第3章(13)終点、の先。
寝続けたことが効いたのか、翌朝、俺は高熱を出すこともなく、無事いつもの時間に目覚めた。
何事もなさそうに起きてきた俺を見て、母親は俺に言う。
「……とにかく、その大切な人に自分の気持ち、伝えなさい。あなたなら、大丈夫よ。お父さんだって、そういう人だったから」
「うん……わかった」
朝ご飯をお腹に入れ、家を出る。昨日まで降っていた雨は嘘のように止み、突き抜けるような青空が広がっていた。鳥のさえずりが心地よい朝の空気のなか、一人八王子駅で「いつもの電車」を待つ。
昨日母親がずっとドライヤーをかけて乾かしたという教科書が入ったカバンから、カバーのかかったライトノベルを取り出す。昨日カバンに入っていたものは読み切っていたから、この本は雨には当たらなかった。まあ、入っていた本は大きな被害を被った。思い出したくないからあまり触れないでおく。
朝の空気を切り裂くように、いつもの電車がやって来た。
ドアが開き、俺は車内に入る。すると、やはりいつもの座席に、三つ編みの後輩の姿があった。
「……おはよう、山田さん」
声を掛けられた彼女は、まるで小動物が何かに怯えるかのようにブルっと震えながら俺の方を向いた。
「せ、先輩……」
すると彼女は、俺の姿を認めると、ウルウルと涙目になり始めた。
「えっ、ちょっ、ここではまずいって堪えて堪えて」
慌てて隣に座ってなだめるも効果はなく、細い瞳から少しずつ透明な雫が零れ始めた。
「ご、ごめんなさい……昨日、雨の中探し回ってくれたって……布田先輩から聞いて」
「……聞いたんだ。別に気にしなくていいよ」
「で、でもっ」
「いいって……それよりさ、昨日、何があったの?」
「それは……」
今まで涙声ながら、受け答えはしっかりしていた。でも、この質問を投げると、途端に詰まってしまった。
「いいよ、言いたくないなら」
「……そ、その……」
「電車で言いにくいなら、放課後、時間作るからさ」
「……は、はい……その方が嬉しいです……」
「わかった。あとで時間と場所決めようか」
「……ありがとうございます」
どこか言葉裏に影が見える。
徐々に乗車率を上げていく東京行の電車は、順調に俺等を東へ連れて行く。
各駅停車に乗り換えて、東中野駅で降りる。駅ビルの前でパンを買う山田さんを待ってから、一緒に学校へ歩き始めた。
「それじゃあ、また後でね」
そう言って、別々の教室に向かおうとする。
「せ、先輩」
俺が一歩を踏み出したとき。
「何?」
「……いえ、また、放課後です」
寂し気に笑って見せる彼女。日向を背にして進む彼女の背中は、いつもより、小さく見えた。
俺が教室に入ると、途端に教室がざわめき始めた。
「……中河原、風邪、引いていないのか?」
「え? いや、引いていないけど、どうかした?」
教室に入るなり、話したこともない奴から声を掛けられる。
「いやっ、だって、三次元には興味がないって言っていた中河原が、後輩の女子をあの大雨の中探し回ったって……お前、そんなにいい奴だったんだなっ」
「そうだぜ! 授業さぼるなんて格好いいことしやがって!」
「そうだそうだ! もっと話聞かせろよっ」
すると、どういうことだろうか、今まで誰も近づかなかった俺の座席の近くに数人の男子生徒が集まっている。
……なんか、懐かしいな……この感じ。
……別に、悪い気は、しないな。
そう思ったからか、不意に表情が緩んだ。それを見つけた隣の席の布田が、ニヤッと気味の良い笑みを浮かべて呟いた。
「やっぱり、中河原はこういう感じの中河原がいいよ」
残暑残る九月、とりあえず、友達はできそうです、とだけ言っておこう。
それもこれも、布田と、山田さんのおかげだけど。
○
教室のドアの前で、私は立ち止まった。
……昨日あんなことして学校抜け出して、何も私に起きないわけがないよね……。
朝の先輩との会話で、少しは救われたけど、やっぱり教室に入るのは憚られた。
でも、ずっと立ち止まっているとそれはそれで見つかってしまうわけで、結局私は教室に入らざるを得なくなった。
ドアを開けると同時に感じる冷たい視線。昨日よりもひどくなっている気がする。
ああ、またこういう日々が始まるのかなぁ、なんて思ったとき。
「あ、山田さんいたいた、ねぇ、ちょっといい?」
