第79話 諦めた男

翌朝。


目覚めた俺は、隣にミーアの姿がない事に安堵した。朝食作りに向かったのだろう。


起こしに来るまでゆったりと過ごしても良いのだが、とてもそんな気分にはなれない。


さっさと寝台から起き、着替えてから剣を手に外へ出る。


身体を動かして、忘れたい。


逃げだと分かっている。だけど、仕方ないだろ。俺に決められる事ではないのだから。


俺だって欲を言えば、応えたい。

彼女なら、母さんとユキナ。拠り所を失った俺を支えてくれるだろう。


唯一残っている肉親。父さんも、あの様子だと長くはないかもしれない。


こんな俺を好きだと言ってくれる、可愛い女の子。

嬉しくない訳がない。


だけど今は、応えるわけにはいかない。


「はぁ……」


百を数えたところで、素振りを止める。


駄目だ。身が入らない。


「これじゃ、駄目だ」


呟き、自らに言い聞かせる。


俺には力が必要だ。

それも、今すぐに。短期間で強くなる必要がある。


勿論、基礎となる身体作りは今後も必須。

しかし今、優先するべきなのは工夫だ。


「シーナ」


現状、持ち合わせている手札の再確認と慣れ。

具体的に言えば女神様から授かった力、異能と魔法。


「おい、シーナ」


そうだ、剣聖。

活躍を耳にする限り、村娘だった彼女はたった一年で見違える程に強くなったはず。


そして、そんな剣聖と同様に俺には一応、女神から特別な異能が与えられているらしい。


希少な魔法士の才能だって貰えている。


剣聖と比べてしまえば与えられた力に差はあるが、ユキナと俺の置かれた境遇。与えられた役割を考えれば破格な条件。


「聞こえないのか? おーい」


そうだ。俺は剣聖じゃない。

お陰でなにも人類のために戦う英雄になる必要はない。

だから、多少の困難に見舞われようとミーア一人くらい。


それくらいの我儘は、通せるようにならなければ。


「おいって」


「!」


突然、肩に触れられて声に気付く。

父さんが俺の肩に手を置いていた。


「父さん? どうしたんだよ、寝てなくて良いのか?」


「あぁ、今朝は随分調子が良くてな。久々に外に出たくなった」


言われてみれば顔色が良い。

見舞いに行く度に心配していた咳もしていない。


「ほんとだ。良かった……その調子だと治りそうだね」


「当たり前だ。そう易々とくたばれるか。お前こそ、早くから精が出るな。暫く見てたが、悪くない」


「日課なんだ」


「流石、現役冒険者様だ。しかし、お前はホント……あいつに似ているな」


「あいつって……母さん?」


「シーナ」


問いに対する返答はなかった。


代わりに、寝巻き姿なのに帯剣している父さんは、腰に吊るしていた剣に手を掛け引き抜く。


「そう言えば、お前にまともな稽古をしてやった事がなかったな。折角だ、相手してやる」


「は?」


突然、何を言い出すんだ?


確かに、父さんにまともな稽古をつけて貰った事はない。

俺の知る父さんは、常時酒に酔っていたからな。


稽古と称した虐待を受けた事なら数え切れないけど。


「突然、どうしたんだよ? しかもそれ」


「予め、言っておくぞ」


父さんが手にしているのは、訓練や立ち合いに用いる刃を潰した物でもなければ、木剣でもない。


憲兵団で貸与されている、安く量産された剣。

それもかなり年季の入った品とは言え……真剣だ。


「殺す気で来い」


「っ!?」


突然、父さんが言葉と共に力強く地を蹴った。

斬り込んできたのだ。


突然の事に対処が遅れた。

なんとか身体を逸らし剣を合わせるが、受けきれない。


凄まじい速度。素人目に見ても、無駄のない太刀筋だ。


獣や怪物を相手にする冒険者は、対人でも必要以上に大振りする傾向がある。


しかし、これは違う。正真正銘、人殺しの剣だ。


「ぐ……ぅ」


不味い。

不意を突かれ、無理な体勢で受けたから切り返せない。


本当に病人かよ? 

酒ばかり飲んでて、もう何年もまともに剣なんか握ってないはずだろ?


