第五話:位階変異

 身の丈に見合わぬ長い腕を操り、樹木の上から跳ね上がるように襲いかかってきた小さな猿の魔獣をすっかり使い慣れた鉈で切り捨てる。


 芳しい血の匂いが宙に飛散し、そして森が静かになった。

 高く伸びた樹の上でこちらを観察していた猿達は相手が悪いと悟ったのか、奇妙な鳴き声を上げて凄まじい俊敏さで森の奥に消える。

 自在に動く身体。鉈を通して感じる生命の消え去る感触。そして、魂を満たすような強い充足感。

 復活した当初は生前動けなかったその反動で感じているものだと思っていたが、そうではなさそうだ。


 後ろで堂々と腕を組み立っていたロードは一度猿の死骸に視線を向け、すぐにこちらに向き直る。


「エンド、貴様……強くなったか?」


「……」


 僕は無言で佇んでいた。何故ならば、答えろという命令を受けていないからだ。


 死肉人になって数ヶ月が過ぎた。自在に動く身体にもすっかり慣れ、毎日森の魔物を狩り続けたおかげで魔物の動きもある程度は読めるようになっている。

 最初は反動で自分の肉体を壊す程の力を出していた僕も、今では『手加減』をして獣を狩れる。ロードが僕を回復させる回数も減っている。

 極力、最初の戦闘から違和感を感じさせないように注意しているのだが、実際に戦闘が楽になっているのは確かであり、何も変わらなかったら変わらなかったでロードが何をするのかわからないのだから、調整が難しい。


 自在に動くのは楽しい。駆けるのが、跳ぶのが、学ぶのが楽しい。何よりも――生きるのが、楽しい。

 まだ完全なる自由を得たわけではないし、油断ならない状況ではあるが、ここ数ヶ月、アンデッドとしての活動にもすっかり慣れ、余裕を得た僕はこの状況を楽しんでいた。


「ふむ……未だ死肉人のまま……か。既に相当数の死を集めた。屍鬼グールと化してもおかしくはないはずだが……」


 ロードは僕の目の前に来ると、ぺたぺたとその骨ばった指先で僕の腕を、身体を確かめる。その感触を僕は無表情で受けた。


 教材を得て数ヶ月。僕はアンデッドについて、生前と比べて多くの知識を得ていた。


 ロードの図書室は格好の学び場だった。僕はそこから数冊の本を死体安置所に持ち込み、誰も開けない棚の引き出しの中に隠して、少しずつ読み込んでいった。

 といっても、蔵書のほとんどは僕では読めない言葉で書かれていたので、わかったことは少ないのだが、基礎的な知識を得ることはできた。


 アンデッドは生き物と異なり、時間経過による成長こそないものの、生き物の死亡時に発生する負のエネルギーを集める事により存在が強化され、変異するらしい。既に死した者でも止まった時を生きているのではないという事だろう。


 それを、書物では『位階変異』と呼んでいた。


 最初に発見した書物にも書かれていたが、アンデッドとは、死霊魔術師のかけた呪いの結果である。

 死霊魔術ネクロマンシーによって呪われ、性質が変化した死体が動き出したのが今の僕だ。


 そして、その呪いには進化のシステムが組み込まれている。

 死霊魔術師の邪悪なる呪いにより死体から甦った死肉人は、主の命令に従い負のエネルギーを集める事で新たな自我を取得し、より強力なアンデッドになる。死肉人はそのスタートラインに過ぎない。


 常日頃研究に没頭し、食事の際すら部屋の外に出ないロードが毎晩欠かすことなく僕を連れて狩りに行くのも、僕の負の力を蓄積し、より強力なアンデッドにするためなのだろう。


 どうやら、僕には前任者がいたらしい。同じようにロードの手で死を蓄積された前任者は、死肉人から屍鬼に変化した後、ロードなしで狩りに出て、森の魔獣に喰らわれ死んだ。だから、ロードは常に僕について回っている。


