第1章(2)彼の日常

 家に帰り自分の部屋に戻ると、俺の二次元コレクションが出迎えてくれる。部屋一面に飾っているタペストリー。部屋の四辺のうち三辺を埋めている本棚。当然本棚の中はラノベと漫画で埋まっている。緑とか青とか白とかの背表紙で広がる本棚はある意味壮観だ。そして、本棚の上にフィギュアがあるのは部室と同じ。部屋のドア横にあるクローゼットの中には服よりも量があるであろうギャルゲーや円盤、CDの数々が透明のボックスケースにしまわれている。

「さ、昨日録画したアニメをまず消化しないと」

 そう言いつつ、俺は部屋にあるテレビとレコーダーの電源をつけ、録画したアニメの再生を始めた。

「はあ……やっぱりこの子可愛い……」

 学校にいるときは基本テンションが低い俺だが、二次元が絡むとハイテンションになる。ま、典型的なオタクって奴なのかな。

「お前、そこ俺と位置変われ……! はあっ、……膝枕されてる……」

 こんなふうにアニメの登場人物に位置変われまで言う始末だ。

「はあぁ……今日もヒロインの子可愛かったなぁ……俺もあの子に耳かきとかされてぇな」

 今日見た回では主人公がヒロインの子に耳かきされるシーンがあった。耳かきのASMR動画とか見る俺にとっては羨ましい瞬間。

「なんか耳かきされているのを見ると俺もされたくなるな」

 そう思った俺はベッドに横になりスマホにイヤホンを装着した。それから俺の耳にイヤホンを付けて、動画投稿サイトにアップされている耳かきのASMR動画を再生し始めた。

「お、今日夜の十一時からみずな。さん生放送で耳かきかぁ。聞かないと」

 サイトの通知画面でその情報をゲットした俺は、今日の十一時からの予定をそれで埋めた。みずな。さんとは俺が中三のときから聞いているASMRの動画配信主の人だ。チャンネル登録者は三桁くらいだけど、その甘い声と演じているキャラとがマッチして俺は好きだ。あ、ASMRは基本何らかの設定に基づいて作られている。例えば、ツンデレ彼女が彼氏に耳かき。とか、敬語後輩が先輩に耳かき。とか。みずな。さんは後輩キャラの動画が多く、俺も毎晩寝る前に聞く習慣になっている。俺、後輩フェチみたいなところがあるみたいで。何度その声で寝落ちしてしまったことやら。

「先輩、お疲れ様です。今日は……どうしましょうか」

 イヤホンから溶け込んでくる彼女の声。心地よい感触が耳をこすっていく。

「あ、急に膝に頭乗っけて……そんなに楽しみだったんですね」

 抱き枕に身体を預けながら彼女の紡ぐ世界観に没入させていく俺。

「それじゃあ、耳かき、始めますね」

 そう言い彼女は俺の右耳を耳かきで優しくこすり始めた。

「どうですか……先輩。もっと強い方が、いいですか? わかりました、強くしますね」

 その言葉を合図にこする強さが増していく。それにつられ、俺の右耳に入る刺激も強くなっていく。

「結構……溜まってますね……この間耳かきしたときから、一度もやっていないんですか? 駄目じゃないですか……たまには自分でもやらないと」

 動画に映るイメージキャラクターが、そういう風に言っているのが容易に想像できる。実際に、俺が「彼女」の膝に頭を乗っけているような感覚に陥る。

「……それじゃあ、そろそろ反対の耳、やりましょうか。先輩、反対、向いて下さい」

 その瞬間、布と布が擦り合う音が響く。

「あっ、せ、先輩、顔がお腹に当たってます、近過ぎますから少し離れっ……そこに息吹きかけないでください、もう……先輩ったら」

 かっ、可愛すぎるだろうがよぉぉぉぉぉぉ!

