第54話 第二章エピローグ 帰って来た街で。

 ガルの墓参りから七日後。


「あら、シーナくん」


 退院した俺は、久々にギルドを訪れた。

 生きている事を報告する為だ。

 カウンターへ向かうと、受付嬢のサリアナは普段通りの笑顔で。


「おかえりなさい」


 いつも通り迎えてくれた。

 まるで、何事もなかったかの様に。


「あぁ、ただいま」


 だから俺も普段通り応えた。


「今日は何かな?」


「用はない。顔を見せに来ただけだ」


「そっか。うん、分かった。じゃあ、お仕事の話がある訳じゃないんだね」


「暫く冒険者は休業する」


「だろうね」


 俺の身体を見下ろし、サリアナは言った。


「シーナくん」


「なんだ?」


「なんか見違えたね、君。少し前とは大違いだよ」


「俺が? ……あぁ、これか」


 彼女が言いたいのは俺の格好のことだろう。

 以前着ていた外套は古く、確かに見栄えが悪かったからな。


「あはは、違う違う。確かにそれもだけどさ」


 新しい黒革の外套を着た俺を見て、サリアナは苦笑した。


「シーナくん……聞いて良い?」


「なんだ?」


「今、君は周りがどう見えてる?」


 質問の意味は、すぐに分かった。


「……あの薬の事か。あれなら効かなかった」


「嘘。見れば分かるもん」


 サリアナは自分の目を指差して、


「君も分かってるでしょ? 自分がどう変わったのか」


「…………」


「そんな目の人が普通な訳ないよ。そうでしょ?」


 普通じゃない、か。


 自身の変化には勿論気付いている。

 瞳が以前より暗い気がするのも。

 まるで、あの男のような……冷たい目。


「私の忠告を無視して、全部飲んだんでしょ? 全く……それで、どう? 今。君は自分をどう思ってる?」


「案外悪くない」


 即答すると、サリアナは途端に表情を変えた。

 ……初めて見る顔だ。

 それは。どこか寂しそうで、


「そっか……」


 酷く悲しげな、そんな印象を受けた。

 聞かない方が良さそうだな。


「君も同じ事を言うんだね、あの人と……」


「何? すまない、聞こえなかった」


「ううん、なんでもない。忘れて」


 ぱっ、と。サリアナはいつも通りの笑顔に戻る。


「ちょっとシーナ! あんたねぇっ!」


 不意に肩を掴まれ、力強く握られた。

 ……もう見つかったのかよ。

 仕方なく横を向く。


「なんだ?」


「なんだじゃないわよっ! なに勝手に退院してる訳!? 完治するまで安静にしてろって言ったわよねっ!?」


 癖のある髪を揺らしながら、怒気の籠もった声でミーアが喚いた。


「もう何ともない。少なくとも、日常生活に支障はないと言われた」


「私はっ! 完治するまでってっ! 言ったっ!」


 煩いなぁ。

 怒られるのは分かってたけど。

 しかし、流石に見つかるのが早過ぎるな。

 探知系の魔法でも使ってるのか?

 毎日。見舞いに来てたからなぁ……こいつ。

 しかも朝から夜までずーっと一緒。拷問だ。


「説教なら後にしてくれ。ここは人の目がある」


「……っ。絶対、後でお説教だからねっ」


 人差し指を鼻先に突き出して来たミーアは、周りを気にしてか小声で言った。

 少し成長してるな。えらいえらい。

 顔を見ると、目尻をキッと上げた相変わらずの不機嫌顔でこちらを睨んでいる。

 しかし、今回は。


「あぁ、悪い」


 悪いのは俺だ。

 心配させているのは分かる。

 怒って気が済むなら、いくらでも付き合うさ。


「ほんとに分かってる?」


「分かってる」


「……そっ。なら今は勘弁してあげるわ」


 今は、ね。

 お説教はあるんかい。


「?」


 偉そうに腕を組んだミーアを見ていると、ふと別の視線を感じた。

 カウンターからだ。

 見れば、サリアナが笑っていた。

 先程までの暗い表情は何処へ行ったのか、ニコニコといつも通りの朗らかな……。

 いや、何か含みがある様子だ。


「なんだ」


「ん? 何かな、シーナくん」


「その笑みはなんだ? 気味が悪い。言いたい事があるなら言え」


 尋ねると、サリアナは少し驚いた様子を見せた。


 真顔になった彼女は、丸く開いた目を二度。パチパチと瞬きして。


「ふーん、そういうのは分かるんだ……」


「どういう意味だ?」


「いや、気にしないで」


 ミーアを見ながら、サリアナは一人納得した様子。

 答えになってないな……。

 気にするなって。それ、余計に気になるんだぞ。


 ミーアを見ている事に理由があると思い、俺もミーアへ目を向けるが……分からない。

 ミーア本人も不思議そうに首を傾げている。


「私はただ、仲良しになったなぁと思っただけだよ」


「仲良し? 誰と誰が?」


「君達がだけど?」


 ……えっ。どこが?

 どうしたら今の会話が仲良く見えるんだ?


「目、大丈夫か? もしくは頭」


「どっちも大丈夫だよ。君と違ってね」


 パチン、とウィンクしたサリアナに、俺は反論出来なかった。


「実際の所、二人はどういう関係なの?」


「どうもこうもない。同業者……友人だ」


「ふーん? とてもそれだけには見えないケド?」


 俺の答えに、サリアナはにやにやしながらミーアを見た。

 釣られて俺もミーアへ顔を向けると。


「…………っ」


 そこには、俯いたミーアがいた。

 耳が赤いな。

 こいつ、まさか。

 そう思った瞬間、ミーアはバッと勢い良く顔を上げた。

 赤い頰。少しだけ目を潤ませた表情を露わにした彼女は、


「……どういう関係に見える?」


 そんな、思わせ振りな台詞を吐いた。

 こいつ余計な事を……大体なんだ? その顔は。


「言って良いの?」


「勘弁してくれ」


 こくん、とミーアが頷いているのを見ながら、俺は先手を打った。

 一応確認してくれたサリアナには感謝だ。


 恋人とか言われたら、ミーアが喜んでしまう。


「何が不満なの? ミーアちゃん可愛いし、狙ってる男は多いんだよ? それをまぁ、こんなにしちゃって……私は責任取るべきだと思うな?」


「知るか、俺は何もしてない」


 こくこく、と俺を見て頷いているミーア。

 そんな彼女を尻目に淡々と否定する。


「可愛い女の子と仲良くなりたい、ってのは冒険者じゃなくても男なら皆思ってる事じゃないの? ロマンでしょ? いいじゃん、シーナくん。君まだ若いんだしさ。青春じゃん?」


