第3章(7)濁って見える青空は
〇
「行っちゃった、な……」
手を繋いで歩いていく二人の背中を見送りながら、ため息交じりに言葉を捨てる。
手紙の件をカミングアウトしたことで、一定の達成感というか、解放感というか、そういう気分を感じていた。
彼に言った通り、手紙を「書いた」のは私だった。いや、半分「書かされた」っていうのが正解かもしれない。
*
そもそも、私と中河原が出会ったのは、小学校五年生のとき。クラス替えで初めて同じクラスになった。最初は単なるクラスメイトでしかなかった。席が近くになることもなかったし、同じ生活班になることもなかった。接点なんてほとんどなかったのに、そのときから彼の姿をよく見ていたのは、その活発な性格からだった。
「永山、今日の放課後空いているか?」
例えば、昼休みでの会話。
「ん? 空いているけど、どうかした?」
「今日校庭で一組の
「おお、いいよ」
例えば、委員会決めのとき。
「誰か、飼育委員やってくれる奴いないかー? 誰もいないとくじ引きになっちゃうんだー」
「先生―、じゃあ俺やりますー」
「お、中河原っ、やってくれるか? ありがとう、助かるよ」
彼はこんな風に仕事を引き受けることもしばしばあった。
例えば、朝の始業前のひととき。
「永山、昨日発売になったあの本、買ったか?」
「ああ、この巻は俺が買う番だもんな? 買ったよ。ヒロインの子可愛いぜ」
「うっわ、……可愛い。早く読んで貸してくれよ」
「わかってるわかってる。二・三日で読むよ」
こんな風に、同じオタクの友達と堂々とライトノベルを読み合いっこもしていた。
それでも、彼がクラスで浮かなかったのは、その交友の広さと、困りごとを助けてくれる人柄があったからだったと思う。
そんな中河原と私が初めてまともに会話をしたのは小学六年生のとき。
その日、私は通学に使っているカバンに着けているキーホルダーをどこかに落としてしまった。学校内にあるのか、通学路に落としたのかすらわからなかったから、私は放課後一人当てもないままそのキーホルダーを探し回った。
「どうしよう……どこにもない……」
大切にしていたお気に入りのキーホルダーだった。だから、数時間探して見つからずに学校の校門で立ち尽くしていた私は半分泣きかけていた。
景色がぐにゃりとゆがみ始めたとき、一人の男の子の声が聞こえた。
「どうしたんだ? こんなところで?」
その声の方を向くと、ちょうどこれから帰る所であろう中河原が立っていた。私が泣いていることを不思議に思ったからか、声を掛けてくれた。
「布田、だっけ? どうしたんだよ、こんなところで半べそかいて」
今思えば、このとき名前を覚えてもらっていたことが嬉しかったのだろう。たった一年間同じクラスになっただけの私のことを、憶えていてくれたのだから。まあ、実際ここから中高とずっと同じクラスになるわけだけど、そこはご愛嬌ってことで。
「えっと……カバンに着けてるキーホルダーが落ちちゃって……見つからなくて……」
その言葉を聞いて、少し考える素振りを見せてから、彼はこう言った。
「そっか、なら俺も探すの手伝ってやるよ、学校は? もう探したのか?」
「え……?」
当初、その言葉を飲み込むのに時間がかかってしまった。だって、そう言ってくれるなんて思わなかったから。
「で、でも……見つかるかどうかなんて」
「見つかるかどうかは、探さないとわからないだろ? ほら、あとはどこ探せばいいんだ?」
恐ろしいほど、単純な女だったのかもしれない。
私の記憶が間違っていない限り、この瞬間、中河原慧を、一人の男の子として初めて認識した。
「えっと……学校はもう探して、あとは通学路を探そうと思っていて……」
「キーホルダーってどんな?」
「く、くまの……」
「オッケ―。じゃあ、朝通った道順に歩いて探そう?」
「う、うん……」
それから私と彼は、今日の朝私が通った通学路をさかのぼっていき、キーホルダーを探していった。駅が近い街中には見つからず、あとは浅川の近くを探すだけとなった。
探し始めたときはまだ高かった日は、浅川にたどり着いた頃にはもうほとんど沈みかけていた。探しても探してもキーホルダーは見つからず、ただ淡々と時計の針は進み続けた。
そうしてもうすぐ日没となる時間だった。
「も、もういいよ中河原君、見つからないよ」
まだ探し続けてくれる彼に、私はとうとう諦めの言葉を投げた。
「まだあきらめるには早いって。だってどこにもなかったろ? あるなら川しかないって」
それにも関わらず、彼は探す手を止めることをしない。土と草にまみれた彼の手はすでに黒くなっていて、それは沈みかけた太陽の明かりのなかでも判別できるほどだった。
どうして、そこまで探せるの?
