第52話 おかえり
病室の窓を開けると、ふわりと暖かい風が舞い込んだ。
晴れた空にはまばらに雲が漂っていて、強い日差しに思わず目蓋を細める。
セリーヌ医療院。この街で一番大きな医療院だ。
あまり大きな建物ではないのだが、医療設備はこの街で一番充実している。
「おはようシーナ。朝よ。そろそろ起きたらどう?」
開いた窓に背を向けた少女。
癖のある緑色の髪を風に揺らしながら、ミーアは病床に横たわる一人の少年を見下ろした。
だが、呼び掛けられた少年の瞼は開かない。
特徴的な白髪が風を浴びて揺れているだけだ。
「……もう五日目よ? 治癒士も、命には別状がないって言ってるわ。あんた、いつになったら起きるのよ?」
呟いて、ミーアは病床の傍にある椅子に腰掛け、シーツの中から彼の手を引っ張り出して握った。
「……昨日、ガルの埋葬に行って来たわ。ローザはまだ暫く入院だけど、今朝は昨日より一杯話せたの。もう大丈夫、皆。元気よ」
きゅっ、と。彼の手を握る手に力が篭る。
「だから、後はあんただけ。後はあんたが帰って来てくれたら……皆、心配してるわ。助けに来た筈のあんたが、最後まで心配掛けてどうするのよ」
呼び掛けに全く反応を見せない少年。
ミーアはそんな少年の手を自分の胸に誘った。
彼の体温をもっと感じたい。その一心で。
すぅすぅと規則正しい呼吸と、体温。
その二つだけが、彼が生きていると教えてくれるものだから。
「シーナ。お願い、早く起きてよ……私、寂しい。あんたが居ないと、寂しいの……ずっと不安で、胸が痛いの。夜も眠れないし、寝れても怖い夢を見ちゃって起きちゃうの。だから、ねぇ。早く帰って来てよ……」
静かに独白をしていると、涙が滲んでくる。
それは、眠る少年が知る彼女からは信じられない姿だろう。
白髪の少年が知るミーアという少女は、我が儘で自信家で、その二つを周囲に許されてしまう実力を兼ね備えた優秀な弓士だ。
確かに愛らしい外見もその一因を担っているのだろうが、女神に力を与えられているのは事実。
俗に言う選ばれし者、天才である。
そんな彼女が、今まで馬鹿にし見下していた少年が目覚めないだけでこれ程不安がっている。
こんな弱々しい姿、彼女を知る者が見れば誰もが目を疑うに違いない。
「あんまり意地悪しないでよ。私、あと何日待てば良いの? 女をこんなに待たせて、不安にさせるなんて。あんた、酷い男ね……」
ミーアは胸に抱いたシーナの手に口付けた。
そのままその手を額に当て、目を瞑る。
(私、こんなに泣き虫だったっけ……なんか毎日、ずっと泣いてる気がする……)
そろそろ他の誰かが見舞いに来る時間だ。
泣き止まなきゃ。
アッシュやテリオにこんな姿を見られたら、何を言われるか……。
ミーアが自分の尊厳と戦い、涙を拭っていると。
「なんで泣いてるんだ?」
声がした。
それは、酷く掠れていて小さく、弱々しい声。
聞き慣れた声に、ミーアは目を見開いた。
急いで顔を上げると、そこには……。
「しぃ……な……」
「おはよう」
目蓋を開けたシーナだ。
彼は寝ぼけた目でミーアを見ていた。
ミーアの胸が、とくんとくんと跳ねる。
「どこだ? ここ。俺は……」
「シーナッ!」
「ごふっ!?」
自身の置かれた状況を理解しよう。
そう考え、辺りを見渡したシーナは……ミーアに抱き付かれて息を吹き出した。
「こほっ、すぅ……おいミーア。なにするんだ」
「シーナ! しぃなぁ! うぅ……お、おはっ……おはようっ! おはよ……おはようじゃないわよ、この馬鹿っ! 痛いところはないですかっ!?」
「全身が痛い。ちょっと落ち着け、な? そして質問に答えてくれ」
「すぅ……はぁ……! しぃな……しぃな……うぅ、良かったぁ……っ!」
「おい、匂いを嗅ぐな」
胸に頬擦りし始めたミーアの肩を掴んで引き剥がしたシーナは、胸にズキッとした痛みを感じて顔を顰めた。
「うっ……」
(……痛い。治ってないのか)
痛みのお陰で意識がはっきりした彼は、まずはちゃんと説明を受けたいと感じた。
それよりも、喉が酷く乾いている。
「あっ……だ、大丈夫? 痛い? 痛いわよね……ごめんなさい……」
「……水をくれ」
「え? あ、うん。すぐ準備するっ!」
凄い勢いで頷いたミーアは、近くの机に置いてあった水差しに駆け寄った。
木製のコップに水を注ぎながら、にこにこと満面の笑みを浮かべる。
そんな彼女を見て上半身を起こしたシーナは、再度辺りを見渡た。
続いて、右手を見て二度。握って開いて。
「……生きてる、か」
自分の居る場所、自分の状態。
現状を把握して呟いた。
窓から見える街並みは、知った街の朝の光景。