「あんたに俺の何が分かる」


 茶化した口調のサリアナを睨む。


「分かる訳ないだろう? 余計な事を言うな」


「いやん、怒られちゃった♪」


 べっ、と舌を出すサリアナ。

 そんな仕草も似合っているから、ずるい女性だ。

 なんて思いながらサリアナを見ていると。


「……キスした癖に」


 ボソッと、ミーアがまた余計な事を言った。

 こいつ……外堀はやめて。


「えっ? 何それ何それっ。シーナくんキスしたの嘘、ホントっ? それ詳しくお姉さんに話してみ?」


「おい、ミーア」


「ふんっ!」


 一言文句を言おうと思って睨んだが、ミーアはそっぽを向いてしまった。

 非常に機嫌が悪そうだ。面倒な。


「で? キスしたの? 君から? なんで? やっぱり好きなの?」


「煩い。何でも良いだろう。とにかく用件は済んだ。帰るぞ」


 端的に言って踵を返すと、グッと腕を掴まれた。

 ミーア、お前なぁ……。


「ここでする話じゃないだろう?」


 すぐにそう告げると、ミーアはハッとした様子で周りを見た。

 視線を集めている事に気が付いたらしい。

 周りが見えてなさ過ぎだ、この馬鹿。


「あ、ちょっと待ってよ」


 腕が自由になったので、帰ろうとした。

 すると、今度は背後から呼び止められた。


「まだ何かあるのか?」


「うん。君が来たら奥に通せってギルド長に言われてるの。色々話さなきゃいけない事があるでしょ?」


「何故、それを先に言わない」


「あはは。ごめんね? 楽しくなっちゃった」


 そっかー。楽しくなっちゃったかー。

 なら仕方ない。

 

「勝手に入るぞ」


 一応。一言断りつつ、カウンター横の扉へ向かう。

 さっさと用を済ませて帰りたい。


「あ、ミーアちゃんは駄目だよ」


「えっ。なんでよ」


「呼ばれてるのはシーナくんだけだし、そもそも……」


 そんな会話を聞きながら、俺は扉を閉めた。






「遅いっ」


 ギルド長との話を終え、ロビーに出た俺を待っていたのは、腕組みしたミーアだ。

 相変わらず偉そうだな、こいつは。


「待ってたのか」


「パーティー申請をしなさい」


 小さな膨らみの胸を張り、ふん。と鼻息荒くして彼女は言った。

 会話になってないぞ、おい。


「意味が分からない」


「はぁ? 分かるでしょ。本当に馬鹿なの?」


 ……今の言い方は悪かったな。


「……ローザのパーティーに入れ。そう言う意味なら断る」


「えっ? な、なんでよ?」


 まさか断られると思わなかったらしい。

 俺の返答にミーアは動揺した様子だ。

 何か、誤解されてる気がする。


「別に、ローザのパーティーに不満がある訳じゃない。個人的な都合だ」


「え? 何よそれ。言いなさいよ」


 ジッとこちらを見るミーアの瞳は揺れていた。 


 スカートの端をギュッと握っている様子からも動揺しているのが分かる。


「そろそろ、この街を出ようと考えている」


 元々、半年。長くて一年。

 一人でも最低限やっていけるように知識を得ながら貯金をする。


 俺がこの街に滞在していた目的は達成した。


「へっ……? な、なんでっ!?」


「理由が無くなったからだ」


 動揺した様子のミーアに正直に告げる。


「だから俺は、次へ進む」


 金については、自分でコツコツ貯めていた分は全て使ってしまったのだが……自由ギルドとやらが溜め込んでいた財の配当があるらしい。


 奴等の金銭、武器、資材を売却した金は俺とアッシュの二人に権利があると言うのだ。


 たった今、ギルドの支部長からその説明を受けて来た。

 賞金首も居たらしいから、相当な額になるようだ。


 あと、今回の件で被害者となった人達が挨拶に来て謝礼金を渡しに来るかもしれない。

 その時は対応してくれと頼まれもした。


 でもそっちは正直、来ないで欲しい。

 別に助けたつもりはないんだよなぁ……結果的にそうなっただけで。


 正直、面倒なので付き合ってられない。

 感謝されても何を言えば良いか分からない。

 兎に角、俺は少し金持ちになれるらしい。


「そっかー。シーナくん、この街出ちゃうんだ」


「あぁ」


「次はどこに行くの?」


 サリアナの問いに少しだけ考える。


「……海を見たい、と思っている」


 海産物が食べたいので、そう答えた。

 街で手に入るのは塩漬けか凍らせた物で、簡単には手が出ない値段だ。


 今なら買っても良いが、折角なら新鮮な物を食べたい。


 とれたての海の幸。

 旅の目的としては充分な理由だろう。


「そっか。なら、結構移動しなきゃだね。セリーヌより東に港町は無いし」


 港どころか街すらないんだよなぁ。


「南へ向かうのがおすすめだよ」


「南か……分かった。考えておく」


「まだ目的地は決まってないんだ?」


「どうせ国内は全て回るつもりだ。可能ならその後、国外にも出たいと考えている」


「そうなんだ。もしかしてそれが、冒険者になった理由?」


「あぁ」


 世界を見て回る。

 ユキナが救おうと戦っている、この世界の広さを知る。


 ……本当にあいつが犠牲にならなければならない程の価値があるのか見極める為に。


 そして、俺自身。ユキナが居なくても幸せだ。

 満たされていると胸を張れるようになる。


 最初に決めた目的は、曲げるつもりはない。


「街を出る前日にまた顔を出す」


 最後にそれだけ言って、俺は出口へ向かった。


「あ……っ。ちょ、ちょっと? 待ちなさいよっ」

 

 らしくない弱々しい声音に呼び止められるが、足は止めない。

 どうせ追いかけて来るからな。


 そんな俺の予想通り、すぐに軽やかな足音が背後から聞こえて来た。








 ギルドを出て、夕食を共にした二人は帰路に着いた。

 すっかり暗くなった夜空の下。


 ミーアの借りている宿の光が見えた所で、シーナは一歩遅れて歩く少女を一瞥した。


 俯き、黙り込んでいるミーアだ。

 ギルドを出てから、彼女はずっとこんな様子だ。


 食事中に話し掛けても反応が薄く、すぐに会話するのを諦めた。

 彼女が何を考えているのか、分からない。

 しかし、黙っていれば可愛いだけの美少女なので放置していた訳ではない。


 ここまでミーアが思い詰めているのは、自分のせいだと分かっているからこそ黙っているのだ。


(まさか、あのミーアがなぁ……)


 ミーアが自分にどんな感情を向けてくれているのか分かっている。

 ここまで露骨だと、気付かない方が難しい。


(こんな可愛い娘に好かれてるんだ。喜べ、俺)


 だが、その気持ちには応えられない。

 かといって、拒絶し、突き放す事も出来ない。

 もうすぐこの街を出るのだ。離れ離れになる。

 もしかしたら二度と会わなくなるかもしれない。


 はっきりと拒絶した方が互いにとっても良い。

 それは、分かっているのに。


 離れたくはない、嫌われたくはない。

 

