鯨食ふ町


  1


 カンカンカンカン――。

 いるか﹅﹅﹅を追い込む鉄管てっかの音が、潮風に乗って響いている。小さな田舎町に響く、澄んだ音色。生まれた落ちたその日から、子守唄代わりであったその音色が変わらず耳に聞こえてくる。海野うみのいさむは、中学校へ続く坂道の半ばから、港の方角を振り向いた。

 入り組んだ湾の続く南国、津室つむろ町の海は透明な翡翠ひすい色。太陽の加減で深くも浅くも見える宝石のようなその色は、沖で唐突にも紺碧に変わる。熱気立つ暖流、黒潮だ。その黒潮の深い色に限りない豊かさを感じるのは、勇が津室に生まれた人間ゆえか。

 彼の生まれた海野家は、先祖代々、この地で漁を営んできた一家だった。

 この地は決して住み良い場所ではない。周囲を切り立った山々に囲まれ、塩水はあっても真水に不自由するため米はできず、畑にできる作物といえば麦や芋の類だけ。その上、たびたび襲い来る台風や地震、津波に、丹精込めた畑を台無しにされ、家屋を壊され、時には人間の命まで奪われるとなれば、楽園とは程遠い土地であることには間違いない。

 けれど、先祖はこの地に住まい続けた。それはなぜだろうと問われれば、きっとこの海から離れることができなかったせいだろうと勇は思う。きっとどんなに災害に見舞われたとしても、彼らは捨てることなどできなかったのだ。豊穣の黒潮を臨む、この美しい故郷ふるさとを。

『ここはええげぇ良いところだねえ

 いまは亡き曾祖母は、何かにつけ、そう呟いていたものだった。向かいの家に住んでいた勇の祖母の母。よく働いてくの字に折れ曲がった体を丸め、皮膚の固くなった皺だらけの手で勇を撫でてくれた、小さな曾祖母。

『なぁ、勇ちゃん。津室ほにほに本当にええとこやのう』

 その遠き日、落ちゆく夕陽に手を合わせ、曾祖母は頭を下げた。幼かった勇もそれにならって頭を下げた。そこに流れていた穏やかな時間。暮れなずむ海は黄金色で、頰を撫ぜる潮風は明日という一日を約束してくれるようだった。

『ひいばあやん。海がまた明日あいたって言うとるよ』

 先に顔を上げた勇がそう言うと、曾祖母はくしゃりと破顔した。

『勇ちゃんの耳は、よう聞こえれる聞こえる耳ええわだいい耳だね

 勇は嬉しくて頷いた。そしてより一層、耳を澄ませるように目を閉じた。

 この曾祖母が言うことには、山には山の、海には海の神さんがいらっしゃる。風には風の、木には木の神さんが、道端の小石にも、野花にも、道端に転がっている土塊つちくれにさえ、それぞれの神さんが宿っていらっしゃるという。

なでえだからあがら私たちどがえなもんどんなものも粗末にせんで、でんぶ全部に感謝せいでやしないとねでったい絶対にお日さんに顔向けれんことしたらいけんよ』

 そのとき、曾祖母の言葉は紛れもない真実であった。勇の目は神さんを見、耳は神さんの声を聞いていた。それはごくごく自然なことだった。

 けれど、いつからだろう。その感覚は儚くも薄れ、ついには無いものとなってしまった。それは曾祖母が死んでしまったからなのか、それとも勇に知恵﹅﹅がついたせいか。

 例えば、それはクリスマスにやってくる「サンタクロースのおじさん」。その青い目をしたおじさんが現実にはいなかったのだと知ったとき、そのとき勇は曾祖母の話してくれた神さん﹅﹅﹅までをも嘘の領域へ投げ捨ててしまったのだろうか。サンタクロースやトナカイや玩具作りの小人は見たことも行ったことない、はるか海を越えた先にある異国のお話で、「山や海の神さん」は曾祖母の祖母、そのまた祖母から語り継がれた、勇の生まれた土地の話であったとしても。

 高く、澄み切った音で、鉄管は鳴り続けている。船の漁師たちが鳴らすこの音は、海中のいるか﹅﹅﹅を追い立て、湾へ追い込むためのものだった。音にさといるか﹅﹅﹅たちは、その音に追われ、津室湾へと入り込む。それを見計らって、漁師たちは湾の入り口を網で二重に仕切る。こうしているか﹅﹅﹅を湾内へ閉じ込めておき、翌日に水揚げする。時代によって方法は移り変わったが、これが現在の津室の捕鯨――追い込み漁と呼ばれる漁であった。これ以前、江戸時代から三百年も続いたと言われる捕鯨は「古式捕鯨」と呼ばれ、網や銛を使うものだったが、その伝統は「大背美流れ」と呼ばれる海難事故によって明治十一年、その幕を閉じていたのだ。

 それにしても、いるか﹅﹅﹅くじらと言葉では言うが、本来、それらは同じ鯨種﹅﹅である。ただ、大きいのから小さいのまで様々いるため、体長四メートルほどを境に大きいのを鯨、小さいのをいるか﹅﹅﹅と、呼び習わしているだけのことだ。

 小型だが油の多い牛頭鯨ごんどうくじら、背中の美しい背美鯨せみくじら、稀に竜涎香りゅうぜんこうという貴重な香料の取れる抹香鯨まっこうくじら。町のくじら博物館には様々な種の鯨の模型や骨格標本が並び、その傍らには捕鯨の様子が描かれた絵図が展示されている。絵図は、まず沖に鯨を見つける場面から始まる。それから、鯨方くじらかたと呼ばれる人々が鯨舟に乗り込み、大海原へ漕ぎでていく場面。浜に詰めかけた大勢の村人が固唾を飲んでそれを見つめる中、とうとう船が鯨を取り囲み、暴れる巨体に銛を打つ場面。大鯨の大きな尾ひれがばしゃりと水面を打っている。その尾ひれにかすりでもすれば小さな舟などひとたまりもなく木っ端微塵、海の藻屑と化してしまうに違いない。

 鯨捕りは決して平穏な仕事ではない。命を懸けた大一番だ。もとい、自然を相手に生きるというのはそういうことだ。どちらが命を永らえるのか、今日はこちらであったとしても、明日はどうかわからない。

 しかしこの絵図はといえば、鯨方たちが無事、大鯨を仕留め、祝いの踊りを踊っている姿で締められている。この後、鯨は浜へと引き上げられ、その肉は数十人がかりで捌かれる。まるで夏の終わり、地に落ちたせみありたちが少しずつ巣へ運び帰っていくように、鯨は見る間に小さくなる。あっという間に骨になる。そしてその骨さえも砕かれ運ばれ、おしまいに残るのはこぶし大の左右の耳骨。

 この二つの耳骨のほかは、人々は余さず使ってしまう。皮も肉も内臓も、脂も筋も骨も歯も、何もかもを頂いた後、その魂を供養塔へまつる。昔から、鯨は一頭捕れば七浦が潤うと言われるほど、大きな大きな恵みであった。その恵みを私たちは頂きました、本当にありがたいことでしたという感謝を込め、鯨墓げいぼや慰霊碑に祈りを捧げたのだ。

 海野家は鯨方は鯨方でも、泳ぐ鯨にもりを投げ、最後には海に飛び込んで、その心臓に刃を刺す役――「刃刺し」という、花形ともいえるお役目を務めてきた家だった。そのため、件の博物館には曾祖父や高祖父の寄贈した品物や資料が展示されており、その子孫である祖父も未だに現役の漁師である。

 この戦後は南極海にまで鯨捕りに赴いたという祖父は、長らく勇の憧れだった。人間の何十倍もあるような大きな鯨に恐れず立ち向かう、強くてカッコいいヒーローだった。対する祖父も口に出しこそしなかったが、勇が生まれたときからその将来に期待をかけていたに違いない。その昔、人々は鯨を勇魚いさなと呼んだ。祖父はその一文字を取り、彼にと名付けたのだ。

 とはいえ、勇が生まれた昭和五十六年より前に、大型の鯨を捕ることは国際条約で禁止されていた。そのため、いまの津室の漁師たちが捕るのはそれまでとは比べ物にならないほどの小物——牛頭鯨ごんどや、それよりは小さないるか﹅﹅﹅の類ではあった。しかし、それでも勇はなるたけ早く、できれば義務教育を終えてすぐにでも祖父の船に乗りたいと、子供心にそう思っていた。自分も祖父のようなヒーロになるのだと、ずっとそのときを心待ちにしていた。それは確かにそうであったはずだった。