違う可能性もあるが、それは限りなく低い。
ここはセリーヌに違いない。
ならば今自分が居るのは、その医療院だ。
……生きているのだ、と。
「なに当たり前の事言ってるのよ」
ミーアは呆れ顔で言いながら水の入ったコップを差し出した。
それは、普段通りの彼女の姿だ。
本当は嬉しさで騒ぎたいのをグッと堪え、涙を拭っただけのハリボテ。仮初の姿だった。
「当たり前か。そうか、帰って来たんだな」
白髪の少年が自らの命を賭してまで戦ったのは、剣を握ったのは、そんな強い自分の為だとミーアは知っていたから。
弱い自分は、彼には求めて貰えない。
「……っ。そ、そうよ。連れて帰ってあげたのよ。大変だったんだからね? 感謝しなさいっ?」
だから、彼女は演じたのだ。
普段通りの自分自身を。
「ミーア」
「なによ」
それなのに。
「よく頑張ったな」
「……っ」
その言葉は、ミーアの堪えていたものを一瞬で壊した。
唇を噛んだ彼女はすぐに病床に背を向け、窓の外へ視線を向ける。
「ミーア?」
「わ、私っ。先生呼んでくるわ。話は後っ! 後からねっ!」
自分でも驚く程に震えた声で叫び、顔を見られない様にミーアは駆け出した。
(ずるい……ずるい……っ!)
足で地を蹴りながら、ミーアは思う。
(一番頑張ったのはあんたじゃないっ! 一番苦しんだのもあんたじゃないっ!)
涙で滲む視界を晴らそうと瞬きした刹那、目蓋の裏に映ったのは血塗れで剣を握り、強い眼光を放っていたシーナの姿だった。
自らの力量を決して過信せず、常に無理のない仕事を選ぶ。
故に彼は、例えそれが他の冒険者が絶対に選ばない様なものでも日銭を稼ぐ為に選んでいた。
地味な雑用もやってみれば良い経験だと胸を張っていた。
どれ程周りに笑われても、臆病者だと蔑まれても、彼は自分で決めた事を曲げなかった。
そんな彼が見せたあの姿が、頭から離れない。
(何が頑張ったな、よっ! 偉そうに……っ! 戦ったのはあんたじゃないっ! 死にかけてたのはあんたじゃないっ! 何様よこいつっ! あー、ムカつく! ムカつくムカつくムカつくっ!)
一体、どれ程苦しみ悩んでくれたのか。
どんな想いで探してくれたのか。
戦ってくれたのか。
彼をそうさせたのは、誰か。
分かっているからこそ、悔しい。
確かに今なら、言える。
彼は臆病者ではないと胸を張って言える。
それはずっと、望んでいた事の筈なのに……。
悔しくて苛ついて、堪らなかった。
(それなのに、私……なんで私、こんなに嬉しいの……っ!?)
ミーアは泣いていた。
胸で渦巻く様々な感情が彼女の身体を震わせる。
自分で自分が分からなくなる。
頑張ったな。
ただそれだけの言葉が、他者に言われても少し誇らしくなるだけのその言葉が、今は何故こんなに苦しいのか分からない。
「おい。ちょっと待て」
彼の声が、言葉が、何故こんなに自分を揺らすのか分からない。
「……何よ」
背後から呼び止められたミーアは、手を掛けた病室の扉を見つめたまま、声を絞り出して尋ねた。
「なにって、まだ話は終わってないだろ?」
「……まずは、あんたが起きた事を知らせるのが先よ。話なら後からいくらでも出来るでしょ?」
「少しくらい良いだろ?」
「あんた死にかけたのよっ!? 覚えてるでしょ! どんだけ心配したと思ってんのっ! ちゃんと診て貰ってからっ!」
背を向けたまま、ミーアは叫んだ。
途端、彼女はハッとした。
こんな事を言うつもりはなかったのに、と。
気不味い……。
沈黙を感じた彼女が、病室を出ようと動いた時。
「待ってくれ、頼む」
再度呼び止められて、ミーアは仕方なく応える。
「なに? どうしても今じゃなきゃ駄目なの?」
「あぁ、駄目だ」
「そんなに大事な事なの?」
「そうだ。だから、ちゃんと返事をして欲しい」
「分かったわよ、何?」
恩人がそこまで言うのなら、ミーアは尋ねた。
もしかしたら、本当に急を要する大事な事かもしれない。
数秒の沈黙があって。
次にシーナが発した言葉は、
「おかえり、ミーア」
なんの緊急性もない、日常。
故に。聞いたミーアは、なんだそれと呆れた。
だが、すぐに気付く。
そのなんの変哲もない言葉が、酷く自分の胸に届いている事を。
その言葉がきっと、ずっと彼が自分に言いたかった事なのだと分かってしまったから。
「…………ばか」
「ミーア?」
「あんたやっぱり、馬鹿よ。ばか、ばかっ。すっごいばかっ!」
「なに怒ってるんだよ」
「うっさいっ! 卑怯者っ! あんたずるいわ。なんで、なんであんたは……っ!」
なんでそんなに私を喜ばせる言葉を知ってるの?
