第2章(5)不在着信
〇
帰り際、中河原が私を呼ぶ声が聞こえた。けど、それを無視し、私は玄関へ向かう。いつも週四くらいで寄っている部室にも行かないで。
山田さんの入部で、明らかに中河原は変わった。あの事件以来、ずっと女の子にはきつく当たって来たはずだった。勿論、私にも。なのに、山田さんにはどこか柔らかい対応をして。
それがもともと優しかった中河原の本質なのか、それとも「山田さん」だったからなのか。私にはわからなかった。
中河原が変わる前は、いつもニコニコと好きなアニメについて話し、たくさんいた友達と休み時間になるとボールを持って校庭に駆け出すような、そんな男の子だった。
遊んでいるときに誰かがけがをすると、いつも最初に様子を見に来てくれて、保健室まで運んでくれたり、先生を呼んでくれたり。
つまり中河原慧は、そんな気の利く優しい男の子だった。そんな彼だったから、あの事件は起きてしまった訳なのだけど。
中一の夏にあったあの事件以降、中河原は人と関わることをしなくなった。今では会話くらいはするようになったけど、それも会話をするだけであって特別な何かではないだろうし、当時は誰とも話さなかった。
だからこそ、今の山田さんへの態度は不可解だった。
私には変わらず冷たいままなのに、山田さんには優しい。
あいつはただの後輩と言い張るけど、実際はどうだか。
少しずつ広がっていった不信感。
あてもなく寄った新宿駅東口のミルネにあるチェーンのコーヒーショップで注文したアイスコーヒを片手に一人カウンターに座る。
注文口で貰ったミルクをカップに広げる。
黒い液体に広がる乳白色の液体。ゆるやかに溶け込んでいき、黒色を少し薄くさせた。
……少し、落ち着いてきたかも……。それにしても、普段一人で新宿とかには行かないから、なんか変な感じ。窓の外からは、新宿のビル街が立ち並ぶ。平日の午後ということもあり、それほど道を歩く人の数は多くない。それでも、大学生くらいの若い集団が楽しそうに街を歩いている姿を見て、少し胸をチクリとさせたりもした。それが、男女二人とかだと、なおさら。
「いいなぁ……」
思わず漏れる、独り言。その嘆き声は、コーヒーに吸収され、代わりに少し苦い、いい香りが鼻腔に広がった。
朝は少しやりすぎたかもしれない。でも、三鷹駅で仲良さげに歩いている二人の姿を見ると、どうしてかマイナスの感情がとめどなく溢れてきた。
私が四年かけても手に入らなかった中河原の隣で笑いながら会話することを、彼女はたった数日でやってのけた。
私と山田さん、何が違うの?
同じ「三次元」なのに。
そんな思いが積み重なって、今朝のあれだ。
あの後、引っ込みがつかなくなって中河原から逃げで、会話もせず。そして結局新宿で一人コーヒーを飲む。
引っ込みがつかなくなって逃げ出しちゃうあたり私だよなあ……。「ごめん、言い過ぎた」と言えずに逃げ出しちゃうのは、なかなか中河原に素直になれない私の悪い所。
コーヒーを一口飲み、胃に薄茶色の液体を落とし込む。
でも、時間を過ごせば段々あんなことをした自分が恥ずかしくなり、結局こんな風に悶々とすることになる。
新宿に来てから、やることは決めていた。
私は連絡用SNSアプリを起動し、中河原とのトーク画面を呼び出す。メニューから受話器の形をしたボタンを押し、スピーカーに耳を合わせる。
呼び出し音がスマホから鳴り響く。
なかなか出ない。
何かあったのだろうか。
……出ないなあ。
何か用事でもあったのかなあ。でも、あの中河原ならそんなことないか。
一向に止まない呼び出し音。
……怒っている、のかな……。
今頃、通話に気づかず山田さんと楽しく何かやってるのかな……。
私がそう結論付けた瞬間。呼び出し音が止まった。
「あ、もしもし」
…………。
反応など、あるはずがなかった。スマホ画面に目を移すと、「通話は繋がりませんでした」と表示されている。
……無意識のうちに、私はコーヒーにミルクを足していた。
苦い。
〇
放課後、布田の背中をただただ見送った後、何か釈然としない気持ちを持ったまま俺は部室へと向かった。
あそこまであからさまに避けられるとね……。いや、ほら。嫌いな人に嫌いって言われてもなんか悲しいよね。それと同じ。
すれ違うハイテンションなリア充共とは対照的に、少し沈んだような気分で渡り廊下を抜ける。部室のドアを開ける。
眼前には見慣れた二次元に溢れた空間。いつもの光景のはずなのに、どこか違うように見える。今まで布田が部活を休むことは何回もあった。でも、こうやって何らかの喧嘩をして来ないというのは初めてのことだった。だからだろうか。
見たことがあるのにそんな感じがしない。
「……先輩? どうしたんですか? ドア開けたまま立ち尽くして」
後ろから毎日聞いている声が耳に響く。
「ああ……いや、なんでもないよ」
俺は山田さんの方を一瞬向き、そう笑いかけながら部室に入った。
いつもの椅子に座る。山田さんも。
でも、普段埋まっているもう一つの座席は空いている。
日常なら見えない景色が、文庫本の向こうに映りこむ。
「……布田先輩は、今日は来ないんですか?」
「ああ、今日は用事みたいで」
一応、嘘をついた。
どうでもいいことかもしれないし、余計なことかもしれない。でも、俺と布田の間に何かあったことを彼女に知られたくないという思いがどこかに走った。だから。
「……そうですか」
そう反応すると、彼女も持っていた本を開き、読み始めた。