 しかし、以前は耳にするだけで胸弾んだ鉄管の音に、いま、勇の顔は暗かった。その目が見ているのは、彼の憧れであった風景――たくさんのいるか﹅﹅﹅の群れでも、ずらりと並んだ漁師船でもなければ、ヒーローである祖父の雄姿でもなかった。

 それでは何か。勇がその暗い瞳に映すのは、いまこの瞬間、この町で繰り広げられている喧騒だった。怒声、あるいは悲鳴、あるいは我が子を亡くしたかのような慟哭と絶望が入り混じった黒い渦。祖父たちのいる漁港を起点として渦巻くその黒いものが、この小さな町を飲み込まんとしている、その光景。

 その恐ろしい光景に釘付けになる勇を尻目に、そのとき小学生たちが楽しそうに坂道を駆け上がっていった。目の前のことだけに一生懸命な幼い子供たちは、まだこの町の異常に気づいていない。かつて勇がそうだったように、夢に憧れ、毎日を走ることに精一杯なのだ。

 けれど、それでも数年後――彼らが成長したとき、その狭かった視界はふと開ける。それまで何度説明されても耳を素通りしていった言葉が、すとんと腑に落ちるときがやってくる。勇がそうであったように、そうして初めて彼らもまた気がつくことになるのだ。この町を蝕んでいく、悲劇色をした喧騒に。その毒のような色に、彼らもすでに蝕まれていることに。

 『勇にいやん!』

 聞こえるはずのないその声を、無意識に待っている自分に勇は気づいた。これが一年前であったなら、ふと軽やかな足音が迫り、振り返れば息を弾ませた少女が、ほんのひととき、景色を和ませてくれたものだったのだ。つぶらな瞳にぺちゃっと低い鼻をした、可愛らしい子犬のような女の子。無邪気がそのまま人の形となったような、三つ下の幼馴染が。

 けれど、その声が聞こえることは二度とない。彼と同じ毒に侵されてしまったその子は、もう決して彼の前に現れない。勇はゆっくりと瞬くと、改めて町を見下ろした。

 勇の生まれ育った町。古来より鯨を捕り、その肉を食う町。その町はいま、喧騒の只中にある。遠い海の彼方から、鯨を捕るという生業に悪を見出す者たちがやってきて「その行いを改めなさい」と叫ぶようになってから。

 彼らのことを考えると、勇の胸は苦しくなった。と、同時に得体の知れない既視感にさいなまれた。この喧騒と似たものを、けれどまったく違うものをどこかで見たことがあるような気がしてならなくなった。この毒々しい黒い渦を、心が引き裂かれるような絶望の叫びを。

 しかしそれをどこで見たのだろう、幾ら記憶を探っても答えはなく、既視感の正体も分からないまま、勇は鉄管の音から逃れようとでもするように目を伏せ、再び歩き出した。その歩みを、まるで海を追われるいるか﹅﹅﹅のように早くして。得体の知れない既視感に、後ろ髪を引かれながら。




  2


 人口三千人の小さな田舎町の小さな通りを、数十人の白人たちが列をなして歩いていく――そんな光景が当たり前になったのは、一体いつからだったろう。

 始め、それは二人だった。ただの旅行者という風体で、国道から海を眺めていた。案内をしてほしいというので、通りすがりのじいやんばあやんは快くそれを受けた。日本を訪れる外国人観光客が増えているとは聞くが、鉄道が一本あるほかは高速道路も通っていない、こんな辺鄙な場所にも来てくれるだなんて嬉しいことだ。皆は喜び、土地の話を随分とした。

 彼らの話は古事記の時代、神武天皇が詠んだ歌に「久治良くじら」が登場するというところから始まった。しかし、それでは古すぎるだろうと誰かが笑い、黒船来航の話をした。鯨油のため、鯨をはるばる追いかけて、アメリカ大陸からやって来た黒塗りの大きな船の話。嘉永六年、かの有名なペリー来航以前から、津室の人々はアメリカ船の存在を知っていた。海の彼方で大鯨を捕り、その油を絞る船。その大きな船を、幕府の鎖国政策で遠洋に出られぬ津室の鯨方はほぞを噛む思いで見ていたのだ。アメリカの捕鯨船のせいで津室沖を泳ぐ鯨は激減したが、彼らにできることは何もなかった。

『けんど、よぉ聞いたら、あいらあなたたちは油だけ絞てあとはでんぶ全部ほうった捨てるゆらやいよというだろう。ああかなぁだめだ。鯨は余らんように使えるんやげ、あがなもんそんなことをしたらえらいとてもあったらものもったいない

 一人の老人が言い、残りの皆が頷いたが、二人の旅行者はそれに答えなかった。

 後より思えば、このときの彼らの無関心を、皆はおかしいと思うべきであった。加えて、津室の漁を見たいと言ったときの尋常ではない目の光にも、その漁の様子を無言でカメラに収める姿にも。しかし、この海に囲まれた平和な島国に生きる人々は所詮お人好しで、目的達成のためならば偽りごとも辞さないような人間がいるなどということは、微塵たりとも考えたことがなかった。

 いるか﹅﹅﹅は食べないという彼らのために、町の旅館はわざわざ品を変え、精一杯のもてなしをした。翌日には、町の史跡を共に巡った。博物館の案内もした。そして三日後、彼らは津室を去っていった。

『また来よると来てくれるとええわだいいねえ

 皆はそう頷きあった。年々人が減り、漁業も先行き厳しくなる中、観光で町が賑わうのは歓迎すべきことだった。と、その中の一人が首を傾げた。

そういたらそういえば、あのしとらはどこどのしとやったかいな』

 皆もはてと首を傾げた。しばらくして、別の一人が言った。

『せいでも、外人さんは外人さんやげ。色白いから、白人さんと言うてもええげ』

 皆は笑い、それぞれの家に帰っていった。「白人さん」の正体がアメリカ人で、世界的に有名な環境保護団体に所属しているのだと知ったのは、その翌週のことだった。

 その日、ファックス付きに変えたばかりの小さな町役場の新しい電話は、朝から鳴り止むことを知らなかった。一体全体何事だ、当時の町長が驚いて用件を聞くと、いるか﹅﹅﹅漁の取材を申し込みたいのだと、電話の向こうは口を揃える。確かにいるか﹅﹅﹅漁は町の名物だ。毎年、漁期になれば地元の新聞は取材に来るが、しかしそれ以上の話は来たことがない。胸騒ぎを覚えた町長は、折良く電話を鳴らした馴染みの記者に尋ねた。

ちったかし少し面倒事になるかもしれんですよ』

 すると、記者は気まずそうに答えた。

『津室のイルカ漁、あれ、動物虐待ゆうて、海外のニュースでややこしいことになってますわ』

『動物虐待?』

 記者の言を、町長は訝しんだ。

 動物といえば、彼は庭で犬を飼っていた。洋犬と和犬が混じったような、ぼさぼさとした毛並みの雑種である。初めは子供たちが欲しいと言ったのを、いまでは彼のほうが可愛がり、忙しかった町長選の時期にも朝夕の散歩を欠かしたことがない。それをこのあいだ都会から帰省した隣家のインテリ娘が、「おいやん、犬を鎖で繋いで飼うて、いまどき動物虐待やのう」としたり顔で言うもんだから、「綱吉公の御世でもあるまいに」と返してやったところだ。無論、それは皮肉のつもりだったが、しかしその娘は何を思ったか「生類憐みの令て、世界最初の動物愛護法やげ、日本はえらいよ」などとのたまったもので、こいつはどうも言葉が通じていないと呆れ返った矢先である。

 このいるか﹅﹅﹅漁が動物虐待だという主張には、どうもあの娘が発していたような、どこか奇妙な感覚がつきまとう。

『せいでも……あは食うためのおきいきろ漁だろう

(注・「沖へ行く」ことから、転じて漁、漁師のこと)

 町長はそろりと、伺いを立てるように言った。この町の漁師たちは、いたずらにいるか﹅﹅﹅の命を奪っているわけではない。その肉を食べるために捕っているのだという、当然も当然、常識中の常識を確認したつもりだった。