 好き、愛している。

 そんな感覚が、感情が無くなっても、そんな風に考えてしまう。

 そんな自分の甘さが嫌になる。


(なんで俺、こいつを好きになってるんだよ)


 少なくともミーアは、命を賭けて戦っても良い。

 そう思えた女の子だ。


 物心付いた時からずっと。あれ程愛したユキナの事を忘れて、必死になって救った女の子だ。


 自分がミーアをどう思っていたのか、疑いようがない。


(やっぱり俺、ユキナの事言えないな)


 もう振られていたから。

 彼女を忘れ、切り替えられていたから。

 そう考えられる程、シーナは大人になりきれていなかった。


(しかし……気になる女を救って惚れさせても、自分がぶっ壊れたら意味ないだろ。この馬鹿が)


 あの日。

 連れ去られるユキナに手が届かなかった日から、シーナは自分の事が嫌いだった。


 或いは、母を失った幼少の頃からかもしれない。

 

 何一つ救えない、無力で無知な子供。

 それだけでも嫌なのに、立派になったユキナを祝福出来ないばかりか、憎悪した。

 たった一年で彼女を手に入れた勇者に嫉妬した。


 そんな風に考えてしまうと、自分がとても醜く滑稽な奴に思えてしまって……。


 だからこそ彼は力を求めた。知恵を求めた。

 そして、これからも求め続ける。


 例え、どれ程の代償を支払ってでも。


(俺の傍に居たら、ミーアは不幸になる)


 改めて、シーナは自分に言い聞かせる。


(求められた時だけ、助ける。俺はこいつにとって、そんな都合の良い存在で良い)


 彼は気付かない。

 それでは、誰も報われない事に。

 隣を歩く少女が、最も望まない事だと言う事に。


(どうせ、ずっと一緒に居るなんて無理だしな)


 心の壊れた少年は、間違え続ける。






「着いたぞ」


 掛けられた声に、ミーアは足を止めた。


 顔を上げると、シーナはミーアの借りている綺麗な外装の宿を背して立っていた。


 青い瞳をこちらに向けて見下ろしている彼を見て、ミーアは自分の左胸に手を添え、きゅっと服を握った。


(もう着いちゃった……)


 キュンと胸が高鳴るのは、もう諦めた。

 しかし、問題はその後に襲う虚しさだ。

 穴が開きそうな程の痛みは、とても耐え難い。


(まだ一緒に居たいのに)


 素直にそう思って、それを言葉にしようとするが出来ない。

 自分の性格が嫌になる。

 言いたくても言えない、そのもどかしさにムカムカする。


「ありがと、送ってくれて」


 気が付けばまた俯いてしまって、ミーアは下を見たまま逃げるように宿へ向かった。


 そんな彼女の小さな背中を見て、シーナは少し目を細め……咄嗟に口を開いた。


「明日、朝食を一緒にどうだ?」


 突然の提案に、ミーアは玄関の扉を握ったまま振り返った。


「え……?」


「どうせ暇だろ? 俺、まだ働けるような身体じゃないからさ。明日はちょっと付き合えよ」


 まさかのお誘いに、憂鬱だった気分が一転。

 ミーアは自分の顔が緩むのを自覚した。


 付き合えよ、付き合えよ、付き合えよ。

 シーナの言葉が都合良く頭の中で何度も響く。


 しかし、すぐにそれを悟られまいと表情を作る彼女は筋金入りだった。

 しかも慣れた不機嫌顔を即座に浮かべて見せる。


「ふっ……ふんっ? 失礼ね? わ、私はあんたと違って、暇じゃないんだけどね? 私が暇になるなんてありえないんだけどね? まぁ? 朝くらいは付き合ってあげなくもないわよ?」


 素直になれないミーアを見て、シーナは意地悪をする事にした。


「そうか。朝しか暇じゃないか。なら仕方ない。その後に色々と買いたいものがあるから、ミーアの意見も聞きたかったんだが」


「えっ!?」


 ミーアは、すぐに自分の失言に気付いた。

 しかし、シーナが棒読みな事に気付かなかった。

 何故なら、彼女は。


(それって、ででで、デート? デートに誘われてるの私っ!? 嘘っ!? シーナが、私にっ!? そんな事あるっ!? ばかぁぁぁあっ!? 何が朝しか暇じゃないよこの暇人! 明日も明後日も明々後日も予定なんかないでしょっ! このばかっ!)


 酷く後悔していたからである。

 彼女の扱いにはもう慣れた。

 そう自負しているシーナも、まさかデートだと勘違いしているとは思わない。


「丸一日とまでは言わないが、夕方くらいまでは付き合って貰おうと思ってたんだけどな……」


 見事に、悲壮感すら浮かべて見せる。


「う、うっ……?」


「買い物自体は大した量じゃないから、終わったら気分転換を兼ねて思いっきり遊んで、美味いものでも食べようと思ってたんだけどな……」


「うぐぐっ……」


 ミーアの気持ちを知ってか知らずか。

 いや、知っているからこそ、シーナは煽る。

 それはもう全力で煽る。


 今までの仕返し、そんな軽い気持ちで。


 一応、ただ意地悪をしている訳ではなく……素直にならないと損をすると教える為だ。


 そして、普段の意識した口調を今後。ミーアにはやらないようにする為の良いきっかけにしよう等、幾つか思惑はあった。


「忙しいなら仕方ないな……仕方ない。他の奴を誘うか」


 少しやり過ぎかな、と。流石に自覚している。

 しかし、今更やめられない。


「そう言えば、アッシュとまだ出掛けた事無いな。よし、誘って」


「それはダメッ!」


 アッシュの名前が出た途端、ミーアは思わず叫んだ。

 凄い剣幕だ。あまりに必死な表情をしている。


「何でだよ。別に俺が誰を誘おうと勝手だろ?」


「アッシュは駄目ッ!」


 強い口調で念を押す。ミーアは焦っていた。


 何故なら、ミーアはまだアッシュが男だと信じていないからだ。


 ずっと違和感があったのに、以前テリオがふざけて使った魔法で髪を伸ばし、女装した姿は同性でも息を呑む程に美しく可愛らしかった。


 彼は、彼女として見ても全く違和感がない。


(あいつは危険……っ! なんかあれ以来、やけにシーナの話をする。シーナの活躍を話してる時、にこにこしてる! あと私より可愛いっ!)


 ミーアの吊り上がった眉と瞳に一段と力が入る。


「何をそんなに怒ってるんだ? 理由を言えよ。分からないだろ」


「あ、あああっ……っ! そうっ! あ、あいつ。同性愛者だからッ! だから駄目ッ!」


「え? なんだそれ」


「だからっ! アッシュは同性愛者なのっ! 男なのに男が好きなのッ! 性的にッ!」


「男なのに男が恋愛対象なのか?」


「そうっ!」


 ミーアが力強く肯定すると、シーナは顎に手を当てて少し考え込むような仕草を見せた。


「成る程、理解は出来ないが……そう考えると思い当たる節はあるな」


(ごめん、アッシュ……ッ!)