ドアの方から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。その方を見ると、布田先輩の姿があった。
「えっ、あっ、は、はい」
すると、教室がにわかにざわつき始める。
「誰だ……あの先輩?」「山田と知り合い……?」「同じ部活の人? にしては普通そうだけど……」
恐らく二年生のなかでも綺麗な人の部類に入ると思う布田先輩が私に教室まで会いに来た、ということがある意味衝撃のようだ。
私は外にいる布田先輩のもとへ向かう。
「ごめんね、急に来て」
目の前に来るとまず一言そう謝る布田先輩。
「いっ、いえ……それで、何でしょうか……」
「いや……なんとなく、ね……昨日のこともあるし、心配で」
「……すみません……迷惑掛けて……」
すると布田先輩は大きく手を振って否定する。
「いいのいいの。そんなことは気にしなくて。……でも、さ」
そして、更に先輩は言葉を繋げる。
「らしくないなーって。いつも穏やかで優しくて、怒ったところなんてそうそう見ない山田さんが、クラスメイトにビンタしちゃうなんて。よっぽど我慢できないことでも言われたの?」
「っ……」
目の前にいる先輩はやっぱりね、という顔を浮かべる。
「それって、中河原のこと?」
「…………」
「図星、か。なら大丈夫だよ」
そう言うと、先輩はニコッと安心させるような笑顔を向ける。
「中河原も、山田さんのことが心配で学校飛び出したの、聞いたでしょ? ……なら、大丈夫。……きっと、大丈夫だから」
「せ、先輩……?」
「それに、今の苦しみの原因が中河原の人格にあるなら、それも大丈夫。あいつ、変わったから。友達もきっとできる。きっとそのうち山田さんへの風当たりも弱まるから、大丈夫。例えクラスに味方がいなくても、私と中河原は山田さんの味方だから」
初めは、嫌な先輩だな、としか思っていなかった。きっとこの人も同じなんだろうなと思っていた。
全然違った。布田先輩は、とても人情に厚い人で、気を遣える人だった。
事実、私は今助けられている。
事実、きっと布田先輩は私を認めてくれた。
そうと気づくと、急に胸が熱くなり、電車と同じように少し涙が零れそうになってしまう。
「泣かないでよ、山田さん。泣きたいのは、こっちの方なんだから」
「え……?」
「……あの優しさの塊みたいなバカのこと、任せたから。じゃあ、また部活で」
そして、先輩は私の前からいなくなった。
教室に戻ると、どこかさっきよりも変な空気が流れていた。
これも、布田先輩のおかげだろうか。
とりあえず、憂鬱の種が一つ減って、ホッとした。
○
昼休みの段階で指定した午後五時渡り廊下に俺は待っていた。
何故この場所かって? まあ、理由はある。大した理由じゃないけど。
陽が傾き始め、廊下が日向と日陰にくっきり分かれる。
「……お待たせしました、先輩」
そして、何度も何度も聞き続けた声が、渡り廊下に響いた。
誰もいない無人の廊下に、俺と山田さんは夕陽に背を向けながら並び壁に背中を預ける。
「……ま、無駄話もあれだし、単刀直入に聞くね、昨日……何があったの?」
彼女の小さな顔を見つめつつ俺はそう切り出した。
「……バレたんです、私が動画投稿していること」
まるで教科書忘れました、を言うくらい簡単に彼女は答えた。
「それに、先輩とプールに行ったことも知られていて」
「……プールの件が知られているのはなんとなく想像はついたけど、動画投稿がバレたのは意外だね」
「……多分、クラスに特定厨がいて、それで」
「こわっ、情報化社会って怖いな」
少しおどけて返して見せた。少しでも、重い雰囲気を変えたくて。
「……別に私が動画投稿していることをどう思われようと関係なかったんです。そこに手を出したり、関係ない人、例えば、先輩に迷惑を掛けたりさえしなければ、どうだってよかったんです。……そんな風にいじめられるなんて、もう慣れていましたから」
少し、寂しいことを言うな、と思った。
そして、すぐに心の中で苦笑する。
だって、思考が俺と似ていたから。
「……うん、それで?」
「……でも、一人の男子に、どうせ一緒にプールに行った先輩も私の声を聞いてムラっとして一緒にいるんだろ? って言われて……」
おう……それ、完全に俺のせいじゃね? だって、俺が二次元にしか興味ないことを踏まえて言っているよね?
