巨人の足

 海野明男は、物心ついた時分から、そんな夢を見続けていた。

 母と二人の姉たちと、彼は懐かしい景色の中を歩いている。岬へ続く長い坂道。その傍らには、南国の日差しに照らされて、彼方では黒く、此方は底まではっきり見通せるほど透明な海が広がっている。

 それ津室の鯨舟よいそらよいそら、漕ぎ出でて来たか、よいそらよいそら――。

 父の口ずさむ鯨節が、潮風に乗って聞こえてくる。その声の聞こえる方を見ると、海にぽつりと浮かぶ天渡船てんとせんから、父が大きく手を振っている。よく日に焼けた漁師の顔。その笑顔に、明男たちも立ち止まり、大きく手を振り返す。牛頭鯨ごんどは捕れたか、それとも獲物は赤坊鯨あかぼうか――。

 すると、そのときだ。突然、雲が太陽を隠したように、あたりがふっと暗くなる。どうしたことかと明男が思わず空を見上げると――そこにあるのは巨人の足。とは言っても、目に映るのは人間どころか、この津室の景色すべてを一踏みで破壊してしまうほどの大きな足裏だけで、その顔や体や手など、他の部分は見えたことがない。

 だからそれは巨人の足﹅﹅﹅﹅ではなく、巨大な足﹅﹅﹅﹅なのかもしれぬ――明男はそう思うこともあった。妙な思いつきやもしれぬが、所詮夢だ。そんなこともあるかと思う。

 ともあれ、その巨大な足はぬうっと眼前に迫り来たと思うと、立ち尽くす明男たちなどお構いなしにそのまま地面を踏みしめる。為す術もなく、一家は――海に浮かぶ天渡船や集落は——踏み潰される。夢はそこで終いであった。明男が叫び、跳ね起きるからだ。その後、巨人はどこへ行くのか、踏み潰された家族は、船や集落はどうなったのか、知りたくないわけではないが、その瞬間の恐ろしさに耐えられたことは、この八十八年、一度もない。

 夜中に叫び、飛び起きる。この夫の奇癖に、隣に眠る照子が気づいていないわけもなかったが、この出来た女房はいつも知らぬふりを決め込み、親はもちろん、子供たちにさえ漏らすことをしなかった。

 一つは夫の体面を気遣ってのことだろう。頑固で無口な海の男、それも鯨に銛を打つ役目の勇猛な刃刺し﹅﹅﹅が、幼子のように悪夢に怯え、飛び起きるというのは恥である。また、もう一つは照子の生まれた時代に由来するのかもしれない。敗戦時、まだ七歳と幼かった彼女は、ほとんど戦争の記憶を持たなかった。対して、明男は十五歳。空襲を生き延び、予科練への志願が叶った年に戦争に敗けた。その胸の内を思いやる繊細な心が、照子にはあったに違いない。

 しかし、明男はといえば、一度もあの夢と戦争とを結びつけたことはなかった。彼にとって戦争とは、あの美しい海の彼方から飛来した爆撃機が、青い山の向こうの大きな町を——挺身隊の工場のある都市を姉ごと焼き尽くしたことであり、また遠い地でアメリカ軍の捕虜となった父が、収容所で処刑されたことであった。それは轟音と、光の雨のようだった焼夷弾、翌日訪れたその地に充満していた焦げの匂い、胸が裂けるような悲しみといった、その肉体に直結する具体的な記憶であり、決して抽象的なものではない。

 けれど、巨人の足というのはどうだろう。夢というものは複雑な現実を細かく分解し、それを再構成して、頭の銀幕へ映し出すような性格はある。戦争の記憶が分解され、巨人の足として再構成されたという仮説も成り立たないということはない。

 しかしこれも当然のことながら、戦争の経験のみから明男という人間がつくられたわけでは到底なかった。彼の九十年近い人生に照らせば、十五までの人生よりも、むしろそれから後の人生の方が分量の大きいことは、誰の目にも明らかである。ならば、明男がその悪夢を見続ける理由は何なのか。


 人には、そこにあることは知っていても、それを見まいとする力が働くことがある。たくさんの記憶を無意識に分類して、一方を光の当たる場所へ、もう一方を影へと仕舞い込むのだ。例え、それがひとときは輝かしい記憶であったとしても、それが影へ押しやられてしまうようなこともある。

 明男はいま、死の床に就いていた。その思考は霧がかったように曖昧に、夢と現の狭間をさまよっている。そうしているうちに、無意識の力が緩んだのだろう、影に押しやられたうちの一つ、遠き日の記憶の蓋がことり﹅﹅﹅と音を立てて開いた。長い間、閉じ込められていたその風景は、みるみるうちに明男の脳裏へと広がり、彼を過去へといざなった。


   *


 南極大陸を囲む、南氷洋。

 どこまでも深い色をしたその海を思い出すとき、明男の耳には汽笛が聞こえる。ブオーーーーッ。その胸を震わすような低い音は、ゆうに一分間、この極寒の、人間のいない世界に響き渡る。神々しいまでのその音色に、明男は防寒服の襟を正す。

 この南氷洋は豊かで、同時にとても恐ろしい海だった。あちらこちら小島のようにそそり立つ氷山に、嵐に立つ激しい白波。その激しい自然の力はまるで意志あるもののように、隙あらば明男たちの捕鯨船を飲み込まんとした。それでも明男を始め、この捕鯨船に乗り込んだ乗組員たちは、その顔に一片の恐れも見せることはなかった。ただその眼に宿るのは、この海の大物﹅﹅に立ち向かうため、一致団結するのだという意志の光。『速度、いっぱい!』。帆柱の上から、その大物――鯨を見つけた乗組員が叫ぶ。すると甲板は一気に慌ただしく、船足はぐんと早くなる。急ぎ、明男も舳先へと向かい、ノルウェー式の捕鯨砲をしっかりと握る。

 このノルウェー式捕鯨砲というのは、近代式のもりである。これは、古来より津室の鯨方が使ったような人の手による槍投げ式のものとは違い、火薬によって撃ち出される、兵器に似た銛であった。仰々しい表現ではあるが、それを兵器﹅﹅とまでいうのには訳がある。この銛の先には火薬が仕込まれており、これが鯨に命中するや否や爆発して、その巨体を死に至らしめるのだ。古式捕鯨にならい、この氷の海に身一つで飛び込んで止めを刺せるわけもないが、それでも暴れる鯨に近づくこともなく、危険のないその方法は、とても画期的なものだった。

 しかし、いくら画期的な道具といっても、道具は道具、命中させるのには砲手の腕が要る。もし、一度で仕留められなければ、二番銛、三番銛が撃たれることとなる。さすればどうなるか。度重なる爆破によって肉は傷み、鯨は暴れ、船乗りたちに危険は及び、良いことなど一つもない。

