第63話 天才少女は人気者。
故郷に戻って来てから、二度目の朝を迎えた。
今日は、元々予定していた滞在期間の最終日。
尤も、それは俺が一人で帰省していればの話。
昨晩。ミーアとの話し合いの末、もう暫く滞在することに決まっている。
何でも彼女は、この村でやりたい事があるらしい。
あと、他に女が居ないから暫く二人きりで過ごしたいのだとか。
今のうちに落としてあげるから覚悟しなさい、とまで言われてしまった。
可愛い奴め。
本当に勘弁して欲しい。
最近気付いた事がある。
それは、感情がなくても身体は正直だと言う事。
つまり、何が言いたいかと言うと……ミーアを抱き締めて寝ていると、準備が出来てしまう。
俺は知った。
俺の身体は、既にミーアに堕とされている。
これは、非常に不味い。
このままでは、パパになってしまう。
まだ十六歳なのに、年下の可愛い嫁と子供が出来てしまう。
何とかしなければ。
……早く、旅に出たい。
差し込んだ朝日の眩しさで目を覚ました俺は、寝起きの頭で、天井を見上げて考えていた。
起きてもやることがない。
唯一、暇を潰せる相手。
昨晩、抱いて寝たはずのミーアの姿は既にない。
ふと、気付く。
右頬に違和感があった。
あいつ、キスして行きやがったな。
自分の頬を撫でた俺は、寝台の上から辺りを見回した。
しかし、どこへ行ったんだろう?
出て行くなら起こしていけよ。
「暇だな」
俺は、改めて故郷の何もなさを痛感していた。
街に居れば、やることなんて幾らでもある。
「走りに行こう」
言葉にして自分に言い聞かせ、身体を起こす。
折角、持て余すほどに時間がある。
呑気に寝てる場合じゃない。
女神に貰った力に僅かな時間しか耐えられない。
この情けない身体を鍛えなければ。
「強くならなきゃいけないんだ。俺は」
俺は、もう何一つ失わない為に、強くなると決めたのだから。
村に残していた古い衣服に着替え、靴だけは革靴を履いて外に出る。
左手に持つ剣を振るのは久々だ。
「……良い天気だな」
村の中央広場に出ると、活気のある声が響いていた。
「こら、なーにやってんだい! 早くしないと男共が起きてきちまうよっ!」
広場に響く声は、この村の女性達のものだ。
彼女達の朝は早い。
調理場がどの家にもないので、村の食事は広場にある共有の調理場で女性達が協力して纏めて作る。
大鍋で纏めて作った方が手間も少なく、食材も無駄にならない。
この村には鍋も寸胴も一つしかない。
他に方法がないのだ。
見る限り、丁度出来あがる頃か。
良い香りが漂っている。
鍛錬は、朝食を食べてからにしよう。
匂いに誘われるまま調理場へと近づく。
「え」
すると、信じられない光景に足を止めた。
「ミーアちゃん。ちょっと! こっち手伝って―」
「はいっ! すぐ行きますっ!」
「ごめん、ミーアちゃん。そっち終わったら、そこの台の上を片付けといて貰える? そのままだと配膳出来ないから」
「わかりました!」
見知った女が、知らない表情で調理場にいた。
おばさん達の指示に笑顔で応え、癖のある緑髪を揺らすその女は、額に汗を浮かべて働いている。
「ミーア? あいつ、何やってんだ?」
しかし、そんな光景はありえない。
どうやら俺は、まだ夢の中にいるらしい。
何故なら彼女は、今の俺や村の皆と同じ使い古されたボロ布を着ているのだから。
あんな服、ミーアが着る訳がない。
それにだ。
おばさんたちの指示に笑顔で応え、額に汗を浮かべて働いているなんて、ある筈がない。
……見れば見るほど、ミーアにしか見えない。
いや、ミーアだよな? あれ。
え? あれ、ホントに誰?