『そらそうですわ』

 と記者は答えた。なら何が問題なのか、なおさら町長には分からない。すると、『それが』と記者は言いにくそうに口を開いた。

『なんや、その食うってのが、まずあの人らにはあかんらしいんですわ』

 と。


「さー、朝の会、始めよか」

 八時二十分。始業の時間ぴったりに、担任の辻が間延びした声を投げかけた。日直が立ち上がり、起立、礼――おはようございます。残りの生徒たちが唱和する。「はい、おはようございます」辻が応える。三十名の顔を見渡す。その視線が、勇のところで一瞬長く留まったのは気のせいではないだろう。心当たりがないわけではない勇は小さく俯き、それに気づかぬふりをする。辻も教卓に目を落とすとため息をつき、時間割の変更をどこか歯切れの悪い調子で伝える。そして、いつもより長く時間をかけて今日の予定を伝え終えると、何か諦めたような表情で顔を上げた。

「えー、いるか﹅﹅﹅漁のことについてですが」

 そう言いながら、一つ、痰の絡んだ咳をする。様子が変だったのはそのせいか、そのどこか不自然な明るさを保った声に、生徒たちはふと身を固くする。

「昨日、連絡網で回した通り、今年も漁に反対する外人さんがたくさん津室に来てます。で、中にはビデオカメラで君らのことを撮影する人もいるそうです。これは町や学校としても抗議をしておるんですが、もし、そんな外人さんに出会ったら、その場で何かするんではなく先生やご両親に言うてください。先生たちがまた注意します。それから、これも何遍も言いますが、外人さんからインタビューされても絶対にしゃべらないこと。耳にタコやとは思いますが、これは徹底してください。まあ、君たちも漁師さんも悪いことはしてないんで、そこは堂々としてもらえればいいかなと」

 まるで教科書を読み上げるように言葉を並べ終えると、辻はふうっと肩を下げる。居心地が悪そうに首を鳴らす。それから、幾分小さな声で、それが義務であるかのように付け加えた。

「……外人さんも、全員が全員、ああいう人たちではないし、この町に来ている彼らもみんなを傷つけようと思ってやってるわけではないので。決して偏見を持たないように」

 最後の最後になって彼らを弁護するようなその響きに、勇を取り巻く毒がわっと濃くなった。それを受け入れる者、受け流す者、そして反発を隠そうともしない者――教室の空気もどこかいびつねじれる。

 この小さな町には保育園も、小学校も中学校も、それぞれ一つきりしかなく、そこで育った子供たちは兄弟姉妹のように互いのことを知っていた。けれど、その空気が近頃がらりと変わってしまったのは、思春期という時期のせいだけだろうか。同じ教室に机を並べながら、勇も、他の生徒たちもその一人一人が孤立していて、表面では笑って話してはいても、心はどこか閉じていた。特にいるか﹅﹅﹅漁の話となると教室は静まり返り、それに触れることは禁忌だというような、そんな雰囲気だけが重たく充満した。

「偏見とか……」

 辻には決して届かぬ声で、誰かがぼそりと呟いた。勇は、その声をすぐ耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞いた。ここも毒に侵されている。教室に立ち込めるそれを勇は下を向いてやり過ごそうとした。

 いるか﹅﹅﹅漁は、国内外の法律を犯すものではなく、それゆえ責められるべきものではないのだと、辻を含め、大人たちは皆そう言う。当たり前だ、反発するように勇は思う。海から魚や貝を採って食べるように、あるいは育てた牛や豚を食べるように、いるか﹅﹅﹅を食べて何が悪い。ここはそういう町だ。それのどこがいけないのか、と。

 しかし、その精一杯の反発をあの外国人たちは一撃で砕く。彼らは漁を残酷だと言う。それを行う者を悪だと言い切る。イルカは賢く、可愛い動物で、それを食料として殺すなんて可哀想だと怒り、叫ぶ。あるいは涙を流し、慟哭する。懇願する。どうかイルカを殺さないでくれ、私の知る日本人はそんな野蛮なことはしない、礼儀正しい民族ではないのかと訴える。もしそうでないとしたら――彼らの言葉は、時には脅しに変わる。君たちはユダヤ人をアウシュビッツへと送り込んだヒトラーと同じだ。恐ろしい殺人者だ。君たちの体には我々と同じ、赤い血が流れていないのか? もし流れているのなら、なぜイルカを可哀想﹅﹅﹅だと思わないのか?

 食べられるいるか﹅﹅﹅が可哀想か、可哀想ではないか。そんな二択を示されて、可哀想ではないと言い切ることのできる人はいないだろう。だから、それはずるい質問だと勇は思う。

 けれど、もしも食べ物に対してそういった感情を持つのなら、可哀想なのは何もいるか﹅﹅﹅だけではない。牛や豚も可哀想だ。魚や鶏やウニやナマコも――野菜にまでは、さすがに感情移入できなくとも――人間が食べるものは何だって可哀想﹅﹅﹅ではないのか。だから「食事のときは感謝を込めて手ぇ合わせて、いただきます言いなぁれいいなさい」と、大人は子供にそう教えるのだから。命を永らえるために、命を頂いているのだということを忘れないために。

 しかしその教えを身につけてなお、彼らの訴えは勇をたじろがせるに十分なものだった。いるか﹅﹅﹅とユダヤ人は関係がないし、祖父は野蛮な殺し屋ではない――そう頭では思っても、それは本当だろうかと、己の心を疑う声が首をもたげてしまう。いるか﹅﹅﹅は本当に可哀想ではないのか。だって彼らはあんなに怒り、悲しみ、叫んでいる。わざわざ飛行機に乗り込み、海を越え、たくさんの時間とお金をかけ、津室までやってきている。それほどのことを彼らにさせるようなひどいこと﹅﹅﹅﹅﹅を、この町の人々はしでかしているのではないだろうか――。

 勇の思考はそこで止まる。その先のことは、大人たちでさえ分かっていないことは見抜いていた。でなければ、なぜ彼らは「外人さん悪くない」などと言うのだろう。漁は責められるべきではないと言いながら、なぜその目を伏せるのだろう。こちらが正しいと言うならば、堂々と彼らを追い出せばいい。なぜそれができないのか。それは大人たちも勇と同じように、湾に追い詰められ、血を流し、死んでいくいるか﹅﹅﹅が可哀想だという、彼らの感情に取り込まれているからではないか。ほだされてしまっているからではないか。

 もし、そんなことはないと大人たちが言うならば――再び、勇の思考は動き出す。それなら、なぜ大人たちは彼らの言い分を真面目に聞くのか。聞かずにはおれないのか。

 それは、日本は﹅﹅﹅欧米に﹅﹅﹅比べて﹅﹅﹅遅れて﹅﹅﹅いるから﹅﹅﹅﹅である﹅﹅﹅――すると、今度はそんな答えが頭をよぎる。それはテレビや新聞で当たり前のように聞こえてくる言説だ。『日本は欧米から十年ほど遅れていると言われています、社会システムや技術、思想の面でさえも顕著なのです』と真面目な顔をしたコメンテーターがきっぱりとそう言い切っているではないか。

 となると、勇は一気に劣勢に立たされる。欧米に比べ、この国は遅れている﹅﹅﹅﹅﹅。それが絶対の事実ならば、いるか﹅﹅﹅についても同じことが言えてしまうからだ。その他の食料にされている動物はいざ知らず、いるか﹅﹅﹅可哀想﹅﹅﹅なのは当然のことで、しかし遅れている﹅﹅﹅﹅﹅国の人間にはそれが分からないのだ、と。だが、それは本当か? 先を行く国の意見は、本当にそのすべてが正しいのだろうか。

 袋小路に入り込み、勇は深いため息をつく。こんなとき、曾祖母が生きていたら何と言っただろう。挙げ句の果てに、そんなことを考える。この地に宿る神さん﹅﹅﹅のことを教えてくれた曾祖母なら、勇が理解できるような答えを教えてくれたのではないだろうか。聞いてしまえば、何だそんなことかとでも思えそうな、単純明解な答えを。

 しかし、曾祖母もいまは亡く、残された大人たちは揃って答えを持ち合わせていない。ゆえに、彼ら曰くどちらも﹅﹅﹅﹅正しい﹅﹅﹅戦いは続き、勇の目は輝きを失う。喧騒を聞かぬよう耳を塞ぎ、これ以上毒に侵されることを拒むように口を閉じ、足を引きずるようにして歩く。そうして時折立ち止まっては、曾祖母と見たあの静かな海の景色が無性に恋しいと思う。曾祖母と、それから――勇にいやん、いまは聞くことのない、あの無邪気な少女の声が。

 小さく俯き、机をじっと見つめる勇の前に、そのとき見覚えのある藁半紙わらばんしが置かれた。顔を上げると、それを差し出した辻と目が合った。

「これ、月曜でいいから、きちんと書いて提出してくれ。もし、相談したいことがあったら、先生に言うてくれよ」

 辻が勇の目を覗き込む。何を期待してのことだろう。勇が黙って紙を仕舞うと、辻は困ったように視線を逸らし、教室から出て行った。一時間目が始まるまでの僅かな時間、生徒たちの間に安堵したようなざわめきが満ちる。

