第1章(5)転機

 翌日放課後。予告通り布田は部室には来なかったので、一人で本を読んでいた。

 体育館や外からは運動部の練習の声が聞こえてきて、近くからは吹奏楽部の音合わせが耳に入る。普段、イヤホンを挿しながら本を読む俺も、この部室のBGMは嫌いではない。

 指と紙がこすれる音の後ろで流れ込む金属バットの音。空気の入ったサッカーボールが蹴られる「ボム」という衝撃音。吹奏楽部の楽器の心地よいメロディ。

 そのどれもが、嫌いではない。

 壁際に所狭しと並べられた本棚に囲まれて、部室の真ん中に置いてある椅子に腰かけて本を読む俺。

 そんななか、急に部室のドアが開く音がした。俺はドアの方に目線をずらす。

 すると。

「あ……昨日の……」

 そこには、昨日俺が水をかけたふんわりほんわかな一年生、つまるところ、みずな。さんが立っていた。

「君は……」

 二人の距離、五メートル。そして走り出す気まずさ。ふと、彼女が重心を後ろに傾けたようにも見えた。お互いが何かを口にしようとするけど、それは声にならない。

 なぜか。

 だってこんなに早く再会するとは思わないよ……。え? どうするのが正解なの? 先日水を掛けた後輩とすぐに再会したときにかけるべき言葉って何?

 そうこう悩んでいるうちに、目の前の後輩が先に口を開いた。

「あ、あの……見学に……来ました……」

 ボソボソと消えるような声で彼女は呟いた。

 俺はその言葉を聞いて、読んでいたラノベをテーブルに置き、席から立ち上がる。

「あ、見学? そっか、じゃあ、立ち話もあれだし、中入って座りなよ」

 俺は彼女に部室に入るよう促す。それに反応して、三つ編みの髪を揺らしながら彼女は俺の目の前の位置に置いてある椅子に座った。

「……名前とクラス、聞いてもいい? あ、俺部長の二年五組、中河原慧」

 彼女が座ったのを見て、俺もさっきまで座っていた席に腰を落とす。

「……一年二組の、山田瑞菜やまだみずなです……」

「山田さん、ね」

 本名がそれかーい! 確定ですね、これ。はい。

「山田さんは、他に部活、見て来たりとかしたのかな?」

 できるだけ、優しい声で話しかけるように努める。布田と話すような感じで話して無意味に下級生を怖がらせる趣味はない。それに……みずな。さんだし。なんなら敬語で話したいくらいの気分だけど、とりあえず保留。

「は、はい……美術部と、漫画研究会と、文芸創作部に……」

 相変わらずか細いアニメ声で話し続ける。

 にしても初対面のときから声小さいけど……そういう性格の子なのかな……。

「そっか。まあ、とりあえず簡単にこの部活説明するね」

 そう前置きして、俺はサブカル研の説明を始めた。

「とりあえず部員は俺と他に二人。まあ、うち一人は幽霊だから実質二人ってところかな。活動は毎日やっているけど、まあ、今みたいにただのんびりしているだけ。たまーに外出て何かすることもあるけど、月一くらい。そんな感じ」

 たった三行で説明が終わる部活……。なんてこった。

「それに、今もただ本読んでいただけだしね」

 いや、四行か。

 ってそんなのはどうでもよくて。

 さっきから終始なんか怖がられているような気がするんですけどぉぉぉ。

 あれ? やっぱ漏れている? 俺の三次元嫌い。

 と、とりあえず……何か話題は作ってあげないと……何か、何かないのか? サブカル研に顔を出すってことは、少なからず、アニメとかは見る子のはず。

「……今期、何見ている?」

「…………」

「……好きなアニメとかって、ある?」

「…………」

「……寧ろ、あれかな? 歌い手さんとか、そっち?」

「…………」

 どうしろと? 俺にどうしろと? 普段まともに三次元女子と会話しない俺にこれ以上何ができると?

 目前に居る彼女は、どこか居心地が悪そうな、そんな雰囲気で。

 昨日付けた結論を、一度思い返す。

 「俺から」の接触はやめよう。

 これは山田さんから接触してきたから、大丈夫だよね? 俺はそう言い訳をしつつ、会話の流れを模索した。

 それにしても、ここまで何も話さない子だったんだな……みずな。さんって。動画のときは結構人懐っこい感じなんだけど……。

 なんでなんだろう。

 不意に、そんなことを考えていたからだろうか。俺の口は、自然とその言葉を発していた。

「……どうして、何も話さないの?」

 口にして数秒。経ってから我に返った。

 は? 俺、何無神経なこと聞いているの? やばいやばい。これだからコミュニケーションできないオタクは。

「……っ」

 でも、これまでの沈黙とは、何か違うものを感じた。答えようとする、そんな意思を感じた。

 それでも話さないのは。

 もしかしたら、この子も俺と同類なのかもしれないから。そんな馬鹿なことを思ったりもした。

「……ごめん、軽々しく聞くことじゃなかったね。話したくないなら無理に言わなくてもいいよ。別に入部してって勧誘する気もないし、入部したからって活動の参加を強制する気もないから」

 それを聞いて、山田さんは一瞬視線を俺に向けた。

 ん? 何だ何だ?

「……あの、私、もう帰りますね……」

 ……帰るのね。そっか……まあ、そうだよね。

 彼女は席を立ち、申し訳なさそうに部室を後にした。その際、チラっとこっちを見ていた理由を、このときの俺は知らない。


 翌日。今日もいつも通り俺は部室で本を読んでいた。繰り返しになるが、この部活、実験のとき以外はほぼ何もしない。

 そしてやはり退屈そうにスマホをいじっている布田。

 なんだかんだ布田の部活の出席率は高く、週に四回以上は顔を出す。

 オタクじゃないのに……。

 そう思いつつ俺は昨日の帰りの電車から読み始めたライトノベルを読破した。はあ、ヒロインの子マジ天使……。俺もあんなこと言われたい……二次元で。

 俺はいそいそとカバンの中から新しいライトノベルを取り出し、水色の布製ブックカバーをそっちに移す。オタクの必需品。ブックカバー。まず、俺の精神がすり減るのを防ぐというのもあるけど、健全な子供たちがライトノベルの(やや過激とも言えなくもない)表紙を無駄に見ることのないようにね。いや、別にエロい表紙が嫌いなわけじゃないから! そこんところ、よろしく。

 まあ、実際ラノベの表紙も色々言われるこのご時世、カバー無しで電車内においてラノベを読むのはもう厳しいだろうなというのが本音。ほんと、どうしてくれんだよ、世の中。やっぱ二次元行くしかないな。

 そんなことを考えていると、突然部室のドアが開いた。

 ……ん? もう布田は来ているから部室に来る部員はいないはずなんだけど……。俺は目線をドアの方にやる。

「……あ」

「……い、一年二組山田瑞菜です。に、入部届、持ってきました……」

 そこには、昨日この場所で会った、三つ編みの後輩が左手に入部届を持って立っていた。

 俺が蛇口を止めなかったのが全ての原因だとしたら。

 彼女のこの決意は、俺にとっての転機に繋がった。


 今だって、憶えている。部室の外に立つ、彼女の表情を。

 まるで、何かを祈るような、そんな顔をしていた。

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