 その点、明男はいい砲手だった。明男ばかりでなく、津室から捕鯨船に乗った男たちは、総じて砲の名手だった。それは古くから鯨を捕り続けた津室のというものを、証明しているようだった。

 とはいえ、捕鯨船に乗った男たちは、津室の人間ばかりではなかった。年齢も出身も違えば、戦争へ行った者、行かなかった者、妻子のある者、独り身の者など、様々な背景を背負った者たちだ。それでも、彼らははまるで旧知の仲であったかのように、互いに協力することを惜しまなかった。それは、共同作業に秀でる日本人の特性以上に、その胸の内にあるものが強く影響していたに違いない。戦争に負け、その日食べるものにも困る有様の祖国に、何としてでも食料を届けてやりたい。あの焼け野原を一刻も早く元の姿に戻してやりたい。そんな思いが、この厳しい環境において皆を奮い立たせていたのだ。

 同時期、南氷洋で捕鯨を続ける欧米の船が鯨から油を絞り捨てる一方、明男たちはその肉を食卓へ届けたい一心で、遠い海での操業を続けた。絞った油は欧米へ売り、外貨獲得の一環ともした。

 結果、日本の船はどの欧米船よりもたくさんの鯨を捕ることとなった。その事実は、明男のみならず、男たちの胸に輝きをもたらした。それは一度は失われてしまった、誇りとでもいうべきものだった。

 日本は大きな戦争に負けた。完膚なきまでに叩きのめされてしまった。勝利した亜米利加アメリカは日本を支配し、戦の先頭に立った将たちを次々と死刑に処し、腹を空かせた子供たちをチョコレートで手懐けた。至る所に広がる焼け野原は亜米利加軍の落とした爆弾のせいではなく、日本が﹅﹅﹅間違って﹅﹅﹅﹅いたせいだ﹅﹅﹅﹅﹅と、その理由を巧妙にすり替えた。そうやって、敗北とはかくなるものだということを明男たちに知らしめた。

 日本は神のおわす素晴らしい国だと、明男はそう教えられて育った。それは日本人として生まれた彼の自尊心の一部を成すものだった。敗戦はそれを粉々に砕いた。

 だが、そうして一度は失われてしまった祖国の誇りがいま、この捕鯨船の上に蘇った。外国を引き離してのその優秀な捕鯨成績は、それほど大きな自信を彼らにもたらしたのである。

 けれど、そんな輝かしい時代も悲しいかな、長くは続かなかった。欧米各国が次なるエネルギーの供給源――油田の開発に着手し、産業革命以来、灯油や機械油として重大な役割を果たしていた鯨油に見切りをつけたのは、その直後のことだったのだ。


   *


「ひいじいちゃん。ひいじいちゃん。眠ってるの?」

 海に聞こえるはずのない、あどけない声が彼を呼び――明男は薄くまぶたを開いた。声の主が、彼を見下ろしている。その背景には、染みだらけの天井がぼんやりとある。はて、ここはどこだろう。そう自問して気がつけば、つい先ほどまでそこにあった、冷たく美しい南氷洋の景色は消え、捕鯨砲を握りしめていたはずの明男の手には、僅かな力も入っていなかった。

「あ、起きたよ。ひいじいちゃん、おはよう」

 再び、聞こえるはずのない幼子の声がして――明男はようやくその声の主に焦点を合わせた。さらさらと柔らかい髪の下で、くりっとした目が笑っている。つられるように、明男の口元が緩んだ。

 幼子は、いさむだった。勇という名前は、将来、漁師を継がせようと、鯨の古名である勇魚いさなから取った。本当ならば、その名は息子のために考えたものだったが、照子の産んだ子供は二人とも女児で、漁師を継がせることは叶わなかった。それでも食べ物の心配をさせることなく、立派に姉妹を育て上げたことは、明男の一つの誇りである。何せ、この現代になっても子供を餓死させる親がいるくらいで——あれはどこの子だったか、この町の男の子ではなかったか。

 焦点の定まらぬ思考が浮かんでは消え――と、明男は一つ瞬きをした。この子はいま、明男を何と呼んだだろうか。

ひいじいちゃん﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅は、いま、頭がぼんやりしてるんや。けど、悠太のことはわかっとるから、たくさん話しかけてやりや」

 別の声が――男の声が優しく言った。明男がそちらに視線を移すと、そこには子供の父親らしき男が座っている。

「うん」

 悠太と呼ばれた子供が素直に頷く。

ひいじいちゃん﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、頑張って。もっと長生きしないとダメだって、パパも言ってるよ」

 真っ直ぐな瞳が明男を見る。しかし当の明男はといえば、さてこの子供は一体どこの誰なのかと、懸命に頭を絞っていた。この子が勇でないのなら、勇は一体どこへ行ったのか。この海野家の、刃刺しの血を継ぐ男の子は、いまどこにいるのだろう。

 その子は巨人の足に踏み潰された――。

 頭の中に不吉な声がして、明男は瞼をぴくりとさせた。明男の父は死んだ。母も亡くなった。二人いた姉たちも、あの悪夢に出てくる家族は皆亡くなった。無論、巨人に踏み潰されたわけではない。戦争や病が彼らの命を奪ったのだ。夢から巨人が現実へ飛び出したわけではなく、ましてや、そこに勇が巻き込まれるはずもない。

 ――いんや、それかそれとも夢に勇は出てきた

 重力に負けるように下りた瞼の裏に、悪夢の始まりの風景が映し出された。母に姉たちに、天渡船の上の父。よくよく見ると、海に船は一隻ではなく、坂道には他に歩く人もいる。その人々の顔に明男が目を凝らしたとき、前触れもなく空が暗くなり――巨人の足が視界を覆った。


