第3章(9)気づいてました

「そんじゃあ、またねー」

 駅の改札口で布田と別れる。結局、あれからちゃんと話をすることなく終わってしまった。

 ……そのうち、きちんと話をしないといけないのかもしれない。

「先輩……その……」

 すると、俺の袖口を掴みながら山田さんが声を掛ける。彼女は視線を高尾行の電車が来るホームに移した。

 ああ、そうだったね。

 断る理由もないし、それに、なんか、もういいや。考えるの、今日は疲れた。

「うん、いいよ。高尾、ついて行くよ」

 そう答えると、パッと表情を明るくさせるから、困ってしまう。

 どこか子供っぽい一面も垣間見せながら、俺と山田さんは高尾まで向かう電車を待った。武蔵小金井行・豊田行・青梅行・八王子行・と中央線の下り電車には様々な行き先があるけど、八王子より西を走るのは、高尾行とたまにくる大月行・河口湖行くらいしかない。まあ、要は本数が減るっていうこと。

 俺等がホームに降りたと同時に高尾行の電車が出てしまい、結構待つことになってしまった。

「……ごめんね、最後、寝ちゃって。疲れたんだ、きっと」

 下りのホームは、上りのそれに比べて電車を待つ人は少ない。俺等の近くに、人はいなかった。

「いえ、全然大丈夫です。……布田先輩とも結構話すいい機会になりました……いい人ですね、布田先輩」

「……そうだね」

 鳴りやまない蝉の鳴き声が、俺と山田さんの間に沈黙が流れるのを防ぐ。

「……そうだね、ほんと」

「先輩……?」

「……そういえばさ、俺は山田さんの家にお呼ばれして、何をするっていうか、何をされるの?」

「えっ……あ、そ、その……えーと……」

 山田さんは急にもじもじと俯き指を触り始める。

「……つ、着いてから……で、いいですか?」

「まあ、いいけど……そんな恥ずかしいようなことなの?」

「そっ、そんなことっ……ないです」

 ……不安だ。

 軽い警笛とともに、オレンジ色のラインカラーが塗られた電車が俺等の前に停まる。

「来たね、乗ろっか」

 そして、電車に揺られること数分。俺と山田さんは高尾駅に着いた。


 高尾に行くのは、結構久し振りだったりする。高尾山に小学生のとき行った以来かもしれない。懐かしいとも言えないような風景を眺めつつ、山田さんの後をついて行く。

「私の家、駅から結構近いんです」

 そう言いつつ駅前通りを抜けていき、本当に数分歩いたところにある集合住宅に山田さんの家はあった。

「ここです。ここの建物の二階が家です」

 少し綺麗な外観の集合住宅に入り、エレベーターに乗る。二階で降り、白のワンピースの彼女の背中を追う。

「どうぞ……広い家じゃないですが……」

 山田さんはドアを開け玄関に入り、履いていたビーチサンダルを揃えて置いてからそう言った。

「お、おじゃまします……」

 俺も家に上がらせてもらう。山田さんの今置いたサンダルの隣に靴を並べる。

「い、今、誰もいないので、気遣わなくても、大丈夫です……」

「んっ……」

 すると、三和土に足の小指をぶつけてしまい、情けない声が出てしまった。

 いや、……今家に誰もいないって聞いたらそうなるでしょ……。

「私の部屋、こっちなんで……」

 玄関を入って右に流れる。二つ目の部屋に案内された。

「ど、どうぞ……」

 何も装飾されていていないドアを開け、俺を部屋に通す。

「お、お邪魔しまーす……」

 人生初女子の部屋。

 とはいえ、何か極端に目立つようなものは置いておらず、ベッドの上にぬいぐるみがちょこんと置かれていたり、アニメのキャラクターが入ったポスターが一枚貼られていたりなどと、まあ言ってみれば普通の部屋だった。

