第7話 杏子の涙

 

 みんながいろいろな準備のため下に降りてしまうと、僅かな時間、取り残されたかのように、屋上には、俺と杏子だけになっていた……。


 二人、下に行こうとしたそのとき、それは、起こった。


 杏子の足が、天体望遠鏡の三脚に引っかかってしまったのだ。


 幸い望遠鏡は倒れはしなかったものの、確実に、北極星との位置はずれていた。


天体望遠鏡で星を追尾するには北極星を中心に円を描いて動く星に合わせて望遠鏡を動かす、赤道儀という装置で三脚と望遠鏡を接続させる。


 だが手動だろうと自動だろうと、その装置の回転の中心である極軸が天の北極、つまり北極星からずれてしまっていては、話にならない。

 その位置を合わせるのは慎重にしかも確実にやれば時間の掛かる作業だった。

 だからその調整のため天文部員は早くから準備をしてきたのだ。


 北極星の位置がずれてしまうのは天体写真の撮影をするには致命的だ。


 それは杏子も知っている。


「先輩、ごめんなさい、私…………」

 その声は小さく、泣きそうな声だった。


 赤道儀には北極星のためだけの小さな望遠鏡がその中心にあるが、ずれたなら、またそこに北極星を捉えてやれば良いだけだ。

 だがそれには重たい三脚や鉄の塊のような赤道儀、実際、赤道儀から突き出した棒にはバランスを取るために鉄の塊も付いていたが、それを慎重に動かさなければならなかった。

 しかも時間は、あまりない。


 なにも言えずにいる杏子に「大丈夫、まかせて」と声をかけて、それに取り掛かった。

 時間との競走で一瞬、焦りと不安がよぎったものの、だが、再び正しい位置に北極星を捉えることに、短時間で成功した。



「心配しなくていいよ。ちゃんとセッティングできたから。それに今日は星の撮影じゃないし、それほど神経質にならなくてもいいから」

「ありがとうございます……。ごめんなさい……、先輩一人にやらせて…………」

 杏子はうつむいたまま。

「気にしないでね、それが先輩ってものだよ」


 実を言えば、杏子たちが入部してから、その作業は先輩風を吹かせ、指示だけして後輩達になるべくやらせていたのだが、それまでは殆ど俺一人でやるはめになっていたのだ。

 これだけは林田より早くできる自信がある。

 

 それは、俺と組んだ先輩のおかげだった。その先輩は良い人で、知識も抱負だったが、めんどくさがり屋で細かい作業がとことん、嫌いな人だった。

 だからこの赤道儀の調整となるといつも「お前の仕事だ」と言うのが常だった。

 口癖は「いつか、お前の為になる」だった。

 それが、今日、だったわけだ。


 ……初めてみる杏子の姿だった……。


 俺は、うつむいている杏子になるべく明るく声をかけた。

「さあ戻ろう」

 

 杏子が、うつむいたまま首を縦にふった。

 

 その時、屋上の入り口の蛍光灯の明かりに、涙が白く光り輝いて、落ちた。


「本当に大丈夫だから……、…………心配しないで……」

「はい、…………」


 階段を降りながら見た杏子の目は赤くなっていた。


「もし何か問題があったら、俺が蹴飛ばしたって言うから」

「いいんです、そんな……、でも、わたし……、何も手伝えないで……」

「いいんだよ、そんなこと……。

 いつまでも気にしないで。

 杏子ちゃんなら、必ず、できるようになるから」

 俺は、本当に、そう思った。


「だから、もう、なにも、心配しないでね」

「ほんとうに、……ありがとう……」


 ちょっと立ち止まって、また、うつむいた杏子……。


 そのとき、自分の中で緊張していた何かが、消え去ったのだろうか?

 いつもは、そんなマネ出来ないのに…………。

 無意識に杏子の肩に手をやってしまった。


 その瞬間、不思議な感覚だと気が付いた。

 もしかしたら、しばらく肩に手を置いていたかもしれない。

 杏子が、自分の方に、すこしだけ、もたれた気がした。

 

 それで、すぐに、手を離して、しまった。

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