第3章(11)高尾まで向かう電車
○
別に、耐えていれば終わると思っていた。先輩にも迷惑を掛けることはないと思っていた。
甘かった。私の見立ては、甘かったんだ。
始業式から一週間が経ち、私の噂もある程度収まった頃だった。
厚い雲が空にかかり、今にも雨が降り出しそうな空の下、学校に行った。
教室に入ると、途端に気味の悪いクスクス声が周りから聞こえ始めた。
……何だろう? ……何か、私やったっけ……?
恐らくクスクス声の対象は私だろう、ってことは想像がついた。でも、それが何なのかは、わからなかった。どこか居心地の悪い朝の時間を過ぎ、朝のホームルームも終わる。一時間目が始まる前の休み時間に、一人のクラスメイトが私に近づいてきた。
「なあなあ山田、お前って実はオタサーの姫でしたーっていう展開、ない?」
「……何ですか……?」
明らかに悪意のあるニヤつき顔をしていたから、つい冷たい声でそう返してしまった。
「いや、この間の休みの日にさー調べていたんだよ、何かないかなーって」
……私のことを? 暇なの? 何かないかなーって……。
「そしたらさーこんなのが見つかって」
その男子はある一枚のスクリーンショットを見せてきた。
「こっ、これって……」
その写真は、とても見覚えのある画面だった。
そいつは意地汚い表情を浮かべながら、続けた。
「いやーまさか山田が耳かき動画をアップしている奴だなんて想像がつかなかったよーどうりであの趣味の悪い二年の先輩と仲が良いわけだ」
その画面は、みずな。のアカウントのホーム画面だったから。
「っ……」
教室を見渡すと、そいつと同じようにニヤついている人、冷めた目で見ている人、気持ち悪いものを見ているような目をしている人、いずれにしよ、好感は持たれていないことは確かだった。
「まあでも、山田ってそーゆー声してるもんな、お似合いだと思うぜ、ハハハ」
きっと、こういう他人を貶めたい奴が、特定厨って呼ばれるものになるんだろうな。
そんなことはどうでもいい。
私のことは別に最悪どうだっていい。
「一本動画聞いたけどさ、お前、あんな声出せるんだな、いやー可愛い声してたぜ?」
言葉面だけ追えば褒めているようにも聞こえる。でも、表情を見る限り、絶対そんな意図はない。
「…………」
「……気持ち悪っ。普段から何も喋んねーし何考えてんのかわかんねーって思っていたらこれかよ、キモイんだよ」
ほら。図星だ。
「さっきから黙ってばっかだけど、何か言ったらどうなんですか? ああ?」
「…………」
「ちっ、まあいいけどさ、お前はその気持ち悪いオタクが集まっているネット上でしか居場所がないみたいだし? こっちはその気になればいつでもそこ、壊せるわけだし」
「っ」
その言葉を聞いて、一瞬頭に血が上りかけた。
私が作った、数少ない居場所。あそこは、壊されたくない。
でも、なんとか耐えた。
けれど、次の言葉だけは、どうしても許すことができなかった。
「ま、どーせその二年の先輩もお前の萌え声聞いてムラっときて仲良くしようとしているだけだろ? だって、二次元にしか興味ない奴らしいし――」
そいつの言葉は途中で遮られた。どうしてかって言うと。
私がそいつの頬を思いっきりぶったから。教室にバチンと鈍い音が響き渡った。
「……ふざけないでください。あなたに先輩の何がわかるんですか! 何をもってそんなこと言っているんですか! 適当なこと言って先輩に迷惑を掛けるのは……やめて下さい!」
そしてこだまする私の叫び声。教室からどよめきと悲鳴とが交差する。
「てめぇ……何しやがるんだよ!」
叩かれたそいつは私につかみかかろうとしてきた。私はとっさに机の横に掛けていたカバンを掴み、そいつの身体めがけて投げ出した。
「っ、痛ってぇ……こ、こいつっ」
そいつが立ち上がる頃には、私は放り投げたカバンを拾い上げて教室を飛び出した。
騒ぎは隣のクラスにまで聞こえていたらしく、廊下にも野次馬がことの次第を見つめていた。その人垣を縫って出て、私は学校を抜け出した。
○
夏休みが明けてから、布田と会話する機会が増えた。これも俺が多少変わり始めている証拠なのかもしれない。次の授業の話や、最近話題のテレビ番組の話といったように取り留めのないことばかりだったけど。
そんな夏休みが明けてから一週間が経った日。この日も変わらず隣の布田と何気ない会話をこなしていた。けど、二時間目の授業が終わり休み時間に入ったときだった。
「ねー朋花―この動画見た? 部活の後輩から来たんだけどさー」
友達らしき女子生徒が、布田にそう話しかける。
「何? 知らないけど」
「今日の朝、一年で喧嘩があったみたいで、その動画が来てさー送るから見てよー」
「ふーん……え?」
動画を見ると、布田はそんな間抜けな声を出していた。
「面白いでしょー? この女の子、学校抜け出してさぼっているんだって」
「ちょっと、中河原、これ見てっ」
布田は自分のスマホの画面を俺に見せつける。
そこには、男子生徒の頬を叩き、教室を飛び出す山田さんの姿が捉えられていた。
「……ど、どういうことだよ……」
「この子、学校抜け出したって本当?」
「え? らしいよーでも外雨めっちゃ降ってんのに凄いねー」
言葉が出るより先に体が動いた。俺はバックを掴み上げ席を立ち布田に言った。
「悪い、布田、追いかけるから適当になんか理由言っておいてっ」
「えっ? 中河原? ちょっ、中河原?」
背中から布田の声が聞こえてくるが気にしない。俺は教室を出て全速力で校門へ向かった。
靴を履き替え外に出る。
さっき、布田の友達が言っていた通り、それなりに激しい雨が降っていた。
……傘差したら走れねえな……。よし。
俺は雨が地面を叩く天気のなか、山田さんに「今どこ?」とだけ連絡して、駅まで走り出した。
山田さん、やっぱりそうなったのかよ……! そんなことなら、始業式の日に話、ちゃんと聞いておけば……!