   *


『あは年の瀬、北風きたごち吹く、雨降りのさぶい日ぃのことじゃったぁ。その年の鯨は不漁でなぁ、このままじゃ年が越せれんような有様でよぉ。どないしてでも鯨が欲しい、だえもがそう思ぉとったぁ。山見がでかい背美﹅﹅の子持ち見つけたんは、そなときじゃったわい。おいでもよぉ、「背美の子持ちは夢にも見んな」と昔からゆらやいよぉ言うだろう背美鯨せみくじらっちゅうんは母性の強ぉて荒くたい鯨やげ、子供に手出いいししたら、親ぁ暴れ、せいでも親に手出いいししたら、子を思うんで余計にばたくる暴れるでぇ、津室の鯨方にゃぁ、背美の子持ちは手出ししやれんしてはけいないという知恵を持っとったぁ。おいでよぉだから、山見が見っけた子持ちの背美も、ほんまやったらあがら俺たちの獲物やあるかいなぁではなかった。そなこたぁ鯨方もよおく知っとったぁ。せいでもよぉ、ほにほに本当にあの年は不漁でよぉ、これじゃぁ年も越せれんのじゃぁ。おいでそれでよぅ、しゃぁない仕方がないと心に決めて、みぃんな冬の海へ出たぁ。小雨の降るさぶい日ぃによぉ、津室鯨方の誇りにかけ、夜通し闘こうたぁ。ほだえる抵抗する鯨に銛打って、とどめ刺て、ようよう背美の大鯨を仕留めたぁ。皆が皆、力を合わせた、ほんまにええしごと﹅﹅﹅じゃったぁ。……けんど仕留めたはええがなぁ、この大鯨はてちにとても大きゅうて、どがえどんなに舟を漕いだとて、いっこも前にいごかんやげぇ。いごかんどころか、黒潮の急流に沖へ沖へと引こずられてまうんじゃぁ。ほんで、あがら俺たちも夜通し船漕ぎもって疲労困憊の身じゃぁ、「このままやと、鯨と一緒いしょに海の藻屑やのう」ゆうんで、ししくりもって泣く泣く大鯨を船から切り離し、しとだけでも生きて浜ぁ戻ろうとしたぁ。おいでも、そんときにはもう遅かったんじゃぁ。飲まず食わずの上、師走のかでがさぶくてよぉ、皆、かいろくすっとろくに持てれんかったぁ。そがんそうするうちに、一艘、また一艘、強風怒涛に巻かれた舟は、木の葉みたいに海ぃ沈んでのぅ、せいでも流れ流れて生き永らえたんはぁ、百十四人のうち、たったの十三。津室鯨方三百年の歴史は、こうして断たれることになったんじゃぁ――』


 瞼の裏で、闇が揺蕩たゆたう。海の底から声が響く。江戸時代の始めから続いた古式捕鯨、その伝統を終わりへと導いた「大背美流れ」を語るのは、明男の祖父、徳次郎か。徳次郎が生まれたのは、いまから百五十年も前、大背美流れの年だった。徳次郎の父、つまり明男の曾祖父は、その大惨事で亡くなっていたのだ。

 当時、赤ん坊であった徳次郎に、その記憶はないはずだった。しかし、彼はその光景を目の当たりにしたかのように明男に伝えた。否、そこに﹅﹅﹅いたかの﹅﹅﹅﹅ように﹅﹅﹅悲劇を語った。己が目で巨背美を見、己が肌に波しぶきを感じ、櫂を取り、力尽き、海の底へと沈んでいき、だからいまこれを語る我が身はここにあらず、師走の冷たい波の下からお前に語りかけているのだよとでもいうように。

 不思議なことに、徳次郎により繰り返されたその話は、何十年経ったいまも、明男の中で生きていた﹅﹅﹅﹅﹅

 生きていた﹅﹅﹅﹅﹅というのは、こういうことだ。それを己が経験のように語った徳次郎のように、明男も大背美流れを知っていた﹅﹅﹅﹅﹅。徳次郎から語られただけの、いまや史実﹅﹅に分類されてしまうようなそれを、明男は徳次郎と同じく、その目で見たかの如く記憶していた。師走の風に翻弄される小舟を、子をかばって暴れる鯨を、その激闘の凄まじさを、明男もまるで自分が経験したかのように、その細部に至るまで知っていたのである。

 加えて、もう一つ不思議なことがあった。それは明男はその経験﹅﹅の中で、見たことのないはずの曾祖父の姿を、目に焼きつけていたことだった。津室の刃刺しであるその人の、誰よりも勇猛なその横顔。巨鯨を恐れず、揺れる船の舳先に立ち、銛を握る後ろ姿。やがて、その背をぐいと反らせるようにして投擲とうてきした銛は、狙いあやまたず、弧を描くようにして巨鯨へと突き刺さる。『見とうかみたか、坊主』。曾祖父は、明男の存在に気づいていたかのように振り返り、ニッと笑うことさえした。『こわいら俺たちしごと﹅﹅﹅やげ』と。

 その笑みに、明男の胸は充ち満ちた。他に例えようもないよろこび﹅﹅﹅﹅が体の底から湧き上がった。彼はその感情を伝えようと、思わず口を開きかけた。と、そのとき曾祖父の笑顔がゆらりと揺れた。そればかりでなく、その色は褪め、遠くなり、遥か彼方へ押しやられた。景色のすべてが溶けてなくなっていくような感覚に、ひいじいやん﹅﹅﹅﹅﹅﹅! 明男は叫んだ。すると、いつのまにか厳しい顔をした曾祖父は――彼だけではなく、大背美流れで死んだ大勢の男たちは舟の上には一人もおらず、黒い波の下から此方を見つめ返しているのであった。


   *


「ねえ、ひいじいちゃん﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅はどうしたの?」

 幼いの声で、明男はいま一度、目を開けた。その直前、巨人の足を見たような気もしたが、こうして穏やかに目覚めたとなれば、それは思い違いだったのだろう。あんな巨大なものに踏み潰されれば、後には何も残らない。人間どころか、この町も、海さえも消えてなくなってしまうに違いない。

 途切れ途切れに息を吐くと、開け放たれた障子からひゅうと風が舞い込んだ。体に染みついて香らなくなっていた潮の香がふと鼻先に香り、明男はたまらないほどの懐かしさを覚えた。

 津室。この美しき故郷。あの戦争に負けた日も、南氷洋へ旅立ち、そして帰った日も、故郷は変わらずここにあった。ここには年老いた祖父が、女房の照子が、その照子が生んだ可愛い娘たちがいた。そればかりではない。死んだ父も、姉たちも、戦後病気で亡くなった母も、先祖の魂と共にここにあり、明男を見守っていてくれた。だからこそ、津室は津室であり続けた。徳次郎や先祖たちが握った銛が火薬を使った砲となり、手漕ぎの鯨舟が焼玉エンジン付きの天渡船となり、港がコンクリート造りになり、家族で歩いた小道がアスファルトで舗装され、そうして時代の進歩がどれほどその景色を変えようと、津室は津室であった。津室の人々の故郷として、永遠にここに在り続けているのだった。

 だというのに、どうして彼はいままで南氷洋のことを、大背美流れを忘れていたのだろう。祖父から、曾祖父から受け継いだものを思い出さずにいたのだろう。その理由が思い出せぬまま、明男は再び瞼を閉じた。


   *


 湾の水があけに染まる。水揚げを終えた船が、次々と港へ戻っていく。最後の一頭に銛を打ち、暴れるそれを船上に引き上げると、明男も彼らの後を追った。

 昨日のうちに湾へ追い込んでおいた獲物は、鯨としては小型の条海豚すじいるかであった。それも小さな群れであったため、水揚げは早く楽に済んだ。これが重さにして十倍以上もある牛頭鯨ごんどとなると一苦労だが、津室の人々が好むのは牛頭鯨ごんどである。もちろん生もいいのだが、味をつけて干した干物も美味い。数の取れぬ大型鯨よりも、それよりは小型の牛頭鯨ごんどのような鯨を津室の人々は日常的に食してきた。それが美味いと感じる味覚も、食べ続けてきた歴史があればこそだろう。