 流石に罪悪感を感じたミーアは、心の中でアッシュに謝った。

 まさか納得されるとは思わなかったのだ。


「まぁ良いか。じゃあ明日、迎えに来るから。今日は早く寝ろよ」


「あっ……」


 そう言ってシーナは踵を返し、さっさと歩き出してしまった。

 まだ明日の約束をちゃんと出来ていないので、ミーアは焦る。

 だが、去って行くシーナの背になんと声を掛ければ良いか分からない。


(私のばか……もう意地は張らないって、決めたじゃない。何であんたはそう見栄っ張りなのよ……)


 しょぼん、と落ち込んでしまったミーアは、ただ去って行く背中を見送りながら自己嫌悪に陥った。

 その時だった。


「あぁ、そうだ」


 不意に立ち止まったシーナが振り返って。


「明日の買い物だが、ちゃんとお洒落してこいよ」


「えっ?」


 予想外の言葉に、ミーアは思わず目を見開いてシーナの顔を見てしまう。

 彼は淡々とした口調で続けた。


「お前、見た目だけは良いからさ。ちゃんと可愛く着飾ってれば、多少口が悪くても我慢してやるよ」


 言うだけ言って、ひらひらと手を振りながら去って行った。

 黒い外套を羽織った彼の背は、すぐに闇の中へ消えて行く。


 それを見送りながら、完全に見えなくなった所で……ボーッとしていたミーアはハッと我に返り、


「え? え……えっ? で、でぇーと……? あ、明日は、シーナと、デート……?」


 確かめるように呟いて、蹲み込んだ。

 気付けば、胸がバクバクと違っていた。

 顔が熱く、両手で頬を触ると冷えた掌がひんやりとして気持ち良い。


「や……ふぇっ……や、やったぁ♡」


 きゅんきゅんと煩いくらい高鳴る胸は痛いくらいで……暖かくて心地良い。

 思わず頰が緩み、にやけてしまう。


(あぁもうっ! 馬鹿ッ! 意地悪ッ! 分かってる癖にッ! シーナ、ちゃんと私の事分かってくれてる癖にっ! なにが可愛いよっ! あんただって格好良いわよっ! あぁ、だめっ! 好きっ! ほんと好きっ!)


 改めて自分の気持ちを再確認したミーアは、明日が楽しみで楽しみで仕方なかった。


(こうしちゃいられないわ)


 にやにやしたまま立ち上がったミーアは、玄関の扉を開く。


「あ、ミーアちゃんお帰りなさい」


 ロビーに入ると、カウンターから看板娘のレイニが笑顔で迎えてくれた。

 それを見たミーアは、


「ただいま……」


 にやけ顔を隠す為に俯き、扉を後ろ手に閉めてカウンターに歩み寄り。


「あらあら? どうしたの? なんか、顔が赤いみたいだけど」


「なんでもないわ。気にしないで」


「本当に大丈夫? 風邪でもひいた?」


「だから、大丈夫よっ。それより……えっと。明日、朝から浴室を使わせて欲しいんだけど……」


 身体を清めるのにお湯に浸かるのは貴族か、一部の裕福な者だけの特権。

 しかし、この宿は貴族も懇意にしている高級宿だ。結構立派な設備がある。


 風呂はミーアがここを選んだ一番の理由だった。


 別に料金を払えば誰でも使用出来るので、毎日は無理だが定期的に使っている。


「お風呂? それは良いけど……朝から? 今からじゃなくて?」


「そう! 今日はちょっと疲れたから、明日の朝から入ろうかと思って」


 変な勘繰りをされない様に先手を打ったミーアをレイニは「ふーん?」と言いながら観察して、


「そっかぁ。シーナくん退院したんだね? それで、明日はお礼のデートって訳?」


「ひぃっ」


 あまりに的確な質問に、ミーアは戦慄を覚えた。

 勘が良さそうな人だと思ってはいたが、まさかここまでとは……。


「じゃあ、お湯に香りの良いお花を浮かべておくわね。香水と違って自然な香りがするから、シーナくんならそれが良いわよ。何か希望はある?」


 レイニは以前、ミーアの部屋に入ったシーナが顔を顰めていたのを見ている。


 行方不明から帰って来たミーアが、香水をやめたのは彼に何か言われたからだろうと察してもいる。


 流石、高級宿の看板娘だった。


「え、ええ……ええと……」


 混乱した頭では、そんな事を急に言われても思い付く訳もなく……。


「少し寒くなってきたから、今だとブルーローズが良いでしょうね。綺麗でちょっと強めの甘い香りがする花よ。貴女にぴったりだわ」


「ブルーローズ? それって、私に棘があるって意味……?」


「それも含めて、貴女にぴったりでしょう?」


「もしかして、馬鹿にしてるの?」


「褒めてるのよ。花は綺麗な程、棘があるくらいが丁度良いもの」


「め、めんどくさいとか、思われない?」


 不安で仕方ないミーアは、おずおずと尋ねた。


 歳上女性の助言はもしかしたら役に立つかもしれないと思えたからだ。

 レイニはくすっと笑って。


「ブルーローズは高貴な方々の社交界にも人気のある花だそうよ。女性がその香りを身に付けるのは、愛でられたい。でも、取り扱いに気を付けなさいって意味があるらしいわ」


「…………」


「それに、彼は多分。貴女が思っている以上に貴女を大切に思ってるわよ。面倒だからって嫌われたりしないわ」


 そんな事、言われなくても分かってる。


 あの闇の中で、血塗れになりながらも笑顔を向けてくれたシーナを思い出し、ミーアはまた頬を緩ませた。


「そうじゃなきゃ、命懸けで戦ったりしないでしょう? 貴女を探してる時の彼、凄い顔してたわよ。良い人見つけたわね、頑張って」


「……ありがとう」


 お礼の言葉は、すんなり出た。

 それ程、自分の素直な気持ちを応援されている事が嬉しかった。


「さっ、明日に備えて今日はもう休みなさい。楽しみだからって夜更かししちゃ駄目よ? 寝不足は乙女の敵だからね。それとも、まだ話したい事があるなら何か温かい飲み物を用意するけど?」


「ううん、大丈夫。明日早起きしたいから、もう寝る。本当にありがとう。お風呂、よろしく」


「はーい。支払いは使う前にね。お花はサービスしといてあげる」


 ひらひらと優雅な仕草で手を振るレイニに会釈して、ミーアは階段を上り自室の鍵を開けた。


 部屋に入ったミーアはすぐに部屋の灯りを付けると、壁に掛けてある物へ視線を向ける。


「ただいま」


 それは、随分と使い古された茶皮の外套だ。


 持ち主に捨てたと嘘を吐いてまで手に入れた宝物である。


 ミーアは手早く腰の剣を外すと、部屋の隅に立て掛けてある弓と矢筒の側に同じように立て掛け、クローゼットを開いて服を脱ぎ始めた。


 脱いだ服を適当に床に投げ捨て、寝巻きに着替えたミーアは手早く茶皮のコートを手に取る。


 ハンガーを外したそれは、肩口から裂けていて洗っても落ちなかった血痕が染み付いていて、どう見ても汚いボロ切れだが……特に気にした様子も無く抱き締めてミーアはベッドに倒れ込んだ。