降りしきる雨が、俺の身体を濡らす。髪からは雫が零れ始めるし、制服も水を吸って重たくなる。カバンも色を濃く変色させている。
すれ違ったりする人々は俺を奇異なものを見るような目で見てくる。そりゃそうだ。まだ昼だというのに、制服着た高校生が大雨のなか、傘も差さずに道を全力疾走しているんだから。
でも、あまりに慌てたあまり、俺は駅に着いてから、一つの問題に直面した。
「ただいま、中央・総武線各駅停車は、中野駅で発生した人身事故の影響で、運転を見合わせています。運転再開の見込みは立っていません。また、中央線快速電車も、人身事故の影響で運転を見合わせています」
今まさに改札にカードをタッチする、という瞬間に、そのアナウンスが聞こえてきた。
……マジかよ!
くっそ、これじゃあ中央線で高尾まで行けない……なら、地下鉄の大江戸線で新宿に出て、京王線で高尾まで行くか……!
しかし、不幸というのは重なるもので。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだなと俺は新宿についてから思い知ることになる。
とりあえず大江戸線で新宿に出たまではよかった。
大江戸線の新宿駅から人混みをかき分けて京王線の新宿に着くと、絶望的な状況が俺を待っていた。
「ただいま、京王高尾線は、降水量が規定値を超えたため、また、架線に支障物のため北野~高尾山口駅間で運転を見合わせております。振替輸送をご利用下さい」
……まずい、このままじゃ高尾にたどり着けない。連絡もないし、でも、早く山田さんのところに行かないと。探さないと……!
とりあえず、中央線が完全に止まっているなら、京王線で京王八王子まで近づく。八王子に着いた頃には、もしかしたら中央線も生き返っているかもしれないし、このまま新宿で立ち往生している時間が勿体ない。
俺はもうすぐ発車する準特急京王八王子行が止まっている三番線ホームに向かって駆け出した。
「……あっぶねー」
ギリギリのタイミングでなんとか乗車し、一息つく俺。その次の優等電車は、京王八王子より手前の駅止まりだから、これを逃すと時間がかかる所だった。
京王線は、中央線と並走する形で新宿と八王子を結ぶ路線だ。別に通学に京王線を使ってもいいのだけど、東中野を通り越して新宿まで行ってしまうっていうのがネックなのと、いつもより少し早起きをしないといけないのが原因で、中央線を使っている。
大雨の中、少しずつ遅延を重ねながら電車は西に進む。
早く、早く……。
五十分程度で電車は京王八王子駅に着いた。一応、高尾に向かう電車が分岐する北野駅で、京王高尾線の運行情報を確認したけど、相変わらず運休していた。
駅を出て、とりあえず八王子駅へ走って移動する。さっきよりも強くなった雨は、月並みな表現をするならバケツの中の水を零したような勢いだった。
こんなときに限って大雨になりやがって……!
もう全身びしょ濡れになりながら八王子駅に着くと、やはり受け入れがたい現実が俺に突きつけられた。
「現在、中央線快速電車は、中野駅での人身事故の影響で、運転を見合わせています。運転再開見込みは立っていません」
……高尾まで向かう電車が、探しても探しても見つからない。
誰か、教えて欲しい。一体どこに行ったら、俺は高尾に向かえるんだ。タクシー? そんなお金はない。バス? きっとあっても一時間に一本とかだろう。それにあるかどうかもわからないし、動いているかどうかもわからない。
……だったら、走って向かえばいいのか? どうせ直線距離五キロとかそれくらいだろ? いつ動くかわからない電車を延々と待つくらいなら、少しでも距離を詰めたい。
俺は水たまりができている歩道を駆けだして、高尾に向かいだした。
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