第78話 信念の代償。
「こーにちは、はじめますち、わたしの、なまえは、めうつぃやいいます」
「違う。こんにちわ、初めまして、私の名前は、メルティアと、言います、だ」
魔人達が村に来てから四日目。
俺はメルティアに対し、本腰を入れて言語を教え出した。
今はとりあえず、簡単な自己紹介だけでも出来る様に特訓中だ。
意味は初めに教えてあるので、後は噛まずに言えるようになれば良いだけなのだが……。
「ふむ……また違うか」
「あぁ。実に間抜けな状態になってるぞ。略してやろうか?」
「いや結構じゃ。絶対にやめてくれ」
これが中々進まない。
彼女が真面目なのは分かっている。
こうなると、意地悪もしたくなるというものだ。
「……こーにちはっ、はじめましゅて。あてぃしのなーまへは、めるちぃあです」
「……っ! こら! やめいと言っとろうが! と言うか、絶対そんなのじゃなかったろう!? 明らかに悪意を感じるぞ!?」
多少脚色して口にする。
途端。メルティアは白い肌を朱に染めて怒鳴った。
中々可愛い反応だ。
そんな彼女に、俺は冷たく言い放つ。
「弄られるのが嫌ならとっとと覚えろ。ただ発音するだけだ。難しくないだろ? これくらい」
口に出してから、すぐに後悔する。
出来ないからと厳しく言うのは絶対に駄目だ。
第一、人に何かを教えるなんて初めての経験。
冗談も交えつつ、手探りで、根気よく。
メルティアと共に、俺も学ばなければ。
「仕方なかろうが……慣れない単語の組み合わせで発声が上手くいかんのじゃ。どうしても噛んでしまう……」
メルティアはどうやら、本気で落ち込んでいるようだ。
悪い事をしたな。
最初から上手く出来れば、誰だって苦労はしない。
俺には粘り強さが足りなかったのだ。
「そうだよな……じゃあ、もう一度。最初からやろう」
「うむ。分かればよいのじゃ……すまんの」
「気にするな。よし、じゃあ、俺に続けよ? はじめまして」
「はじぇみましぇて」
…………。
「……おい」
「うぅ……また噛んだのじゃぁぁあ!!」
これは中々、大変そうだな。
テーブルに突っ伏して絶叫している姿を見る限り、本人が大真面目なのは本当に良く分かる。
分かるが……どうしても歯抜け声と言うか、馬鹿っぽくなってしまう。
始めたばかりにしては順調なのかもしれないが、やはり俺の教え方が悪いのかもしれない。
これは早急にやり方を変えた方が良いのか?
それとも、まだ初めてから大した時間も経ってないし……もう少し。このやり方で続けてみるか?
「シーナ」
効率の良い勉強法について悩んでいると、不意に声を掛けられて顔を上げる。
「シラユキ」
いつの間にか近くに立っていたのは、白狼族のシラユキだった。
「どうだ? 進捗は。見たところ苦戦している様子だが……」
「まだ始めたばかりだ。なんとも言えない」
「そうか」
返答しながら、シラユキの様子を見て思う。
……全く、勘弁してくれ。
友好的な態度なのは、有難い。
有難いのだが……困る。
何故かは分からないが、俺は随分と彼女に気に入られたらしい。
見れば分かる。
顔を赤くして落ち着かない様子の彼女は、酷く似ていた。
素直になる。なんて言い出す前のミーアに。
「どうしてこうなった」
目を背けた俺は、呟いた。
これ以上、悩みを増やさないで欲しい。
「シラユキ。お主は暫くシーナに近付くなと命じた筈じゃぞ? 妾の事は案ずるな、訓練に戻れ」
困っていると、キツい口調でメルティアが言う。
やはり、メルティアは気付いていたのだろう。
彼女は俺とシラユキを引き離そうとしている。
