第98話 女神様の悪戯

『あー、遂にやっちゃったわねー』


 剣聖ユキナは、夢を見ていた。


 王城の一室。天蓋付きの豪勢な寝台で、安らかな寝息を立てていた最中の事だ。


 暗闇の中。聞こえて来たのは懐かしい声だった。


『聞こえるかしら、剣聖。いや……ユキナちゃんと言ったほうが分かり易いわよね』


(この声……)


『ふふふ、懐かしいでしょ。何せ、あなたが大好きだった人の母親の声なんですから』


(貴女は……誰?)


 本人ではない。それは、すぐに確信した。


 なにも見えない暗闇の中で、ユキナは四方を見渡して確認しようとする。


 しかし、身体の感覚がなかった為に断念した。


『本当は、こうして語りたい人は違うんだけど……今は私の手が届かないところに居るのよ。だから、余ってる力を使って、こうして貴女に一つ。意地悪をしに来たの』


 声は、はっきりと意地悪をしに来たと告げた。


 少しだけ弾んだ声で、良く知った懐かしい声は、良く知った口調で……知らない言葉を操る。


『ユキナちゃん。貴女が手にするはずだった力が、たった今。他の女の子に譲渡されたわ……それも、貴女が信じた方法でね』


(私が手にするはずだった力……? なんですか、それ……?)


『あらあら……深層心理まで、その口調なのね? もうすっかり躾けられちゃって……可哀想に』


 女の声は、可哀想とは言いながら……。

 まるで、馬鹿にするような笑みを含んでいた。


 だが、この程度で心を乱す程。

 剣聖ユキナは短気ではない。


(私が信じた方法での力の譲渡? あり得ません。勇者であるシスル様は今、私の隣にいるはずです。今夜だって、さっきまで沢山……)


 ユキナは、自分の晒した痴態に羞恥を覚えた。


 国中の誰もが見惚れ、憧れる男性に押し倒され、肌を重ねて激しく責め立てられる。


 シーツを強く握りながら落涙し、自分でも信じられないくらいの甘い嬌声を鳴り響かせる。


 そんな、世の女性達が羨む役目。

 勇者の夜伽は、英雄姫の義務である。


 何故なら。勇者が身に宿す力の一部が、その体液を取り込む事で英雄姫に譲渡されるから。

 今日も何かしら、新しい力が備わったはずだ。


 そして……こんな。

 こんな悲しい事をしなければならないのは、女神に選ばれてしまった英雄である自分達だけのはず。


『……本当に、可哀想な娘』


 女の声は、酷く哀れんでいた。


 可哀想。そう断じられたユキナは、途端に激しい憤りを覚えた。


(私だって、好きでやっている訳ではありません)


『どうだか……その割には、今夜も随分と楽しそうだったじゃない? 実際、半年前までは心まで受け入れていた訳だものね?』


(煩い……貴女に私の何が分かると言うのです! 何も知らない癖に……っ!)


『知っているわ。だって私、あの子の母親だもの』


 平然と、そんな事を言う。

 その女の声に、ユキナの憤りが頂点に達した瞬間だった。


『シーナに可愛い恋人が出来たのよ。知ってる?』


 女が静かに発した声に、ユキナは絶句した。

 まるで側頭部を強く殴打されたような衝撃だ。


 思考が真っ白になるユキナに、女の声は続けた。


『あの子ったら、すっかり夢中になっちゃって……もう婚約も済ませて、溺愛してるのよ。勿論、貴女がするはずだった事も済ませているわ』


(え……嘘……えっ……えっ?)


 もう一度、今度は更に強烈な衝撃に襲われた。


 女の声は、動揺するユキナに愉しげに続ける。


『貴女が他の男に捧げた純潔を、捧げられた娘に。貴女が勇者様に抱かれて……気持ち良さそーに声をあげている間に……あの子も他の女の子を同じように鳴かせて、楽しんでいたの』


(え……嘘。シーナが? え? だって。それは、私の役目で……私が、欲しかった……もので……)


『は? なに言ってるのかしら。貴女の役目は、隣で寝ている勇者様の相手なのでしょう? さっき、自分で言ったんじゃない』


(そう……ですけど。でも、シーナはこれから、私のところに来るんですよね? これからは、一緒に生きてくれるんですよね……? なのに、そんな。そんなの、裏切りですよ? それはシーナが一番、嫌う事で……!)