「よいしょ……」
「嘘だろ? お前」
ミーアに似た女は掃除をしている。
しかも、随分と手慣れた様子だ。
うーん、やはり別人か。
あのミーアが掃除なんて出来る訳ないもん。
俺がいない間に、あんな可愛い女の子が移住してきたのか。
良い娘だな。笑顔が可愛くて、言葉遣いは明るく丁寧、凄く素直そうな女の子だ。
いいな。あの娘……。
あんな可愛い女の子と付き合えたら、幸せだろう。
素敵な娘だなー。
「すみません、これはどうしたら良いですか?」
「ん? あー、それはねー」
……いや。
ミーア、だよな? あれ。
「……えぇ」
思わず、口から変な声が出た。
失ったはずの感情が息を吹き返す程の衝撃だった。
「ありがとうございますっ」
「いーんだよ。分からない事は何でも聞きな!」
「はいっ!」
「……ホント、あんた良い娘だねぇ」
ほろり、と漏らした涙を拭うおばさん。
あれ。なんか馴染んじゃってる?
「ホント、あの娘。良く働くねぇ」
「そうだねぇ。愛想も良いし、料理も出来る。私の若い頃にそっくりだね。あれは美人になるよ」
「なーに言ってるの。あんたの若い頃なんて比べ物にならないわよっ」
「シーナも良い娘を捕まえて来たねぇ。心配して損したよ」
そんな声が聞こえて来て視線を向ける。
どうやら、暇になった様子のおばさん達の話し声だった。
んん?
ひょっとして。これ、不味いのでは?
なんか。受け入れられてない?
「こらっ! あんたらなにサボってんだいっ! こんな若い子が頑張ってるのにっ! 手が空いた奴は、突っ立ってないで男達を起こして来な!」
「ひえっ! は、はーいっ!」
「ひぃ! 行って来まーす!」
突然、覇気のある怒声が飛んだ。
声の主は婆さんだった。
村長の嫁さんである婆さんに怒鳴られて、慌てて走りだしたおばさん達を見送っていると。
「全く……ミーアちゃん、ごめんねぇ。気を悪くしないでおくれ」
俺は耳を疑った。
婆さんに視線を向けると、婆さんはデレッとした顔で、ミーアを見ていた。
調理場で婆さんがあんな顔をしているのは見た事がない。
『ごらー!あんたは何度言ったら分かるんだい!』
『ひぃー!? ごめんなさーいっ!』
まだ幼かった頃のユキナにすら、家事を教える時は鬼のような形相で怒鳴り付けていた婆さんだ。
おかしいな……どうなってるんだ?
「いえ、すみません……私が至らないばかりに、皆さんの仕事を止めてしまって」
「そんなっ! 至らないなんて、とんでもないっ!至らないのはあいつらの方さっ! あんたは本当に良く働いてくれてるよぉ!」
しゅん、と落ち込んだ様子のミーアを見て、婆さんが慌てている。
だからお前、誰だよ。年寄りを騙すんじゃない。
「ほらっ! 後はやっとくから。あんたも旦那を起こしてきなっ! 皆、それで良いだろっ!」
「えぇっ! ミーアちゃんのお陰で、今日も美味しく出来たしねぇ。せめて片付けくらいはさせてくれよっ!」
「そーそっ! 調味料も食材も持って来てくれてっ! そんなお客さんをこれ以上働かせたら、女神様から天罰が下っちまうかもしれないよっ!」
「あんた若いのに働き過ぎだよっ! 今が一番大事な時なんだからさぁ!」
婆さんが叫ぶと、他のおばさん達が口々にミーアに声を掛けた。
随分と好評な様子だ。
「ありがとうございます、皆さん。でも、私はまだまだ大丈夫ですっ! 働きますっ! 働かせてくださいっ! 私、一杯頑張って、シーナを振り向かせないといけないのでっ!」
は?
こいつ、何言ってくれてんの?
「えっ!? まだ付き合ってないのかい?」
「はい……まだ、私の片想いなんです。告白は、したんですけど。振り向いてくれなくて」
あはは、と。ミーアは苦笑いして見せた。
おい馬鹿、やめろ。
「まぁ! そうだったのっ!? あの子ったら、何が不満なのかしらっ! こーんな良い子に、こんなに好かれてっ!」
「ちょっとっ! どういう事っ!? まさか、シーナの奴……っ!!」
「ちょっと誰か! あの馬鹿起こして来なっ!
説教してやるっ!」
うわわわわっ。
やってくれたな……ミーアの奴!
凄い剣幕の婆さんを見て、慌てて家の隅に隠れる。
「やっ! やめてくださいっ! シーナは悪くないんですっ! 悪いのは、私で……っ!」
……成る程。
お前がやりたい事って、これか。
よく分かったよ、ミーア。
お前、俺の居場所を奪う気だな?