 一度は仕舞ったその紙を、勇は再び取り出して眺めた。余白の多い藁半紙。その紙こそが、辻が勇を気にしていた原因だった。

 それは、一昨日配られた進路希望の調査用紙だった。この町には高校がなく、生徒のほとんどは町外に二つある公立高校のどちらかに進学する。それを踏まえ、調査用紙には四つの選択肢が並んでいる。そのどちらの高校を受験するのか、あるいは他の私立高校を受験するのか、あるいはそれ以外――どこかへ就職するのか。いまどき高校へ行かないという生徒は稀だが、この町の生徒だ、漁師の家の子が中卒で船に乗るという例もないことはなかった。その少ない例に違わず、中学へ入ってから定期的に配られるその調査用紙に印字された「就職」の文字を、勇は迷わず丸で囲んできた。俺は祖父の船に乗るんや――そんな意志を強く込め、自分の気持ちを励ますように。

 しかし、中学も三年生になり、いよいよ最終確認の意味を持ち始めた選択肢を前にして、勇はとうとう躊躇ためらうことになった。いくら「就職」の文字に丸をつけようとしても、シャーペンの先は震えて迷う。聞こえぬはずの喧騒が、耳元で大きくなる。

 それも無理からぬ話だろう、就職の文字を選べば、勇は喧騒の傍観者ではなく、その一部となってしまう。祖父が――漁師たちがそうであるように、毎朝、港に詰めかけた外国人に罵られながら船に乗り、慟哭の中、船を降りなければならない。立ち入り禁止の場所に彼らが入ることのないよう、見張りの役目も回ってくるだろうし、外国人たちとの間で時々起きる小競り合いに巻き込まれることもあるかもしれない。また、イルカ殺し﹅﹅﹅﹅﹅の漁師として顔にモザイクをかけられることもなく、世界中のニュースに流されることさえあるだろう。

 想像ではなく、これが祖父たちの直面している現実であり、勇が臆しているのはそんな現実のことであった。それは漁の良し悪しや、いるか﹅﹅﹅が可哀想とか可哀想じゃないといった感情から離れた、単純な恐怖心だった。港からこれほど離れている今でさえ、毒は勇を侵すのだ。だとすれば、その中心に飛び込む勇気など、勇にはない。

 しかしその一方で夢を諦め、何食わぬ顔をして高校へ進むこともまた、勇は良しとしなかった。なぜなら、それは彼にとって重大な裏切りだった。この町や祖父や、それから何より漁師に憧れた自分自身への。

 どれほど悩めど答えは見つからず、そうするうちに一時間目のチャイムは鳴り、国語の教師が教壇に立った。日直の号令に立ち上がり、再び頭を垂れながら、勇は苦しくとも、せめて何も選ばずにいられるこの時間が永遠に続けばいいと願うことしかできなかった。




  3


 田舎は朝が早い分、夜が訪れるのもまた早い。夕焼け残る空の下、町唯一の商店はシャッターを下ろし、酒類の自動販売機だけがまばゆく白い光を放つ。晩飯欲しさに野良猫が鳴き、運の良い一匹が新鮮な魚のあら﹅﹅を咥えて逃げる。どこかで鈴虫が鳴いている。今年は秋が早いのかもしれない。

 本日の海野家の夕食は、いるか﹅﹅﹅のすき焼きだった。食卓を囲むのは祖父母と母と勇の四人で、そこに父の姿はない。車で一時間以上もかかる県庁所在地に勤める父はいつも夜が遅く、勇と顔を合わせることは少なかった。祖父母の住むこの母屋と同じ敷地に、勇たち家族三人が暮らす離れはあったが、転勤が多く単身赴任期間も多かった父は、元よりそこで過ごす時間も少ない。

 網戸の目をくぐり抜けた甲虫が蛍光灯の傘に当たり、ぱちぱちと小さな音を立てた。食卓の沈黙を嫌うように、母がテレビの電源を押した。キーンと耳鳴りのような音と共にブラウン管がゆっくりと明るくなる。

「ほれ、よおけちゃんと食べよし食べなさい

 テレビに目をやった勇を、母がつついた。食欲はそれほどなかったが、勇はすき焼きの皿に箸を伸ばした。

 たくさんのいるか﹅﹅﹅が捕れた日、漁師は分け前としてその肉をもらってくる。いのししを獲る猟師が、その肉を集落の皆で分け合うように、昔から津室の人々にとっているか﹅﹅﹅や鯨の肉は買うものではなく、漁師たちによってお裾分け﹅﹅﹅﹅されるものであった。そうして分配された肉は、その先で更に分配され、結果、町中の家庭に肉が行き渡っていたのである。

 しかし、それも勇が生まれる前の話。鯨類の捕獲頭数に上限が設定された現在では、おのずと分け前は少なくなり、またスーパーで売られる鯨肉も高価となって、漁師の家以外の人間の口には入り難くなった。子供の頃から慣れ親しんだ食べ物がなくなるのは寂しいものだ。祖父はそんな人々のことを思ってか、できるだけ多くの家へ肉を配った。必然、自家分は目減りして、すき焼きに煮込まれたいるか﹅﹅﹅の肉は、今夜もそれほど多いわけではなかった。

 いるか﹅﹅﹅の肉は鉄分が多く、煮ると見た目は黒くなる。生では濃い赤をして、獣肉のように見えなくもない。その生肉を薄切りの刺身にして、同じく薄切りにした真っ白な脂肪と一緒に食べると、えも言われぬ美味しさである。幼い頃から、勇はこのいるか﹅﹅﹅の刺身が大好きだった。けれど、その大好物が食卓に上ってさえ、勇の箸の動きは鈍くなる一方で、今夜もまた、彼は小皿に取った肉を食べるでもなく米ばかり無理やり口に押し込んでいる。そんなときだった。

「――隣の、あの子やけんど」

 早くも箸を置き、飯茶碗に残った米粒を茶で流し込んだ祖父が、唐突に口を開いた。

 よく日に焼けた黒い肌に、潮風に晒された皺の多い顔、細いが引き締まった鋼の体に、無口で頑固なのが海の男である――そんな明確な印象を勇に持たせた張本人である祖父は、とにかく寡黙な人間であった。短い受け答えはあったとしても、家族との間にさえ会話らしい会話はなく、例の外国人騒ぎで他の漁師たちが様々言い合いをしていても、この祖父は少しも自分の意見というものを表すことがない。

 そんな祖父が珍しく口を開いたかと思えば、その話題は隣の家の女の子――森岡雪子のことであるようだった。

「あの子、朝とお早くから一人で山見崎やまみさきおたどいたぞ

「山見崎? 船から見えよったん?」

 祖母が不思議そうに聞き返した。

「ああ」

 祖父は短く応える。しかしそれきり茶碗を置くと、それ以上言うことはないと言わんばかりに食卓を立ち、寝間へ行ってしまう。漁師の朝は早いが、それにしても歳のせいか、祖父の寝支度は早くなった。

「雪子ちゃん、外に出られたんや」

 毎度の無愛想を気にもせず、母が呟いた。その表情がどこか不服そうなのは、雪子の母の相談に何度も乗った経緯があるからだろう。あの日から、家を一歩も出ることがなくなってしまった娘を嘆く雪子の母親を、この母は事あるごとに慰めてきたのだ。

 生まれたとき、雪のように白い肌をしていたからという理由で雪子と名づけられたその少女が、学校へ行くどころか家からも出なくなってしまったのは、ちょうど去年のいま頃のことだった。小学六年生の彼女は来年、勇の卒業と入れ違いに中学へ上がるはずの年齢であったが、その制服姿を見ることはできないだろう、母がそう漏らしていた矢先のことだ。

おまはんあんた、知っとったん?」

 母が勇を覗き込む。その鋭い目に、彼もまた呆然と首を振った。雪子が一人で外に出るだなんて、まさかそんなことあるはずがない――。

 ――勇にいやん。

 驚くほど鮮明に、勇の脳裏に一年前の雪子の泣き顔が蘇った。ぺちゃんこの鼻を擦り、小さな目を腫らした雪子が勇を見上げるその表情、助けを求めるように発した震える声。お互いの目を見つめながら、まるで金縛りにあったかのように動けずにいる勇と雪子――。