なのに……なんで押し切られそうなんだ。


「……シッ!」


「うぁっ!」


難なく振り抜かれた剣に押し切られた俺は、大きく体勢を崩した。


一瞬。視界に捉えた父さんの顔を見て、悟る。


鋭い瞳、真剣な表情。

今まで一度も見た事がない、剣士としての父の姿が間近にある。

とても息子に向ける顔ではない。


父さんは、本気で俺を殺りに来ている。


何故だ? 何故、父さんは突然こんなことを?


……なんにせよ、負けられない。


強く唇を噛んで踏み留まる。


「せあっ!!」


「っぁ!!」


気合の篭った声と共に振るわれた刃。

剣では受けれない。しかし、対処は出来る。


迷うな、余計なことを考えるな。

集中しないと、やられる。


足を振り上げ、足首を合わせる。

鉄甲を縫い付けてある革靴だ、受けられるはず。

冒険者装束に着替えておいて良かった。


「ぐ……っ! らぁっ!」


足で止めた剣をそのまま蹴り上げ、頭上に跳ね上げる。


「っ! なっ!?」


「すぅっ!!  はっ!」


足を振り上げた勢いに任せて後方倒立、回転跳びで体勢を整える。


足が接地すると同時に地を蹴れば、既に迎撃姿勢を整えていた父さんが「ぺっ」と唾を吐いていた。


迷わず、全力で首筋を狙って剣を振り抜いた。


しかし、難なく受けられてしまう。

防いでくれると思った。


「くっ……! へっ! なるほど。家出した甲斐はあったみたいだな? 全く……ちっとは躊躇ってくれよ。仮にも俺は親父だぞ?」


「……どの口が」


「ん? ……ひひっ! くくっ……! だな。お前が俺を憎んでるのは知ってる……よっ!!」


今度は俺から斬り込んだと言うのに、またしても力負けした。


勢いに任せて地を蹴り、一度距離を取る。


膂力の差は歴然、簡単に弾き飛ばされるな。

分が悪い力比べは避けるべきか。


「なぁ? シーナ。自分で言うのもなんだが、俺はどーしようもない碌でなしだ。愛した女一人救えず、酒に溺れ、残して貰った息子には愛想を尽かされ……ずっと逃げてきた。仕舞いには身体を壊して迎えを待つ日々……それも、これでやっと終われる。なんて、喜んでしまいながらな」


宙で剣を振り、父さんは口元を歪めた。


「残念だったな、シーナ? そんな男の息子で。お陰で……見ろ。共に生まれ育って、たまたま他に候補が居ないから、互いに勘違いして好き合い……将来を誓い合っていた女の子。ユキナちゃんは、自分の才能と外の世界を知った途端……お前をあっさり捨てて他の男の女になっちまった」


……随分と幼稚な挑発だ。


「そーだな」


「当然だよな? あっちは女神様に選ばれた絶世の美女で、最強の剣士である剣聖。対してお前は碌でなしの父親……それも片親で、この村しか知らない。更に言えば、ユキナちゃんが居なくなった途端に一年以上も部屋に引き篭もっていた意気地無しだ。ユキナちゃんがそんな凡骨以下の男より、同じ英雄である勇者様を選ぶのは当然の選択だと思わないか?」


「あぁ」


短く返答し、剣を握り直す。


 過ぎたことを持ち出されてもな。

 今更、なんとも思わない。

 しかし、不快な事に変わりないな。


「……へっ。ちっとはまともな面をするようになったな? 馬鹿息子」


 耳鳴りがする。

 既に視界が遅くなり始めている。


 別に求めてないのに、余計な世話だ。

 この糞野郎は、俺の力だけで黙らせる。


 だから……引っ込んでろ。


「殺すつもりで来いって、言ったな?」


「……お? なんだ。一丁前にムカついたか? ぷくくっ! 全部事実だろうが。はははっ! あー、全く。笑わせんな。なぁ? シーナ。今、お前。楽だろ? 本当に大切な娘が手に入らなかったから、とっとと忘れて……他に。それもあんな可愛い女の子に好かれて、世話を焼いて貰って……そうやって忘れて」