 一人悶えながら顔の向きを反対にする。

「……もぅ、次やったら怒りますからね。はい、耳かき入りますよ」

 左耳から今度は刺激が入る。

「そういえば、この間先輩、他の女の人と一緒に帰っていましたけど……あ、部活の同級生なんですね、そうでしたか……」

「……で、でも、先輩に耳かきしているのは、私だけですよね? せ、先輩」

「よ、よかった……。あ、こ、これで両耳終わりました。……また、しばらくしたら、耳かきするんで、言ってくださいね」

 そして、動画は終わった。

「……やべぇ、生配信前だというのに気分が高まってしまった。そろそろご飯の時間だから、リビング行くか」

 案の定、母親が俺を呼ぶタイミングだったらしく、リビングには今日の晩ご飯が並べられていた。


「あんた、そろそろ新学期始まってしばらく経つけど、友達できたの?」

 俺の向かいに座る母親がそう俺に聞いて来る。因みに父親は仕事で遅いから今はいない。

「……別に、いないし欲しくもないけど」

 俺はおかずのコロッケを頬張りながらそう返す。ん。このコロッケ、珍しく商店街の肉屋のコロッケ買ってきたな。

 うめぇ……やっぱスーパーのコロッケより肉屋のコロッケの方が美味しいんだよなあ……。

「はあ……そういう正直なところはいいと思うけど、あなたの場合正直過ぎるのよねぇ」

 母親はそう言いため息をつきながら湯飲みに入っているお茶を一口含む。

「あ、俺もお茶飲みたいからボトル取って」

 テーブルの母親側に置いてあるパックの麦茶を取るように頼んだ。

「はい」

「ん、ありがと」

 今日の朝と部活のときにあった布田の対応と全然違うなあと思ったか? まあ、中学生のときに色々拗らせた際、母親に苦労をかけたし、養ってもらっている分際で辛く会話するのも違うと思っている。親は別だ。

 俺は貰ったボトルのお茶をコップに注ぐ。

「じゃあ、あなたに彼女ができるのもしばらくは無理かもねぇ」

「っと」

 母親がそんなことを言い出した瞬間、俺はコップを持つ手を滑らせて色々落としたり零しそうになる。

「あっぶねー。急に何言うんだよ」

「だって、どうせ今日も帰ったらすぐにアニメでも見てたんでしょ? 絵の女の子の方があなた好きなんじゃないの?」

「……まあ、そうだけどさ」

「なら、彼女はしばらくなあって話になるじゃない」

「……左様でございますね」

 俺はやれやれといった感じを出しながらお茶を飲み、ご飯を食べ進めた。

「絵の女の子と実際の女の子、何が違うの?」

 俺は持っていた茶碗を一度置き、母親に説明する。

「……基本、嘘がない、っていうところかな」

「ふーん……じゃあ、嘘がない女の子だったら、現実の子も好きになるの?」

 ……まあ、もしそんな子がいるとしたら。

「可能性は、ある、かな」

 いるはずがないけど。そんな子が。

「そういう子に出会えればいいね、あなたも」

「まあ、そうだね」

 俺はそれだけ言い、残っていた付け合わせの野菜を食べきり席を立った。

「ごちそうさま」

 そして、俺はそのまま風呂に入り、簡単に勉強を済ませ、十一時からのみずな。さんの生放送を待った。


「そろそろ、十一時、かな」

 俺は読んでいた漫画から視線を時計に向け、時間を確認した。

 十時五十五分。

「よし」

 俺は一旦漫画を勉強机に置きASMRを聞く準備をしてから、再び漫画を読み始めた。

 そして定刻十一時きっかりに、みずな。さんの配信が始まった。

「…………」

 接続の確認やら何やらで、しばらく声は入らない時間が続く。

「……あ、何人かいらっしゃってますね。皆さん、こんばんは。みずな。です」

 演じていないときの声もややアニメ声っぽいみずな。さん。本人曰く、地声がそんな感じらしい。

「今日も一時間くらい、のんびりと耳かきをやっていきたいと思います。この配信はアーカイブにも残すので、寝落ちしちゃった、とか、見逃した、と言う方も見ることができるので、のんびりと癒されていって下さい」

 はーい。と心の中で返事をしてから俺は漫画を置きベッドに体を預ける。

「それじゃあ、早速ですが、耳かきは始めていきますね」

 そして両耳に心地よい刺激が入り始める。

「そろそろ新年度が始まって三週間、といったところですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私も今年から花の女子高生になりまして、青春を謳歌している……といいんですがなかなかそう上手くはいかないなあと感じているところです。あ、チャンネル登録ありがとうございます」