「へ? どういう事だい? ミーアちゃん」
「な、なんでもありません。とにかく、シーナを責めないでください。彼の食事は、私が持って行きますから。まだ、寝かせておいてあげたいんです。彼、まだ身体が本調子じゃないので」
えぇ……なんか好き勝手言われてるんだが?
全く、そろそろ止めておくか?
これ以上。余計な事を言われると困る。
「ミーアちゃん……」
「あー、もう良いか?」
盛り上がってる所に声を掛けると、全員の目が一斉にこちらに向いた。
「シーナっ! だ、駄目じゃない。まだ寝てなさいよっ!」
すぐに調理場から出て走り寄って来たミーアの額に、軽く手刀を叩き込む。
「煩いな。お前、余計な事をベラベラ喋り過ぎだ。少し黙ってろ」
「あ……ごめんなさい」
睨み付けると、ミーアはバツが悪そうな顔で俯いた。
流石に罪悪感があるのだろう。
こいつ、外堀から埋めようとしてやがる。
「あら、シーナ。自分で起きたのかい?」
「当たり前だろ、もう子供じゃないんだから」
「そうかい。それで? そんなもの持って、何処か行くのかい?」
話しかけて来た婆さんの目が、俺の左手。
鞘に収まっている片手剣に向けられた。
「あぁ。ちょっと身体を動かそうと思ってな」
「駄目だ。ミーアちゃんに聞いたよ。あんた、危うく死ぬところだったそうじゃないか。まだ傷が塞がってないんだろう? 大人しくしときな」
婆さんの目が、スッと鋭くなった。
俺はすぐにミーアを見る。
「……おい、ミーア。喋ったのか?」
視線を向けて尋ねると、ミーアはビクッと肩を震わせた後……小さく頷いた。
「だって、あんた。少し目を離したらすぐ居なくなっちゃうから……」
弱々しい声音だ。
……心配を掛けているのは、分かっている。
「だからって、やり方が汚いぞ。あまり余計な事を喋るな。頼むから」
「そんな。私はただ……あんたが心配でっ!」
「冒険者に多少の怪我は付き物だ。お前も冒険者なら分かるだろ?」
「だけどっ! その怪我は私のせいでっ!」
「なんでそうなる。これは、力の足りない俺が我儘を通した結果だ。お前は何も悪くないだろ」
「でもっ! それは私が弱かったせいでっ!」
目を少し細めて睨むと、ミーアは怯まず食い下がって来た。
キッ! と鋭い目が、俺を射抜く。
「お前のせいじゃない。俺が弱かったせいだ。この際だからはっきり言ってやる。なんでもかんでも自分のせいにして満足されるのは迷惑なんだよ。あんまり自惚れんな、ばーか」
「ば、ばーか!? こ、この……っ! あんたねぇっ!?」
激昂したミーアは、腕を振り上げた。
だが、近接なら分がある俺は、細い腕を掴む。
「お、化けの皮が剥がれたな。いいのか? みんな見てるのに」
「あっ……! く……っ! くぅっ!」
皆を見てから、ミーアは悔しげに俯く。
……流石にやりすぎたか。
「ぺっぺっ!」
「何、女の子泣かせてるんだい? あんたは」
ふと見れば、皆が俺を凄い目で見ていた。
両手に唾を吐くあの仕草……拳骨だ!
まずい。間違っても、ミーアを逃せない。
ここに俺の味方はいないのだ。
仕方ない。やるしかない。
ミーアの機嫌を取るしかない!