 父さんの口元が、不気味な程に歪む。


「逃げるのは、気持ち良いだろ?」


「お互い様だろ」


 両手で握った剣に力を籠め、姿勢を低くして踏み込む。


 あんたに何が分かる。

 あんただって、愛した女を見殺しにした。


 母さんを救えなかった。

 救ってくれなかった。


 それどころか、母さんが苦しんでる時……。

 憲兵団の詰所で酒を飲んでいただろう。


 病床で苦しむ母さんは……。

 最後の瞬間まであんたの名前を呼んでいたのに。


 手を握り、呼び続けていた息子ではなく……

 旦那である、あんたを。


 ずっと逃げていた、あんたに。

 最後まで逃げ切った、あんたに。


「あんたに今の俺を侮辱する資格なんかない」


「やめなさいっ!!!」


「っ!!」


 知った声。その一喝で、俺は動きを止めた。


 浅く息を吐き、振り上げていた剣を下ろす。


「ミーア」


「これはどう言う事? シーナ。あんた今、何をしようとしていたの?」


 言いながら歩み寄ってきたミーアが、至近距離で見上げてくる。

 凄い剣幕だ……恐っ。


「待て、誤解するな。少し熱くなっただけだ」


「はぁ? 熱くなったじゃすまないわよ。実の親に、それも病人に剣を向けるなんて何事? それも私の剣で」


「え? あ、いや。これはだな」


 あ、しまった。

 最初に稽古をつけて貰っていたって説明するべきだった。


「あ? 何よ、ダサいわね。言い訳なんてやめなさい。みっともない……あとでお説教だからね?」


「いや待て。これは」


「だから言い訳しないのっ! 返事は?」


「頼むから聞いてくれ。俺は言い訳なんかしてない。これは、ただの剣の稽古で」


「へ! ん! じっ!  は?????」


「…………はい」


 こうなったミーアには何を言っても無駄だ。

 悲しい事に、俺はそれをよく知っている。


 この場は大人しく従う他ない。


「あーあ、情けねーなー。すっかり尻に敷かれてら……じゃ、俺は朝飯貰いに行くから、後は若いお二人で仲良くやりな」


 ……野郎。

 あのムカつく表情をぶん殴れたなら、どれほど気持ちが良いだろう。


「はい? お待ちください、お義父様。何を他人事のように仰ってるんですか?」


「え?」


 ひらひらと手を振りつつ、背を向けていた。

 そんな父さんをミーアは容赦なく呼び止めた。


「残念ですが、お義父様。私、彼の事は理解しているつもりです。そんな私が、彼が本気で実父に剣を向けたと誤解しているとでも?」


「は? いや、待て。ミーアちゃん。もしかして俺にも怒ってるのか? 大体誤解じゃなくて」


「……状況を見る限り、お義父様が彼を焚き付けたのは明白なのですが……どうでしょう?」


「……えーっと。だなぁ?」


 ……は?

 こっち見るな、助ける訳ないだろ。


 しかし、まるで貴族様が使うような言葉遣いだ。

 このミーアは、何度か見たとは言え……未だに慣れないな。


「どこを見ているのですか? 今は、私が話しています。まさか息子に助けを求めるなんて情けない事をしようとは考えてませんよね?」


「え? は……はは。まさか」


「では、お答え下さい。あぁ、予め言っておきますが……シーナは、これまで私に嘘を吐いた事はありませんよ?」


 本当に怖いな。

 何というか、今のミーアは迫力がある。


 しかし、なんだ? 