 で、今みずな。さんが言ったように、俺より学年が一個下なんだ。

「あ、配信画面可愛いですか? ありがとうございます。ちょっと頑張って描いてみました。真面目そうな後輩女子のイラストを、今回の配信画面にしてみました。でも嬉しいですね、リスナーさんから可愛いって言われると。あ、耳かき忘れてたいけないいけない」

 今配信来ているのは十人くらいかな……。まあ、いつも通りの人数。コメント欄も平和だし、俺は今日聞くだけでいっか……。

 生配信は二週間に一回の頻度。動画は二・三日に一本上がる。ソロで活動しているみたいで、画面のイラストも台本も自分で作っているみたい。今でこそチャンネル登録者は三桁行っているけど、俺がこのチャンネルと出会った頃は登録者五人、とかで生配信やるはいいけどいるのみずな。さんと俺とあと一人、みたいな状況の時期もあった。

 そんなときは俺もコメント欄に自分の名前を埋めることもしていたけど、今となっては他の人がそれをやってくれるから、俺は聞く専。まあ、荒れたりしたら止めにいくくらいのことはするけど。

「はい、自分で描いてますよーこの配信画面のイラストもそうですし、ほとんどの動画のイラストは自分で描いてますね。たまに他の人のイラスト使わせてもらったりしますけど、大体は自給自足ですね」

 出会った頃から変わらないどこか癒されるみずな。さんの声。手紙事件の後、どこか荒んでいた俺を救ってくれたのは、彼女の動画だった。


 *


 今日もクラスメイトにどこか浮いたような対応をされた俺は、家に帰ると何も言わずに部屋に入った。

「あれ? 慧帰ったのー?」

 リビングから母親の声がするが関係ない。部屋に帰るなりベッドに飛び込んだ俺は、イヤホンを耳にさし、動画を漁り始めた。

 実況者のゲーム動画、歌ってみた、オタ芸動画、弾いてみた、色々な動画を馬鹿みたいに消化しては「何か違う」、そんな気持ちを抱いている時期だった。

 勿論、その中にはASMRの動画も含まれる。色々な配信、動画を見たけど、これだと思えるものにはなかなか出会えなかった。

 そんななか出会ったのが、みずな。さんの動画だった。

 あらかたそれなりに有名な人の動画は見尽くしていたその時期に、開設されて間もなく、登録者数もわずかなみずな。さんに出会えたことはある意味奇跡といってもいいだろう。有名じゃないアカウントは検索しても基本下のほうにしか出てこない。ピンポイントで名前を検索窓に放り込むとか、具体的なタイトルを打ってたまたま一致する動画があった、とかじゃない限り。

 多分、欲しかったんだと思う。画面越しでもいいから、異性とのかかわりを持てる瞬間を。それが叶うのは、既に多くのリスナーを持つ有名な動画主ではなく、誰も知らないような零細アカウント。もし、俺がそんな意図を持っていることを自覚してみずな。さんに近づいたのならば、それは奇跡ではなくただの利用だ。でも、これは奇跡だ。

 たまたま俺が彼女のアカウントを見つけて、その声を聴いた。

 そして、彼女の声にやられたんだ。


 *


「それでは、そろそろ時間になったので生配信の方は終わりにしたいと思います。この配信はアーカイブにも残るので何度でも聞けますよ。いやいや、私も明日学校あるので寝ないといけないのですよ……すみませんー。では、今日も聞いてくださり、ありがとうございました。次の配信と、動画でお会いしましょう。また明日バイバイです」

 みずな。さん定番の締め台詞、「また明日バイバイ」で生配信は終わった。時計を見ると、零時五分だった。

「今日は少し長かったんだな……」

 いつもは一時間できっちり終えるから、ある意味珍しく長い日になったようだ。

「そろそろ寝るか……」

 少し早いけど、まあいいや。今日見ないといけないアニメは夕方に消化したし、起きる理由がないなら寝ればいい。

 そうして、俺はいつもより早い就寝を迎えた。

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