第六話:疑惑

 力が満ちる。新たな生を得て果たしてどれだけの時が経ったのか。

 ロードがこちらに向ける視線には、日が経つにつれ、強い疑念を含むようになっていた。


「……まだ変化しない、か……ふむ……だいぶ使ったはずだが――」


 研究室。一日の日課である狩りを終え、ロードが低い唸り声を発し、人形の振りをする僕の顔を見る。


 物事には平均値というものが存在する。死霊魔術師は禁忌の魔法なのでそこまで研究は進んでいないようだが、僕の確認した書によると、死肉人は概ね、半年から一年で次の存在に変異するらしい。


 もちろん、これには個体差という物が存在する。

 死を集められない密室に閉じ込められればいくら経っても位階変異は発生しないし、逆に大規模な戦争中に発生したアンデッドは位階変異までの時間が極端に短いという例もある。

 だが、今回の場合、僕は毎日ロードの手厚い介護を受け、死を集め続けた。平均よりも時間がかかるなど、もともと考えにくい話なのだ。


 おそらく、発生から一年は経っていないだろう。僕が空腹を感じるようになってからもそこまで長い時間は経っていないはずだ。

 だが、それは違和感を感じるには十分な時間だったようだ。


 ロードが骨のような指先で僕の腕を触れる。瞳孔を覗き込み、何事か呪文を唱える。内容は分からないが、恐らく死霊魔術ネクロマンシーの一種なのだろう。

 身体に力が漲る。手足が熱くなりまるで膨張するかのような激しい感覚が奔る。が、僕は無言を貫いた。


「魔力の不足では……ない? 想念が足りていない、のか?」


 眉を顰め、忌々しそうな表情で僕を見上げる。

 ロードは優れた魔術師だった。凶暴な魔獣が跋扈する森の深奥に屋敷を建てている時点でそれは明らかだったし、蔵書量や無数の死体を集められる所からもそれは推測できる。


 だが、ロードはその死霊魔術師に対する深い造詣故に、常識に囚われすぎている。

 死肉人は低級なアンデッドだ。死体さえあれば簡単に作れる、簡単に使えるが非常に脆弱な、命令を遵守するだけの肉人形だ。そこに意志や意思は存在せず、故にロードの命令なくして指一本動かす事はできない。


 僕の前任者である存在もまた、そのロードが常識にとらわれる理由の一つだ。


 おそらく、僕の前任者は一般的な死肉人だったのだろう。死肉人の内はロードの命令を愚直に聞くことしかできず、位階変異による変化は明らかだったのだろう。

 いきなり知性を得るのだ。書によると、死肉人から屍鬼に変異したアンデッドは二通りに分かれるらしい。


 すなわち、状況を理解して服従するか、状況を理解して激しく抵抗するか。

 一方で僕の反応は無だ。ロードはアンデッドの位階変異について深い知識を持っているからこそ、僕の状況を理解できていない。生き残り続けた優秀な死肉人である僕が実際に変異したかどうか確かめる方法を知らない。

 負のエネルギーを集め、僕の力が高まっている事を知りつつも、疑念が疑念の域を出ていないのだ。


 もともと、死肉人は変異前も変異後も――見た目が変わらない。

 内側は確かに変わっているのだが、彼は最も区別に有効な方法を失念しているようだった。


 僕がもし彼ならばダメ元でこう命令しただろう。


『貴様は変異しているのか? 正直に答えろ』と。


 僕はロードの命令に絶対服従だ、そのような質問を投げかけられてしまえば観念するしかないのだが、ロードは本来の死肉人の性質――知性がない事をよく知っているが故に僕にそれを聞いてこない。