 と、その映像は突然、小さな悲鳴にかき消された。どきりとして我に返ると、それはテレビの発した音だった。ブラウン管には砂煙上がる爆撃と、見慣れない砂漠の街で逃げ惑う少女たちの姿が映し出されている。雪子と同じくらいの歳だろうか。場面が変わり、今度は瓦礫と化した街の中を我が物顔をした戦車が進んで行く光景が映っている。察するに、どこかの紛争地帯の映像だろう。

 何とはなしに見入っていると、こがえなもんこんなもの――硬い声で呟いた祖母がリモコンを取り、チャンネルを変えた。若い頃を思い出して嫌なのだろう。戦争関連のニュースを、祖母は決して見ようとしない。切り替わった画面でタレントたちが楽しそうに笑っているのを横目に、勇は席を立った。

 名前も知らない遠い国でどれだけの人が殺されようが、何も感じることなどなかった。けれど雪子のことを思うと、勇の胸には罪悪感に似た暗いものが込み上げた。あの日、雪子に会ったことを、勇は誰にも話していない。誰かにそれを話したことでどうしようもないことなど、勇はよく知っている。彼らを助けられる大人など、この町には存在しないのだ。

 しかし、もし二人を救い出せる人間がいるとすれば——勇は無意識に助けを求めるように振り返り、廊下の先を見つめた。その先は祖父の部屋。その戸の隙間からは、まだ彼が床に就いてはいない証拠に淡い光が漏れ出している。

 二人を救い出せるとしたら、この祖父しかいない。思いつめる勇の前で、すると不意に戸が開き、祖父が廊下を歩いてきた。彼の思いが通じたのだろうか、勇は祖父の表情を読み取ろうとするが、その顔に浮かぶものは何もない。寡黙な海の男。外国人たちからの罵倒に耐え、黙々といるか﹅﹅﹅を捕る男。

 あいつら﹅﹅﹅﹅のことを、祖父はどう思っているのか。勇は無性に尋ねてみたくなった。無論、歓迎などはしていまい。そんなことは聞かずとも分かる。けれど、その上で何を思うのか。昔のように静かに漁を続けたいという願いを踏みにじられる現実に、祖父はなぜ抵抗もせずにいられるのか。

 年月に軋む床を鳴らし、祖父がいよいよ近づいてくる。その瞬間を待ちながら、祈るような気持ちで勇は思う。子供の頃からの憧れであった、祖父。この祖父が勇に声をかけてくれたなら。「あがなんあんなやつら気にせんと、俺と一緒に船に乗りよしのれ」と一言でいい、そう言ってくれたなら。そうすれば、勇は喜んで船に乗るだろう。胸を占める迷いを捨て、そうして空いた場所に誇りとも呼べる感情を新たに招き入れるだろう。外国人なんか関係ない、これが俺たちの文化なんだと祖父が胸を張ってくれさえすれば、それだけで勇を侵すこの毒は綺麗さっぱり消え去ってしまうに違いない。

 けれども願い叶わず、祖父はいつもと同じように、勇の前を何も言わずに通り過ぎた。ややあって、洗面所から水音がした。痰を吐く濁った音が聞こえた。いたたまれず、勇はサンダルをつっかけ、外へ出た。満天の星にも目をくれず、離れの玄関の中へ飛び込んだ。すると開け放した障子の向こうに、敷いたままの母の布団が見えた。その隣の畳が広く開いている。父は昨夜、帰らなかったのだ。

 それはどういうことなのか。胸に問うと、苦いような味が口の中に広がった。勢いを挫かれた勇は、先ほどまでとは裏腹にのろのろと階段を上り、自室の引き戸を小さく開いた。昼間も窓を閉め切った和室からは、どこかひなびた匂いがした。隅に畳んだだけの布団を広げ、ごろりとそこに寝転がる。蓄光で淡く光る紐を引くと、蛍光灯はしばらくチカチカ点滅した後、ようやく明るい光で室内を照らした。光に誘われた蛾の影が、ぱたぱたと明かりを遮った。

 ——あの子、山見崎におたど。

 頭の中で、祖父の言葉が大きくなる。学校鞄の中に例の白紙の存在を感じながらも、勇は岬に立つ雪子の想像を止めることができなかった。

 



  4


 祖父が雪子を見たという「山見崎」は、津室の鯨方、ゆかりの場所だった。中学校へ続く坂道を上り、分かれ道を左へと進む。その次の分かれ道、右はエビスさん﹅﹅﹅﹅﹅と呼ばれる神社へ続いており、岬へ行くにはもう一度、左を選ぶ。そうして木の鬱蒼と茂る道を五分も歩くとアスファルトの舗装は途切れ、道幅もぐっと狭くなる。獣道のようなその道を、臆することなくさらに進めば、ようやく開けた視界に海が見える。そこが山見崎――古代、その高台から鯨を探したという場所だ。

 小さな広場のように開けたその場所には、山見崎の役割をいまに伝える立派な石碑と、そこから見える景色を示した小さな案内板が建っている。海に向かって左手奥が津室湾で、その少し沖に頭を出すのが二つ並んだ双子岩。昔々「山見やまみ」と呼ばれた鯨を見つけるお役目は、ここから遥か沖を見渡し、その発見の合図に狼煙を上げ、その種類を伝えるには様々な旗を用いたのだという。広場の隅には、その山見が寝泊まりした小屋と狼煙を上げたという石積みの台がある。

 平生ならば――それがいつ、平生﹅﹅になってしまったのかはさておいて――山見崎は外国人たちの溜まり場であった。かつて山見が鯨を探した場所は、同時に彼らが漁師たちの船を監視するのにもってこいの場所になったというわけだ。

 史跡にたむろする明らかに観光客ではない雰囲気の彼らに、少ない一般観光客たちの足は遠のき、それを見た町の人は嫌な顔をしないではなかったが、結局のところは何も言わず、口をつぐむだけだった。彼らも悪気があってああしているわけではない、彼らには彼らなりの考えがあるのだから、とそう思って己を納得させているのだろう。

 しかし、となれば面と向かって咎められぬ外国人たちもそんな事情を理解できるはずもなかった。そもそもそこにたむろしてはならないという法はなく、法がないのならば何をしようが勝手だというのが彼ら一般の考えである。必然、彼らは彼らの目的を――いるか﹅﹅﹅を探して沖に出ていく船をマフィアの麻薬取引現場を押さえようとするが如く、鋭い目つきでビデオカメラのファインダーを覗き、追いかけているのが常だった。

 しかし、山見崎から船が見えるということは、船からも山見崎が見えるということである。それも漁師の目は外国人たちのものと違い、自然相手に鍛え抜かれた鷹のような眼である。山見崎からこちらを見ているのが誰で何人いるかなど、波の下を泳ぐいるか﹅﹅﹅の種類を当てるよりも容易いことで、今日は人が増えただの減っただの、面子が新しくなっただの、漁師たちが雑談しているのを勇も聞いたことがある。ならば祖父が船から雪子を見たというのも、見間違いであるはずがない。

 しかしなぜ雪子が山見崎へ、しかも早朝に行ったのかということになると、勇にはその理由など皆目見当もつかなかった。早朝ならば、なるほど外国人たちはいないだろう。現に、祖父も雪子は一人だったと言っていた。けれど、いくら誰もいない時間帯であったとしても、外国人のたむろするそんな場所など彼女が行きたいはずもない——。

 そんなことを考えながら眠ったせいか、その夜、勇は雪子の夢を見た。夢の中の彼女は、最後に見たときとまったく同じ姿をしていた。お気に入りの紺のジャンパースカートに、五年使ったにしては綺麗な赤いランドセル。少し跳ねたおかっぱの髪が潮風に揺れて、その涙を湛えた瞳は何かを訴えるように勇を見つめている。

 ――勇にいやん。

 雪子が勇の名前を呼ぶ。その後に訪れる、息もできないような一瞬。と、次の瞬間、彼女は唇を引き結ぶと踵を返し、家の中へと走り去る。呼び止めることも、手を伸ばすことさえできずに立ち尽くす勇を置き去りにして。

 夢を現実に引きずったまま目覚めたせいで、勇の心臓は早鐘を打っていた。金縛りにあったような感覚が四肢に残り、喉はからからに乾いている。

 ふらつきながらも立ち上がり、部屋の戸を開けると一階から朝食の匂いが立ち上ってきた。祖父母不在の離れの朝食は、いつの頃からか各自が勝手に採ることが暗黙の了解となっているというのに、珍しいこともあるものだ。訝しがりながらも勇は階段を下りかけた。すると、父の低い声が聞こえた。続いて押し殺したような母の声。苛立ちは最高潮に達しているものの、二階にいる子供﹅﹅に喧嘩の声が聞こえぬよう最低限の配慮を伴ったとでもいうような、夫婦の会話。