「ミーア」
幸い。羞恥心のない俺は、ミーアを抱きしめた。
「ふぇ……? シーナ?」
困惑した声が、耳元で囁かれる。
だから俺も、力強く抱き締めながらミーアの耳元で囁いた。
「冗談だ。お前。やっぱりそっちの方が可愛いよ」
「……っ! も、もうっ♡」
囁くと、ミーアの顔が一瞬で茹で上がった。
腕の中で、もじもじと恥ずかしそうにしている。
「酷い事言って、ごめんな? お前は頑張って働いてくれたのに」
ふるふると首を振って、ミーアは熱い息を吐く。
「いいの……私が、やりたくてやってるの」
呟かれるのは、健気な声。
俺は、よしよしと頭を撫でてやった。
……ちょっろ。
あぁ。
俺の好きなミーアはこんな女じゃなかったのに。
「きゃー! いい! いいわねぇ!」
「お祝いの準備しなくちゃ!」
「これは、すぐに赤ちゃん見れそうねー!」
周りの女性達が俺達を見て盛り上がっている。
終わった。俺の故郷……。
そんな中、婆さんだけは俺を見て訝しげな顔をしていた。
視線を向けると、流石婆さん。
どうやら、気付いてくれたようだ。
「こらっ! シーナっ! こんなに可愛くて良い子が心配してくれてるのに、なんて言い草だいっ!」
怒鳴った婆さんに顔を向け、困り顔を作る。
「そんな怒鳴らないでよ、婆さん」
「問答無用だよ! ちょっとこっちに来な! お説教だっ!」
「あっ……シーナ」
「大丈夫だよ、ミーアちゃん! ちゃんと言い聞かせるからねぇ!」
ズカズカと歩み寄って来た婆さんは、俺の頬を摘むと調理場に引き摺り込んだ。
痛い……けど我慢我慢。
婆さんは皆から離れた所で止まると頰を放した。
すぐに顔を引き寄せられた俺は、至近距離で婆さんに睨み付けられる格好になる。
相変わらずの眼力だ。
幼い頃から怖くて堪らなかった婆さんの顔。
なのに。今は、何も感じない。
少し寂しい気もするな。
「シーナ。あんた、あの子の気持ちには勿論、ちゃんと気付いてるんだろうね?」
耳元で囁く様に言われ、俺は頷いた。
「そうかい。まぁ、あんたはどっちかと言うと母親似だからね」
俺の反応に満足したのか、婆さんの声音が少し柔らかいものに変わった。
母さんは父さんが相当な鈍感で苦労したらしい。
両親の馴れ初めなんてどうでも良いが、それにしても未だに信じられない。
父さんが、ではなく。あの綺麗な母さんが父さんに惚れて、苦労の末に一緒になった話がだ。
まぁ、父さん。顔は良いからなぁ。顔だけは。
「それで? なんで付き合わないんだい。あれは良い娘だよ。少し気は強いみたいだけど、器量良しだし、なにより。あんたにベタ惚れだ。一体何したんだい?」
何した、と言われてもな。
悪い事は何もしていない。
「別に? ちょっと困ってたから助けただけだよ。大した事はしてない」
「ふんっ。ちょっと、なんてよく言えたね。全部あの娘から聞いてるよ。頑張ったね……シーナ。痛かったろう? よく、生きて帰ってきてくれた」
あっ。本当に全部言ってやがる。
なんだよ。折角隠そうとしたのに。
人を殺した、なんて。言えるかよ。
「傷は爺さんにも診せな。分かったね?」
「いいよ、もう塞がってる。そんな暇があるなら、父さんの病を何とかしてくれって言っといて」
「駄目だ。ちゃんと診て貰いな。シーナ、あんたはまだ若い。それに、近いうちにまた出て行くんだろう? 村を出たら、私達は誰もあんたを助けてやれない」
「分かってるよ。だから少しでも鍛えておこうと、こうやって……」
握った剣を掲げて見せる。
すると、婆さんは背後を盗み見た。
「やっぱり。あんたには、あれくらい強い娘の方が良いよ。私は賛成だ。それとも、まだユキナに未練があるのかい?」
未練、か。
全くないと言えば、嘘になるのかもしれない。
でも、今ならはっきり言える。
「ううん、もうない。綺麗さっぱりだ」
「そうかい? でも、あんた。コニーとシロナには随分辛辣な態度を取ってるそうじゃないか。二人共、相当落ち込んでたよ」
コニーとシロナ。ユキナの両親の名前だ。
落ち込んでた、と言われてもな。
原因を作ったのは、あの二人だ。
「別に、何でもないよ。ただ、一度決めた事だ。けじめは、付けなきゃいけない」