一応。昨晩二人きりで話した事は黙っておこう。
「む……!」
主人の命令に対し、シラユキはやけに反抗的……と言うか、拗ねたような表情になった。
意外な反応に少し驚く。
「こほん……申し訳ありません、メルティア様。しかし、どうかお許し下さい。私、どうしても今。シーナに尋ねたい事があるのです」
切羽詰まった、真剣な表情だ。
流石に気になって、俺は聞く事にする。
「なんだ?」
「! これ、シーナ。いかんぞ!」
遮ろうとするメルティアを、シラユキは手を軽く上げながら制した。
「ご心配なく。メルティア様が危惧されてる事ではありませんから」
その言葉通り、シラユキは淡々とした口調をしていた。
相変わらず頬は赤いが、質問と言われれば無碍には出来ない。
「で? 良いか? シーナ」
「あぁ、別に構わない。なんだ?」
「あぁ。その、だな……こほん。わ、私の名前は、こちらの世界ではどう発言したら良い?」
なんだ。そんな事か。
別に名前は、翻訳する必要がないと思うが。
「!! いかん! シーナ、これは巧妙な罠じゃ!」
今度は、メルティアが切羽詰まった様子を見せた。
名前くらいで大袈裟だな。
知識欲がある者に教えない。
それは、俺の信念に反する。
「罠? 何がだよ、全く……し、ら、ゆ、き……だ。言ってみろ」
「……も、もう一度、頼む」
シラユキは人差し指を立てて頼んで来た。
なんか震えてるみたいだが、大丈夫か?
……変にプルプルしてるが。
「だから……し、ら、ゆ、き、だ」
「……成る程。し、ししし……し、ら、ゆ、き……だ、だな?」
「あぁ」
頷くと、メルティアは頭を抱えて卓に伏せた。
「ああぁぁぁぁ……シーナ。お主、なんて事を……人の臣下に勝手に褒美を与えてくれるな! シラユキ! お主も何を女狐のような真似をしとるんじゃ! 白狼族の誇りを忘れたのか!? 思い出せ、シラユキ! お主は狐ではなく狼じゃろうが!」
「煩いぞ、メルティア。全く……お前はさっきから、何を騒いでるんだ? そんな元気があるならさっき教えた事を復習して」
怒鳴り声を上げるメルティアを宥めていた時だった。
「んんっ! こんにちわ、初めまして。私の名前は、シラユキと言います」
明瞭な声に振り向けば、シラユキが胸に手を当て。誇らしげな表情で口にしていた。
「え?」
「へっ!?」
驚き、俺はシラユキに確認を取る事にした。
だが、とても偶然とは思えない。
彼女は離れた所で訓練をしていた筈なのに。
「……おい、シラユキ? お前まさか」
「こんにちわ、初めまして。私の名前はシラユキと言います」
帰って来たのは、誇らしげなシラユキの声。
凄え……やっぱり、聞き間違いじゃない。
「……もう一回良いか?」
「こんにちわ、初めまして。私の名前はシラユキと言います」
彼女の発言には、違和感が全くない。
驚いたな、完璧だ。
いつの間に練習したのだろう。
「いいぞ、完璧だ。凄いな」
褒めると、シラユキの顔がパッと華やいだ。
可愛いところもあるじゃないか。
「ふ、ふん……! そうか? じ、実は、たまたま聞こえていてな? その……一度、聞いて欲しいと思って来たのだ」
ふふん♪ と得意げに鼻を鳴らしている。
だが、随分と照れ臭そうな表情だ。
パタパタと揺れる尻尾がその証拠。
俺に褒められて嬉しいらしい。
「……シラユキ、尻尾」
「へ? あ、いや。これは……っ!」
メルティアに冷たい声で指摘されて、シラユキは慌てて尻尾を抑える。
そんな彼女を見て、俺は閃いた。
「シラユキ、そこに座れ。お前にも教える」