 その内容に勇ははっと息を飲み、思わず体を強張らせた。

「そら、ただの外国人観光客やったらええよ。けど、そうやないからあかん言うてんねん。いや、俺はずっとそう思ててんて。こんな状態やったら、お義父さんかて、いつ刺されてもおかしないんちゃうかって」

 押し殺したような父の声。

「わざわざこんなとこまで押しかけてくるような過激なやつらやで? 勇が漁師の孫って知れたら、あれかて危ない目に遭うかもしらん。そうやのうても嫌がらせとか――」

「何ゆわんな言うの。事件起こして困るんはあっちだで、大丈夫よ。そら、おらんようになって欲しいんはおんなし同じやけど、危険とまでは……」

 これも押し殺した声で母が答える。父が大きなため息をつく。

「そう言うけどな、分からへんやろ、どうなるか。最近、数も増してるし。そら、俺は田舎で子供を育てるのには賛成したけど、でもここはもう、そういう田舎やなくなったやろ」

「そういう田舎?」

「のびのびと子供が育つような田舎や。分かるやろ?」

 父の声は一層苛立った。

「とにかく俺が言うてんのは、この町がもう普通やなくなったってことや。勇かて最近様子がおかしいし、もう漁師になりたいとか阿呆なことも言わんのやろ? せやったら、ここを出て――」

「何遍言われても、いまさら新しくやり直すんはやにこい難しいおとはんお父さんやってもう歳やし」

「そしたらお前だけここに残ったらええねん」

「それ、離婚ゆうこと?」

 冷たく強張った母の声音に、階下は一瞬、水を打ったように静まった。しばらくして、父がわざとらしい咳払いをする。

「……とにかく、こんなとこは子供にも良うないやろうていう話や。まったく、文化や何や言わんで、さっさとあんな下らんイルカ漁なんぞ止めたらええんや。ほんまにあんなもん、阿呆みたいな意地で続けてどないすんねん――」

 ガシャン、そのとき皿の割れるような音がして、聞き耳を立てていた勇は飛び上がった。ああもう、苛立ちを隠そうともしない母の声が遠ざかり、それはすぐに掃除機の音にかき消される。

 下りて行くならいまだろう。手早く着替えを済ませ、鞄を引っ掴むと、勇は居間へ顔を出した。朝から何をしてるんだと言わんばかりに、迷惑そうに掃除機を見る。戻す視線でちらと見た食卓の上にはトーストにスクランブルエッグ、ソーセージ、サラダにヨーグルトといった洋食が並んでいる。

 おはよう、何食わぬ顔で父が言い、おはよう、勇も同じように返した。お前、進路はどないするん――先ほどの続きで聞かれることを恐れながら、勇は椅子に腰掛けたが、父はトーストを口に押し込むと、入れ替わりに立ち上がった。

「もう行かんかいくの?」

 掃除機を片付けた母がすれ違いざまに尋ねる。

「ああ」

 父はそれだけ言うと、母と視線も合わさずに車のキーを壁から取ると、外へ出た。ややあって、薄いカーテンのかかった窓越しに車が発進するのが見えた。と、ドンという音に続いて、鋭い悲鳴。驚いて音のした方を見ると、そこに鎮座したブラウン管には昨夜と同じ、少女たちが爆撃から逃げ惑う映像が流れていた。何か重要なニュースなのかもしれないが、なぜ朝からこんなものを流すのだろう。

 苛立った勇は、リモコンでチャンネルを変えた。ついでにサラダの上のトマトだけを口に入れ、家を出る。そして、そうすることで両親の言い合いを過去へと押しやろうとでもいうように、できる限りの早足で歩いた。坂道に差し掛かると呼吸は自然と荒くなり、額にはうっすら汗が滲んだ。柔らかい潮風が南国の木々を揺らしている。漁師たちはまだいるか﹅﹅﹅の群れを見つけていないのだろう。今朝は鉄管てっかの音が聞こえない。それでも船を監視しているだろう外国人たちの気配だけは、嫌でも感じ取ることができた。

 この町は普通やなくなった――酸欠で掠れゆく思考で、勇は両親の口論を思い返した。

 近頃、父はほとんど家に帰らない。だというのに、その父が気がつくほどにこの町に毒は立ち込めているのだろうか。それとも、帰らないからこそ敏感に変化に気づくのか。そしてだからこそ、ここを離れて新しい生活を――そんな提案を母にしたのか。この町の漁師の娘と家庭を持ちながら、この町に愛着を持たないよそ者﹅﹅﹅として、新しい生活を見つければいいと言い切るのか。それができなければ、母だけがこの町に残ればいいとまでうそぶいて。

 深まれば深まるほどに理性を失っていく思考が、ぐるぐると頭を回り続けた。今朝、口論の場面に遭遇せずとも、勇は両親の間に漂う不穏な空気に気づいていた。気がついていて、見て見ぬ振りをしていたのだ。それがまさか離婚話が出るまでの大事だとは夢にも思わず、また、その原因の一つにこの町が出てくるだなんてことも思いもよらず。

 もちろん、町の話はたまたま今朝出たというだけで、理由はそれだけであるはずがない。例えば、ようやく落ち着いたかに見えた父の転勤が再び始まろうとしているのかもしれないし、だとすれば単身赴任をしたくない父が町の問題を説得の一材料として持ち出しただけなのかもしれない。勇のこともそうだ。漁師になりたいという夢を父が知っていたことには驚いたが、そんな夢がなかったとしても、母のいない、父と二人きりでの生活など想像がつかなかったし、父にそれが耐えられるとも思わなかった。

 けれど勇にとって一番衝撃的だったのは、父がこの町を出ていきたいと、はっきりそう言ったことだった。下らないいるか﹅﹅﹅漁なんかで治安の悪くなったこの町を捨てて、新しい町の住民になりたい。そこには母を説得するための材料ではない、父の本音が混じっていた。少なくとも勇にはそう感じられたのだ。

 町に対する父の言葉はまるで裏切り者のそれだった。勇たちとは正反対の、外国人側の言い分だった。意地を張って漁を続けても何もいいことなどないのだから、そんなものさっさと止めてしまえばいいじゃないか。そうすればイルカも私たちも、世界中のみんなが幸せになれる。それで何か問題があるのかい、とでもいうような。

 問題は大ありだと勇は思う。いるか﹅﹅﹅漁は下らなくなんかないし、外国人の言うがままになるだなんてあり得ない。足元がぬかるみ、沈んでいくような感覚に逆らいながら、強く思う。けれど、その思いは声にならない。それは勇自身が「この町を離れる」という父親の言葉を聞いてぞっとしたのか、それともほっとしたのか、よく分からないからであった。もしもそれが安堵であったら? そのときは勇も父親同然の裏切り者だ。それがいるか﹅﹅﹅漁の是非でなく、この町を覆う毒から逃れたいというだけの気持ちであったとしても、自分の中に安堵を見つけることへの恐ろしさを勇は感じずにはいられなかった。

 土曜日の授業は半ドンで、生徒たちは昼前に下校していく。朝、上って来たばかりの坂道を、勇はゆっくり下っていく。同じく下校中の小学生がきゃあきゃあと声を立て、平均台でもするように縁石の上を歩いている。バランスを崩した誰かが落ちると、ひときわ高い声が上がる。雪子もあんな風に遊びながら帰るのが好きだったことを、勇はぼんやり思い出した。「この白線からはみ出したら死んでまうよ」。彼女なりのルールを決め、勇にそれを強いることもあった。

 祖父が雪子の姿を見たのは、昨日の早朝のことだった。なぜあんな場所に行ったのか。今日も彼女はそこにいたのか。

 いまは見えないその姿を探すように、勇はふと坂の上を振り返った。ぼんやりと山見崎の方を見た。と、その瞬間だった。勇は今朝の夢のように――金縛りにあったかのように動けなくなった。手足が凍りついたように動かない。普段は無意識にしている呼吸さえ困難になり、心臓がどくんと音を立てる。じわり、額に汗が滲む。

 勇の目に映ったのは、外国人の集団だった。

 美しい残暑の中、楽しげに歩く小学生たちとは対照的に、彼らはいささかうんざりとした様子でだらだらと坂を下っていた。サングラスをかけ、白い肌を真っ赤に焼きながらもなお、手のビデオカメラだけはきっちりと海へ向け、撮影を続けている。そのTシャツに大きな「KILLER殺人鬼」の文字。山見崎からの帰り道だろう。英語で何事か話しながら、立ち尽くす勇の方へやってくる。