 ただ、まあ、ポスター貼っている時点でもそうだけど、本棚を見ると、「やっぱり山田さんもオタクだな」と思わせるラインナップだった。

「……い、今、お茶入れてくるので……少し待っていて下さい」

 そう言い、山田さんはワンピースを揺らしながら部屋を出て行った。

 一人残されて手持ち無沙汰になった俺は、スマホをいじり始める。ラブコメにありがちな部屋を物色したりなんて失礼な真似はしないよ。

 ……奇妙な展開になったな……。いや、もう山田さんの「誘い」自体はいいんだけどまさか俺がこういう展開を経験することになるとは。

 ふと、視界の端に、勉強机の上に乗っている黒い物体が映りこむ。

「……マイク、かな……」

 普段、俺がお世話になっている動画はこれで作られているのかな……。なんて思っていると、ドアががちゃりと開く音がした。

「お、お待たせしました……ペットボトルのお茶で恐縮ですが……あと、お菓子です」

 勉強机とベッドの間に置かれている小さくて丸いテーブルにペットボトルとグラス、チョコなどの軽くつまめるようなお菓子が乗ったお盆を置く。

「ありがとう」

 どこかそわそわしてしまう俺と山田さん。視線は安定せず、宙をさまよい続け、たまに交差しては恥ずかしそうにそらしてしまう。

「それで……何、する?」

 何ってナニではないからな。勘違いした奴はまだ夢見ているよ頑張れ。

「えっと、その……」

 やはり口にするのをためらってしまう。……なんか適当に話繋ぐか。

「そういえば、机の上に乗っているあれって、マイク?」

 山田さんが来る前に目にした黒い物体を指さす。

「は、はい。いつもあれで録音してます……クローゼットの中に、コルクとか、道具しまっていて」

 耳かき動画をつくるとき、コルクなどを耳かきでこするケースが多い。まあ、他にも方法はあるけど。

「へぇ、そっか……いや、いつもあの道具たちで俺はお世話になっているんだなーって思って」

「おっ、お世話だなんてそんな……」

「……いや、そうだよ……」

 弱々しく返す俺を見て、山田さんは何かを決意した顔をした。

「……あのっ、先輩……私に、耳かきさせてくれませんか?」

 最初、彼女が何を言っているのか俺にはわからなかった。

 だって、画面越しにしか聞いたことのない台詞だったから。実際に言われることなんて、あり得ないって思っていたから。

 俺にそう言ってくれる人なんて、出てこないって。思っていたから。

「……え?」

 だから、そんな声が喉から零れた。

「……私、実際に誰かに耳かきしてあげたこと、なくて……」

 顔を真っ赤に染めつつ俺にそう話す彼女。ワンピースの色と対比すると尚更ってくらいに。

「そ、その……大丈夫ですか……?」

 しかも、もともとがアニメ声だからさ……。

 これで萌えるなっていう方が無理でしょ……。

「うん……いいよ」

「あ、ありがとうございます……そ、そしたら……」

 彼女はそう言いつつどこにしまっていたのか耳かき棒を取り出し、カーペットが敷いてある床に正座した。そして、自分の真っ白な太ももをポンポンと叩いて続けた。

「膝……枕、しますから、ここに……寝てください……」

 もう心臓バックバック言ってる。やばい。

 俺は言われるがままに山田さんの膝に頭を乗せた。

「んっ……」

 俺のすぐ頭上で、そんなちょっぴり甘い声が漏れる。いや、膝枕って色々な距離が色々縮まるから色々なことが起きて色々って俺今色々って何回言った?

「そ、それじゃあ……まず、右耳からやりますね……」

 薄いワンピースの生地越しに伝う彼女の温もり。それだけで十分あれなのに、少し視線を動かせば彼女の素足が目前にあるし、息遣い、表情、小さな体の動き、何もかもが感じ取れるこの膝の上に寝ている俺は、完全に緊張していた。