 冥々と暗く光る眼。アンデッドに負けず劣らぬ昏い瞳で僕を見上げると、ロードが首を傾げる。


「自我の芽生えが遅れているのか……まぁ良かろう。現状問題があるわけでもない」


 そうだ。問題はない。バレてはいない。

 まだ、もう少し、このままの状態でごまかせるはずだ。


 ロードは強力な魔導師だが、僕の演技を見破れるほどアンデッドの扱いに慣れていなかった。

 本来の死肉人は自我など持たないらしいので当然と言えば当然なのだが、彼は僕の行動を一切疑うことはない。


 ロードとの狩りは僕にとって非常に都合がいい。安全に力を高める事ができる。

 自我の発生がバレれば、ロードは命令を変える。少なくとも、自分を傷つけられないような命令はするはずだ。


 必要なのはタイミングだった。僕が今動いているのは、ロードの呪いだ。

 だが、一度掛けられたアンデッドの呪いは――術者が死んでも解ける事はない。


「エンド、その猿の死骸を連れて来い」


 いつも通りの命令。どくどくと未だ血の滴る死骸の腕を掴みあげ、ロードに続く。

 強い血の臭いと獣の臭い。芳しい死体の香り。深く穿たれた割かれた傷口からごぷりと黒い血液が垂れる。

 僕の身体の中で熱い何かが蠢く気配がした。



§



 最近腹が減る。


 食欲。久方ぶりに得たその欲求は炎のように身を焦がす耐え難い代物だった。


 いつも通り命令に従い死体安置所に戻された後、僕は行動を開始した。


 その欲求を手に入れたのは既に一月以上前の事だ。僕はその感情を得た瞬間、自身の存在が変わっている事を知った。

 食欲。睡眠欲。性欲。人間の持つ三大欲求は死肉人にとって無関係だったがより上位のアンデッドになると違う。


 その時には既にアンデッドに対する知識をある程度得ていたので、その欲求が『位階変異』によるものだとすぐに解った。


 数多の生命を奪った事による進化。死肉人フレッシュ・マンから屍鬼グールと呼ばれる存在へ。

 抱いた食欲は僕自身が高次の種に変わったという証明だ。屍鬼は死肉人と違いある程度の自我を持ち、人間の幼児程度の知性を持つ。

 肉体も貯まりに貯まった負のエネルギーにより強化されるが、知性こそが死肉人と屍鬼の最も大きな違いだと言えるだろう。


 元々自我と記憶のあった僕からすればメリットは肉体がちょっとばかり強化されたくらいで、食欲というデメリットと見合うかどうかは微妙だったが、例え弱くなったとしても、僕はその変化を歓迎した。


 食欲。人間的な感情だ。死肉人という存在は便利だったが、僕にとってその欲求には利便性を捨ててでも得る価値があった。


 死ぬ寸前、僕はほとんどまともな食事を取れなかった。空腹も感じなかった。感じる余裕もなかった。食欲は僕が失っていたものの一つだった。


 空腹と共に高ぶる感情を押し留めながら、ボロボロの服を脱ぎ捨て裸になると、足音を潜め死体安置所を出る。


 屍鬼グールの餌は肉だ。その名の通り屍だ。

 死体安置所はそういう意味で僕にとって食料庫に等しかった。鼻の曲がるような死臭も化物になった僕にとっては芳しい香りにしか感じられなかった。が、そこで食事をするのはまずい。


 初めて魔獣をぶち殺した時と同じように、死体を食らう事に対する忌避感は感じなかった。いや、人間的な感情としては避けたいが、生き延びるためならば躊躇いはない。

 だが、そもそも研究材料である死体が減っていたら、現段階でこちらをあまり警戒していないロードでも不審に思うだろう。


 冷静に考える。飢餓感は脳を焦がす程耐え難く、油断すれば近くにある死体に齧りつきたくなる。

 理性を食欲という本能が凌駕する前に何とか、それを満たす必要があった。


 警備で巡回するスケルトンナイト達の間を抜け、エントランスから外に出る。

 扉を開けた瞬間、じとっと湿った生暖かい風が頬を撫でる。濃い藍色の厚い雲が夜空を覆い隠していた。


 エントランスを抜けると目の前に広がるのは広大な庭と門だ。その庭には何十頭もの獰猛な死肉獣フレッシュ・ワイルドが外敵に対する警戒をしている。それらの多くは森で生まれ、僕や僕の前任者達に殺戮されてロードによって蘇った哀れな存在だった。


 夜狼のアンデッドが僕の臭いを嗅ぎつけ、その眼窩を僕の方に向ける。見た目は森に住まう夜狼と同じだが、その視線には驚くほど感情が残っていない。夜狼は一度鼻を引くつかせ、僕がいつもロードが伴っている死肉人だと理解したのか、すぐに離れていった。


 そのあり方はまさしく書物に書かれた命令を聞くだけの人形だ。僕はそれを見る度に、そうならなくてよかったという幸運を噛みしめてしまう。

 そして、これからもそうなるわけにはいかないと強く実感する。


 夜風を感じながら、門に近づく。高く数メートル伸びる鋼鉄の柵だ。屋敷をぐるっと取り囲むように作られている。

 物理的な障害だけではなく魔術的な結界も張られているらしいが、仲間として設定されている僕には効果がない。


 門は巨大な錠前と鎖で閉ざされている。鍵を持っているのはロードだけだ。僕は入り口を無視しその隣にいくと、両手で柵を掴みするすると登った。生前の僕ならば両手で自重を支える事などできなかっただろうけど、負のエネルギーを集めた今の僕ならば容易い事だ。


 槍のように尖った上まで辿り着くと、槍先を握り宙返りの要領で身体を外に投げ出す。

 回転する視界。地面に四肢で着地。しびれるような衝撃を受け流し、ゆっくりと立ち上がる。身体の動きに支障はないし、『屍鬼』の身体は『死肉人』と異なり――小さな傷ならば再生出来る。

 初めは緊張していたが、今ではもう散歩に行くような気軽さで外に出れる。


 そして、僕は遠慮なく深い森、ざわめく闇の中に立ち入った。

 ロードの前を歩いている時と異なり、一人の僕は全力で進む事ができる。逆に言うのならばロードからのバックアップもないのだが、既にこの森の中に僕の敵はいない。


 右手の指からめりめりと音が立つ。指先が熱を発する。五指の爪がナイフのように隆起し尖っていた。


 屍鬼グールの能力の一つだ。


 熱を持ち伸びた爪を左手で隠し、闇の中を疾駆する。獣の臭い。風の臭い。脳裏を焦がす強い飢餓感が感覚を研ぎ澄ませている。

 すぐに対象は見つかった。樹木の間、背の高い草からはみ出て見える黒い塊。

 身の丈は二メートル前後か。恐らく四足歩行なので二足で立ち上がれば聳える程の大きさになるだろう。しかし、自分よりも二回りも三回りも巨大なその影が今の僕には餌にしか見えなかった。


 身を低くし、ひた駆ける。自由に動く身体に対する歓喜の感情が食欲に逸る脳を駆け巡る。

 風が藪を揺らす。軋むような虫の鳴き声を置いてけぼりにする。

 対象が僕の接近に気づいたのか、こちらを向こうとするが、樹木の生い茂る森の中でその巨体では急な方向転換は出来ない。


 そして、僕は全身のバネを利用して大きく身を宙に投げ出した。


 頭が下に、脚が上に。世界がぐるぐると回転する。すぐ真下、黒い影が振り返る。

 漆黒の毛皮。血のように赤い眼に、少し見ただけでわかる発達した強靭でしなやかな筋肉。

 熊型の魔獣。ロードの呼ぶ夜熊ナイト・ベア。それは夜狼よりも強靭で、初戦とは違い子供でもない。


 だが相手など関係ない。


 すれ違いざま大きく腕を伸ばし、爪を奔らせる。数センチ伸びた爪の先が毛皮に覆われたその頭蓋をちょっぴり傷つける。強靭な毛皮に脳を守る頑丈な頭蓋骨が僅かに削れ、鮮血が舞う。魔獣が咆哮する。僕は着地と同時に身体を折り、巨体の懐に滑りこませた。


 僕は既に――動くだけの死体ではない。

 その瞬間、僕は夜熊ナイト・ベアを上回る獣だった。それも、知恵ある獣――鬼だ。


 強い獣の臭いとそれに触発されるように燃え上がる食欲。貫手でその心臓部を全力で突き上げる。毛皮の鎧を、筋肉の鎧を骨を、屍鬼の膂力と刃の爪は容易く突き破った。

 巨体がビクリと痙攣し、咆哮が一瞬で止まる。残るのは虚無を思わせる静かな森だけだ。僕は体内に流れる血液、その熱と体中に広がる充足感を噛み締めながら、手を抜き取った。


 ぶちぶちと血管のちぎれる音。手の中に残ったのはまだ脈打っている生命の源。手では握りきれない巨大な心臓だ。嗅覚を満たす凄まじい血の臭い、死の臭い、それらの全てが僕の食欲を促進させる。

 抜き出すと同時に、その場から数歩離れる。それを待っていたかのように、魔獣の巨体が地面に倒れ伏した。死んだ。死んでいるが、抜き取った心臓は未だ鼓動している。その頼りなげな鼓動が僕に生命を感じさせる。


 まるで熱に浮かされたような吐息が出た。


 ――アンデッドとなった僕に熱などあるわけがないのに。呼吸など、必要としていないのに。


 血液でてらてらと光る心臓を持ち上げ、満を持して舌を這わせる。

 ただそれだけで脳髄を突き抜けるような衝撃を感じた。味も香りも触感も、その何もかもを身体が求めている。忌避感などあるわけがなかった。これは今の僕にとって必要なものなのだ。


 ああ、僕はもう人間ではないのだ。アンデッドとなり幾度となく実感したその事実をもう一度脳裏に浮かべ、僕はその宝石のような心臓に夢中で齧りついた。

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