 こちらに気づいていないのだろうか。集団は勇を避ける気配もなく、そのままぐんぐんと近づいてくる。まるでドラマのワンシーン、登場人物が車に轢かれるときのように、勇には彼らの動きが緩慢に見えた。聞きなれない英語のざわめきが、その非日常性を加速させた。血で染め抜かれたようなKILLERの文字が眼前に迫った。殺人者はお前だと突きつけた。違う、俺は殺人者やない。俺は何も悪いことなんかしとらん、声にならない声が胸に満ち、破裂するかと思われたときだった。

 障害物を避ける魚の群れのように、集団はわっとその間隔を開け、勇を避けて過ぎて行った。そして再び一つとなって——変わらぬ足取り、変わらぬ談笑。その後ろ姿はゆっくり遠ざかり、曲がり角ですっかり消える。滲んだ汗がこめかみを伝ってぽたりと落ちた。それを合図に、勇の金縛りがふわりと解けた。空気が急激に肺に満ち、勇は激しく咳き込んだ。

「勇先輩、大丈夫なん?」

 声をかけられ顔を上げると、同じ制服を着た中学の後輩たちが心配そうに彼を見ていた。その眼差し。同じ暗さを湛えたその目に、瞬間、頭に血が上り、何も答えることをしないまま、勇は一気に駆け出した。あっと驚いたような後輩の声。潮風がぐんぐん遠ざかる。海も、きらきらと光る波も、木々も思考も、何もかもを置き去りにして、勇はひたすら走り続けた。転びそうになっても、どんなに息が苦しくとも、それを振り切るようにして走った。そうして雪子の家を過ぎ、母屋を過ぎ、勇は離れの階段を駆け上がった。荒々しく引き戸を閉めると、誰かが入ることを恐れるかのようにそれを背中で押さえつけ、真っ白な頭で宙を見つめた。

 まるであのときの雪子みたいだ。しばらくして、ようやく収まっていく鼓動を感じながら、他人事のように勇は思った。彼の前から走り去り、その後彼女がどうしたのかなど、勇が知るはずもないことだった。けれど、雪子はきっとこうしただろう。誰も入ってこないようにと、こんな風に戸を押さえ、いまの勇と同じように泣き出しそうな顔をしていたのだろう。助けを求めることもできず、かといって、誰かに手を差し伸べられてもその手を握ることもできず。

 体の力が抜けたように、勇はずるりとそこに座り込んだ。そのまま膝に顔を埋めると、ぬかるんだ闇が彼を見た。

 ――あの子、山見崎におたど。

 その暗闇に、祖父の言葉が仄かに光った。

 雪子。彼女は何を思って山見崎を訪れたのだろうか。一年もの間、外の空気に触れることのなかった彼女は、そこで何を見たのだろうか。そして何を感じたのだろうか。どんな気持ちで一人で海を見たのだろうか。

 まぶたの裏で、あの日のまま変わらぬ雪子がゆっくりと振り向き、勇を誘うように歩き出す。今日、雪子は山見崎にいただろうか。それなら明日は? 明日の朝そこへ行けば、雪子は来てくれるだろうか。

 遠い昔、勇と無邪気に笑っていた雪子の声が耳に聞こえる。その声が近づき、そして遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなったとき、勇は闇に一縷の光を探すように俯けた顔を小さく上げた。




  5


 午前四時。月明かりに青い闇の中を、運動靴の足が交互に進む。右、左、右、左。音を立てぬよう慎重に、普段よりも少し小さな歩幅で。家を出たときには黒に塗り潰されていた視界は、いまは目が慣れたのだろう、とても明るく感じられた。もしかして誰かに見咎められやしないかと、少し心配になるほどに。

 人々はまだ眠りの中だ。けれどあと一時間もしないうちに、家々の窓にはぽつりぽつり橙色の明かりが灯り、町はゆっくりと動き出す。その前に――誰かに姿を見られる前に、勇は山見崎へ行かなければならない。

 潜めていた足音は、坂道まで来たところで波音に紛れて聞こえなくなった。木々の向こうで薄い光をまとった波が押し寄せ、引いていく。少し冷たい秋の空気に澄み切った空は高く、星の輪郭は確かだった。

 途中、雪子の気配を感じ、勇は何度も後ろを振り返った。暗闇に沈む町。いまは眠りに支配された町。家を出るとき、ちらと覗いた六畳間に、母は一人でいびきをかいていた。朝、出かけたきりの父は家に帰っていないらしい。

おまはんあんた、進路調査の紙、白紙で出したん?』

 夕食後、祖父が部屋へ引っ込むと、タイミングを見計らったかのように母が言った。

『辻先生から、電話あったど』

 その声がつっけんどんに響いたのは、彼女なりに感情を排そうとした結果だろう。漁師になりたい――そう書かなかった勇は母を傷つけてしまっただろうか。いるか﹅﹅﹅漁を下らないと言った夫のように、息子もこの町を裏切るのではないかと不安にさせてしまっただろうか。

 中卒で漁師になると無邪気にも勇が言っていた頃、高校くらい出なあかん――母はしかめっ面でそう言ったものだった。いま振り返れば、そのしかめっ面には幸せが含まれていたように思う。何代も続いた家業を息子が継いでくれるのだという、安堵の気持ちもあっただろう。でなければ、反対はもっと強かったに違いない。

 勇が黙りこくっていると、母は、

『何でもええから、ちゃんと出しよしだしなさい

 そう言って席を立った。これ以上は自分の踏み入る領域ではないと、そう固く信じているかのように。

 選択の権利は――もしくは義務は、どうやら勇自身にあるようだった。毒に煙り、前の見えない彼であっても、他人が代わりにその道を進むことはできない。それが母であったとしても、息子のそれを負うことはできない。多くの親が目を背けたがるその事実を、彼女はどうやら受け止めている。勇が受け止めるには重すぎる、そんな事実を。

 それゆえ、雪子はこの先どうするのか——自分自身のことから逃げるように、勇は少女のことを考えた。坂道をぐんぐん上りながら、星空を仰いだ。

 一年間くらい不登校をしていたとしても、義務教育の小学校だ、きっと卒業証書はもらえるだろう。けれど、その先は? 中学校に高校に大学、それに就職、そんな未来のことを雪子は考えているのだろうか。それはもちろん考えずにはいられないだろう。だが問題は、ただ考えたからといって何にもならないということだ。 幾ら頭の中で考えていたって、現実は何も変わらない。どうにかして手足を動かさなければ、行動しなければ、何も変えることはできない。自分を閉じ込める箱の外へ出ることはできない。

 雪子が山見崎に行った理由には、きっとそんなものも含まれていたに違いない——それが同じ行き先へと歩む勇にも分かった。前へ進めなくなってしまった自分を、どんな手を使ってでもいい、進ませる力を得ようと、彼女はきっとそう思い詰めたのだ。泣いていたって、誰も助けてはくれないと理解したあの日に、自分よりも年上でずっと頼りにしていたにいやん﹅﹅﹅﹅でさえ自分を救うことができないのだと、そう思い知らされた一年前に。

 ――勇にいやん。

 暗闇にぼんやりと浮かび上がった雪子が、あのときのように勇を呼んだ。涙交じりのその声を、勇はいまもはっきりと聞くことができた。あのとき、彼女はとても傷ついていた。その傷から、いまにも血が噴き出しそうになっているのが手に取るように分かった。そんな彼女を前にして、勇がすべきだったことはたった一つだった。それは雪子がいじめられて泣いていたあの遠く幼い日のように、「誰にやられたん、俺が代わりにやったらぁやっつけてやる」とこぶしを握ることだった。そのこぶしで雪子を泣かせたやつに仕返しすることだった。そうでなければ、そのこぶしを握っていない手の方で雪子の頭を撫でてやることだった。きっと、それだけでよかったのだ。雪子はそれだけを望んでいたに違いないのだから。

 だというのに、実際、勇はどうしたのだったか。あの日、彼は何をしたのか。闇の中の幻が消え、勇は唇を噛み締めた。

 あのとき助けを求めた雪子に、勇が見せたのは躊躇ためらいだった。大切な幼馴染を泣かせたものに立ち向かうどころか、勇はただ恐怖し、たじろぎ、そこに立ち尽くしたのだった。