そう、口にしようとしたとき。
「あ、これか? このくまの奴か?」
彼が差し出した右手の中には、確かに私のお気に入りのくまのキーホルダーが握られていた。
「な、中河原君……ありがとう……!」
これが、私と彼のファーストエンカウント。
そして、私が彼に惚れた瞬間。
その後、特にこれといった接触はないまま小学校を卒業した。でも、顔を見れば挨拶をするくらいの仲にはなった。
中学一年になり、再び彼と同じクラスになった私は、胸躍らせながら日々を送っていた。新しく友達もできたし、あとは彼ともっと仲良くなるだけ。
そう思っていた。
でも、中学一年生というのは、きっと多感な時期だったんだ。
ことの芽生えは新しく友達になった友達との恋バナのとき。
「――でもやっぱり格好いい先輩には彼女いるみたいだよ」
「だよねーじゃあ同学年からなのかなー」
そんなことを話しているのが、友達の
「朋花は誰かいい人知っている? 同学年で」
葵にそう聞かれ、咄嗟に彼のことが頭に浮かんだ。それを言おうかどうか悩んでいると。
「あーでも同学年は駄目かなー中河原みたいなオタク多いし」
「そういえばそうだね、オタクは嫌かなー」
えっ……。
喉元まで出かかったその言葉を慌てて私は飲み込んだ。
「それに、中河原ってオタクのくせに無駄に目立っているからさなんかムカつくんだよね」
「そうそう、委員会とかも余った奴引き受けちゃって」
小学校までは寧ろそれが理由で繋がっていた彼の交友が、今度はそれが原因でつまみ者にされることになってしまう。
私は「そ、そうだねー」と、適当に返すことしかできなかった。
つまりそれくらい、中学一年生は多感な時期だった。
でも、これはあくまでただのきっかけ。まだこの時期は葵も彩紗も彼をどうこうしようなんて気はなかった、はず。
そんな状況が変わったのは、とある春と夏の狭間の一日。
「ねー今日の陸上競技会の委員決めさー」
「そうだよねーまた中河原だよ」
五月終わりにある陸上競技会の実行委員を決めた日の放課後。この日も彼への陰口は叩かれた。
「なんかあいつ勘違いしてんじゃないの? オタクのくせにさー」
「うんうん、一回思い知らせないと」
また、というか今日も彼は誰も手の上がらなかった実行委員を引き受けた。それが二人には気に入らなかったみたいだ。春先からたまっていた彼への嫌悪感はきっと一定のラインを超えたのだろう。
「ならさ、一回あいつの下駄箱になんかの呼び出しの手紙書いて、放っておくのは?」
「あ、ラブレター的なのに見せかけて?」
「そうそう、ウキウキしながらやってきたら誰も来なくて、っていう感じに、いいと思わない?」
「えー? そこまで上手くいくかなー」
私は焦った。今までは直接彼に何かやろうってことはなかったからとりあえず何も言わず相槌だけ打っていた。けど、何か手を下すとなると話は別だ。
自分が好きな相手を、騙さないといけない。
それは嫌だった。でも、二人のやろうとすることを嫌がると、きっと友達じゃいられなくなる。それも嫌だった。
「いいよいいよ、やることに意味があるんだから、じゃあ、手紙、誰が書くー?」
「えー? 嘘とは言え、中河原にそういう手紙書くの嫌だなー」
「じゃあ、朋花書く?」
「え? ……あ、う、うん、書くよ」
どうすればいいかわからず、結局書くことを引き受けてしまった。
「はい、これに書きなよ」
私はその場で葵からメモに使う紙を受け取る。まあ、授業中に回す手紙に使われるのが殆どだったけど。
「う、うん……」
私はペンを手に持ち、最初の一文字を書こうとした。でも、書けない。
