第1章(3)きっとそれがきっかけで
翌日、俺はいつもより少し早く起きることができた。早寝の効果は偉大だった。それによって朝の支度の何もかもが少し早く終わり、結果、少し早く俺は家を出た。
朝、数分違うだけで見える景色が変わるのは東京の特徴なのだろうか。道をすれ違う人、追い抜いていく人のどれもが変わり、走り抜ける車でさえ、並ぶ色がいつもと違う。
家から最寄りの八王子駅に歩く間、そんなことを考えていた。あ、俺の通う東中野高校、中野区の方の東中野だからな。今、最寄り八王子駅って言った途端に少し「ん?」って思った奴は八王子市民だ。間違いない。
まあ、普通の東京都民からして東中野は普通中野区の方を指すだろう。でも、八王子にも東中野という地名があり、某私立大学の住所が東中野だったりする。他の事例として大塚があげられる。これも山手線の駅と同じ名前なので色々紛らわしい。
そんな、言っていて悲しくなる話はさておいて。
オレンジ色のラインが入った車両が多くの人の待つホームに滑り込む。新宿や東京まで直通する首都圏の通勤の大動脈は、地獄の路線として知られている。空いている席に座り、例のごとくカバーのかかったライトノベルを読み始める。こういう公共の場でライトノベルを読むときには、頬の筋肉に力をいれないといけない。罷り間違ってニヤニヤでもしたら、即変態認定だ。ライトノベルの多くは俺のようなオタクがニヤニヤしてしまうような場面が多い。注意しないといけない。
電車が東に進むにつれて、乗せる人の数も多くなっていく。
そして駅に停まるごとに駅員が乗客を押し込んで発車するようになるころになると、そろそろ俺が乗り換える中野駅が近づいてきたことがわかる。残念ながら高校最寄りの東中野駅は各駅停車しか停まらないため、三鷹より西から乗ると一度乗り換えないといけない。一本で行けるように見えてそうでない少し悲しくなる通学路だ。
東中野駅を出ると、同じ高校の制服を着た奴らが多く駅前を歩いている。駅ビル一階にあるパン屋で買い物している奴もいれば、横断歩道を渡った先にあるコンビニに寄っている奴らもいる。
そんな光景を尻目に俺は一人で高校へ向かう。歩く道が変わったとしても、一人で学校に向かうこの習慣は変わらない。
教室に入り、そそくさと自分の席に座る。そして例のごとくイヤホン装備、本を片手に朝のホームルームまでの時間を潰し始めた。
時間が経つにつれて、騒がしくなっていく教室。それでも、俺に話しかけてくる奴はいない。今日も素晴らしい朝を迎えられそう――
「まーたそんな本読んでるー」
と思った矢先だよ。机にカバンを置きながら布田が話しかけてくる。
「……別になんでもいいだろ」
「まあ、そうなんだけどさ……」
構わず俺はページをめくっていく。
「……ほんと、ぶれないよね……中河原は。話しかけられても本読むの止めないし」
「ありがとう、ほめ言葉として受け取っておく」
俺が半分冗談でそういうふうに返すと。
「ど、どうして私が中河原をほめないといけないのよ」
……俺に言わせればどうしてその流れでツンデレ発言ができるかがわからない。冗談だろ冗談。
「そういえば、今日の実験って何するの」
視線を合わせることがないまま進んでいく会話。
「え? 花壇で水まき」
「……何それ」
「よく見るだろ? ホースかなんかで水撒いてイチャイチャするシーン。漫画とかで」
「ま、まあ」
「今日はそれの実験」
「……それをさ、中河原は私とやって楽しいの?」
「別に。できるなら二次元の女の子とやりたいけど、まあ、やることに意味があるからそこんところは気にしてない」
そう、実験は「誰」とやるのではなく、やったという事実が面白いんだ。ということを即答で布田に返すと、まーた布田のツンが出てきたようで。
「……バーカ」
「何が」
「聞き返さないでよ、バーカ」
「あっそ」
結局、この時間一度も目を合わせることがないまま布田との会話は終わった。
何だ、この会話は……。
無機質に流れていった授業は、やはりいつも通り影薄く終わった。カバンを持ってそそくさと校舎を出て俺はゴミ回収所近くにある花壇に向かった。ホームルームが終わりすぐに向かったからか、まだ多くの人が残っている。地上の花壇からは渡り廊下でいかにもリア充なことをやっている三次元が見える。そこ、男女仲良く放課後イチャイチャするんじゃない。見ていて切なくなるだろ。いや、羨ましくはない。だって、どうせ嘘にまみれた奴らの関係なんて、俺の知ったこっちゃない。
布田を待つ間、外にある蛇口と外に置いてあるホースをつなぐ。
「これでよし、と」
柔らかな光差し込む春の一日。出会いも無ければ別れもない。そんな俺の高二の春。
「……布田。遅くね? 掃除当番じゃないのにな……まあ、きっと友達と何かやってんのかな」
なら、……先やっているか。別に布田とやらないといけないわけじゃないし。それに何より、花壇にはちゃんと水を撒かないといけないから。
蛇口をひねり、ホースから水が出始める。勢いよく出る水は花壇の土を湿らせていきどんどん花びらから滴が零れていく。
「よし、隣の花壇に行くか」
そうして、俺は今まで撒いていた旧校舎側の花壇から新校舎側の花壇に移ろうとした。そのとき、蛇口を止めなかったのがいけなかったんだろう。
それが、原因だったんだろう。それが、このクソみたいな俺の高校生活を変える原因になったんだろう。
俺がホースの先を移したそのとき。
「きゃっ!」
きゃっ? ……え?