 彼にとって、僕は予想外の動きをするわけがない『物』なのだ。


 ロードはぺたぺたと身体中を確かめると、眉を顰め、一言不服そうな声で叫んだ。


「ルウ、ナイフを持ってこい」



§



 軽い足音が研究室の前で止まり、しばらく躊躇うように沈黙すると、ドアがきぃと音を立てて開く。


 この屋敷には、ロードを除いて、もう一人、生者が存在する。

 ロードより警戒度は遥かに落ちるが、僕はずっとその姿を観察していた。


 表情に怯えを浮かべながら入ってきたのは、薄汚い格好をした女だった。

 黒色の髪の若い女。年頃は二十代の半ばくらいか。身長は低く、体格も今にも倒れそうな程に細い。手足はやせ細り骨ばっている。

 そして何よりの特徴は、首に巻かれた細長い黒の帯――奴隷の証だ。


 その目はアンデッドに負けず劣らず淀んでおり、唇は乾きひび割れていて、下手をすれば死肉人にも見える。


 本名は知らない。だが、ロードが『ルウ』と呼ぶその女は、ロード・ホロスの保有する奴隷だった。


 死肉人は力はあっても、魔物は殺せても、繊細な作業には向かないので、研究の手伝いや身の回りの世話などはその女の仕事だった。

 屋敷を掃除し、食事を作り、本を片付ける。ロードと異なり暗闇を見通す目は持っていないらしく、廊下を歩いている時には明かりを持っているためとてもわかり易いが反面、ロードと違って廊下や部屋の中を無作為に歩き回っているので、探索中に何度かうっかり遭遇したことがあった。


 僕は平然とその姿を見返す。もしもルウが、仕事中に地下室にいるはずの僕と遭遇したことをロードに報告すれば面倒なことになるだろう。だが、同時に、報告するわけがない。

 死肉人には意思がないが、奴隷にだって意思はない。首に巻かれた帯は奴隷に主人の命令を徹底させるための魔法の道具である。思考をある程度制御し意思を捻じ曲げ命令に従わせる力がある。


 ルウはともすれば僕よりも余程強くロードを怖れていた。そして、僕を見る目にも恐怖が宿っている。

 彼女には意思はあるが、意志がない。彼女がやるのはロードに命令されたことだけだ。


「ナイフだ」


 ロードの言葉に、ルウが慌てたようにポケットからナイフを手に取り、ロードの側に寄る。差し出されたナイフを受け取り、ロードは何気ない動作でルウの頭を殴りつけた。


「遅い、このゴミが」


 吐き捨てるような口調とは裏腹に、ロードの眼には怒りはない。恐らくただの腹いせだろう。そうでなくてもロードは奴隷を奴隷以上にも以下にも扱っていない。


 ルウが崩れ落ちる。ロードは手の骨をこきこきと鳴らすと、そのナイフを僕の右腕に突き立てた。


 本来のそれを百倍に薄めたような、鈍い痛みが腕を奔る。それも、僕の位階変異が進んでいる証拠だ。

 アンデッドは呪いだ。完全に『ただの動く死体』だった僕は、負のエネルギーの蓄積により、よりおぞましき、呪われた存在に近づいている。そこで得られるのは単純なメリットだけではない。

 