 港へ帰ると、いるか﹅﹅﹅は次々と肉にされる。仲間の漁師たちとしばしそれを眺め、取り分の肉を受け取ると、明男は一度家へ戻った。

「おうい、これ」

 玄関から呼ぶと、眩しい縁側から照子がいそいそと上がってきた。畑仕事で焼けた顔に、にっこりと笑みが浮かぶ。

あでぇまあよぉけたくさん。あとでお裾分けせいでやしないと

 包みを押し頂くようにして、台所へ消える。

「帰りよったか」

 そのまま居間へ入ると、徳次郎が顔を上げた。今年、九十五というこの祖父は矍鑠かくしゃくとして衰えることを知らなかった。祖父が父母や姉たちよりも長生きするなど、幼い時分には想像もつかなかったが、順番﹅﹅というものは時に前後をするものらしい。

「何じゃった」

 いつものように徳次郎が訊く。

いるか﹅﹅﹅やげ」

 これもいつものように、微かに苛立ちを含んだ声で明男は答える。煙草に火をつけ、くゆらせる。縁側から入る風が、それを雲のように棚引かせる。仏壇に収まった父の写真が、その向こうにぼやけて霞んだ。

いるか﹅﹅﹅なぁ」

 徳次郎はしゃがれ声で呟いた。そこには昔、大背美流れを語った朗々たる響きはない。しかし、その芯たる精神は少しも錆びてはいないことを証明するように、皮膚が薄くなり、てらてらとした徳次郎の頰に赤味が差した。

いるか﹅﹅﹅捕っても、しょもないやろう。ええかの、津室の男はてちにとてもでかいんを相手にしよった。ちこい小さい山ほどでかい鯨、あがは若い時分、そなでかいんを捕ったんど。網舟が鯨の周りを取り囲みもて、こがにこんなふうにぐるっと網を張る。勢子舟に乗りもて、あがはそれをじい﹅﹅と見よる。刃刺しは要やげ、どんと構えとかんといかれんいけないおいたらそこでやいき勢いよくほーどえいと銛を投げらぁ。この間合い、これが名うての刃刺しのしごと﹅﹅﹅じゃのう――」

「鯨はやげ。知っとろう?」

 濃い煙を吐き捨て、明男は灰皿に煙草を押しつけた。

「氷に当たっても沈まんようなてちこいすごい船で、大砲みたいな銛をどかんと打ち込むんやげ。ほたら、ばあと火薬で脳味噌もじけて弾けて、鯨ぁ一発で浮かびよる」

「それもしょもないやろ」

 しかし、なおも徳次郎は言う。

「刃刺しは鯨と男の一本勝負じゃ。命懸けのたたかい﹅﹅﹅﹅や。なでえだから、でかい鯨に価値があんのや」

「そないな古い話をしてもおもろない」

 明男の口調は刺々しかった。

「じいやんが捕まえせんようなでかいんを、わえぁ俺は南氷洋で何百と捕ったんやで。十や二十の話ちゃう。何百や。あなことさえなけりゃあ、いまもわえらぁ俺たちは――」

 唐突に、明男は言葉を切った。その続きを知る徳次郎の顔からは、ゆるゆると赤味が消えた。沈黙に、照子が鍋を踊らすジャッジャッという音が響いた。昼飯は、いるか﹅﹅﹅のすき焼きだろう。明男が肉を持ち帰ると、照子はいつもそれをつくる。いるか﹅﹅﹅の脂と野菜を鍋で炒めて煮込む、海野家の味だ。

「……ほたら、あいつどいつまでのことやったかのう」

 充分すぎる沈黙の後、ぽつり、徳次郎が呟いた。

「その、捕鯨……捕鯨……」

捕鯨モラトリアム﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅や」

 次の一本に火をつけ、乱暴にふかして、明男は答えた。

「十年ちゅうことやけど、どがえになるかどうなるかわからぁせんわからない。いっぺん決まったもんは、どもならんと思うが」

 一般には聞き慣れぬ、その単語。モラトリアムというカタカナは、一時停止の意だという。鯨の話題に明男が苛立ち、徳次郎に当たるのはそのモラトリアムのせいだった。

 欧米船を抑え、輝かしい実績を上げた、あの南氷洋。そこで取り戻したかに思えた胸の誇りは、明男の中で徐々に腐れて始めていた。IWC――国際捕鯨委員会という、いかにも﹅﹅﹅﹅な名前を冠した集まりが、このたび一切の大型鯨を捕ることを禁止したのである。

 もっとも、それは鯨の減少を理由にしてのことではあった。けれど実際のところは、いままで鯨油を必要としていた欧米諸国が油田という新たな資源を見つけ、鯨を必要としなくなっただけだろう。そうでなければ、保護という理由があったとしても全面禁止﹅﹅﹅﹅に踏み切ることはできなかったはずだ。

 その巨体を余さず利用しようと思えば、種を絶滅させるほどの数は捕れぬ。しかし、鯨油を絞るだけ絞り、あとは打ち捨てていた彼らの身勝手、その煽りを受ける形で明男たちは故郷へ戻らざるを得なくなった。そして沿岸にやってくる小型の鯨だけを、細々と捕るようになった。鉄管てっかという道具を使い、いるか﹅﹅﹅を湾へ追い込む、追い込み漁が始まったのもその頃である。それは徳次郎以前の時代から続いた大型鯨の捕鯨、その伝統を禁止された漁師たちが、手探りの中、生み出した漁とも言えるものだったのだ。

「十年も後やと、あがは生きとらんやろうなぁ」

 徳次郎の視線が宙を見る。その後、明男の顔を見やる。

おまはんお前は十年の辛抱や。そのときが楽しみじゃぁ」

 励ますような徳次郎の言葉に、明男は無言を貫いた。暗い顔をする孫に、徳次郎は何かを言いかけたようだったが、そのまま口を閉じると、ゆるゆる顔を俯けた。


 果たして、明男の憂いは現実となった。

 捕鯨モラトリアムが発効から十年が経ち、条約見直しの年になっても、大型鯨の捕鯨の解禁はなされなかった。国際捕鯨委員会の科学委員会は、一部の鯨種につき、捕鯨を再開しても問題がないほどに鯨は増加していると報告をしたにも関わらず、国際捕鯨委員会はそれを無視してモラトリアムを続行した。そしてこの決定は南氷洋ばかりでなく、津室沖での大型鯨の捕鯨さえも再開の見通しを立たなくした。