一つだけ空いている椅子を示せば、メルティアが物凄い表情で睨んで来た。
「おい、シーナ」
「そう睨むな、メルティア。これはお前の為だ。俺は日没までしか付き合えないが、シラユキにも教えておけば、俺が帰った後でも二人で復習出来る」
「ぐぅ……」
口惜しげに拳を握るメルティア。
「それに」と俺はシラユキを見て続ける。
「時間は有限だ。良いじゃないか、効率化を図れるなら。つまらない私情は捨て置け、くだらない」
「ぐっ……!」
正論で殴れば、メルティアは本当に悔しげに唇を噛んだ。
元はと言えば自分が原因だと理解しているのだ。
反論は出来ないらしい。
「ふんっ! そ、そうだな。それでは、お言葉に甘えさせて貰おうかっ!」
嬉しそうに言って、シラユキは席に着いた。
「しらゆきぃ……」
憎らしげな視線を向けるメルティア。
そんな彼女にシラユキは「はっ!」と得意げな笑みを浮かべた。
「メルティア様! 一緒に頑張りましょうね? あ、分からない事があれば何でも質問してください。私が全て記憶しておきますので」
配下に煽られたメルティアは、腕を組んでそっぽを向いた。
「いらんっ! くぅ! なんで、なんで……なんでお主は、要らんところで無駄に優秀なのじゃぁ!!」
配下が優秀なのは良い事だろう。
誇る事はあれ、貶すのはどうかと思う。
「メルティア、無駄口はそこまでだ。もう一度やってみろ。シラユキ、お前は先にこの本を一緒に読むぞ。近くに寄れ」
「うむ! 分かったぞ!」
幼児向けの童話本を卓上に置けば、シラユキは椅子を寄せてきた。
俺はシラユキが見えやすいように、本を彼女の眼前に差し出す。
「おい! シラユキっ! 近付き過ぎじゃぞっ!」
「寄れと言われましたのでっ! ふふん♪」
本当に得意げだ。
それは、勝者の笑みだった。
くだらない喧嘩だ。見過ごす時間が惜しい。
「メルティア、余計な勘繰りはするな。お前はまずその噛み癖をなんとかする事だけを考えろ」
「ぐぅぅ!! なんでじゃ! なんで妾が、こんな……この馬鹿に劣って……っ! これ以上ない屈辱なのじゃ……っ!」
メルティアは拳を振り上げ、下ろす事なく歯噛みする。
こいつが殴ったら、木の卓なんて容易に粉砕するだろう。
流石、理性的な判断だ。
しかし、こんな調子で勉強が捗るだろうか?
そう心配した俺だったが、杞憂だった。
いざ勉強を始めると、二人はとても真剣な表情で俺の言う事をよく聞いてくれたからだ。
特にシラユキは最後まで驚く程の集中力で、一度教えれば覚えてしまう。
目論見通り。優秀な生徒だ。
対してメルティアの方はかなり苦戦しているが、シラユキが居れば大丈夫だろう。
これは案外、俺がお役御免になるのも早そうだ。
「ふーん? そう、良かったじゃない。じゃあ、案外早く居なくなってくれそうなのね」
「あぁ、初日にしては想像以上に順調だった」
日没後。村に帰った俺は、寝室でミーアに今日の出来事を報告する。
湖で身体を清めて帰宅し、ミーアが用意して待ってくれていたお陰で、美味い夕食に舌鼓を打てた。
「あー、そこ。もう少し強く頼む」
「ここ? ここが良いの? よっ……どう?」
「ん……っ。 あぁ、良い感じだ」
寝台の上にうつ伏せで寝転がっている。
そんな俺の背に跨って、ミーアは俺の身体を揉み解してくれる。
まさに至れり尽くせり。
安らぎの時間だ。
数日前。正確には、俺がメルティアに剣を向けたあの晩……。
その翌日から、こうして彼女は毎晩のように施術してくれていた。
これが中々素晴らしい。
本当になにやらせても上手いんだよなぁ。