再び、無言の空間が教室に作りだされた。
何分くらい経っただろうか。おもむろに、山田さんはこんなことを言い出した。
「……先輩、ライン、教えてもらってもいいですか?」
「え? ……まあ、いいけど」
「……やった」
俺は山田さんにラインを教えるためにスマホを取り出す。けれど。
「あ……」
電源ボタンを押しても、ホームボタンを押しても画面が明るくなることはなく、代わりに空の電池マークが無機質に点滅するだけだった。
「ごめん、充電切れちゃって……モバイルバッテリー持っていたりする?」
「……すみません、私は持ってないです……」
「そっか、……また今度でいい?」
「は、はい……」
少ししょぼんとした表情を浮かべる山田さん。感情を表に出すようになってきたのか、単に部活や高校に慣れてきたのかはわからない。でも、まあいい傾向なんだろうなとそのときの俺は漠然と思っていた。
朝ラジオつけたままにしていたのが響いたな……。
でも、こうして山田さんにラインの交換を言われないと気づかなかっただろう、くらいのレベルで俺はスマホを使わない。だから、そんなに困ることはない。
結局、その日は布田が姿を見せることなく部活を終え、帰宅した俺は真っ先にスマホを充電しみずな。さんの新作を聴収した。
最高だった。
次の日。やはり山田さんと同じ電車・同じ車両に乗り学校に着いた俺は、例に漏れず本を読みながら朝の暇な時間を潰していた。
すると、俺の隣の机にトンとカバンが置かれる音がする。
音に合わせて横を向くと、昨日から険悪な関係になっている少女が座っていた。
「……お、おはよう……布田」
なんてことでしょう。あの三次元に興味がない俺が、自分から挨拶を言うなんて。明日は雪が降るでしょう。
「……おはよう、中河原」
怖い怖い怖い怖い。
いつもより数段も低い声。こっちを向かずに言ったこと。右手で頬杖をついていること。
そして何より、目が死んでいること。
「昨日、電話したんだけどさ……気づいた?」
ひっ……。
っていう反応になってしまった。そのままの調子で言葉繋ぐんだもの……。お墓が喋り出したみたいな反応になっても仕方ないよね。
「え? マジで……?」
俺はその言葉を聞いてスマホを開き、着信履歴を追い始めた。
あ。
「……ごめん、その時間電池切れ起こしていて……」
「そっか……そっか……電池切れならしょうがないね……」
ツンツンしていないのが逆に怖い。
相変わらず布田はこっちを見ることなく、無表情を決め込んでいる。
「それでさー、今日も朝から仲睦まじい姿を見せてくれていたよね……山田さんと」
「……それは……」
「付き合っているの? 二人」
……爆弾投下しましたね、今。投げやりな口調で今。
「んな訳ねーだろ」
「じゃあ」
一瞬、間を置いた。教室の喧騒が耳に入って来る。
「好きなの?」
そして、その言葉は紡がれた。
……俺が、山田さんを好き……?
「……何言ってんの」
俺も、限りなく低い声で対抗する。
「俺が、三次元の女を好きになる理由なんて、ないけど」
放った言葉は、重く布田に伝わったはず。
「……その言葉、信じていいの?」
「当然だ。俺は三次元になびいたりなんてしない」
「じゃあ、なんで……山田さんと、あんな仲良さそうなの?」
「……折角、サブカル研入ってくれたんだ。後悔はさせたくないから」
そこに嘘は混じっていない。高校生活を左右する部活選びにサブカル研を取った彼女に後悔をさせてはいけない。
「……だからってさ……あんなに毎日毎日登下校一緒にする必要ある?」
「それはっ……偶然で……同じ車両にいたらそうなるって……」
「でもさ。……きっと中河原、私と同じ車両に乗っても私には話しかけてこないよね」
「っ……」
否定できない。それだけ、俺は冷たい態度を布田に見せ続けた。
「そうだよね。きっとそうだよね。あれだけ私に冷たくしているのに、いや、話すよなんて言える訳ないよね」
でも、言うわけにはいかない。
俺とみずな。さんのことを話すわけにはいかない。
動悸が速くなる。
「……ねえ、本当にただの後輩なの?」
刺さらない視線が痛い。
こっちを向かない布田の声は、死んだままだ。
俺を見ないで言葉を繋いでいく布田の目は、死んだままだ。
「……ねえ」
あるはずもない薬缶から水の沸騰音が聞こえてくる。いや、俺の中にある、かもしれない。その音はどんどん大きく、高くなっていき――
「……答えてよ」
そして、煮沸音は限界を迎え。
「答えてよ! 中河原!」
教室に、沈黙が飛び込む。
クラスメイトは一斉に何事かと俺と布田の方を見てくる。
「何だ何だ」「どうした、あの二人」「昨日も何かやってたよね」
そんなひそひそ声が漏れ出す。
「……この間初めて顔を見た、ただの後輩だよ」
苦し紛れに繰り出した、答え。嘘ではないけど、含みはある。
「……わかった、もういい」
え……もう、いいって、どういうことだよ。
「続きは、部活でしよ」
……ゾクリ。
背筋に冷たいものを感じた。例えるなら、キンキンに冷やしたラムネを服と肌の間に入れられた、そんな。
その後の展開はほぼ昨日と一緒だった。一度も俺と布田は口を利くことをせず、淡々と時間は流れた。一度は注目が集まった俺と布田だったけど、一触即発の状況が終わると興味も薄れたみたいで、そんなにしつこく周りに聞かれるということはなかった。
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