「……出来れば、あの二人は許してやってくれないかい? ユキナは勿論だけど、あんたの事も実の息子のように可愛がっていたんだ。それを突然、二人共失って……今の二人はとても見てられないよ」
落ち込んだ表情の婆さん。
しかし、絆される訳にはいかない。
「俺には関係ない。所詮、実の息子じゃないから」
肩を竦めて見せ、続ける。
「あの二人がどうなろうが、知った事じゃない。可哀想だと思うなら、何とかするのは俺の役目じゃない。そうだろ? 婆さん」
「……そう、だね。全く、ユキナは本当、何してんだい。あの親不孝者が」
「そう言うなよ。今頃、人類の為。愛する勇者様の為に頑張って戦ってるんじゃないか?」
俺は背後へ視線を向け、ミーアを見た。
目が合い、眉を吊り上げた彼女は口パクで「まだ?」と尋ねてきた。
「ご苦労な事だ。俺なら死んでも御免だね」
……試しにウインクしてみる。
あ。ミーアの顔が一段と赤く染まった。
恥ずかしそうに俯くミーアは、やはり可愛い。
ふざけてアッシュの真似をしたが、まさか。こんなに効果があるとは。
今後、あいつを黙らせる時にはこれを使おう。
「……今は、ミーアがああやって楽しそうにしてるなら、それで良いよ。俺は」
「そうかい……ふん、よくそんなこと言えたね、女が勇気を出して口にした想いを無碍にしてる癖に。やっぱりあんたは、父親似だよ。悪い男だ」
「そう言わないでよ。俺だって、色々思う所があるから保留にしてるんだから」
「なんだい? そりゃあ」
「俺はただ……あいつには。ミーアには、幸せになって欲しいんだよ」
婆さんは俺の言葉を聞いて、暫くポカンと間抜けな顔になり……大きく溜息を吐いた。
流石は婆さん、察してくれたみたいだ。
「あんたって、ほんと……馬鹿だねぇ」
「知ってる」
呆れた顔の婆さんに頷いて見せ、俺は身体を起こして振り向いた。
「ミーア! こっちは終わった。腹減ったー!」
「へっ? あ、あぁ……ば、ばかっ! 早く来なさいよねっ! すぐに用意するからっ!」
ぷいっ、と顔を背けるミーア。
そんな彼女に向かって、俺は歩き出した。
「やっぱり、あんたの息子だねぇ……」
背後の婆さんの声は、よく聞き取れなかった。
朝食後、ミーアを連れて森に入った。
買ったばかりの装備一式に身を纏ったミーアは、俺と黒い外套を羽織っている。
対して、俺は先程と同じ格好。
古い村の服を着ていた。
もしかしたら狩りをするかもしれないので、弩は背負って来たが……普段に比べれば相当な軽装だ。
「見えて来たぞ」
木々の隙間に目的地を見付けた。
眩しさに目を細め、足を止めて背後を振り返る。
朝日を反射して水面が輝いている。
後方に二歩程離れて追従して来ていたミーアも眩しいのだろう。眉間に皺を寄せていた。
「結構歩くのね。近いって聞いてたけど」
「そんなに遠くないだろ」
「そうね。でも、生活に使う水を汲みに来るって考えたら致命的な距離よ」
街育ちのミーアがそう言うのも無理はない。
しかし、十歳になった頃から、ユキナと二人。
毎日十往復は村の井戸に水を補充する。
それが、村で俺に与えられた仕事だった。
「どうしたの? 早く行きましょうよ」
「あぁ」
だからこそ、少しだけ寂しいと思う。
いずれ、あの思い出も色褪せ……忘れてしまう。
そう考えると、少しだけな。
「? 何よ」
「……あ。いや、何でもない。少し昔を思い出していた」
気付けば、俺はミーアの顔を凝視してしまっていた。
少し前まで忘れたくても忘れられず、何かある度に思い出していた幼馴染の顔。
鮮明に思い出せていたそれが、最近はミーアとの時間に劣るようになっている。
日を重ねる度に薄くなっていく記憶。
思い出そうとも考えなくなってきた思い出。
俺は案外、薄情な人間だったらしい。
でもきっと、それで良いんだ。
「行こう」
どうにもならない
今の俺はきっと、充分。恵まれてるんだから。
「うわぁ……」
木々を抜け湖のほとりへ出た。
途端に声を上げたミーアを見て、得意げに言う。
「どうだ? 綺麗なもんだろ」
「綺麗なんてもんじゃないわ。何よ、ここ。凄い綺麗……」
「素直に綺麗で良いだろ、それ」
目を輝かせているミーア。
随分気に入った様子だ。
「村で使う水は全部ここ頼りだ。あ、水浴びしたいならして良いぞ。暫く離れてるから」
「そんな事出来ないでしょ。からかってるの?」
眉を寄せるミーア。
流石。意外と良識あるんだよな、こいつ。
「別にからかってない。皆、ここで水浴びするんだ。なんなら泳いで見せようか?」
「え? 嘘でしょ? 食事にも使う水なんじゃないの?」
「汲むのは向こう、対岸のほうだ。えーと、ほら。あそこ」
水辺に近付いた俺は、透き通った湖底を指差した。
「あそこ、泡が立ってるだろ? 水が湧き出してるんだよ。こっち側はあれだけだけど、対岸には三箇所あるんだ。だから、手前が水浴びする場所。向こう側が生活に使う水を汲む場所って感じだ」
「へぇ。向こうが上流なのね。それにしても凄く綺麗な水……下まではっきり見えるじゃない。あっちの小川は?」
ミーアが指し示した方を向く。
「あぁ。あれは海に繋がってるらしい。昔、母さんがあの小川を辿って行った事があるらしくてな。俺も一度見てみたいんだが……」
大人になったら、成人したら。
手を繋いで、一緒に海を見に行こう。
あの約束も、もう無かったことにして良いよな。
それにお前は。もう海、見たんだろうしさ。
「ふーん? なるほどね。だからあんた、海を見たいとか言い出したの。別に大した事ないわよ?」
「知らない奴に大した事ないとか言うんじゃない。大体お前だって、この湖を見て凄い喜んでたじゃないか」
「ここは本当に凄いわよ? まさに人類未踏の秘境の地ね」
「俺はここの水で育ったんだが」
もう俺達人類が踏み荒らしまくってるよ。
「でも、良かったわ。水浴びは出来るのね。身体。どこで洗えば良いか分からなくて、困ってたの」
「だろうな。だからってお前、香水の量を増やすのやめろよ。寝付けないから」
街を出てからは、身体を洗えてないはず。
やはり気にしているらしく、ミーアの身体からは甘い匂いが強く漂っていた。
幾ら好きな香りに変わったとは言え限度がある。
なんか、この匂い。
ずっと嗅いでいると身体が火照るんだよな。
「! そ、そうねっ! ごめんなさい。一応効いてるんだ……」
プイッと顔を逸らしたミーアの耳は赤く染まっていた。
流石に不躾な指摘だったか。年頃の女は難しい。
「お」
湖の対岸。
木々の間から現れた存在を見つけ、俺は背に背負っていた弩に手を掛けた。
猪だ。それもかなり大きい。
「運が良いな、狩るぞ」
肉なんて滅多に手に入らない。
きっと、皆喜ぶだろう。
俺が帰って来た事を祝う宴も、肉が手に入り次第と言っていた。
憲兵のおじさん達も先日から狩りに出ているが、成果は期待出来そうにないし……。
良い機会だ。俺の成長を村の皆に示そう。
「……それ、使うの?」
「なんだ?」
「それ、あいつらから奪った武器でしょ?」
「ん? あ……そうだ」
ミーアの言うあいつらとは、自由ギルドを自称する盗賊達だ。
その自由ギルドに捕らえられ、奴隷として慰み者にされそうになっていたミーアを救ったのは、まだ半月程前の出来事だ。
「……私がやるわ。あんたは見てなさい」
「それだと練習にならないだろ。射たせろよ」
「それ、使うなって言ってるの。分からない?」
弓を手にしながら、ミーアはキッと睨んで来た。
どうやら、思う所があるらしい。
流石にまだ、忘れろというのは無理だよな。
「ミーア。前にも言ったろ。これは武器、力だ。それも、最先端の技術で作られたな。確かにお前はこの武器に嫌な思い出があるのかもしれない。でもな、折角手に入れた物は使わなきゃ損だろ」
矢筒から矢を抜き、装填作業を行う。
「分かってるわよ……それは。でも」
「お前がこいつに苦しめられたように、これからはこいつに楽をさせて貰う。そう考えろよ、ミーア。冒険者は割り切りが大事だぞ。いつまでも過ぎた事を気にしてるんじゃない」
装填が完了したので、照門を立ち上げて覗き、猪を狙う。
狙いは眉間。
しかし、かなり距離がある。
「分かったら、フォロー宜しく。多分外す」