視線を移動先の花壇から声の先に向ける。
青空の下、ホースを持つ間抜け面した男子高校生と、水を被った女子高校生。
「……あ、ご、ごめん!」
水に濡れた彼女は、三つ編みの髪を横に振りながら言う。
「い、いえ……ボーっとしていた私がいけないんです……も、もう行きますね、私、教室に戻らないといけないんで」
それだけ言い、三つ編みの彼女は踵を返そうとした。
いやいやいや。おい中河原慧。お前はそんな薄情な奴に育ったのか? いくら三次元が嫌いだからといって、自らの責任でびしょぬれになった女子をそのままにして帰すのか? 恋愛シミュレーションゲームでそんな選択肢を選んだらどうなる? 基本、バッドエンドだよ。いや、そもそもフラグすら建たねぇよ。
……確かに俺は三次元が嫌いだ。でも、だからといって危害を加えていいというわけではない。
「……ん? っていうか」
この声、どこかで聞いたことが……この特徴的なアニメ声……って。まさか?
「……ほ、ほんとごめん、君……一年生?」
俺は、あることを確認するために、それを聞いた。
まるで、ラブコメアニメの第一話の、出会いのシーンのような。そんなゆっくりとした動きに見えた。肩まで伸びている黒の三つ編みを縦に揺らしながら、水滴る前髪を右手で拭って、彼女は俺に目線を合わせてこう返した。
「は、はい……」
どこか大人しめな雰囲気が漂う彼女の印象と、昨日の夜聞いた「彼女」の演じるキャラの印象が、マッチする。
まさか。そんなこと、あり得るはずがない。
でも、俺は、目の前にいる女の子の声を聞いたことがある。たった数回しか肉声は聞いていない。それだけでも、判別がつくくらい、俺は「彼女」の動画を聞いてきた。
「も、もしかして、君……」
水に濡れてもいないのに、震えだす俺の声。まるで、牛乳でも零したかと思うくらいに白色の肌。どこかかしらからほんわかとした雰囲気が漏れ出す優しげな顔。……水掛けたのにそんな印象持つってどんな神経しているんだ俺。
「みずな。さん?」
俺がその名前を口にした瞬間だった。さっきまで真っ白だった彼女の肌は、息を止めたかのように赤く染まっていき、そして。
「……ど、どうして……その名前を……?」
俯きながら、俺にそう言う。
ビンゴ、だ。この反応は間違いない。彼女はみずな。さんだ。
俺が頭の中でそう結論を出したとき。
「あ、山田さんーいたー。もう、ゴミ出し終わったー? あと山田さん戻ってくれば掃除おわるんだけどー」
彼女の背中から、そんな声が飛んできた。それにハッとしたのか、
「で、では失礼しますっ」
そして、彼女は俺の前から走り去っていき、声を掛けていたであろう女子の横も抜けていった。
「あれっ? どうして山田さん水浸しなの?」
クラスメイトだろうか、その問いに答えることなく、彼女は走る足を止めず、旧校舎へと向かっていった。
気づいたときには、俺の足元は水たまりができていて、花壇の前のアスファルトでできた道は大雨が降った後のようになっていた。
その後、遅れてやってきた布田に、「何やってんの中河原」と言われたのはここに書くまでもない。
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