「すぅ……はぁ。ただいまぁ、シーナ」


 脳内で病室で言われた「おかえり、ミーア」を再生しつつ恍惚とした表情でミーアは呟く。


 あまりに酷い状態だったので洗ってしまったコートからは、染み付いていた彼の匂いはしない。


 しかし、それでも良い。

 彼の一部。ミーアの知るシーナと言う少年が、出会った時からずっと大切に身に付けていた物。

 その事実だけで充分過ぎる程に価値がある。


 勿論、本物を抱き締められるならそれが一番良いのだが。


(あぁもう……私、いつからこんな変態になっちゃったんだろう。男なんて全然興味無かったし……寧ろ、気持ち悪いって思ってたのに。触られるとか、あり得ないと思ってたのにぃ……今は何でこんなに触りたいんだろ……触られたいん、だろ……)


古い外登を嗅ぎながら、もう何度もした自問を行う。


(全部ぜぇーんぶ、あいつが悪いわ。大体、私の事気になってるなら、はっきり言いなさいよ。あの馬鹿……私、なんで待たされてるのよ。こういうのって、男がビシッと言うべきじゃないの?)


 憤慨しながら、ミーアは頭上から高級枕を引っ張り、それに外套を巻き付けて抱き枕を作成した。


(私、こんなに寂しくて不安なのに……っ! あれからずっと怖い夢見るし……なんで帰るのよ。泊まって行くって、言ってよ……)


 今。自分が抱き締めている抱き枕のように、力一杯抱き締められたいとミーアはずっと思っていた。


 彼の腕の中に抱き締められた時の感触は、その暖かさは、ずっと覚えている。

 自分が今、居るべき場所だと本気で思っている。


 だからこそ、何故。まだ部屋で一人、孤独な夜を過ごさなければならないのか。

 そう考えると無性に腹が立つのだ。


(抱き締めてよ、甘やかしてよ。私、ちゃんと素直になるから)


 初恋を拗らせすぎてしまったのは自覚している。

 好きな人と触れ合ってみたい。

 最近はずっと、それこそ一日中そんな事を考えてしまう自分が気持ち悪い。

 しかし、やめられない。 

 欲望が抑えられないのだ。


「……今日はあんまり話せなかったな」


 抱き枕を抱え、今日シーナが話していた事。

 その一言一句を思い出す。

 彼が目を覚ました日から、自然にこれが日課になってしまったのは、流石にどうなのか。


「でも、うぅ……」


 しかし今日は不安になっても仕方ないとミーアは自分を肯定している。

 何故なら、シーナが街を出て次に進むと言ったからだ。


 もしかしたら、もう会えなくなるかもしれない。

 そう考えると、泣きたくなるくらい不安になる。


「ぐすっ……ふぎゅ……」


 我慢出来なかった。

 数分間、ちょっと泣いた。

 濡れた顔をコートで拭う。


 これじゃいけないと、目を瞑ってシーナが今までくれた嬉しかった言葉を脳内再生しようとする。

 しかし、思うように頭が働かない。


「はぁ……だめ」


 集中しようと気合いを入れ直し、ミーアは一度ベッドから降りて部屋を暗くした。

 抱き枕を抱き締め、頭までシーツを被る。


 暗く、狭く、静かな布団の中。

 邪魔が一切無くなったそこは、シーツを被ったお陰で身体も温まり、最高の環境だった。


 途端に今まで嬉しかった言葉どころか、言われた事のない言葉。経験した事のない状況までどんどん思い付く。

 気付けば、素敵な妄想が止まらなくなっていた。


「はぁ……はぁ……すぅ……」


 気付けば、ドキドキと胸の音が煩くなっていた。

 身体が火照り、少し暑い。息も乱れて来た。

 何より、一番我慢出来ない感覚があった。

 それを鎮める方法をミーアは知っている。


「はぁ……はぁ……」


 とは言え、まだ未経験の彼女。恐怖はあった。

 しかし、ミーアは残念な方向でも強い少女だった。


「れ、練習。これは練習。練習は、大事だもの。もう私達、子供じゃないから。する……だろうし。あいつも、男だから……したい、だろうし。でもほら、自分の身体くらい分かってないと、下手したら死んじゃうかもしれないじゃない? シーナはきっと下手くそよ? 下手なのに激しかったらどうするの? 死ぬわよ、ミーア。そう。これは大切な事なの。必要な事なの。大事な事なのよ、私。それに世の女は皆、やってるわ。何も恥ずかしい事じゃないのよ。あんたは女なのよ、ミーア」


 思い付く限りの言い訳を並べ、罪悪感を拭って。


 身体に震える手を沿わせて下腹部に伸ばした彼女は、ギュッと涙で濡れた目蓋を閉じた。


 逸る気持ちが、彼女の指を一切の回り道をさせずに下着の中へと誘う。

 そして、そこへと指先が触れた瞬間。


「ひゃうっ!?」


 想像以上の快楽に襲われ、反射的にビクッと身体が跳ねた。ゾクゾクと背筋に衝撃が走る。

 思わず声を上げたミーアの頭が真っ白になったのは一瞬。すぐに深い絶望を感じた。

 何故か? それは、


「う、嘘……私、嘘……っ」


 指で触れた感触、響いた音。

 まだ何もしていないのに感じた快楽は、ミーアには耐えがたい物だった。


 素直じゃない彼女。

 しかし、身体は悲しい程に正直だった。


「ううぅ……」


 凄まじい羞恥心に耐えられず、呻く。


(違う、私は悪くない。全部全部、あの馬鹿が悪いのよ)


「あっ……♡ う、うぅ……」


 もう一度触れても、快楽は強いままだった。

 こんな姿、彼には見せられない。


 悲しい事に想い人の嘲笑う顔が容易に想像出来てしまうミーアだった。


(今日だって、なんで普通に帰ってるのよっ。泊まって行きなさいよ……っ! 私、こんなに不安なのに……っ。あれから毎日恐い夢見てるのに、なんで慰めてくれないのっ!? あんたと離れたら寂しいのに、なんで甘やかしてくれないのっ!? わ、分かってる癖にっ!)