「っ! 何よそれ……はぁ。まぁ良いわ」
矢を番えたミーアを横目に見て、改めて集中し直す。
「すぅ……はぁ」
息を吸い、吐き切った所で照準を固定。
止まりきったと感じた瞬間、引き金を引き絞る。
弩から放たれた矢は風を切って猪に迫る。
しかし、途中で風に煽られた。
途中で軌道を変えた矢は、猪の肩部に突き刺さる。
「外したか……」
呟いてミーアを見れば、彼女は猪に哀れみの目を向けていた。
何とか矢を抜こうと暴れる猪は、地に身体を擦り付けている。
「可哀想に。ごめんなさい。この下手くその道楽のせいで……痛いでしょう? 今、楽にしてあげるから」
……この女。
人を煽ることに関しては一級品だな。
「可哀想だと思うなら、早くやってくれ」
外したら思いつく限りの煽り文句を並べてやる。
寧ろ外せ、と念を送るが……。
「はぁ……我」
残念ながら、相手は超一流の天才弓士。
ミーアは、放った矢を決して外さない。
「女神の祝福を受けし者」
何故なら彼女は、弓を扱う事に関して。
女神に祝福を授かっているのだから。
固有スキル、狙撃。
力を発現させたミーアの左目に光が灯る。
その瞳の前に現れた不思議な紋様は、視界にある一部を拡大させるもの。
故に、彼女は射線さえ通っていれば、それがどれ程遠くとも寸分違わず目標を射抜ける……らしい。
「ふっ」
放たれた矢は、放つ光で宙に軌道を描きつつ、水面を切るように猪へ迫った。
俺のものとは違い風の抵抗を全く受けていない。
狙い通りなのだろう。
飛翔した矢は暴れる猪の眉間に正確に吸い込まれた。
数秒後。猪は巨体を地に伏せ、動かなくなる。
しかし、凄まじい腕だ。
あれだけ暴れる猪の眉間を正確に捉えるとは。
同じ狙撃スキル持ちでも、同じ芸当が出来る者はどれ程居るのだろう。
「流石、天才冒険者だな」
素直な称賛を贈ると、ミーアは眉間に皺を寄せた不機嫌顔で俺を睨んだ。
「なによ、嫌味? あんたみたいな本物の天才にそんな風に言われるとムカつくんだけど。さっさと本当の実力を明かして等級上げてくれない?」
非常に怒ってらっしゃる。
触れてはいけない琴線に触れたらしい。
「言い過ぎだろ。俺は素直に褒めたつもりで、嫌味なんかじゃ」
「と言うか、これくらい当たり前でしょ? あんたの嫁になる女よ? 分かったら、さっさと等級上げなさい。私の旦那様にはせめて銀等級にはなって貰うわ」
えぇ……。
ちょっと待て、突っ込みどころが多過ぎる。
「せめて銀なのかよ。それ以上は無いじゃないか」
「煩い。じゃ、私は行くわ。早く血抜きしないと、とても食べられたものじゃなくなるから。あんたはその辺で休んでなさい。暫くは働かせませんからね」
さっさと歩き出したミーアの背を見送って、俺はその場に座り込んだ。
彼女一人に働かせるのは問題だが、働かせて貰えないから仕方ないのである。
それにしても、ミーアの奴。
弓の腕は勿論だが、結構働き者だし、作った料理は美味いし……何者なんだ?
俺の出来ない事は大抵出来る。便利だ。
うーん。良い女……だよな。
……おい、気の迷いにしても程があるだろ。
「泳ぐか」
ちょっと、念入りに頭を冷やしておこう。
夜。村では宴会が開かれた。
普段は節約して使っている薪を遠慮なく使って篝火を焚いた、明るい広場で、
「勇者が来た時みたいだな」
「あの時なんて比べ物にならないくらい、皆。張り切っていたおったよ。お前が無事に帰って来た祝いなんじゃから」
村を出た夜を思い出して呟くと、肩を叩かれた。村長の爺さんだ。
流石にいつまでも避けられないか。
「今回は好き勝手騒げるからだろ。気を使うような相手も居ないから、接待しなくて良いしな」
勇者も騎士も貴族だから、進んで接待しようとは思えないもんな。
「くくっ。それもあるが、お前が帰って来て喜んでいるのは本当だよ。それも、あんな可愛い娘を連れてな。儂も、久々に若い娘と共に過ごせて、充実した日々を送れておる」
「そうかい。で? 爺さんはミーアに何をさせてるんだ? 家を貸してくれたのは有難いけど、何か条件を出したんだろ?」
爺さんを睨みながら尋ねる。
変な事をさせていたら、一発殴らなきゃ。