そう続けようとして、ミーアは唇を噛んだ。
それを言ったら、気付かれてしまうと思った。
だから踏み止まったのだ。
闇の中で気付き、認めた想いを。
「ひっく……ぐず……」
「……ミーア、お前。結構泣き虫なんだな」
「うぅ……ち、ちがっ……ぐしゅ……違うっ!」
「そうか、なら証拠を見せろよ。さっきの返事、笑顔で返してみろ」
言われたミーアは、やっぱりこいつは卑怯者だと憤慨した。
だから意地でも泣き止んでやろうと涙をゴシゴシ拭って。
「ただいまっ!」
振り向いたミーアが見せたのは、笑顔だった。
酷い顔だった。
赤い顔で、拭っても溢れる涙が頬を伝っていたが……それでも良い。
そんな下手くそな笑顔でも、その姿が。声が、病床の少年が命を賭けて見たかったものに違いない。
そう、シーナは遂に自分の力で手に入れたのだ。
取り戻した瞬間なのだ。
目の前の光景を見たシーナは、目蓋を閉じる。
(感謝します、女神様)
一番大切な人を奪われて、信仰が憎悪に変わった対象へ彼は礼を言った。
自分は奪われただけではなく、一応。自分の意思で抗う力を与えて貰えていたのだから。
「うっ……んっ?」
不意に抱き付かれて、シーナは目を開ける。
途端、緑色の髪が視界を覆った。
「う、うぅ……うぅ……」
傷口がある筈の胸で、涙を拭いながら唸っている少女。
そんな彼女に何と言うか少し考えて、シーナは今くらい優しくしてやるかと思った。
右手を上げ、頭に置く前に一度悩み、これ位で流石に怒らないかと癖のある髪に触れる。
「ふぎゅっ……ぐすっ……」
ただ、泣いているミーアを見ていると意地悪の一つくらいは言うべきかと思い。
「先生を呼びに行くんじゃなかったのか?」
「……うっしゃい。ばかっ、ぐすっ……す、少し。少しだけ、よ……」
「そうか」
頭を撫でる。
ミーアの髪はふわふわしていて、自分とも。そして昔撫でていた髪とも違う手触りがした。
「頑張ったな、ミーア。よく頑張ったな」
「……うん。あんたも、頑張ったわね。ありがと」
「礼なんかいらない。貸し一つだ」
「うん……シーナ」
「なんだ?」
「ありがとう。私を、助けてくれて」
胸元で告げられたその言葉に、シーナは目蓋を閉じて。
「うん」
左腕も伸ばし、ミーアの身体を抱き締めた。
失い、ずっと探していた温もりを書き換える様に。
(俺にはもう、あいつはいらない)
シーナは、強く、強く想う。
(俺は、もう迷わない。もう、待たない)
自分に言い聞かせる。
(俺はもう、一人じゃない。無力な村人の子供じゃない)
一つの決意を。
もう、決して曲げない信念を。
(剣聖の幼馴染? 違うな。俺は、あいつのおまけじゃない)
村を出てから、ずっと言い聞かせていた事がやっと彼を一人の存在にした。
自由ギルド支部長。
あの男が言った言葉は、勝利した事で逆に少年を成長させたのだ。
(これ以上、何一つ奪われて堪るか)
少女を抱く腕に、力が籠る。
強く強く、抱き締める。
(強くなる。強くなるぞ)
この温もりを失いたくない。
失わない為に、強くなりたい。
それはきっと、誰もが願うありきたりなもの。
だが、失い過ぎた彼だからこそ、その決意は一層強いものになるのだろう。
「あんたこそ……シーナも、おかえり」
「あぁ、ただいま」
「寝過ぎよ、この馬鹿っ」
「悪い」
病室の隅。
壁に立て掛けられた数打ちと白の片手剣が、光を浴びて輝いていた。
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