彼を騙すための言葉が、どうしても浮かばなかった。
「あれ、思いつかない? 適当でいいよそんなの、放課後、教室で待っていますくらいの文章でへーきへーき」
そういう問題じゃない。だけど、それを言うことは、できなかった。
結局、少し震える文字で偽りの手紙を書いて、葵に渡した。その後、いつ下駄箱に入れるか話していたけど、半ば放心していた私は、聞いていなかった。
私が手紙を書いてから数日後。いつも通り授業は終わり、放課後になった。すると。
「じゃあな永山―。明日までに貸したラノベ返せよっ」
そう友達の永山君に言いながら教室を飛び出す彼を見た。
掃除当番だった私はその姿を片目で追いながら、机を下げ始めた。
「朋花―、うちら今日用事あるから掃除終わったら先帰っていていいよー」
彩紗にそう言われ、「うんわかった」と返しておく。
あの日以来、どこか二人に対して不信感というか、そういったものを抱いていた。
どうか、どうか今日じゃありませんように。ずっとそれだけを思いつつ一日を過ごしていた。
掃除を終え、教室を出ると、真っ先に教室を出たはずの彼が、廊下に立っていた。
……まさか。
心の中に芽生えた微かな不安。それを拭うために私は声を掛けた。
「あれ? 中河原、珍しいね。当番でもないのに残っているって」
「ああ、ちょっと、な」
どこか落ち着きのない雰囲気でそう語る彼。
「そっか、それじゃあ、また明日ねー」
「ああ、また明日」
そして、私は教室を後にした。
……間違いない。きっと葵と彩紗は今日実行したんだ。用事って言うのは、どこかで彼の姿を観察するため。
背中に残した彼に伝えたかった。
その手紙は嘘だって。
でも、それを言う勇気を私は持ち合わせていなかった。
そして迎えた翌日。
別に嫌いな授業がある日でも、テストがある日でもないのに、私の足取りは重かった。
いつもより少し遅れて教室に入ると、私は悟った。
意地悪い笑みを浮かべながら話している葵と彩紗の姿と、席に一人座る彼の姿を見て。
「あ、朋花おはよー、大成功だったよー昨日の計画」
教室に入った私の姿を見つけると、葵がそう自慢げに話しかけてくる。
「そ、そっか……よかったね」
ぎこちなくそう反応する私。それを見透かされたのか、葵の表情がスッと曇る。
「あれ? あんまり嬉しそうじゃないねー」
その少し影がある口ぶりを聞いて私は慌てて取り繕う。
「そ、そんなことないよ、よかったね、上手くいって」
多分、彼の耳にも聞こえていたと思う。
今だって思う。
最低だって。
何度だって自分に言う。
最低だ。
*
それから、中河原は変わった。前にも言った通り、人とのつきあいをやめ、明るい性格にも闇を挿し、人を信じなくなった。顔を合わせれば挨拶をしていた私とも、口を利かなくなった。
当然だ。今でこそ会話は出来ているけど、それは嫌々であって、ただのおつきあい。
きっと、今も私は彼に嫌われている。
今の中河原を作ったのは、紛れもなく私だ。
消えることないプールの喧騒のなか、一人青空を見上げる。
いつからだろう、きっとあの頃からだろうか。
空に浮かぶ小さな白が、雲なのか飛行機なのか見分けがつかなくなったのは。見分けがつかないほど目が濁ったのは。
それとも、知らず知らずのうちに浮かべた涙のせいか。
「……ほんと……最低……」
プールにとても似つかわしくない言葉が、吐き出された。受け取る人は、どこにもいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます