第13話 杏子の想い

 俺と杏子は手摺を背もたれにして、ひんやりとするコンクリートの床に足をなげだしていた。


「先輩、せんぱいタマゴサンド好きでした、よね?」

 杏子はちょっと不安そうに訊いてきた。

「うん」

 それは嘘ではない。


「良かったあ。せんぱい、タマゴサンド、好きだって前に話していたはずだったから……」

「そうだったかな?」


 杏子にそんな話、したことあっただろうか?


 自分でも忘れていたようなこと。


 冷たさが心地良く残るタマゴサンドを口にほうりこんで、ゆっくりあごを動かしていると、ある思いが心をよぎった。

 自分が、一番欲しかった時間は、今の、こんな、杏子との時間だったのではないだろうか? と。



 杏子はほんのちょっとでも、倒れかかれば直ぐ肩が触れてしまうほどに…………近くにいた。



 誰かが上って来る気配もない。

 もう、かななり遅い時間、深夜だ。

 街では誰もが、すでに寝ているだろう。


「ねえ、杏ちゃん下にもどって休まなくていいの?」

「いいの」

 杏子は、短くこたえた。

 うつむいたままで…………。

 

 そして、ごく、わずかに、杏子の腕が自分の腕に触れた。

 杏子が、すこしだけ、寄ってきたようだ。


「せんぱい、わたしのつくったサンドイッチ、どうだった、かな?」

「おいしかった、よ」

「よかった……ねえ、せんぱい、じゃあ、あのね…………」

「なに?」

「頭、いいこ、いいこ……、して、…………あっ! でも、そんなの、……子どもみたいだよね……。やっぱり、今の忘れて……」

「えっ? ……そんなことで良ければ……」


手の平を軽く頭の上に乗せて「いいこ、いいいこ」と口にしながら少しだけ動かかすと、杏子は心地良さそうに軽く目を閉じていた。


「ありがとう、せんぱい……」

「でも、サンドイッチもらったの、こっちだから……俺の方こそ、ありがとう」



 全部を食べ終えて、コーヒー牛乳も飲んでしまうと、俺はどうして良いのか……、なにを話して良いのかも、分からなかった。

 空になった紙パックのストローを、ずっとくわえているわけにもいかない。

 ただ、いつまでも、この時間が続けばいい。

 杏子がそばにいてくれれば、いい。

 だが、自分には、なぜか、それが言えなかった。

 自分の気持ちに、戸惑っていた……。


「そうだ! 音楽でも聴こうか?」

「そうですね! 私ラジカセ持ってくる、先輩に聴かせてあげたい曲があるの」  そう言って、立ち上がった。


「聴かせたい曲?」

「うん、まだ聴いていないテープがあるの」



 フェンスの前で、遠くの工業地帯の明かりを眺めていた。

 戻って来た杏子は俺の隣にきて、ラジカセを足元に置いた。


 杏子がカセットテープの再生ボタンを押すとカセットの中でリールが回りだす。

 そして渡辺美里の『My Revolution』が流れ出した。

 メロディーが夜空に昇って拡がるようだ。


「せんぱい、受験頑張ってね、私、応援してるから」

 杏子のその声ははっきりとした、それでいて、しっとりと心地よく感じられる声だった。 


 それは杏子の声だ。


 でも、いつもとは何かが違う……。

 俺は「ありがとう」とそれだけ言った。

 その時、杏子がいつになく、魅力的だった。

 何か照れくさくなって下を向くと、杏子の足を包むソックスの白さが闇に映えていた。


 月はもう大分その位置を変えてしまっていたけれど、星はまだその輝きを失ってはいなかった。


 ふっと空を見上げた。


 その瞬間、星が流れた。

「あっ! せんぱい! 見た!?」

「うん、見た」

「一緒に見たんだよね」


 杏子の笑顔。


 俺は街の灯りに包まれた、その横顔を見つめていた。自分の心を満たす不思議な気持ちに戸惑いながら…………。

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