流石、天才を自称するだけはある。
ミーアは本当、良い嫁になるな。
あぁ……気持ち良い。
俺は今、大変満たされている。
「大分、調子良いみたいね。顔色も戻って来たし」
俺の顔を覗き込んで、ミーアは言った。
「そんなに酷かったか?」
「本当に心配したんだからね? もう……本当に痛みはないの? 最初は、ちょっと触るだけで苦しそうだったじゃない」
確かに、初めて背術を受けた時は堪らず声を上げてしまった。
本当に痛かったのだ。
ミーアに殺されると本気で思った。
でも今となっては、感謝しかない。
「うん。大丈夫だ。正直、まだ少し脱力感というか……痺れた感じはするけど、痛みはない」
「そう」
「あぁ……はー」
完全に脱力し、身体をミーアに委ねる。
思えば、俺はミーアに対して無防備になる事に抵抗が無くなっているな。
お陰で得られるこの時間。快楽を知ってしまった以上……男としての見栄や意地を張る選択が非常に惜しく愚かな行為に感じる。
「くあ……」
あー、眠くなってきた。
いいぞ……これで今夜も気持ちよく眠れる。
「……そっか。もう大丈夫なのね」
目蓋を閉じ、沈んでいく意識の中。
頭に手を置かれた俺は、一瞬だけ目を開けた。
頭を、撫でられている。
あぁ、いいな。気持ち良い。安らぐ。
以前、こうして頭を撫でてくれていた人達は、もう居ない。
母さんは死んだ。
幼馴染でずっと隣に居てくれた彼女も、死んだ。
だから……久しく感じていなかった感覚だ。
今夜は良い夢が見れそうだ。
「ね? シーナ」
耳元で囁かれた声。頰に触れる熱い吐息。
改めて目蓋を閉じ、心地良く眠りに落ちそうだった俺の意識は一瞬で覚醒した。
目を開いて見上げれば、至近距離にミーアの顔があった。
ふわりと垂れて来た髪を指先で掬い上げ、耳に掛ける。
そんな彼女の仕草。そして、こちらをじっと見つめる瞳から、目が離せない。
「なんだ?」
「なんだじゃないわよ。寝そうだったでしょ?」
「駄目か? 確かに、ちょっと早いけど……」
このまま寝ては駄目なのだろうか。
今まで何も言われなかったから、良いと思っていた。
「駄目に決まってるでしょ? 体調が戻って来たなら、寝過ぎるのはかえって身体に毒だわ……はむ」
突然、ミーアは俺の耳を口に含んだ。
ちゅぱちゅぱと吸われる。
はむ、はむはむ……と、何度も甘噛みしてくる。
「おい、なにしてる?」
「ぷはっ……ね? シーナ」
指摘すると、ミーアは口を離して見つめてきた。
真っ直ぐな瞳だ。綺麗だな。
「私ね、ここ数日。いっぱい働いたわ。朝早くに起きて、湖まで水汲みに行って、朝食作って、お洗濯して……あんたを見送った後は、狩りに行ったり、山菜採りとか、畑のお手伝いとか。お義父様の看病とか……で、あんたが帰ってくる前に夕食作って、お湯を用意して、こうして……あんたの身体が、少しでも早く全快するように、色々考えて」
「そう、か。そうだな。頑張ってくれてるな」
そう言われれば、耳を噛まれた事を追及する気にはなれなかった。
本当に、ミーアには申し訳ないと思っている。
同時に、感謝しているのだ。
彼女は村にとって、それも俺が連れて来た客人だ。
なのに俺は、ミーアに構えず。甘えてばかりいる。
「なのに、あんた。毎晩すぐ寝ちゃって構ってくれないし……」
恨めしそうな目で俺を見つめて。
ミーアは、むぅ……と頬を膨らませる。
……可愛い。
以前ならば、ゾッとする程に冷たい目で睨み付けて来た彼女だが……変わったな。
余程、寂しかったらしい。
「悪かった。そうだな、労働には対価が必要だ」