 これまでの捕鯨を再び――そんな漁師たちの念願は叶わなかった。しかし、それでも彼らはじっと耐えた。そして、粛々と漁を続けた。規模は昔には及ぶべくもないが、新しく始めたいるか﹅﹅﹅漁を、これも時代だと割り切りながら。

 かくして、津室に大鯨が揚がることはなくなった。これで世界を舞台にした一連の鯨騒動はひと段落したかに思われた。

 しかし、漁師の受難は終わらなかった。それどころか、後から思えば、これは始まりに過ぎなかった。鯨の巨体を、その堂々とした姿を、明男の無意識がようやく記憶の底に押し込めることに成功した頃、今度は彼ら﹅﹅の方が津室の地にやってきたのだ――。


   *


 それは、まさに明男の目が開く直前だった。瞼の裏に大きな鯨がゆうゆうと泳いだ。それに気づかず、惜しくも目を開けてしまった彼は、いま一度その姿を見ようと瞼を閉じたが、しかし鯨はすでに泳ぎ去った後だった。それでも、もしかしたらその闇色が大鯨の皮色かもしれぬと諦めきれずに目を凝らし続けたが、闇はそのまま闇として在り、観念した明男はとうとう再び目を開いた。

 その目に映ったのは、やはり染みだらけの天井だった。それに剥がれかけた砂壁と、セロハンテープ跡の残る長押なげし。記憶を辿れば、その黄ばんだセロハンテープは、長らく一枚の絵をぶら下げていた――勇の描いた、鯨の絵だ。

 「僕のおじやんおじいちゃん」。可愛い娘の可愛い男孫、勇はその絵にそんな題をつけたのだという。なるほどよく見ると、画用紙一面、真っ黒に塗られた大鯨の前に、親指の先ほどの小さな舟が浮かんでいる。その小さな舟には、さらに小さな棒人間。棒人間の手には銛。「ははあ、こわえなんか」。娘の洋子にその絵を見せられ、明男は図らずも胸を打たれた。

 そのとき、徳次郎はとうに亡くなっており、家で鯨の話をする人間は誰一人としていなかった。それでも、洋子と恵子――娘たちが小学生の時代には、教科書に捕鯨船の話が載っていたものだったのだが、それも捕鯨モラトリアムのせいだろう、いつしか他の物語に差し替えられた。

 日本から、捕鯨という文化は消えようとしていた。あれほど食卓に上った鯨肉も、供給されねば口には入らず、その味を知らねば人は郷愁を覚えることもない。

 けれど、日本の他の地域はそうであっても、津室は鯨と切っても切れぬ関係にある町であった。資料館や供養塔、「エビスさん」の名で親しまれる鯨神社など、史跡があちこちに点在している。忘れようにも忘れ得ぬ歴史がそこにある。それが勇の興味を引いたのかと思うと、明男は素直に嬉しかった。

 しかし、そうなるともどかしいのは明男の話下手であった。彼は徳次郎のように話がうまくない。寡黙だった父の血を継いだのか、必要最低限の言葉しか口から出てこない。それゆえ、「おじやんも、てちにとてもでかい鯨を捕りよったん?」。エビスさん﹅﹅﹅﹅﹅で巨大鯨の骨でできた鳥居を見たという勇に尋ねられても、その真っ直ぐな視線に耐えかね、「ああ」とか「そやなぁ」とか、照れ隠しのように一言発して立ち去ることしかできなかった。それが孫の興味を削ぐかもしれぬと、己を無様に思いながら。

 だからこそ「勇、大きゅうなったら、じいやんみたいな鯨捕りになりたいんよ」。洋子にそう知らされたときには、誇らしい気分で胸がいっぱいになった。同時に驚くほど安堵した己に気づいた。これで俺のしごと﹅﹅﹅は終わった――重たい肩の荷が下りたような気がしたのだ。

 明男が、戦争で死んだ父が、徳次郎が、また大背美流れで死んだ曾祖父がそうであったように、勇も津室の漁師になる。漁師になると言ってくれている。鯨捕りの血は連綿と続いていく。この先もずっと、永遠に――。

 ――永遠?

 宙を漂っていた明男の視線が、ふとセロハンテープの跡を見た。そこにあるはずの絵がないことを確かめた。明男はあの絵を気に入っていた。それなのに、なぜそれは剥がされてしまったのだろう。一体、誰がそんなひどいことをしたのだろう。

「勇、勇――」

 明男は小さな孫を呼んだ。しかし、その声はひどく掠れていて、まるで岬を吹き抜ける海風のようだった。ひゅう、ひゅう、その風に混じって、どこからか騒々しい声が聞こえた。反射的に、明男は口を結んだ。

 それは無口な明男とは対照的に、感情を露わにすることを好む、白い人々の声だった。


   *


 五十年前、父と姉たちを殺したその白い人々の怒声をくぐり抜け、明男は船に乗り込んだ。鉄管てっかを確かめ、エンジンをかける。夜気に灰色の煙が上がる。「さぶいのう」。仲間の漁師が声をかける。その声に頷いて、夜明けの水平線へと船を出す。

 いるか﹅﹅﹅の追い込み漁が始まる九月。夏の終わり、渡り鳥が海を渡るように白人たちが港に大挙して押しかけ、いるか﹅﹅﹅漁反対の声を上げる。そんな光景が当たり前のようになったのは、いつの頃からだろう。はるばる遠い海の向こうからよくもやってくるものだと、初めはただ呆れていた漁師たちが外人嫌い﹅﹅﹅﹅になるのには、時間はそれほどかからなかった。

 彼らはとにかく礼儀を知らない。敬意を知らない。その上、やり口が汚すぎる――それがしばらく後、漁師たちの知った事実だった。彼らは立ち入り禁止の場所に踏み込み、隠し撮りをし、何ら法を犯さぬいるか﹅﹅﹅漁を、まるで今世紀最大の悪事かのように世界中に吹聴する。町を練り歩き、毎日、漁港に押しかける。網を切り裂く。いるか﹅﹅﹅が可哀想だと騒ぎ立てる。

 その「可哀想」という感情。それがこの問題の要であり、ひどく厄介な部分であった。なぜなら、感情とは主観であり、ただその人が﹅﹅﹅﹅どう思うか﹅﹅﹅﹅﹅というだけのものである。そこに客観的な事実や道理は一切関係がない。それゆえ、反論のしようがない。その人が何かを「可哀想」だと思う気持ちは、誰にも否定できないからだ。つまり議論というものにおいて、感情は伝家の宝刀とでもいうべきものである。何せ、それを持ち出したその瞬間、議論は終わってしまうのだから。

 そうは言っても、彼らも初めから「可哀想」を持ち出したわけではなかった。「イルカは絶滅の危機にある」。彼らの最初の主張は論理に基づくものだったため、町は科学調査の結果を持ち出し、「捕獲頭数はすでに制限されており、いるか﹅﹅﹅の減少傾向は見られない」と反論した。すると、次に彼らが持ち出したのは、「イルカは賢いから殺してはいけない」。しかし、何をもって「賢い」とすべきかは難しく、それでも一般的な論で言うならば、例えば広く食肉として食べられている豚は、いるか﹅﹅﹅や犬はおろか、チンパンジーと同程度に知能が高いことが研究で知られている。再びそう反論され、そしてとうとう彼らが持ち出したのが「残酷」や「可哀想」という感情だった。それは理性的な議論の終結を自ら宣言したのと同じであったが、それを指摘しようという人間が町側にいないのもまた確かだった。

 かくして、町は感情の声ばかりが響くようになった。可哀想だ、ひどい、野蛮だ、ほら見ろ、イルカが血を流して苦しんでるじゃないか、こんな惨劇が行われているなんて全くもって信じられない!