「む? そう怖い目で睨むな。ただ、一緒にお茶を飲んで貰ってるだけじゃよ。それに今日は肩を揉んで貰ったんじゃ。どうだ? 羨ましかろう」
ミーア、そんな事してたのか。
あとで労ってやろう。
「客になにさせてんだよ……」
自慢げに語る爺さんに呆れて言う。
すると、爺さんは不意に俺の耳に顔を寄せて来た。
「ミーアちゃんから、話は聞いた。良くやったな、シーナ。お前は何も間違えておらん。お前のその手は、綺麗なままじゃよ」
そう言って、顔を離した爺さんの顔を見る。
爺さんは、その言葉通り。優しげな目をしていた。
「慰めなんかいらない。後悔はしてないから」
「そうか。それで良い」
素っ気ない態度をとる俺の肩をもう一度叩いて、爺さんは離れて行った。
その背を見送った後、俺は自分の手を見る。
あの暗闇の中で感じた生暖かい血の感触は、はっきりと覚えている。
「…………」
どんな理由であれ、俺は人を斬った。
この手が、綺麗なもんかよ。
「平和だな、ここは」
顔を上げ、呟く。
昼間、ミーアが仕留めた猪肉を惜しげなく使った料理が振る舞われ、肉を口にする機会の少ない皆が喜んでいるのが、嫌でも分かる。
平和な故郷。
生まれ育ってきた中で、一度も争いらしい争いが起こった事がない村。
こんな村で育った俺に、何故。
何故、女神は戦う力を与えたのだろう。
ただの剣士ではなく、新たな力を生み出してまで、世界で唯一の力を持つ存在にしたのだろう。
魔法という、奇跡を扱えるようにしたのだろう。
『お前は女神が新たに作り出した原典であると同時に、あの剣聖を制御出来るかもしれない道具なのだ。なぁ? どれ程の人間がお前を欲しがっていると思う?』
ふと、思い出す。
自由ギルド支部長、俺が斬り殺した男の言葉を。
「剣聖の幼馴染……なぁ、女神様。あんたは俺に、何を求めてるんだよ」
呟くが、当然答えはない。
俺はフォークを手に取り、目の前に置かれた大皿。焼いた猪肉に手を伸ばした。
適当に切られた塊を突き刺し、口に放り込んで噛む。
獣を殺して、それを食べて、生きる。
人は、殺さなければ生きられない生物だ。
だから俺は、間違えてない筈なのに。
「んぐっ……っ!」
喉に詰まらせた肉を、薄い酒で流し込んだ。
「ぷはっ……あー、馬鹿らしい。何考えてるんだ、俺は……ん?」
自分の馬鹿さに嫌気が差していると……ふと視界に、ある光景が映った。
それは、広場の隅。
何故か今日の主賓の筈なのに働き、中々隣の席に戻って来ないミーア……それだけなら良い。彼女の前に立つ、二人の男女が問題だ。
ユキナの両親。コニーおじさんと、シロナおばさん。ミーアを含めたその三人は、この宴会の場に相応しくない神妙な顔をしていて……。
「おいおい……まさか」
俺は急いで席を立つが、もう話は終わっていたらしい。
ミーアは二人に頭を下げ、こちらに歩いて向かってくる。
遅かったか。
俺は椅子に座り直し、コニーおじさんとシロナおばさんを睨み付けた。
すると、二人は俺の視線に気付いたらしい。
慌てて顔を背けて立ち去った。
自宅へ戻って行く二人の背を見送り、ミーアへ視線を向け直す。
「…………」
ミーアは神妙な顔のまま、俺をじっと見つめていた。
「面倒な事になったな……」
何を話されたのか悟った俺は、猪肉を口に放り込んだ。
全く、余計な事を。
今日は酔い潰れるまで飲もう。
共に育った幼馴染の記憶が無くなるくらいに。
お待たせしました。
本当はもっと良い出来だったのに更新の瞬間にブレーカー飛んでパソコン落ちてガン萎えしてました。
はぁー、つっかえ。
最近引っ越したり色々あったので遅れてしまい、申し訳ありません。
村での日常会は一度終わりです。
次回は遂に物語が動き始めます。
本当はもっと村人達がミーア大好きになる描写を沢山入れたかったんですけどね。
ミーアとシーナぱぱの会話もカットしてますし。
シーナは、大切な物を見誤る事なく選び、戦い抜く事が出来るのか……。
彼の後悔に満ちた旅路の始まりです。
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