「あっ、あ、あぁ……♡ んくっ……♡」


 自然と漏れた声は、驚く程に甘かった。

 自分からこんな声が出るなんて知らなかった。


 知らないものは恐ろしい。

 しかし、止めることが出来ない。


 見せられない姿と言っても、見せなければいけないからやっているのだ。


 彼に手に与えられる快楽は、こんなものではないだろう。


「あ……んっ……。し、しぃなの……っ! くぅ……っ! シーナの、ばかぁっ!」


 思えば、互いに好き同士の筈なのに、どうして一人で慰めなければならないのか。

 今更だが、凄く惨めな気持ちになった。


(そうよ。好きな男の事考えてるんだから、女の私がこうなるのは普通なのよっ! 本能だもの仕方ないじゃないっ! 何もおかしくないわよ私の身体はッ! 私は……わ、わわ……っ! わたしは、あいつのっ! 女……だもん)


「ああんっ♡ もぉぉおおおっ♡」


 自分の身体を必死に慰めながら、叫んだ。

 もうヤケクソだった。





 大人の事情で時を進めて、


「……はぁ」


 息を整えたミーアは、暗く静かな室内でため息を吐いた。


「……私……何してるんだろ。ばかみたい」


 身体の疼きがなくなるまで一人で致したミーアは、自分でも驚く程に冷静になった頭で暗い天井を見つめていた。


「あんな目にあったばかりなのに……こんな気持ちになるなんて、信じられない。気持ち悪い……」


 全身が汗でびっしょり濡れていて気持ち悪い。

 乾いた涙で顔が固まったような感じがする。


 早くお風呂に入りたいな。

 そんな事を頭の片隅で思いながら、


「シーナだって、私を気遣って我慢してくれてるのに……そうに決まってるのに」


 あんな怖い目に遭えば誰だって普通は拒絶する。


 男という性別そのものに拒否反応を起こしてもおかしくない、最悪の出来事だった。


 実際、一生忘れることはないだろう。

 忘れたくても、忘れられないだろう。


「うぅ……」


 事実、ミーアは毎晩のように悪夢を見ていた。

 もしも助けが来なかったらどうなっていたのか、何度も体験させられていた。


 もしも、シーナと出会っていなかったら……。


 今頃。見ている悪夢が現実になっていたと考えると、怖くて怖くて仕方ない。


 心に深い傷を負わされているのは、疑いようがない事実なのだ。


「何が天才よ、特別な人間よ……私は、こんなに弱いのに」


 呟いた声は震えていて、弱々しかった。

 今までミーアを支えていた自信は、暗闇の中で容易く折られている。


 他者と馴れ合う事が馬鹿馬鹿しいと思っていたのに、今は一人で居ると寂しくて不安で堪らない。


 馬鹿だったのは自分だ。

 何も特別ではない。凡人だと思い知らされた。


「……でも、あいつは本物なのよね」


 しかし、一つだけ。

 ミーアはまだ人に誇れる事があった。

 改めて、白髪の少年の事を思い浮かべる。


「女神様が新たに生み出した特別な力……原典オリジナル世界でただ一人、あいつしか持ってない固有スキル……上昇加速ブースト・アクセル


 シーナがまだ入院し、意識を失っている間。

 見舞いに来たアッシュから話を聞いて、ミーアは調べた。


 そして、見つけたのだ。

 教会が発行している手記を購入して見た、祝福の一覧の中……最後に記述されていた異能の名を。


「女神様に選ばれた、特別な人間。本物の天才……ふふっ、やっぱり私は凡人だわ。全然気付かなかったんだもん。ふふ……あはははっ」


 顔を両腕で隠して、ミーアは笑った。


(なんだ、答えは出てるじゃない私。あいつと出会う為に生まれて来たのが私なんでしょ? なら、あいつが何処かに行くなら付いて行けば良いだけじゃない。一緒に旅すれば良いだけじゃない。なによ、何も不安になる事無かったじゃない)


 こんな単純なことに気付かず、一人で不安になっていた事が馬鹿馬鹿しくて、笑いが止まらない。


「ふふふっ、あはっ。あはははっ」


(だから、シーナは私に聞いて来たのよ。そうよ、あいつ言ってたじゃない。俺は次に進むって、言ってたじゃない。あれは、お前はどうする? って意味だったのよ。なんで気付かないのよ、私っ! あー馬鹿。私、本当馬鹿っ。そっか、そうよ。明日のデートは、その返事を聞く為に誘ってくれたに違いないわ)


 勿論、シーナにそんな意図はない。


 ただ落ち込んでいる様子のミーアを元気付けるにはどうすれば良いかと悩み、せめて楽しく一緒に過ごした思い出を作ろうと考えただけだ。


(大丈夫よ、シーナ。私、ちゃんと返事するから。付いて行くわ、私)


 可愛い顔をにひにひと気味の悪い笑みで歪めながら、結論が出て安心したミーアは意識が遠のいて行くのを感じた。


(あんたはもう、一生……一人じゃないわ。ずっと私が支えてあげる)


 意識を失う前、ミーアが思い浮かべたのは今の彼だった。


 冷たく、暗くなった青い瞳。

 何があっても誰と会話しても全く表情が変わらず、淡々と話す今のシーナは正直、とても好みだ。

 凄く……格好良いと思う。


 しかし、あれは彼が変わりたいと望んでなった結果ではない。

 それを知っているからこそ、ミーアは決意した。


(私が、あんたの帰る場所になったげる。それで私達の貸し借りは無しよ)


「明日……たのしみ」


 自分の生涯を彼の為に使おう。

 改めてそう思いながら、ミーアは眠りに着いた。







 ミーアを宿に送った後、俺は夜の街中を歩き、小さな店の前で足を止めた。


 そこは、冒険者ギルド前の通りから少し裏に入った小さな路地。

 ここで合っているのだろうか。

 看板を見るが読めない。


 教えてくれたアッシュからは『野鳥の止まり木』と言う名の店だと聞いているが、小さな建物に綴られている文字は知らないものだ。


 他国の文字……なのだろうか?  

 わざわざ人が読めない文字を使うなよ。

 こちとら教養がないんだ。困るぞ。

 まぁ良い、気にするだけ無駄だな。


 中に入ると、狭い店内は薄暗く落ち着いた雰囲気があった。

 奥にカウンターがあり、店員が一人。透明なコップを布で磨いている。

 店員は一瞬こちらをチラッと見たが、特に何も言わなかった。

 興味もない様子だ。感じ悪いな。


「……凄いな」


 しかし、思わず呟いてしまう程凄い光景だ。

 背後の壁は棚になっていて、何本もガラスの瓶が並んでいた。

 本当に凄い。ガラス瓶に入った酒か。

 どれも高級品に違いない。


 店員が磨いているガラスの杯。

 貴族が酒を嗜む時に使うと聞いた事はあるが、目にするのは初めてだ。


 ガラス製品は作るのが難しく大量生産が出来ない為に非常に高価で、市民には手が出ないどころか市場に出回っていない。

 これ程集まっているなんて、良く集めたものだ。


 いや、感心している場合じゃない。

 興味は尽きないが、店内を見る時間は後だ。

 ここには、目的があって来たのだから。


 カウンターの一番左端。

 そこに座る見知った大きな背を見て、俺はその男に歩み寄った。


 今現在、唯一の客である男。

 俺に背を向けたまま優雅な仕草で杯を傾けている彼が、俺が探していた人物。


「バルザさん」


 銀色の無骨な鎧を身に纏い、座る椅子。カウンター、手に持つ杯……それら全ての物が小さく見えてしまう程の大男は、この辺境の街。セリーヌに居る唯一の序列二位、銀等級冒険者。