言うと、ミーアの顔が綻んだ。
「ふんっ! そうよね、分かってるじゃない」
「あぁ。お前みたいな優秀な冒険者を無償で雇えるとは思ってない。少し腰を上げてくれ」
「えぇ!」
嬉しそうに頷いて、俺の背に跨っていたミーアは腰を上げ、膝立ちになる。
自由になった俺は、うつ伏せから身体を捩って仰向けになり、両手を広げた。
抱っこだ。これくらいはしても良いだろう。
「ほら。今日は少しだけ夜更かししてやる」
「ふ〜ん? 随分と上からね? いつの間にあんた、私より偉くなったのよ?」
挑戦的な表情で言いつつ、ミーアはペロリと自らの唇を舐めた。
中身はともかく、ミーアの外見は一級品だ。
そんな彼女の官能的な仕草は、控えめに言って堪らない。
「言っとくが、明日もある。本当に少しだけ……少しだけだからな?」
一応釘を刺しておくと、ミーアはムッと眉を寄せた。
機嫌を損ねてしまったか。見慣れた表情だ。
「分かってるわよ。でもあんた、最近は随分と早起きしてコソコソ鍛えてるじゃない? そんなに運動不足なら……丁度良いと思うの」
「は? 何が」
最後までいうことは叶わなかった。
ミーアはおもむろにシャツの裾に手を掛けると、バッと抜き捨てたのだ。
「おいっ! おま」
小さな双丘を覆う薄い布切れ。
頼りないそれだけで隠された上半身が、俺の身体を覆う。
途端、ジッと至近距離で見つめられた。
「これは、あんたが脱がせたいでしょ? ね♡」
頬を朱色に初めたミーアは、自らの胸部を覆う薄い布を摘みながら囁く。
思わずそこへ視線を向け、頰を熱い吐息で撫でられて……。
俺は、下半身に熱が籠るのを感じた。
こんな不意打ちは、卑怯だと思う。
「……ミーア。だめだ。俺はまだ、お前を選んでも幸せに出来る保証が……資格がな……」
「んっ♡」
「ぐっ……」
目を閉じたミーアの顔が、間近にある。
彼女の舌が、口の中を蹂躙しているのが分かる。
「ちゅ……くちゅ……はむ……ちゅ……ちゅぱっ」
「ん……んん……はっ! むちゅ……」
俺の唾液とミーアの唾液が混ざり合う音が、静かな寝室に響く。
身動ぎする度に、ギシギシと鳴る寝台の音。
唾液を交換し合う水音。
彼女に送られてくる熱。
「はぁ……」
それらに当てられたのだろう。
視界がボヤけ、思考がぼんやりとしてくる。
暫くそんな時間が続き、息が苦しくなって来たところで……ミーアは俺から唇を離した。
「ちゅぱ……はっ……はっ……♡ んん♡」
濡れた口元を舌で舐めまわし、トロン……とした表情のミーアは凄く満足そうだ。
「み、みーあ……」
あぁ、不味い。力が入らない。
俺は苦しさを堪えて、何とか言葉を絞り出した。
「……今夜は、逃さないから」
また、顔を寄せてくる。
しかし俺には、逃げる余力が残っていない。
抵抗出来ず、ペロリと首を舐められる。
そうして彼女は、静かに囁いた。
「今夜こそは、あんたの女になってやるわ」
……不味い。
このままでは、父親にされてしまう。
「待て、ミーア。話し合おう」
「無理」
話し合いに応じる気はないらしい。
すっかり興奮し切ってしまっている様子だ。
「良いじゃない……♡ あんた、私の事好きなんでしょ?」
蕩けた表情で。
懇願するような甘い声で、ミーアが囁く。
俺の背が、ゾクリと震えた。
「言ってくれたじゃない。私の事、好きって。私、あれからずっと我慢してたの。我慢出来なかったけど、我慢したのよ?」
確かに俺は言った
紛れもない本音だ。
しかし今は、応えられない。
メルティアの存在が、頭をチラつく。