 彼を擁護するならば、それは一瞬のことだった。けれど、勇は雪子を助けることができない――それは彼女に悟らせるには十分すぎる時間だった。だから雪子はぐっと息を飲み込み、踵を返した。勇に——すべてのものに背を向けた。そして、家の中から出てこなくなった。彼女を追い詰めたものを、勇をたじろがせたものをもう二度と見ずに済むように。

 雪子——その名すら呼ぶことができず、彼女が行ってしまった後も勇はそこに立ち尽くしていた。否、それは目の端に映るもののせいで、動けずにいただけだったかもしれない。彼らが臆した存在が、こちらを眺めているせいで。

 それは彼ら﹅﹅の集団だった。夕日に光る海を背景に、彼らは道の向こう側からにやつきながらこちらを見ていた。サングラスをかけ、ビデオカメラをこちらに向け、口元には笑みを浮かべたまま。その届くはずのないくすくす笑いは潮風に乗り、勇の耳元で大きくなった。

 雪子を泣かせたのはあいつら﹅﹅﹅﹅だ。勇にはそれを直感で理解していた。理解していたからこそ、そこから動くことができなかった。町中に広がった毒。その毒が勇の足を絡め取り、彼をそこから動けなくした。その言葉さえも凍らせた。もっとも、そうでなくても勇はすでに毒に侵された人間だった。はなから雪子を救うことなどできない人間だった。だから、雪子が同じ毒に侵されたことを知りながらも、そこに立ち尽くすしかなかったのだ。

 大人たちの知ることのない、それがあの日の真相だった。雪子と勇、二人だけが知る、一年前のあの日の記憶であった。

 込み上げる感情を無理に殺そうとするせいか、勇の呼吸は荒くなった。坂を上り切り、道が平坦になっても、苦しい呼吸はひたすら続いた。木々が月明かりを遮り、辺りは暗闇に閉ざされた。その暗闇の中、足裏にあったアスファルトの感触が、ふと土のそれに変わった。闇を見透かすように目を凝らすと、先から淡い光が差していた。木立のトンネルが途切れる場所、その先が山見崎だ。

 そのとき風が木立を揺らした。何かから逃げるように足を早める勇の耳に、岩に砕ける波の音が近づいてきた。しぶきを上げる海の香り。堪らず、駆けるようにトンネルを抜けると、ふわり、全身が新鮮な空気に包まれた。人影のない山見崎。勇は刹那立ち止まり、それから初めてこの地を訪れたようなゆっくりとした足取りで、柵のされた先端へ歩いた。

 水平線は遥か遠く、微かに青みがかっていた。同じ町に吹く風だというのに、この岬を抜ける風はどこか懐かしく、同じものではない気がした。しばらくして、勇はそれが静寂のせいだと気づいた。いつからか、この町から奪われてしまったもの。静けさがこの場所には満ちていた。

 ――山には山の、海には海の神さんがいらはる。

 すると、長らく忘れていた曾祖母の声が、そのとき耳の奥で蘇った。

 ――空には空の神さんが、雲には雲の神さんが、土には土の神さんが、ほれ、こげなこんなちこい小さな石でも、小魚じゃこらでも、なんかどあらゆるものに神さんは宿っていらはる。やげだから勇、世の中に粗末にしてええもんはいっこ﹅﹅﹅もねえ。この石みたいにちこい小さいもんから、エビスさんくじらみたいにでかいもんまで、どこぞにもどこにでも神さんがいらはって、命を巡らしとるんじゃからなぁ。

 声を、じっと勇は聞いた。喧騒に掻き消されていた、静かな声。懐かしいその声にじっと耳を澄ませていると、勇は何か失ったものを取り戻せるような、そんな心地に陥った。いまからでも何も遅くはない、すべてを一からやり直せるような気がしてならなくなった。この町も、漁師の夢も、父母のことも、そして失望させてしまった雪子のことも。

 けれど、それはこの静寂が見せた幻であることを勇はどこかで知っていた。例えいまは静けさに聞き入ったとしても、夜明けと共にそれはやってくる。風は緩み、海の香は失せ、地は踏みならされ、港より毒はひっそりと充満し、人はそれに侵される。疑いや不信が人々の心に盾を構え、暴力の気配が充ち満ちる。以前の町にはなかったものがこの町を飲み込み、徐々にすべてを覆い尽くす。

「嫌や」

 勇の声が岬に響いた。思わず叫んだその声は、まるで悲鳴のようだった。その悲鳴は予期もせず、あのニュースを脳裏に映し出した。爆撃に逃げ惑う、砂漠の街の少女たち。壊された街を、我が物顔で進む戦車たち。

 そのとき初めて、その見知らぬ彼女たちのことを勇は思った。あの少女たちも当たり前に享受していたであろう平穏な日常のことを思った。幼い彼女たちとは直接関係がないであろう理由で空からたくさんの爆弾が降り注ぐ、それ以前の暮らしを思った。

 すると、その光景は不意にこの町の景色と重なって――そうや――勇はようやくこの町に起きたことを正確に理解した。

 この津室という町は戦場となったのだった。ずっと昔、二人組の外国人がここを訪れたという日から――彼らの撮った映像が世界中で流された日から、この町はあの砂漠の街のような戦場と化したのだ。それは直接、人間の命を奪う爆弾こそ降らないかもしれない。けれど世界中を相手取った戦争の舞台であり、世界中から放たれる攻撃を一身に受け止める場所として、この町は選ばれてしまったのだ。勇はしばし呆然としてそこに立ち尽くした。

 いるか﹅﹅﹅を食べるということは、それほど悪い﹅﹅ことだろうか。世界中から非難され、排除されるべきものだろうか。津室に生まれた勇はそれを知らない。けれど、一つ確かなこととして、あの外国人たちが残酷だと言えば、それはきっと残酷だということになってしまうのだ。なぜなら彼らは譲ることを知らず、だというのに勇にはそれにたじろぐ弱さがあるから。相手の正しさ﹅﹅﹅を撥ねつける強さがないから。となれば勝敗は初めから決まっている。津室は小さく、彼らは大きく、ゆえに正しい。その正しさに従えば、いるか﹅﹅﹅漁は即刻、世界から無くなるべき悲劇でしかないのだ。

 勇は潮風の吹く方を見つめた。耳の奥ではあの少女たちの悲鳴が、彼や雪子のものと重なって聞こえた。

 あの砂漠の街には、どんないるか﹅﹅﹅がいて、同時にどんないるか﹅﹅﹅漁師が存在しているのだろう。勇は虚ろに考えた。それはどこの国の爆撃機か、いるか﹅﹅﹅漁師を殺すべく投下された爆弾で、少女たちは逃げ惑う。戦場に生まれた子供たち。攻撃に抗う術を持たない子供たちは、そこでどんな未来を描けばいいのだろう。正しい﹅﹅﹅叫びを信じて故国を捨てるか、それともの戦いに身を投じるか。

 水平線が微睡みから覚めたように光を帯び、夜明けを知らせる。静かな海。何をせずとも永遠にこの静けさが続けばいいと願う勇は、戦場に生まれながら戦わず、それでいて勝利を祈る臆病者なのだろう。命惜しさに背を向ける卑怯者なのだろう。戦場となってしまったこの町には、戦わない者の居場所などない。逃げるか戦うか、選択肢は二つに一つだ。

 なぜ雪子が山見崎にやってきたのか、勇はその理由が分かったような気がした。そして、ここへ来たのなら、この静かな海を眺めたのなら、きっと悟ったものは同じだろうと、そうも思った。俺たちは戦場に生まれたのだ、彼女もそんな悟りを得たに違いない。問題は、そう理解した上で彼女がどんな未来を選択をするのか。戦うのか、戦わないのか――それともそこに三つめの、別の選択肢を探そうともがくのか。

 勇にとって、それは決して知り得ないことだった。彼にできることは己の行く先を決めることだけであり、それはこの場所へ来る前から分かりきっていた事実でしかないのだ。この町に残るのか、残らないのか。諦めるのか、諦めないのか。彼自身が決めなければ他に誰が決めるというのか。

 水平線を、輝く光が一文字に染める。

 これが最後だというように、吹く潮風を胸いっぱいに吸い込むと、勇は海に背を向けた。もうすぐ朝がやってくる。選択のときは刻一刻と近づいている。

 その背中を呼び止めるように風が吹いた。しかしその声は聞こえなかったか、彼は振り向くことをしなかった。自分の意志で、彼は歩みを進めていく。そうして山見崎を去る少年の姿は、どこかで遠い砂漠の街で、祖国を捨てた少女たちの背中と二重写しに重なりながら、小さく消えていくのだった。

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