 この店は彼の行き付けだと、アッシュに聞いた。


「…………」


 隣で名を呼んでも、こちらを見ようともしない。無視されてしまったな。

 しかし、構わず俺は頭を下げる。


「助けてくれて、ありがとうございました」


「…………」


 深く頭を下げて礼を言ったが、返事はない。

 沈黙の中、俺は頭を下げ続けた。

 感じる事は出来ないけど、本当に感謝している。


「……礼を言われるような覚えはないな」


「アッシュに。友人達に聞きました。助けに来てくれたと」


 病室に見舞いに来たアッシュと二人きりになった時、俺は聞いた。

 何故、俺は生きているのかと。


 すると、彼は俺が気を失った後で何があったのか教えてくれたのだ。


 バルザが仲間を引き連れてやって来た事を。


 その中にはギルドで見たことがある顔、話した事がある人物も居たらしい。

 例えば、俺を勧誘してくれた女性冒険者達だ。


 聞けば、バルザは自分が認めている人物達に声を掛け、俺が戦った自由ギルドとやらを討伐すべく動いていたのだと言う。


 つまり、俺があんな無茶をしなくても。

 あと少し待てば、ミーアは助かっていたのだ。


「お前を助けに行った訳ではない」


「分かってます。でも、助けて貰った事に変わりはないですから。お陰でこうして、生きています」


「それならハルのパーティーに礼を言え」


「勿論です。ですが、あの人達を連れて来たのはあなただ」


 勿論、女性冒険者パーティーにも礼はする。

 特にリーダーのハルさんは、血を失い過ぎた俺に自らの血を分けて命を繋いでくれたらしい。


 彼女達は俺を勧誘する際、ちょっとくらいなら大怪我しても治療してあげられるよーとか言っていて苦笑いさせられたが……ちょっとどころかあの状態の俺を生還させてくれたのだ。

 本当に凄い人達だったらしい。


 俺がこうして生きているのは彼女達のお陰だ。

 感謝してもしきれない。


「本当に。ありがとうございました」


 改めて礼を言う。

 母さんは言っていた。人に何かして貰ったら、ちゃんとお礼を言いなさい。貸しを作ってしまったら、しっかり返しなさい。


 その上で、一生受けた恩を覚えておきなさいと。


 人は誰一人として、一人で生きられないのだ。


「……顔を上げろ」


 暫く沈黙があって、バルザは低い声で言った。


 顔を上げて見ると、バルザは俺をジッと見下ろしていた。


 暗く、冷たい瞳だ。

 初めて見た時は恐怖を感じた鋭い目だが、今は真っ直ぐに見つめ返す事が出来る。


「何故、あんな馬鹿な事をした?」


「……馬鹿な事?」


「何故一人で戦おうとした」


 普段より一段と低い声で言ったバルザの瞳が、一層鋭くなった。

 正直に答えよう。


「誰も助けてくれないと思ったから」


「だろうな。やはり、お前は戦士には向いてない」


 バルザは杯を傾け、酒を口に含んだ。

 へー、そう言う事言うんだ? 

 なら、俺も言いたいことを言わせて貰おう。


「確かに俺は馬鹿だ。でも、あんただって悪いだろ。何も教えてくれなかったんだから」


「人に責任を押し付けるな。俺はお前の仲間でも友人でもない。雇われた訳でもない。お前に話す義理はない」


「でも」


「だが、お前はもっと周りに相談するべきだった。そうしなければならない理由が、お前にはあった筈だ」


 ……くそ、言い返せない。

 あまりに正論だ。


「でも好意で、とか。それくらいあっても良かったじゃないか」


「戦場に使えん素人、それもお前みたいな子供を連れて行く程、俺は愚かではない。刃の潰れた剣の方がまだマシだ」


「なら、情報くらいくれても良かっただろ?」


「信用のない者に機密を話す奴は、それこそ真の愚か者だ。思いついた事を簡単に口にするな。だからお前は馬鹿だと言っている」


 ……ぐぅの音も出ねぇ。

 はいはい、馬鹿だよ。

 俺はまだ何も分かってない子供ですよ。

 そりゃ信用しろって方が無理がありますね?


 ミーアと違って、この男から言われる馬鹿には重みがある。


 何を言っても潰される。

 そう思った俺は黙る事しか出来なくなった。


「……しかし、お前は戦力として数えてやっても良かったかも知れんな」


 暫く沈黙の中立っていると、不意にバルザは呟いて杯を傾けた。


「え?」


 バルザは、手にしていた杯をカウンターにトンと音を立てて置き、


「マスター、こいつにアレを出してやってくれ」


「畏まりました」


 何かを注文した。

 頭を下げた店主は、店の奥へと消えて行く。


「何を頼んだんだ?」


「…………」


 尋ねるが、バルザは答えない。

 黙り込んだままだ。


 仕方なく俺も黙り、待つ。

 暫くして、店の奥から店主は一本の酒瓶を両手で大事そうに持って帰って来た。

 緑色に着色されたガラスの瓶。


 ……高い酒なんだろう。


「シーナ」


「え、あ……あぁ」


 突然名前を呼ばれて、変な返事をしてしまった。


「お前は、剣士として常人より優れた才を持っている。勘が良く、度胸もある」


「そりゃ、女神様にそう言う才能を与えられてるからだろう?」


「女神は関係ない。成人の儀、また適性検査で使う水晶は、その者の性格。願望も強く影響する。お前は以前から剣士になりたい、そんな願望が無かったか?」


「あった、けど……」


「職業適性に剣士が現れた者で、本当に最初から剣士の才がある者はごく一部だ。最も、固有スキルを持つ者は大体本物だがな。しかし、お前はその中でも……少なくとも、俺の知る限りでは稀有な才能を持っているかもしれない」


「……俺は、固有スキルを持っている。だからやっぱり、女神に与えられた才能だろう」


「そうかもしれん。だが、それだけではない。お前は異能、女神の祝福に触れた事がなかったのだろう? 触れ方すら、知らなかった。それなのにお前は俺に示した。自らの価値を」


「どうぞ」


 店主が、俺の立つカウンターの前に酒の入ったガラスの杯をそっと差し出してきた。


 それを一瞥して、俺はまたバルザに向き直る。


 気付けばバルザは真剣な顔で俺を見つめていた。


「女神が人に与えた異能以外の才が、どれ程なのか分からん。与えているとして、それがどのタイミングで開花するかも分からん。だが、確かな事はある。その才は、その者。お前だけのものだ。だから決して女神から貰い受けたものでも借りたものでもない。俺は、そう考えている」


