煩わしい重力を」
天井で重力につかまった雨粒が少女の首筋にポタリと落ちる。その水滴によって自分が口にした言葉に対して芽生えた一抹の恥ずかしさ、それが少女の内面を侵食しきる前に男が助け舟を出す。
「重力ときたか。それは中々面白い答えだな」
そういいながら男がのっそりと上半身を起こし、少女を軽くまなざす。その顔は別に笑ってなどはなく、馬鹿にしたような顔ではない。しかし、少女にとってそれは先ほどの言葉を嘲笑われたもの(ただし、少女は男の言葉がなければその気取った自分の言葉をひどく恥じていただろう。反発が恥を無視してくれる)と受け取り、少しだけ語気を強めて言い返す。
「何が面白いんですか」
「何がって、例えようがさ。キミにとって重力は煩わしいものなのかい」
「……煩わしいですよ。知らず知らずのうちに私たちは重力に囚われて支配されてるんですから。逃れもできない。こんなの、好きな人の方がどうかしてる」
「大抵の人には好きも嫌いもないだろ。自然に受け入れてるんじゃないか」
「そんなの、ただの考えなしだ」
言葉を投げると同時に棚を軽く叩く。
「『です』っていう私のしゃべり方だって、あなたのそのぶっきらぼうなしゃべり方だってそうだ。全部が全部、みんな無自覚に、でもその癖みんな意識して囚われてる」
少女の目が泳ぎ溺れだす、感情が不安定な形を成していく、心に汚泥が入りこんだような感覚に襲われ軽い吐き気を催しながら、歪んだ声で少女は嘆く。
「こんなの……。気持ち、悪い」
静かだった雨足が徐々に強まる。あばら家の穴の開いた床と天井、その狭い道を重力に囚われない雨がどんどんと駆け上がる。少女は自分で招いた不安定さを右手を握りしめることで強制的に整え、男へと話を向ける。
「大体。あなただって煩わしかったからそうやって流浪者なんじゃないんですか。そんなあなたが何で面白がるんですか」
「さっきも言っただろ。たとえようが面白いって。それに、その言葉で気づきを得たからだ」
少女に向ける様な、ひとりごとの様な、そんな中間の様なそっけなさで言葉を続ける。
「オレは、重力の底にへばりついたままではいられなかったんだな」
「……振り切れた?」
少女の言葉を聞き、男は自分の右手を上げ、少しの間その武骨な手を見つめる。決してきれいではない、ところどころ傷も見られ、皮膚には汚れの見える手を。そして、その手を見つめながら嘆く様に語る。
「無駄だよ。どこに行こうが、突き放そうが、結局は振り切れなんて出来はしない」
男は自分の手を下ろし、今度は少女の右手をまなざしながら続ける。どこか郷愁を帯びた眼でまなざしながら。
「そこまでやっても、無理だ。むしろ余計にとらわれるだけ。でも、もう今更か」
「……そう、今更だ」
そう言い、少女は棚から立ち、歩を進めて床の穴から昇る雨に近づく。重力に逆らう雨たちが少女の目の前を飛び去っていく。
「この昇っていく雨たちがうらやましい」
「人間は昇れない」
「そんなの、わかってる」
少女は左手を昇る雨たちの通りに道に伸ばす。重力に囚われた雨たちが左手を濡らし、水滴が重力を可視化する。落ちる水滴を見ながら少女は言う。
「私にまとわりついてくる重力なんて、嫌いだ。それに、この得体のしれないまとわりがたとえ振り切れなくたって私は……」
濡れた右手を見、濡れた左手を見、昇っていく雨を見、男の顔は一顧だにせず。声の震えを皮膜によって隠しながら静かに、心を吐く。
「昇っていく雨みたいに重力を無視して。一時の自由を得たい」
男がつぶやく。
「だから、殺したのかい」
少女の右手には赤く濡れた包丁が握られている。赤い水滴が一滴、床に落ちた。
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