 突然やってきて感情をぶつけ、あまつさえ漁を妨害する外国人たちに「イルカを食べるのをやめろ」と頭ごなしに言われる筋合いなどない。「あ犯罪はんだいまがいの抗議活動﹅﹅﹅﹅なんぞ、だえも聞く耳持たんでやもたないだろう」。漁師たちは皆、そう口を揃えた。

 いるか﹅﹅﹅を絞めて、肉を食う。それが当たり前の漁師にとっては、冷暖房の利いたオフィスに座り、伝票を繰るだけで食べ物にありつけるというほうが摩訶不思議な出来事に見えたのだった。命が生活に染みついているからこそ、漁師たちは揺るがない。

 口には出すことがなかったものの、明男も他の漁師たちと同じ思いだった。お天道様に恥じることもなく先祖代々のしごと﹅﹅﹅を実直に行う者を、誰も責めることなどできはしない。誰が見ても、道理はこちら側にあるのだ。その道理を、漁師たちはそれぞれの心に信じていた。

 けれど、町は揺れた。元々が小さな田舎町だ。それが突然、世界﹅﹅という大舞台に引きずり出されてしまったのだ——それも好意ではなく、悪意に晒されるという最悪の形で。そして、引きずり出されたその場所で人々がさらに驚いたのは、そこで評価されるのは理論の正しさや理性ある行動ではなく、なりふり構わず叫び散すような、感情の﹅﹅﹅大きさ﹅﹅﹅であるということだった。

 彼らが強調したのは、いるか﹅﹅﹅の血で赤く染まる海だった。「見てください、日本の漁師はこんな残酷なことをしているんです!」「彼らは現代のヒトラーです!」「あんなに可愛い動物を殺すなんて、彼らは快楽殺人者に違いありません」「同じ哺乳類であるイルカを、私たちは食べるべきではないのです!」。

 その声がさらに大きくなると、この問題をより複雑にするが如く、白人の味方をする日本人たちも現れた。多くが都会の人間だった。土に触れたこともなく、生肉の感触を嫌がり、丸魚さえ一度も捌いたことのないような人間が津室へ取材に訪れ、いざいるか﹅﹅﹅を絞める場面では悲鳴を上げる――その姿は滑稽だった。それだけならまだしも、「残酷だと思わないんですか」と、まるで宇宙人でも見るような目で見るのには、漁師たちも辟易した。

 食卓に肉というものが乗る以上、どこか﹅﹅﹅で血が流れるのは当然である。そしているか﹅﹅﹅の場合、そのどこか﹅﹅﹅というのが、この津室の湾だというだけである。同じ哺乳類である牛や豚を食べても、イルカは可哀想だと泣き喚く彼らはそんなことも分からないのだろうか。それとも分からないふりをしているだけか。

あいらあいつらの食う牛や豚は、血ぃの流れとらん生き物なんやろなぁ」

 港で阿鼻叫喚する彼らに、漁師たちは呆れて言った。

「生き物を殺して、血ぃが出えへんいうこたぁあらへんやろうに」

「そらぁ料理もせんで、ぜにだけ出して、しと様の作ったハンバーガーなんか食うとったら、そら血ぃなんてもんは見んで済むさかい」

「わいの娘も庭の鶏を絞めてから、一切鳥を食わんようになった」

「そら、いまは肉やの米やの野菜やの、ほかによぉさんたくさん食いもんがあらぁよ」

「したって、血ぃ流れとることに変わりないやろう。そがなんもそんなのもわが自分の手が汚れんかったら何もないでやどうでもいいのか

 漁師たちは呆れたが、それほど残酷に見えるのならと、いるか﹅﹅﹅を追い込む湾を、人目につかない奥の場所へ変えた。すると、今度は「悪事の現場を隠蔽した」と、彼らは怒りを倍にした。

「こっちは親切でやっとったけんど、こ以上どがえどうしたらええんや」

「見たないもんを、わざわざとおから見にきてこぜる文句を言うて、まあ、あのしとらはどがえしもたんじゃ何がしたいのか

 酒の席では、彼らへの愚痴がため息とともに溢れた。

「あなもん、営業妨害じゃぁ。わいら俺たちはまだええけど、若いもんはこからじゃ。これかやっていかな、いかんっちゅうのに」

おんでもけれど、毎日毎日せちがれ責められて、阿呆にされて、だえでもうたとぅ嫌になるろう」

「やっさんとこの息子も、戻っておきいき漁師やる言うとったけど、どうなるか分からんともゆらやい言ってるよ」

「小さい子がおるんやろ? そらぁ慎重にもなるろう。あいらあいつらどがい何をされるかも分からんのに」

おきいき漁師なんか、いまどきしともおらんのに、こやと余計どもならん」

「そあいらあいつらの狙いじゃ。分かっとるやろう」

「せやからこそ、おきいき守らんといかんのよ。こあがら俺たちの伝統なんやと、胸張って言わんといかん……のう、明男」

 黙りこくる明男に、そのうちの一人が声をかけた。充血したような目には、強い意志の光が宿っている。

「お前とこの孫はどうじゃ。今年何歳になったん。おきいき漁師になるって言うて、昔はよう港に遊びに来とったけど」

「……さあ、分からん」

 そのとき、勇は十四歳、中学二年生だった。感じやすい思春期の孫の目に、この騒動はどう映っているのだろう。漁師である祖父のため、彼らに怒りを覚えてくれているだろうか。まさか白人たちの主張に耳を貸すことなどないだろうが、彼の父親――娘婿はこの町の人間ではない上に、転勤も多い。いままでは単身赴任の形をとっていたものの、いつ娘と勇を連れ、出ていってしまうかは分からない。どこか別の場所で暮らすという選択肢がそこにあれば、勇もここで漁を守らねばならないなどという思いを育てることもないだろう――。

 そんな考えが頭に浮かび、その瞬間、明男の胸は波立った。苦い感情が込み上げ、白髪の混じった眉はしかめられた。そこには、いま彼自身が自然に頭に浮かべた、漁を﹅﹅守らねば﹅﹅﹅﹅ならない﹅﹅﹅﹅という言葉への嫌悪が表れていた。