 呆れたような声音に……まるでユキナは頭の中を直接掻き回されているかのような錯覚を覚えた。


 現在、故郷に向かっている騎士小隊が両親と彼を連れて来てくれる作戦を遂行中なのだ。


 酷い狂言を行う事を条件に……約束して貰った。


 剣を教えてくれた師。

 最優の名を冠する老騎士が率いる若手の小隊が、自分の元に家族と最愛の人を連れて来てくれると。


 これからは、少しだけ明るい未来が待っている。

 そう信じて、心待ちにしていたと言うのに……。


 今頃は、もう王都に帰還している最中だろうな。


 昨晩だって、そう強く想いながら……。

 窓から夜空を眺めていたのに。


(シーナに、私以外の女……!? そっか……! ミーア・クリスティカだねっ!? 許さないっ! 私のシーナに手を出したんだ! 許さない……!

許さない、許さない、許さないっ!!)


 そんな余計な土産が付いて来るとは聞いてない。

 それでは約束が違うではないか。


 折角……思い描いていた幸福が崩壊した。


 シーナ……愛する幼馴染の少年。

 やっと、彼も女神に選ばれた特別な人間だと認めて貰えたのだ。


 だから、これからはまた。傍に居てくれる。

 ちゃんと謝って、事情を話せば許して貰える。

 これからも、私だけを見てくれる。


 そう思っていたのに……!

 他の女の子を連れて来て、目の前で仲睦まじく、幸せになられる?


 それも相手は、王国で屈指の大商会。

 あの、クリスティカ子爵家の令嬢だ。


 原典と呼ばれる力を身に宿すだけ。

 そんな村人を繋ぐ鎖としては、十分過ぎる。


 議会では、なんの問題もなく二人の仲を承認し、婚姻が可決されてしまうかもしれない。


 そうなれば幾ら剣聖とは言え、迂闊には手を出せなくなってしまう。


 あの日、必死に伸ばして届かなかった手。

 それが、また空を切るしかなくなってしまう。


『許さない? 裏切り? どの口が言うのかしら』


 何か手はないかと焦燥し、足りない頭で思案する。

 そんなユキナに対し、女の声は。


『それは。どちらも、あの子が既に言った言葉よ』


 愛する少年の母の声は、嘲笑う。


『勇者に股を開いた裏切り者。絶対に許さない……もう忘れたの? 貴女が彼に貰った手紙の事を』


(いや……いやっ! 違うっ! やめてっ!)


『何が違うというのかしら? 目が覚めたら自分の状況を改めて見て見なさいよ。裸で寝ている貴女の身体の中には、隣で寝ている勇者様の……』


(やめてぇーっ!!!)


 頭を抱え、耳を塞ぐ事が出来ない。

 泣きたくても、涙も流せない。


 ユキナに許されたのは、そんな慟哭だけだった。

 

 全ての権利を奪われたユキナは、女の声を聞く事しか出来ない。


『本当に哀れで、可哀想な娘……』


 すっかり意気消沈したユキナは、闇の中。

 その、ただ一点のみを見据えながら。


『そんな貴女に、私が一つだけ。助言をしてあげましょう』


 突然、優しい声音に変わった女の声を聞く。


『宰相を問い詰めるのです。賢者ルナを伴って……騙り事を許さない、その権能を用いて!』


(宰相様を……問い、詰める……)


『はい。必要があれば、我が名を使いなさい。貴女は既に、私がどんな存在なのか……理解したはず』


 剣聖ユキナは……少し考えてから。


(私に抱擁を授けては下さらないのですか?)


 そう問えば、声は悪戯な笑みを含んだ声で。


『今は、まだ……その時ではありません』


 最後にそう言い残し、消えてしまった。

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