第2話 青空の下で

「……なに、見てるんです?」


 振り向くと、そこに、天文部の後輩、一年の杏子が笑顔で立っていた。

 夏服の白い半そで、まだ新しいセーラー服。

 その白さが、陽の光にまぶしい。 


「やっぱり、屋上から見る景色って、教室からの景色とは、全然、違いますよね?」

「そうかな?」

「そう、ですよ……。

 教室から見るより、全然、いいです。

 いつも、ここって鍵がかかっていて立ち入り禁止じゃないですか。

 

 でも天文部に入って、ここから景色を見ることができて…………。

 

 だから、私…………、天文部に入って、本当に、すごく、良かったな、って……思うんです」


 杏子は空を見上げた。


 杏子につられて空を見上げると、そこに、雲ひとつ無い青空が広がっていた。


「上から見ると夏の緑が輝くのも、すごく、すごく、きれいに見えるし…………。

 だから、なんか、そんなとき、小学校で習った『グリーン グリーン』思い出すんですよ」


 そう言えば、俺もそんな歌、歌ったかもしれない。 

 そうやって話す、杏子の顔は、どこか、ほんのり赤くなっている。

 そう、見えた……。


「そうだ、白黒で良ければ写真撮ってあげる。今晩の為に俺もカメラもって来たから」


 ほんの、軽い気持ちで言った言葉だった。


「えっ、でも、……いいです。……私なんか撮ってもフィルムの無駄ですよ?」

「そんなことないさ。杏子ちゃん可愛いし」

「……はじめて……」

杏子の、その声は小さくて良く聞こえなかった。


「まあ、いい機会だから」

「いいんですか? じゃあ、お願いしますね」そう言って杏子は手摺の前に立った。


「先輩、すごいカメラ持ってるんですね」

 俺のじゃなくてオヤジのカメラなのだが。

「でも写真部のようには、うまく撮れないと思うけれど」

 だが、昨年の文化祭に出品されていた写真部の作品も、技術はともかく、それほど良いとは思えなかった。

 

 カメラに付いていた画角三十五ミリF2の広角レンズを外して、学生服のズボンのポケットに入れていた画角八十五ミリF2のレンズに付け替えた。

 ポートレートに最適のレンズだ。

 


 ピントリングを回すと、ファインダーのスクリーンに、はにかんだような、ちょっとだけ微笑んだような杏子の顔が青空に、はっきり、浮かびあがる。

 青いスカーフ、太陽の光を受ける髪の毛が風に微かにゆれた。

 大地の近くに微かな雲が漂っている。


「いい? 撮るね。いち、に、さんっ!」 


 シャッターを押すと乾いた、カシャッ、という軽く心地良い機械の音が響いて、かすかな振動が手に伝わる。


「ありがとうございます、せんぱい」


 杏子が「ありがとう」と言ったその直後、屋上の開け放しになった鉄の扉の向こうから階段を上ってくる足音が反響して近付いてきた。

「おい、望遠鏡出すの、手伝ってくれよ」

 

 それは、俺と同じクラスで天文部部長の林田だった。

 その脇では杏子と同学年のまり子が中学生の頃とあまり変わってないような笑顔を見せている。

 まり子と杏子は、杏子が中学三年の始めに転校してからの親友だそうだ。

 だからといって、高校どころか部活動まで一緒とは。

 俺と林田が階段を下りるとき、後ろでまり子の「ねえ、どうだった?」という少し高い声と杏子の「なにがよ~」というはずんだ声が、後ろから聞こえた。


 下に降りる前、もう一度見上げた空は、どこまでも青く感じられた。

 青空が夜空になると、月が欠けてゆく。

 もう俺はこの屋上で月食を体験することはない。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る