 どうして、それを守らねば﹅﹅﹅﹅ならない﹅﹅﹅﹅のか﹅﹅。どうして守る﹅﹅必要が﹅﹅﹅あるのか﹅﹅﹅﹅

 明男は怒りのあまり己に問うた。しかし、その答えは明白だった。

 それは、白人たちがやって来たからだった。どこから来たのかわからない、それどころか言葉も通じない彼らが突然津室にやって来て、「イルカ漁をやめろ」と怒声を上げるからだった。そうしてやめろ﹅﹅﹅攻撃﹅﹅されるからこそ、明男たちは漁を守らねば﹅﹅﹅﹅ならない﹅﹅﹅﹅という理屈になるのだ。

 しかし明男にとって、本来、それは守られる﹅﹅﹅﹅必要のないものだった。なぜなら、それは津室の暮らしであり、生き方であり、先祖から受け継いだ、生きていく術であった。それを捨てろと強制された経験などいままでになく、だからこそ漁は守られもせず、そこにただ存在しているものだった。

 だが、いま理不尽な白い人々のせいで、津室の漁は守られねば﹅﹅﹅﹅﹅ならなく﹅﹅﹅﹅なった﹅﹅﹅。それが明男は嫌だった。変わらない穏やかな生き方が、何か不当な力によって変化を強いられることが嫌だった。だというのに、守らねば﹅﹅﹅﹅ならない﹅﹅﹅﹅――そう思ってしまったということは、彼自身がすでに変化してしまった証であり、明男はそんな彼自身に嫌悪を覚えたのである。

「分からん」

 明男は乱暴に繰り返した。

「まあ、若いもんは田舎なんかつまらんやろう」

 相手は自嘲気味に言って、一升瓶を手に取った。

「都会なんて根無し草﹅﹅﹅﹅の集まりが幸せなもんかね」

「ほんま、いつどからいつからこなえなこんなことになったんじゃぁ」

 男たちが疲れたように盃を干す。怒りは燻り、しかし燃え上がることを知らぬまま、胸の澱となってゆっくりと沈んでいく。それが完全に底へ沈んでしまうのを待つように、明男はじっと手の中の酒を見つめていた。


 一年後、勇は中学校を卒業し、町外の高校へ進路を進めた。そこを卒業すると、離婚した娘婿の暮らす大都市の大学へ進学した。町から離れていく勇を、明男は黙って見送った。二人の間には常に、将来、漁師を継ぐのかという問いが横たわっていたが、どちらもその問いに触れることはしなかった。


   *


わいはがい悔しいよ。なんもかもがひきさがされてどうにもならなくてはがい悔しい。素直も、真面目も、正しいんさえも、そがなもんがいっこも﹅﹅﹅﹅役に立たん、もじけたおかしな世の中になってしもたことが、わいほにほに本当にはがい悔しい。米つくんのが百姓やったら、わえおきいく漁をするおきいき漁師や。おきいて海に出て飯食うおきいき漁師なんや。百姓が田んぼを丹精すんのとおないおなじで、わえは海を丹精してきた。エビスさん﹅﹅﹅﹅﹅拝んで、捕ったもんは骨まで大事にしもて、毎日神さんに礼言うて、ずうとずっと生かしてもろとんやげぇ。鯨はあがら私たちの神さんや。神さんの命もろうて生きとるんじゃ。あるもんがそのままでやありのままエビスさん﹅﹅﹅﹅﹅しとも、いおもそこらの草かて、滞りのうとどこおりなく命は巡っとる。そを邪魔しらあかんのやしてはいけないのだ。だのに、そを邪魔して、ここらの神さんを殺すんはだえじゃ。あがら私たちのつながりを断つんはだえじゃ。巡り巡る命をあこぎむりやり袋小路に留め置くんはだえじゃ。その先に、あがら我らはいっこも進まれんすすめないというに。

 あでぇあれ、いま天が黒うなる。海が黒うなる。地が黒うなる。お日さんが隠れたんじゃ。隠したのは誰じゃ。巨人じゃ。巨人の足じゃ。白い﹅﹅巨人の足が、あがら我らをみぃんな、踏み潰す――」


   *


 声にならない声を上げ、明男は跳ね起きた。否、跳ね起きたような心地だったのだが、実際には閉じていた目を開いたというだけのことだった。死の直前である彼の体は、それほど衰弱しており、起き上がることなどできなくなっていたのだ。

 光の当たらぬ場所に仕舞われていた記憶は、どうやらこれがすべてだった。明男の人生は、いま、終わりを迎えようとしていた。それを知らせるように、頭の霧がすうっと晴れた。一つ瞬きをすると、あの小さな男の子が心配そうに明男を覗き込んでいた。その隣には、男の子の父親。

「――おじやんじいちゃん

 目を開いたまま、どこか一点を見つめる明男を、その男が呼んだ。霧の晴れたいま、明男は自分を呼んだその男が誰なのか、はっきりと理解していた。けれど理解していながらも、明男はしばらく彼に応えなかった。すべてを思い返すようにじっとしていた。それから、ゆっくりともう一度、目を瞬いた。

 それを聞こえているという証と取ったのか、男は身を乗り出した。

「おじやん、分かるか? 俺や。美佳は赤ん坊がおるから来れんかったけんど、悠太は一緒に連れてきたど。ほら、ひ孫の悠太。分かるやろう? ほら悠太、こんにちは、て」

「ひいじいちゃん、こんにちは!」

 大きな声で、男の子が言う。くりくりとした目が、好奇心いっぱいに開かれている。よう似とる――明男はその頰に手を伸ばそうとした。しかし彼の手はやはり布団の上に横たわったきり、ぴくりともしなかった。

「ねえ、おばあちゃんとこ、行ってていい?」

 反応を示さない明男に飽きたのか、しばらくすると悠太はそう言い、ぱたぱたと畳を駆けていった。その背中にふっと息を漏らし、男は明男に向き直った。その、大人びた顔。いや、大人びたというのはおかしいだろう。彼はすでに大人だった。画用紙いっぱいの鯨を描き、その鯨に立ち向かう明男を描いた、幼い子供ではない。それどころか彼は結婚もし、二児の立派な父となったではないか――。

「――継がんかったんやな、

 明男は言った。それはやはり岬を過ぎる海風のような、掠れた声だった。男は――勇は小さく息を飲んだ。祖父と孫の視線が、何よりも真っ直ぐに互いを捉えた。瞬間、明男はすべてを理解した。まなじりにじわりと熱いものが溜まった。