 痛覚がなかった死肉人時代よりは酷いが、生前に感じていた痛みと比べたらなんという事もない。


 傷口からはほとんど血が出なかった。まだ血は循環していないのだろう、書によると、より『深まった』アンデッドは人と同じように血を流すという。

 まるで確かめるようにロードがぐりぐりと傷口をえぐる。


 続く痛みを顔色一つ変えずに乗り切る。痛い痛い痛い痛い――痛くない。痛く……ない。


 ロードはゆっくりとナイフを離した。僕に視線を向けたまま、床に伏すルウに吐き捨てるように命令する。


「……所詮死肉人か……おい、こいつの傷に何かあったら報告しろ」


「あ……ぅ――」


「返事をしろ」


「ぐッ……」


 暴力の音が周囲を支配する。魔術師はその肉体を魔力により強化するという。

 ロードの身体は骨と皮だけに見えて、しかしそれなりの力はあるようだった。鳩尾を蹴りつけられ、ルウがまるでボールのように飛ぶ。


 僕はただその様子を特に何の感慨もなく見ていた。


 じくじくとナイフで抉られた傷口が痛む。


 ロードは森で僕が怪我をするといつも魔術により治療した。死肉人は再生機能を持たないから、長く死肉人を使おうと思うのならば当然の処置だ。

 傷の経過。死肉人フレッシュ・マン屍鬼グールの大きな違いの一つは再生能力の有無である。傷に何かあったらという命令が指すのはそこだろう。

 どうやらロードは僕の変異を自意識の発生以外の要素で見極めようとしているらしい。


 いくらなんでもこれだけ殺して変異がこないというのはおかしいと思ったのだろう。いずれ来るとは思っていた。

 だが……甘い。どういう方法で見極めんとするのか、僕の前で言ってしまっては意味がない。


 いつも通り、死体安置室に戻された後、僕は行動を開始した。


 腕を捲り、自分の傷跡を確認する。屍鬼の再生能力は人よりも高く、傷口は既に再生を始めていた。治癒魔法のように瞬間的に再生するほどではないが、この程度の傷だと一日も経てば治るだろう。


 更に上のアンデッドに変化すると再生能力も強化されるらしい。まだ屍鬼グールの段階だったのが功を奏した。左手を上げ、ゆっくりと爪の先を刃のように変化させる。その爪の先はロードが僕の腕をえぐるのに使ったナイフに何ら劣っていない。


 自らの腕、そこに残る傷を強調するように、爪を差し込む。

 痛みが傷口を中心にゆっくりと広がり、僕の心臓を揺さぶった。

 決して先程のナイフと比べて痛みが強くなっているわけではない。

 だが、自傷行為は……初めてだった。物心ついた頃からまともに動く身体を持っていなかった僕が――自分を傷つけるなど、たとえ天地がひっくり返ってもありえないと思っていた。


 目は、身体は涙を流していないが、心が泣いている。頭の奥底に熱い痛みを感じ、しかしそれを噛み殺す。これは――必要な事だ。


 僕を縛る者は殺す。僕の支配権を持っているホロス・カーメンはいずれ殺さなければならない。彼はひとでなしだ、僕なんて奴隷の亜種程度にしか認識していないだろう。

 今は雌伏の時だ。チャンスを作るためならば何だってする。


 ロードは強い。おまけに僕に対して絶対的な支配権を持っている。今の僕ではとても勝てる相手ではない――が、これまで主への反抗に成功したアンデッドがいなかったわけではない。

 蔵書の中には戒めとして、アンデッドの反抗について記載しているものがいくつかあった。


 今、ロードは僕に対して最低限の制限しか課していない。この状態が続けば、そして僕が更に強力なアンデッドになれば――万に一つだが、勝ちの目がある。


 彼は絶対者だが、全能者ではない。


 ぐりぐりと、決意を強調するように爪で肉をえぐる。ナイフで抉った時とは傷跡が多少異なるが、そんな差異、気づくまい。

 傷口が広がったことを確認すると、傷から爪を抜き取り、そのまま口に含んだ。舌を動かし、肉片と血を舐めとる。魔獣の心臓すら美味に感じる今の僕の味覚でも、自分の血肉には何も感じない。


 だが、指が汚れている事に気づかれたら厄介だ。なめとっていると、ふと物音を感じた。

 前を見る。いつ入ってきたのか――全然気づかなかった。


 そこには目を見開き僕を見るルウがいた。目の周りには青あざができ、唇は赤く腫れ上がっている。目の下には隈が張り付き一見その姿は死肉人のようにも見えたが、その視線は間違いなく、口の中にいれた僕の指を捉えていた。


 視線と視線が合う。僕が何か言う前に、ルウは脱兎のごとく出ていった。

 失敗した。見られた。彼女は奴隷だが、奴隷にだって僕の挙動が不自然なのはわかっただろう。


 足を出しかけ、ぎりぎりで止める。追うことはできない――間違いなくロードに気づかれる。そもそも追いついてどうするというのか。まさか説得か? 説得できると思っているのか?


 僕はアンデッドだ。魔術師、ホロス・カーメンの生み出したアンデッドだ。絶対に信用ならない。僕が彼女だったとしても信用しないだろう。


 ならば追わなくていい。最悪なのは僕が彼女を追いかけているのをロードに見られる事だ。何故ならばロードは僕に――そんな事を命令していないのだから。


 呼吸を整える。指先にはもう血の一滴もついていなかった。



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