 この懐かしい感覚は。


 あぁ……そう言えば。

 母さんも怒った時はこんな感じだったっけ。


「……すまなかった。俺からシーナに稽古をつけてやると言ったんだ」


「そうですよね? あ、言っておきますが。私、実は最初から見ていましたので。良かったです。正直に答えて下さって。お陰でお説教の時間が短くて済みます」


「……くぅ。すまん」


 すげー。

 ミーアの奴、あの父さんを黙らせてしまった。


 母さんが死んで以来、父さんを叱れる人なんて居なかったのに。


 随分と献身的に看病して貰ってるらしい。

 父さんも流石に恩を感じているのだろう。


「順調と回復しているようで何よりですが……私はこんな事をさせる為に看病してる訳でも、高価な薬を取り寄せたりした訳ではないのですが?」


「……すまん」


 父さんの姿を見て溜飲が下がった。

 同時に、聞き捨てならないことがあった。


「おい待て。高価な薬ってなんだ? 初耳だぞ」


「シーナは知らなくて良い事よ。全く……男ってなんでこんな馬鹿なのかしら」


「そんな訳にいくかよ。絶対返すからな?」


 しかし呆れる。

 そこまで世話になっておいて、少し体調が良くなったから、こんな無茶をしたのか。


 睨めば、父さんは気まずそうに顔を逸らした。

 全く……。


「良いわよ、ホントに。さっ。まずは朝食にしましょう。はい、急ぐ急ぐ。お説教する時間がなくなるわ」


「いや、説教は待て。なんで俺が」


「当たり前でしょ? 幾ら仕掛けられたからって、病人相手よ。あんたなら軽くあしらえたはずでしょ?」


 ミーアからの信頼が重過ぎて辛い。


「いやいや、無茶言うな。お前、見てたんだろ?」


「えぇ。その上で言ってるの。だから口答えは一切聞かないわ。これ以上言い訳するなら、私。凄く怒るわよ?」


 ……随分と買い被られているなぁ。

 もう良いや。あとが怖いし。


「父さん。やっぱり俺、父さんが嫌いだよ」


「あぁ、そーだろうな。俺もだ」


 肩を竦めた父さんは、苦笑を浮かべた。

 息子に面と向かって嫌いだと口にする父親って。


「お前はホント、若い頃の俺に似てやがるからな」


 ふと、父さんは何やら小声で呟いた。

 よく聞こえなかったが、別に聞き返したりはしない。

 どうせ大した事じゃないだろう。


 剣を腰に納めた父さんは、顎で家の裏を示した。


「着いて来い、シーナ。少し話がある」


「話?」


「あぁ。今しか時間もなさそうだからな」


「駄目です。まずは食事をしてから」


「すぐに終わる。来い」


 有無を言わさず、父さんは先に歩き出した。

 余程大事な話なのだろう。

 表情から読み取った俺は後に続く事にした。


「ちょっと、シーナ」


 裾を掴まれ、引き留められた。


「悪い、先に行っててくれ。大事な話みたいだ」


「……なら、私も行くわ」


「駄目だ。すぐに戻るから」


 こういう時、普段は中々聞き分けの無いミーアだが……それ以上食い下がっては来なかった。


 彼女も父さんの雰囲気から察したのだろう。


 案外、ミーアは空気が読める奴なのだ。





 家の裏では、父さんが待っていた。


 背を向けていた父さんは、俺が足を止めると振り返る。


「シーナ。お前、あの娘をどうする気だ?」


「あの娘? ミーアか?」


「他に誰がいる。お前は、あの娘が好きなのか?」


「あぁ、好きだよ」


 躊躇いなく答える。

 今の俺には、ミーア以上に大切な存在はない。

 そう断言出来る。


「ユキナよりもか?」


「あぁ。もう、吹っ切れたさ。逃げた訳じゃない。ミーアは、ユキナなんかよりずっと良い女だよ」


「そうか。確かに、ミーアちゃんは良い女だ。外見も能力も申し分無い。気が強くて、しっかりと自分ってものを持っている。お前みたいなヘタレには勿体無くて……でも、一番必要な要素を揃えた娘だ」


「随分と持ち上げるんだな?」


「……俺は元々、ユキナとお前がくっ付くのは反対だったからな」


 そう言って肩を竦めて見せ、父さんは続けた。


「それに……俺にとって最高の女はお前の母さんだ。ミーアちゃんは、昔のあいつによく似てる」


 えっ。

 やめてくれよ、そう言う事言うの。


「それはないだろ」


「似てるよ。村を出た後のお前の事は、ミーアちゃんから聞いた。ミーアちゃんが、お前にどう接していたのかも聞いた……色々言いたい事はあったが、それ以上に懐かしかったぜ? あいつも、ホント。人の話を聞かない奴だったからな」