「その前にもネットの居場所も奪えるぞ、みたいなこと言われて少し頭に血が上っていたのもありますけど、それで完全にプッチーンってなって……つい」
「そいつをビンタしたと」
「……はい」
やっぱり、ね。……やっぱり山田さんはいい子だ。優しい子だ。
こんな奴のために、怒ってくれたんだ。
「で、その場にとどまるわけにもいかなくなって学校を飛び出した」
「……はい」
沈んだ顔をしながら、山田さんは答え続けた。
「……どうでもいいこと一つ聞いていい?」
「はい」
「昨日、どこにいたの?」
「……部屋で一人、ずっとヘッドホン付けて閉じこもっていました」
「だからか……」
どうりで反応がないわけだ。あの大雨で外出るとは思わなかったから、変だなとは思った。
「……ありがとうね、……俺みたいな奴のために、怒ってくれて……」
「……いえ」
「……ずっと、考えていた。どうして俺はここまで必死になるんだろうって」
「え……?」
途端、関係ない話を始めたからか、山田さんが少し拍子抜けしたような表情をした。
「どうして、ここまで必死になって山田さんのことを探し続けるんだろうって」
突然始まった俺の独白に、戸惑いを隠せない後輩。
「最初は、俺はみずな。さんが好きなだけだと思っていた」
だから何とも思わなかった。そのままの俺だったから。
「でもさ、みずな。さんと山田さんを切り離して捉えているうちにいつの間にか、山田さんを三次元として認識するのが嫌になってきたんだ」
「え……? どういう……?」
「……だって、あんなに可愛らしく笑いかけられたり、話しかけられたり、それ全部嘘が混じっているかもしれないって思うのが嫌だったから」
突然、可愛いと言われたからか、「そ、そんなことないです……」と山田さんは小さくなる。やっぱり可愛い。
「でもさ、どう足掻いたって山田さんは三次元。そこは変わらない。なら、俺の三次元に対する認識を変えないといけない」
俺は段々濃くなる影の中で、話し続ける。
「それに、段々みずな。さんの声が山田さんのそれにしか聞こえなくなって。まあ、当たり前っちゃ当たり前なんだけど……要はもう頭が山田さんでいっぱいになっていってさ」
自分で言っていて恥ずかしいことを言っている自覚はある。でも、これは伝えないといけないことだから。
「……そんなときだよ。私だって嘘つきます」
ビクッと彼女の肩が震えるのが見えた。
「……きっとさ、その言葉に救われたんだ、俺。そしてさ、言ってくれたよね。私は、人を傷つけるために嘘はつきませんって」
染まるように彼女は頬を桃色、赤色と変えていく。
「……それで思えたよ、ああ、もういいんだって。現実の女の子を好きになってもいいんだって」
どこからか、運動部の挨拶が響いてくる。そろそろ下校時間だからだろうか。
「でもさ、今度は別の問題が浮かんできた。俺は山田さんとみずな。さんどっちに恋をしたんだろうって」
大きく彼女の細い垂れ目が揺れる。
「……だってさ、きっと。俺がみずな。さんを知っていなければ山田さんと出会うことはなかった。ただの水を掛けた先輩で終わるはずだった」
「それは……」
「みずな。さんに中学生のとき、救われた。その印象もある。でもさ、単純だったんだ」
もうすぐ沈み切る夕陽のなか、俺はある一つの台本をなぞりだす。
「……渡り廊下に沈む夕陽。このシチュエーション」
その一言で山田さんは俺が何を言おうとしているか察したようだ。
「……最初は、みずな。さんの声に惚れた。みずな。さんの声が好きだった。でも、山田さんと過ごしていくうちに、仕草とか表情とか何もかもが」
キュッと袖を掴んできたこと。背中に抱きついてきたこと。笑うと細い目がもっと細くなること。数を挙げればきりがない。
「……山田瑞菜さん。俺は――」
そう言いかけると、すぐ隣に立っている彼女は息を呑み、俺の言葉の続きを待った。
俺がこの時間、この場所を指定した理由。
それは。
みずな。さんが投稿した唯一の告白シーンがあったシチュエーションだったから。
「――君のことが、好きです」
瞬間、草むらを駆ける風に当てられたかのように鳥肌が立った。
何故か。
俺の隣に立っていたはずの女の子が、俺に身体を預けるようにしてくっついてきたから。
ほのかに香る優しい香り。
制服越しから伝う彼女の温もり。柔らかい人肌。
やばい、ドキドキしてきた……ますます。
一体、どれくらいの間があっただろうか。
わずかな間か、はたまた永遠にも思えるような時間か。
「……私、先輩に出会えてよかったです」
その声は、涙ぐんでいて。
「……先輩が……いてくれてよかったです」
「…………」
「先輩が……私のこと、好きになってくれて嬉しいです」
ふと、目と目が合う。
「……好きじゃないわけ、ないじゃないですか……先輩のこと。……私も、先輩のことが……好きです」
想いが通じ合った、そのとき、どこからか遠くなる足音が聞こえた。そして、俺のスマホが小さく震える。
とも「おめでと」
「ふっ……」
急に俺が笑いだしたから山田さんは不思議そうな顔をする。
「いや、これ」
俺は今来た通知画面を隣にいる彼女に見せる。
「……布田には、ちゃんと言わないとな」
「……そうですね」
沈む夕陽を背に並びながら、そんなことを言った。
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