第45話 おまじないと覚悟。

 ただでさえ暗い視界が涙で霞んでいる。


 斬られた右肩に凄まじい痛みを感じ、ドクンドクンという心臓の鼓動が、妙に大きく聞こえている。

 軽傷ではない。その事を嫌でも理解させられる。


 胸が苦しい。

 どれだけ息を吸っても楽にはならない。

 酷い頭痛もある。吹き出る汗で全身が濡れている。


 俺の身体は、長くは保たないだろう。

 早急に止血をして治療を受けなければ……死ぬ。


 そう頭では分かっている、理解している。


「ったく……なんてざまだよ、ミーア。自称天才が聞いて呆れるぜ」


 俺は痛む右腕で剣を鞘に収め、左手で傷口を強く押さえ付けた。


「っ……」


 視界が一瞬暗転する程の激痛を伴ったが、歯を食い縛って堪える。

 痛がる素振りを見せる訳にはいかなかった。

 これ以上、ミーアを不安にさせたくない。


 押さえたお陰で左掌の感触から出血が大分マシになったのを感じる。

 だが同時に、受けた傷の深さも……時間が無い。


 足を踏み出し、ミーアへ近付く。


 改めて見ると酷い姿だ。

 全裸の彼女は両手と左足を鎖で繋がれていた。

 首には大きな鉄製の首輪が嵌められており、それから太い鎖が伸びている。

 ふと、俺はその首輪に見覚えがある気がした。

 それは、村を出た数ヶ月前。

 セリーヌに到着した日に、街の通りで行われていた魔人の奴隷売買。

 外見は人間だが、獣のような耳や角が生えている魔人の子供達にも同じような物が嵌められていた筈だ。


 確か、毒針を射出する機能がある……だったか。


 これは迂闊に手を出せないな。


「……シーナ? 本当に、シーナなの?」


 その声は普段のミーアからは想像出来ないほど小さく、震えていた。


 向けられている瞳に彼女本来の力強さは無い。

 虚ろで、酷く弱々しい目だ。


 そんな状態で馬鹿な質問をしてくるミーアの前へ膝を付き、俺は彼女の目を見つめた。


「他の誰に見える? お前が散々馬鹿にして来た奴だろ。まさか、見間違えたりしないよな」


「……嘘……嘘よ。だ、だって。だって、あんたがここに来る訳ない。来れる訳、ない……っ!」


「来れてるだろ、実際。助けに来てやったぞ」


「嘘っ! だって……っ! シーナは魔法なんか使えないっ! こんな格好良くないっ! 片手剣一本を両手で振るのがやっとな、駆け出しも駆け出しのへなちょこ剣士だものっ!」


「はぁ? おい、お前。一発ど突くぞ」


 薬で感情を抑えていて良かった。

 普段の俺だったら、一発殴ってたかもしれない。

 折角苦労してここまで来てやったのにこの言い草だ。全く、ありえねぇ。


「ひっ……ご、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい……お願い、酷い事しないで……もう、やめて……」


「…………」


 咄嗟に出た言葉だったが、途端に俯いて泣き始めたミーアを見て、俺は自分の失言に気付いた。


「ちょ、ちょっとミーア。どうしたんだい? シーナが本気で君に酷いことをする訳ないじゃないか。冗談に決まってるだろう? ね、シーナ?」


 おいアッシュ、何でお前までそんな目で俺を見る。


 不安げな目と声のアッシュを一瞥して、ぐすぐす泣いているミーアへ向き直った俺は一度鼻から息を吐いた。


 信じられない光景だ。

 あのミーアが、自信家で高慢なこの女がこんな冗談に怯えて泣くなんて。


 俺は傷口に当てていた手を離し、両腕をミーアへ差し向けた。

 そのまま抱きしめ、ミーアの頭を胸へ誘う。


 細く華奢な身体は震えていた。

 こうして抱き締めると、小柄なミーアが余計に小さく感じた。


 ぐすぐすと泣く彼女の後頭部を右手で軽く撫でようとして……やめた。

 右手も血がべっとり付いていた。


 それは自分のものなのか、斬り殺した者の返り血なのか……恐らく両方だろう。

 こんな手で触れる訳にはいかない。


「……悪かった。冗談だ。俺はお前に何もしない。いつも通りの感覚で、咄嗟に言ってしまった。何もしないから、許してくれ。本当だ」


「ぅぅ……ぐすっ、ぐすっ……」


「だから泣くな。俺はお前の泣き顔なんて見たくない……俺の知ってるミーアって馬鹿女は、いつもあるんだかないんだか分からない小さな胸張って、俺より背が小さい癖に顎上げて、器用に見下ろしながら鼻鳴らして馬鹿にしてくる……とんでもなくムカつく奴だ。そうだろ?」