「母さんが?」


 にわかには信じ難い話だった。

 だって、俺の知る母さんは……。


「流石に天才を自称してはいなかったけどな……寧ろ、周りから持て囃されるのが嫌いな奴だった」


 懐かしむように目を細め、父さんは空を見上げた。


「でも、あいつは間違いなく天才だった。完璧過ぎて、非の打ち所が無さ過ぎて……頼られ過ぎて、壊れちまったくらいには」


「…………」


 両親の過去の話は、以前から何度も尋ねて来た。

 しかし、一度も教えて貰えた事はない。


 だから、追及しない。

 きっと。それは、聞いてはいけないことなのだ。


「シーナ。今夜、あの娘を連れて村を出ろ」


「……え?」


 突然、真顔になった父さんが言った。


「どのみち、この村はもう長くない。だから、お前が守ろうとする必要はない」


「は? いや、待ってくれ。父さん……何を言ってるんだ?」


 引き止めるも、父さんは聞く耳を持たない。


「魔人の事も、お前が気にする事じゃない。お前は、ミーアちゃんの事だけ考えていれば良い。確かに、ここはお前の生まれ育った場所かもしれん。だけど、忘れろ。忘れて、今。お前が好きな女の為に生きろ。それがお前が唯一、幸せになれる道だ」


「何言ってんだ? 俺が今、居なくなったらどうなるか、知らない訳じゃないんだろ?」


「居ても居なくても一緒だと言ってるんだ。あぁ、勘違いしないように教えといてやる。この村が滅びるのは、魔人のせいじゃねぇ。他の事が原因だ」


「なに? 滅びる? この村が?」


 にわかには信じ難い話だ。

 一体、父さんは突然。何を言い出すんだ?


「あぁ。それも……すぐにだ。だから逃げろ。逃げて、忘れろ」


「……一体何が起きるんだ? 父さんは、何を知ってるんだ?」


 尋ねると、父さんは少し黙り込んだ。

 暫く待つと、逡巡を終えた父さんが口を開く。


「……悪いな。教えられないんだ。訪れる未来を予め知る……なんて、そんなずるが許されるのはあいつと俺だけだからな」


 訪れる未来を、予め知る?

 まさか……それって。


「! まさか、父さんは……」


「なら良かったんだけどな。 もう、教えて貰えないんだ……なぁ、シーナ。分かるだろう? あいつの息子で、同じ天才……女神に特別な力を与えられたお前なら」


 冒険者になって稼いだ金で購入した手記。


 暇があれば読み返したそれには、これまで確認されている女神の祝福。

 所謂、固有スキルの呼称と内容の一覧が記されている。


「そうか。母さんは……母さんが」


 その中に、新たに加わった俺の力と同じ欄。

 その異能の名称は示されていた。

 所有者の名前が違うから、気付かなかった。


 母さんは、ずっと。俺に嘘を吐いていたのか。


「分かったら荷物を纏めておけ。もう時間は無い。日が暮れたら、俺が手引きしてやる」


 一方的に告げて、父さんは去ろうとする。


 俺はそんな父の背に、言葉を投げた。


「なぁ、父さん。待ってくれ。 何が起きるんだ? なんでこの村が滅びなきゃならないんだ?」


 しかし、父さんは振り返らない。


 すぐにでも走り寄って問い正したいが、あの様子だと頑として口を割ってはくれなさそうだ。


「逃げないぞ。俺だって、この村の住人だ。逃げるなら皆一緒だ。そうだ、皆で違う場所に引っ越せば」


 父さんが足を止めた。


「……言っとくが、この事は他言するな。お前がそれをやれば、事態は余計に悪い方向に転がる」


 振り返って来た父さんの顔は、真剣そのものだった。


「お前だって、村の皆が大衆に晒し首にされるのは嫌だろう? ここで滅びれば、少なくとも……余計な恥辱は味わわずに済むんだ」


「どう、いう意味だ……?」


 分からない。

 言葉の意味が、分からない。

 父さんは一体、何を知ってるんだ?


 俯いて考えるが、情報がない。

 これでは答えが出るはずがない。


「……逃げないぞ」


 俺は顔を上げ、去って行く父さんの背を睨んだ。


「俺は逃げない。守るぞ? 絶対、守り切って見せる」


 言葉を投げるが、父さんは足を止めない。

 俺は歯痒さを感じて唇を噛んだ。

 感情は捨てた筈なのに、悔しくて堪らなかった。


 まるで、お前には無理だ。

 そう言われた気がした。


「ここは俺の故郷だ。逃げるかよ……見てろ? 見てろよ、クソ親父」


 腰に吊るした剣が、カチャリと鳴った。

 そうだ……ミーアだけでも、逃さないと。


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