「せ、先輩……力、入ってますよ……リラックスしてください……」

 今言ったけど、視線を遮るものがないから、彼女の表情が良く見える。……別に深い意味はない。

「そ、それじゃあ……耳かき、入れますね……」

 彼女は、ゆっくりと俺の右の耳に耳かき棒を忍ばせ、優しくこすり始めた。

「…………」

 言葉にならない声が、漏れそうだ。

 気持ちいい……。今まで自分でやってきた耳かきと、全然違う。

 動画とかで、しばしば他人にやってもらう耳かきは自分のそれと比べて気持ち良さが全然違う、なんてことを聞くけど、本当だった。

 彼女の細い腕からこすられる俺の耳は、快感であふれている。

「先輩、最後に耳かきしたのって、いつですか……?」

「うーんと……四月かな」

「だったら、三か月以上溜めたんですね。やりがいありそうです……ってこれ動画でも言ってますね、私」

「そうだね」

 ふふっと、小さくお互い笑みを浮かべながら、耳かきを続ける。

「先輩、気持ちいいですか……?」

「う、うん……気持ちいい、よ」

 ガサゴソと耳の中で音が響き、すると何か外れたような感覚がし、すっと取れていく音がする。

「変な話ですよね、耳かきしたことないのに、耳かきの動画をあげるなんて」

「……うーん、そうかもしれないけど、俺はみずな。さんの動画好きだから、そこは気にしないかな」

「さ、サラッと言いますね……先輩」

「あれ、っていうことは、俺、みずな。さんの初めて貰ったってことになるね……ファン冥利に尽きますねこれ」

「そ、そんな言い方しないで下さいよ……別に私の初めての耳かきなんて、そんな価値あるものじゃ……」

 そう言いつつも、耳かきをする手は止めない。段々奥の部分へと入っていき、得られる気持ちよさも増えてくる。

「……あ、そこ特に気持ちいい……」

「え? あ、ここですね、ちょっとこすってみますね」

 どうやらたまたま俺の気持ちいい所に耳かきが入ったみたいで、強い感覚が耳から伝わって来た。

「……ああ、いいわ……」

「なんかすごくいい表情になってますね、先輩」

「そう……?」

「はい……」

 音のない空間に、広がる耳かきの音。虚像じゃない、リアルな音が聞こえてくる。

 右の耳かきも大分進んだそのころだった。不意に、山田さんが俺に切り出した。

「……ごめんなさい、先輩。……先輩のこと、布田先輩から……聞いちゃいました……」

 横目に見る彼女は、とても痛そうな、そんな顔をしていた。

「……そっか」

 きっと、俺のことっていうのは、手紙事件のことなんだろう。

「……幻滅した?」

 自嘲するように、言って見せる。

「そんなこと、ないです」

 耳かきから、梵天に切り替えつつ彼女は小さいながらも力強く、そう返した。

「……馬鹿だよなー俺って。何も考えずに下駄箱に入っている手紙を信じて、騙されているなんてつゆも疑わずに教室で待ち続けて、次の日に笑い物にされて。ほんと、馬鹿だよな」

「…………」

「それで、逃げるように二次元に入り込んで、逃げて逃げて逃げて、逃げ続けた先で……みずな。さんと出会った」

 梵天でこしょこしょされながら、俺は続ける。

「騙されてもさ、結局俺は男だから、どんだけ現実に絶望したって、女の子と関わりたかったんだ。画面越しでもいいから、誰かと繋がっていたかったんだ。だからさ、みずな。さんに出会えて、ある意味落ち着いたんだ。……それからはさ、新しくあがるみずな。さんの動画を楽しみにして生きていた。生配信を開始したときとか楽しみ過ぎて前日寝られないとかあったし、コメント欄荒れた時は凄くイラっとした。……俺がこれで済んでるのは、みずな。さんのおかげなんだ。きっと。じゃなかったら、多分今頃、もっと荒れていたと思う」

「…………」

「だから、さ。学校で山田さんの声を初めて聞いたとき、自分の耳を疑った。迷惑な話だよな。山田さんは水を掛けられているのにさ。でも、それくらい、びっくりすることだった。……まさかさ、部活の見学にくるなんて思わなかったけど。挙句の果てに、入部までしてくれたし……楽しかったんだ、きっとさ。なんだかんだ言って、あの部活が。でも……そう思えば思うほど……俺のこれが嫌で嫌で。結局山田さんや布田からこれを理由に逃げ出してさ……ひどいよな……俺って」