「……だから、俺を戦力に数えても良かったかもしれない、と?」


「そうだ。お前の固有スキルの事は、俺も調べた。だが、それがあるからお前を評価した訳ではない」


「俺を、評価してくれたのか……? あんたが?」


 尋ねると、バルザは僅かに顔を顰めた。

 あ、本当は言うつもりなかったんだな。これ。


「以前、見込みがないと言った事は訂正してやる」


「あ……覚えていたのか」


 初めて冒険者ギルドを訪れた時、俺はバルザにそう言われた。

 いつか、見返してやる。そう思っていた。

 もしかして、認めてくれたのだろうか。


「だが、お前は戦士には向いてない。今のままなら冒険者もやめた方が良い。お前は、大切だと思ったものに執着し過ぎる、そうなった時。周りを見なさ過ぎる。視野が狭い。非力過ぎる。今回の件も、もっと準備が出来た筈だ、工夫が出来た筈だ。何故調べない? もっと準備をしない。それ以前に、お前は自分が持っている筈の手札を実用出来るようにするまでが遅過ぎる。もう成人してから二年になろうとしているのだろう? 恐らく、訓練の仕方が悪いのだろう。そうだな、一人でやろうとするから駄目なのだ。もっと周りを頼れ、教えを乞え、無理だと分かっている事を圧倒的に準備が足りないままやるな。それと」


 あ、勘違いだった。

 全然認められないわ、これ。

 唐突に長々と話し始めたバルザは止まらず、暫く俺がどこが駄目でどうしたら良いかと話し続けた。


 時折、例えばこういう状況になったらお前ならどうする? と質問される。

 答えたら答えたで駄目出しされまくる。


「何故そうなる。馬鹿か貴様は?」


 なんだこれ、俺はただお礼を言いに来ただけなのに……なんで説教されてるんだ?


 まぁ何か言われるのは覚悟してたけど、バルザってこんなに喋るんだ。知らなかった。


「バルザ様、一旦そのくらいで」


 不意に店主が口を挟むと、バルザは店主を一瞥して。


「……まぁ良いだろう。マスター、おかわりを」


「はい、畏まりました」


「シーナ。お前も座れ」


「あ、はい」


 反射的に返事をした俺は、帰りたいのを我慢しながらバルザの隣の椅子を引いて座った。


 すると、必然的に先程出された酒の入った杯が目の前に置いてあり、元々興味のあったそれを観察する。


 ガラスを見る機会は中々ないが、どうやって作ってるんだ? これ。

 透明で、中の酒……紫色の液体が透けて見えている。なんというか、綺麗だ。


「何を見ている? 飲め」


「あー。ええ……と」


 参ったな。俺、あんまり酒は飲み慣れてないから、こんな良さそうな酒を出されても感想なんか言えないぞ?


 父さんが知ったら凄い羨ましがられそうだから、土産話には良いかもしれない。 

 でも今日はあまり持ち合わせがないんだよな。 

 大丈夫かな、これ。


「こういう良い酒を嗜む時って、どうすれば……」


「子供が余計な事を気にするな。快気祝いに奢ってやると言ってるんだ。好きに飲め」


 そんな事は一言も言ってなかったけどな?

 まぁ、それなら遠慮なく。


 恐る恐る杯を持ち上げて口に含む。


 一口だけ口に入れて杯を置き、何か感想を言う為に舌で転がしてみた。


 うーん、前に飲んだ葡萄酒との違いが分からん。

 いや、葡萄酒なのかこれは? 

 あれよりずっと甘味が薄くて、すっきりした感じが……うわ、でもなんか強いぞ、これ。


 最初は感じなかったけど、喉に通すとカァーッとする。


「どうだ?」


「……こほっ。お、いしいな。良い酒だ」


「強がるな。若造に分かる訳ないだろう」


分かってるなら、何でこんな高そうな酒出した。

「……何故。俺にこれを?」


「ふん。お陰で一つ知れただろう? お前はまだ酒の味も分からん子供だ」


「俺は、子供じゃない」


 馬鹿にしたように言われた俺は、酒の杯をグッと傾けて飲み干した。

 喉がカァーッとするのを我慢して、バルザに向き直る。


「味が分からないのは飲み慣れてないからだゃ」


 ……あれ? 

 なんか、頭がふわふわする。

 視界がぐらっと歪んで……え、バルザが、二人居る? あれ?

 身体、あっつい……頭が痛い……。


 あ……ねむ……。







「ふん、子供が見栄を張るからそうなる」


 真っ赤になった顔で無様に寝顔を晒し、隣でぐらぐらと身体を揺らしているシーナをバルザは片手で支えた。


 それを見た初老の店主はシーナが飲み干した酒のグラスを回収する。


 バルザはシーナをカウンターに突っ伏す様に寝かすと、酒を飲みながらシーナを見下ろした。


「随分と機嫌が良さそうですなぁ」


 それを見て、店主はバルザに笑顔を向けた。


「何故そう見える」


「快気祝いと仰っていたでしょう? この少年、怪我でもしていたのでしょうか?」


「あぁ。そんなところだ」


「随分と気に入られてるんですなぁ」


「そう言う訳ではない。寧ろ、こいつを見ていると腹が立つくらいだ」


「ほほ……あの無慈悲のバルザ様が、ですか。てっきり、他人に興味など抱かないお人だと思っておりましたが、ご自身の若い頃でも重ねましたかな?」


「……良い酒を静かに嗜む。その為に俺は、この店に通っているつもりだ」


「これは失礼を。危うく私は常連様を一人失うところでした。まぁ……年寄りの戯言です。聞き流して下され」


 苦笑して、マスターはグラスを拭き始めた。

 それを確認したバルザは、シーナを見下ろして。


「……人の心は、随分前に失くした筈だがな」


 残った酒をグイと口に含み、バルザは飲み干した杯をカウンターに置いた。


「この馬鹿が」


 問い掛けるが、眠る少年から返答はない。

 分かっていて、バルザは問い掛けたのだ。


「心を失うには、お前はまだ若過ぎる」


 頭を抱え、呟く。

 何故なら、バルザは知っている。

 少年が泣きながらも決して諦めず、必死に少女を探していた事を。


 血溜まりに沈む少年の胸に、死なないでと泣きながら縋っていた少女の姿を。


「ミーアは、お前のせいで苦しむぞ」


 犠牲はあったが、目の前の少年は絶望を跳ね除けた。乗り越えたのだ。

 幸せになっても良い権利を得た筈だ。


「何故だ」


 それなのに、こんなのは間違っている。

 何とか取り戻してやりたい。そう強く思った。


 悪党とは言え、あれ程大勢の人間を手に掛け、心を失った少年が……どんな考え方をするのか。バルザは良く知っていたから。


「何故、こいつにあれを渡した? こうなると、分かっていた筈だ」


 きっとこの少年は、生涯。苦しみ続ける。

 ずっと一人。孤独な闇の中で。


 何故なら彼は、もう誰も愛せないのだから。




「なぁ。サリアナ……何故だ? お前は。俺達は、その事を良く知っているだろう」



 

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