 ――そや、わえは巨人の足に踏み潰されたんじゃ。

 晴れ上がった空、透明な海、そして彼方の黒潮。夢の中の津室の、その景色がふっと色を失くし、巨人の足が踏み下ろされる。

 そのままそこにいては、踏み潰されてしまうことなど分かっている。けれど、明男はそこに佇んでいた。逃げることもせず、かといって立ち向かうこともせず、だというのに臆さずに、ただ、その巨大な足裏が己を踏み潰すのをじっと見ている。見つめている。

 そうした己に気がつけば、船上の父も、隣に立つ母も、姉たちも――それからたくさんの人々、津室に生きる人々もまた、足に根が﹅﹅﹅﹅生えた﹅﹅﹅ように﹅﹅﹅そこに佇み、じっと天を見上げていた。彼らを踏み潰さんとする、巨大な足裏を。

 その顔に浮かぶのは、決して恐怖や諦念ではなかった。怒りでも、苦痛でも、恨みでも、悲しみでも、何でもなかった。そうではなく、彼らはただ津室の地に立っていた。

 それはなぜか。なぜ彼らは逃げることをしないのか。死を目前にした明男には、ようやくそれが理解できた。

 彼らが逃げないその理由。それは彼らが津室に育まれ、津室に生きるものであるからだった。道端の草や小石や、木々や太陽、海やエビスさん﹅﹅﹅﹅﹅といった、津室の命とつながる﹅﹅﹅﹅ものだから、だから彼らはそういった数多の命の一つとして、そこに存在し続けているのだ。例え、踏み潰されることを知っていたとしても、何も言わず、騒がず、喚かず、ただそこに存在し続ける。何度、巨人の足に踏まれ、潰され、胸の誇りを奪われようとも――。

「おじやん、俺――」

 勇が声を詰まらせた。きっと、勇も巨人の足を見たのだろうと明男は思った。だからこそ、彼は明男を継がず、津室を出た。そうして都会の一部になった。根無し草﹅﹅﹅﹅になった。また、明男もそれを引き止めることはしなかった。それが勇の選択だと思えば、黙ってその背中を見送ることしかできなかった。

 けれど、それでよかったのだろうか——。目を赤くした勇に、僅か、明男の心が動いたそのときだった。黒く透明な波が視界を覆い、その深い深い場所から、大背美流れで死んだ曾祖父たちの厳しい顔が浮かび上がった。

 いや、よく見れば、それは彼らだけではなかった。そこには徳次郎が、懐かしいばかりの親戚縁者が、かと思えば名前も顔も知らない、けれど津室とつながる﹅﹅﹅﹅人々がいた。その老若男女が一斉に口を開く。そうして一つになった低い声が、いま、明男に問いかけた――お前が津室とつながる﹅﹅﹅﹅ものなら、お前は娘に何をつなげた﹅﹅﹅﹅か。孫に、ひ孫に、何をつなげた﹅﹅﹅﹅か。子孫を根無し草﹅﹅﹅﹅にしたのは誰か。

 問われて、明男は息を止めた。思えば徳次郎がしたように、彼は娘に大背美流れを語らなかった。南氷洋を語らなかった。取り上げられてしまった捕鯨への無念を、また遠く一千年も昔、津室の男たちが仕留めた巨大鯨を語らなかった。

 勇が明男を継がなかったのだと、彼は先ほどそう決めつけた。けれど、果たしてそれは公平か。先祖はそう問うているのだ。

 勇は語られることがなく、つながる﹅﹅﹅﹅ことができなかった。ならば、それは勇が明男を継がなかったのではなく、明男継がなかったせいではないだろうか。鯨を捕るというしごと﹅﹅﹅を、知恵を、津室という地での生き方を、その歴史と呼べるほどの長い年月を、明男こそが断ち切ってしまったのではないだろうか。

 明男たちを南氷洋から追い出し、捕鯨を奪い、漁さえ奪おうとする白い﹅﹅巨人の足に抗うことなく、そうして彼が失ったのは勇だけだっただろうか。例えばそう、勇の息子――あの小さな男の子は、津室の何を知るだろう。津室に根を﹅﹅生やした﹅﹅﹅﹅明男の子孫は、根無し草﹅﹅﹅﹅になってしまった。だというのに、明男のしたことといえば、声も上げずに踏み潰されることだけだったのだ。

「すまんのう、勇……」

 熱いものが滴るに任せ、掠れた声で明男は言った。

 例えどこで生きたとしても、人間はのある場所へと最後は還る。明男にとってつながり﹅﹅﹅﹅とはそういうものであった。彼は魂が肉体を離れたとき、どこへ行くかを知っている。けれど、この孫はどうか。根のない勇はどこへ還るのか。どこへも還れないのではないだろうか。その魂の行く先が、皆目見当もつかないのではないか。

 明男の涙に、勇は驚いたようだった。何か思い詰めたように「おじやん、俺――」と、言いかける。しかし、その言葉の先を待たず、明男の目から光が遠のいた。彼の魂が津室の地へ還る、そのときがやってきたのだ。

 まだ、あかん――明男はその流れに抗うように、懸命に生へとしがみつこうとした。なぜなら、彼はまだその血を継ぐべき者に大事なことを伝えていなかった。子孫へとつながる﹅﹅﹅﹅べき、彼の物語を伝えていなかった。いま、彼が逝ってしまえば、それを誰が伝えるというのだろう。

 しかし、定められた時間には何人たりとも抗えず、彼の瞼は儚くも閉じられ、その意識は白い霧の中へと消えていく。

「おじやん、待って。俺はまだ――」

 勇が何か言いかける。その声を最後に、明男の意識は深い深い海の底へ、光の届かぬ深淵まで、ゆらゆらゆらと落ちていき――ぷはあ﹅﹅﹅、海底へと着いたはずの彼が顔を出したのは、どういうわけか青い空に青い海、大きな波にざぶりと揺れる、鯨舟の上だった。

 それ津室の鯨舟よいそら、漕ぎ出でて来たかよいそらよいそら――威勢のいい鯨節が耳に響く。調子に合わせ、男たちが櫂を漕いでいる。そうして己は何かと気づけば、右手にはいつのまにか銛を握り、両足はその舳先に踏ん張った、明男は刃刺しとして潮風を切っているのだった。

 海の上には、ついぞ感じたことのない心地のいい風が吹いている。何かを忘れてきたような感覚に浜を振り向き、誰かを探すように目を細めるが、しかしそこには美しいばかりの故郷の景色があるだけだった。明男はしばらくそちらを眺めていたが、水平線に視線を戻すと、匂い立つような濃い潮風を腹の底まで吸い込んだ。ああ、こが津室の海じゃ。ぬくいぬくい黒潮やげ――。

 久しく感じ得なかった喜びに胸を膨らませ、明男はしっかと舳先に立つ。向かいの船が合図を出す。その方角に、青い波割る黒い影。ああ、あはでかい鯨じゃあ――明男は銛を握る手に力を込めた。

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