俺は、彼女に対して不誠実な事はしたくない。
もう泣かせたくないから、応えられない。
「男は嫌いなんだろ? 自分を見失うな。後悔するぞ」
「このまま何もしない方が後悔するわよっ!」
俺の言葉に、すぅと目を鋭くしたミーア。
そのあまりの剣幕に驚く。
「あんた、あの魔人達に求められてるんでしょ? 一緒に来て欲しいとか、言われてるんでしょ? 現にあんたは彼奴らに従ってる。故郷を人質に取られてるあんたは、断れないからでしょっ!?」
……流石、自称天才。
いや、もう自称なんて馬鹿に出来ないな。
今だけは。聡明な彼女を恨めしく思った。
「あんたが居なくなったら、私は一人になっちゃう! また駆け出しの冒険者として、再スタートしなきゃいけなくなっちゃう! その時……また、またあんな目に遭ったら……今度は、誰が助けてくれるのよっ!?」
…………。
答えられずにいると、ミーアは縋り付いて来た。
「ねぇ! お願い……貰ってよっ! 私の全部、全部あげるから……だから、貰ってよ。私、初めてはあんたが良い。あんたじゃなきゃ嫌っ! 私を助けてくれた。私が初めて好きになった……私を女にした、あんたに……あんたに捧げたいの」
「……ミーア」
こんなに想ってくれる。
俺だって、その想いに応えたい。
でも、脳裏をチラつく敵意ある視線。
俺はまだ、メルティアという少女を信じられずにいる。
だから、どうしても考えてしまうのだ。
もし。彼女の願いを聞いて、受け入れて。連れて行ったとして。
手の届く範囲で彼女を奪われたら、俺は……と。
「ううん……やっぱり、それだけじゃ嫌。傍に居て。傍に居させて……お願いだから、行かないで。私を、置いて行かないで……」
ミーアの大きな瞳から、涙が溢れた。
降り注ぐ涙が俺の顔に降り注ぐ。
「せめて……せめて、どこに行っても良いから……連れてって」
「…………」
ずっと、不安な想いをさせているのは分かっていた。
だけど、改めてこうしてぶつけられても。
俺は彼女の求める答えを用意してあげられない。
嘘は口に出来ない。
母さんに叩き込まれ、かつて誓った信念。
信じた言葉に、苦しめられる。
「……ごめん」
今口に出来るのは、これだけだ。
歯痒くて不甲斐なくて、嫌になる。
やはり俺は、俺が嫌いだ。
「ごめん……ミーア」
弱くて、ちっぽけで。
ここで泣いている女の子を安心させ、幸せな気持ちにしてあげられる。
そんな英雄になれない俺が嫌いだ。
「謝るな……謝んないでよぉ!!」
謝罪は、肯定だと分かってはいた。
しかし俺には、他にどうしようもなくて。
卑怯だと分かっていて。
身体を起こした俺は、華奢な身体を抱き締めた。
「ごめん……ごめん……」
「うぁ……あぁ……ああぁぁあああっ!!!」
胸の中で、好きな女の子が泣いている。
俺は、そんな彼女の涙を拭ってあげられない。
そんな資格が、俺にはなかった。
それが出来る力が、俺にはなかった。
だから俺は、俺の胸を叩く少女の拳を甘んじて受け続けた。
弱い俺に出来るのは、一つだけ。
彼女が泣き疲れて眠ってくれる事を待ち続けながら、祈るだけ。
どうか、ミーアが幸せになれますように。
我ながら情けない。
悔しくて。
でも無力な俺には何も出来なくて、歯痒かった。
強くなりたい。
どんな理不尽に襲われても、余裕で跳ね返せる。
どんな過酷な状況でも、ミーアに笑顔を向けてあげられる。
俺自身が、理不尽になりたい。
そう思った。
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