白化

黒澤伊織

 男は海を見つめていた。

 青く、どこまでも続く海。

 その彼方で波が立ち、消え、再び立ち、また消える。その繰り返しは太陽が昇り、落ちるまで――否、月明かりの下でさえ、むこともなく続いている。

 その波音に揺られるように、男の他は首を垂れ、あぐらの姿勢で眠っていた。鯨油で灯した光揺らめく夜明け前。男の眼差しは水平線を捉えたまま、一分いちぶたりとも動かない。

 男のしごと﹅﹅﹅は見張りだった。波間に浮かぶ黒い背中を、その目に捉えるのが務めだった。そのしごと﹅﹅﹅がため、朝から晩まで海を見つめ、ぼうと座しているのだった。

 座しているだけとはいうが、それは大変なお役目だった。古くは火を使い始めたそのときから、人間は火を絶やさぬように火の番を、敵が来ぬよう立ち番を、夜が来れば夜番を立てた。見張りは人々の生活を守るため、必要不可欠のしごと﹅﹅﹅であったのだ。

 そうはいうがこのしごと﹅﹅﹅、その殆どの時間は虚ろに過ぎる、とても退屈なものだった。しかしいくら退屈だからといって、他の男どものように眠りこけては役目が果たせぬ。異変に即座に気づけるよう、適度な緊張を保ちつつ、ぼうとするには技がいる。

 そこのところがこの男、天賦の才に恵まれていた。昼は終日ひねもす、夜は夜もすがら、男は何をいとうこともなく、この浜を見下ろす岬から、海を見つめることができた。ゆえに他の者が見逃す獲物も、この男の目からは逃れられぬ。

 ほれ、その証拠に光射した水平線の東側、黒い背中が波間に浮かび――。

「鯨じゃ、鯨」

 低い声にえっと起き、男どもが寝ぼけ眼を慌てて擦る。一人が狼煙を上げに走り、一人は大きな旗を振る。やがて浜が騒がしく、村人たちが集まり出す。景気づけの鯨節と共に、美しく塗られた鯨舟がはるか沖へと漕ぎいだす。

 しかし興奮に頬を上気させ、舟を見守る男どもをよそに、鯨を見つけた男はというと、やはり先ほどと一寸も変わらぬ場所でぼうと海を見つめている。

 沖では網舟が網を張り、勢子舟が鯨を追い立てる。逃げ場をなくしたその巨体へ、刺し手が一番銛を投げかける。続いて二番銛に三番銛、弱ったところの機を図り、ざんぶと飛び込んだ刃刺しの男が心の臓に刃を立てる。

 海の色が緋色に染まる。

 夜はすっかり明けている。

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