 そこまで言い切ると、山田さんは梵天を耳から抜いて、いつもの柔らかい笑顔を向けながら言った。

「先輩、反対、向いてください」

「う、うん」

 俺は顔を反対に向ける。今度は山田さんの細い体が目の前に映る。

「……あ、あんまりじろじろ見ないでくださいね……は、恥ずかしいのは変わらないので……」

「ご、ごめんね、わかった」

 俺はそう言うと視線を下にずらし、膝を見つめる。

「……私も、先輩と同じです」

 そして、左耳に耳かき棒を入れながら、山田さんは話し始めた。

「私も、同じなんです。小学生の頃から、声を理由にいじめられていて。トイレで水掛けられたり、物を隠されたり、修学旅行ではぐれさせられたり。抵抗しようとすると、気持ち悪いから喋らないでって言われるし……私の声なんて、誰も聞いてくれないって思っていました。中学校でも、腫れ物に触れられるように扱われて、友達なんてできなかった。……それでも、誰かに私の声を聞いて欲しかった。私も、先輩と同じように、誰かと繋がりたかったんです。……それで始めたのが、耳かき動画でした。歌、上手くないし、何かないかなって探していたら、これならできるかもしれないって踏み込んで……。初めは、ほとんど聞いてくれる人なんていなかったです。当然ですよね、中学生の趣味程度の耳かき動画なんて、そうそう聞いてくれるものじゃない。わかってました。でも、段々慣れてきたからか、チャンネル登録してくれる人がポツポツと出てきて……嬉しかったです、その時期は」

 さっきと同様、しばらくすると奥に耳かきが入って来た。

「でも、その時期くらいに、悪口、というか、コメント欄にそういうことが書かれるようになって、初めは無視できるくらいだったんですけど、段々その量が増えてきて……現実でも声を理由にいじめられたのに、ここでも声で叩かれるんだ……って落ち込んでいたときでした。ある人から、コメント欄を閉鎖しましょうって書き込みがあって」

 ん?

「あなたの作品が好きだから、馬鹿にされたくない。このままだと聞いてくれる人も聞いてくれなくなる。そんな、感じの言葉でした。……初めて、私の声が認められた。誰かに届いたって思えました。……その人のおかげで……私は今でもこうして動画をあげられています」

 そして、耳かきをする手を一瞬止め、彼女は俺と目を合わせながら聞いたんだ。

「……かがわけいさんって……先輩ですよね?」

 瞬間、俺の顔が熱くなった。膝越しに、伝わっているんじゃないかってくらい。

「……先輩が生徒会室に行ったとき、慌てて行ったからか、スマホが机から落ちたんです。拾ったときに、電源がついたままで、しかも動画の途中で止まっていて……変な落ち方したからか、コメントを書く画面になっていたんです。そしたら、先輩のスマホの画面に、かがわけいの文字があって。……私こそ、びっくりしました。私を助けてくれた人が、目の前にいたんだって気づいて……」

 徐々に俺と同様、顔を朱に染めていく山田さん。その表情はどこか儚げで。どこか嬉しそうで。

「……先輩、私だって嘘つきます。嘘つかないっていう方が嘘つきです。……嘘をつかない人なんて……いないです。……でも」

 そう区切り、山田さんは言葉を繋ぐ。

「……少なくとも私は、誰かを傷つけるために嘘はつきません」

 はっきりと、そう彼女は俺に言った。

「先輩のおかげで、ここまでやれたんです。だから……」

 梵天に切り替え、彼女は最後にこう言った。

「……先輩にも……助かって欲しい……です」

 切に願うような、そんな声で締められた。

「ご、ごめんなさい、出しゃばったこと言いましたよね……私」

 そう言いつつ、勢いよく梵天をこしょこしょさせる。

「はい、お、終わりですっ……」

 そして、耳かきが終わった。

「……どうします? しばらく、ゆっくりしてますか?」

「……ありがと、ね……」

 耳かきが終わってから、俺はしばらく膝枕の上にお世話になっていた。夕陽が沈む頃に、俺は彼女の家を出た。

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