「ねぇシーナ、僕の気のせいかな? 一つも褒めてないし慰めてないよ、それ。寧ろ貶してない?」


 この野郎、空気読めよ。

 俺達には俺達の付き合い方があるんだから。


「煩いぞアッシュ、これでも一応褒めてるんだ。そうじゃなきゃ、態々こうして、命張ってまで助けに来るかよ」


「ぅぅ……ぐすっ……」


 腕の中に冷たく小さな身体が震えているのを感じていると、右隣にティーラがやって来て蹲み込んだ。

 彼女は両手を俺の右肩に翳すと、ポソリと一言呟く。


「我、女神の祝福を受けし者」


 それは、女神の祝福。彼女が持つ異能を発現させる為の言葉だった。

 細い手から発される薄緑色の光が、俺の腕を照らす。

 すぐに効果が現れ、激痛が大分和らいだ気がした。


「ティーラ。悪いな、あんたも疲れてるだろう」


「いえ……私には、これくらいしか出来ませんから……」


「充分だ、ありがとう。幸い意識ははっきりしてるんだ。血さえ止まれば、また戦えるようになる」


 戦えるようになる、と言った途端。ティーラの身体がビクッと跳ねた。


「戦う? む、無理です。こんなに沢山血が出てるんですよ……っ! これ以上無理をすればどうなるか、分からないわけじゃないですよねっ!?」


「じゃあ念入りに止血してくれ。医療品と止血帯はポーチに入ってる」


「っ……! そ、そんな応急処置でどうにかなる傷じゃありませんっ! 分かってるでしょう!? これ以上の戦闘は不可能ですっ」


「そうも言ってられる状況じゃない事くらい、分かるでしょ? ティーラ」


 悲痛な顔のティーラへ、アッシュは諭すようにそう言った。


「ですが……っ!」


「シーナ。ティーラは手が離せそうにない。止血は僕がやるよ」


「悪い。あぁ、ついでに携行食と水筒を取ってくれ、ミーアに飲ませる」


「分かった」


 頷いたアッシュは、自分のポーチから止血帯を取り出した。


 俺は右腕、患部の上を止血帯で強く縛られるのを感じながら腕の中を見下ろす。

 途端、ミーアと目が合った。

 弱りきった虚ろな目が、俺を見上げていたのだ。


「あった……かい……シーナ? 本当に、シーナ……なの?」


 は? 今更何言ってんだ? こいつ。


「だからそうだって言ってるだろ、この馬鹿。お前が大っ嫌いなシーナお兄さんだよ。あー、この際だからはっきりしておこう。俺、お前より歳上だからな? 分かったら今後はシーナさんって呼べよ。分かったか?」


「シーナ……しぃ……な」


「だから呼び捨てにすんな」


「しぃなぁ……! しぃぃなぁぁ……っ!!」


 この際だから上下関係をはっきりさせておこうと調子に乗った俺は、突然胸に顔を擦り付け、俺の名前を呼び始めたミーアを見て黙り込んだ。


 もし今の俺に普通の感覚があったなら、驚いて変な声が出ていたに違いない。


「あ、会いたかった。会いたかったよぉ……っ! も、もう私駄目だって。一生ここであいつらの奴隷にされて、ずっと泣いて生きるしかないんだって……もう絶対、幸せになれないんだって、あき……あきら、諦めて……っ!」


「…………」


「ガルが殺されそうになって……っ! ティーラがガルを助ける為にあいつらの奴隷になって……っ! い、一杯目の前で……私の前で……ひっ、酷いことされてっ! わ、私のせいでローザが沢山殴られて、私の……私の剣で目を……目を、潰されて……っ!」


「……っ! なんだよ。なんだよ、それ……っ!」


「アッシュ」


 なんとも胸糞悪い話に、激昂した様子のアッシュの名前を呼び黙らせる。


 ガルを助ける為にティーラが犠牲になった? 

 なら、俺達が見たガルの遺体はなんだ。

 身体を切り刻まれて、酷い死に様で森に捨てられそうになっていたあれはなんだ?


 奴等はティーラを好き勝手に弄んでおいて、約束すら守らなかったというのか。


「シーナ、でもっ!」


「今ここで騒いでも何もならない。そうだろ?」


「……っ。それも、そうだね……」


「っ! た、戦っちゃ駄目! 殺されるっ! そんな身体で戦っちゃ駄目っ! あいつは普通じゃない。なにか、何かあるの! あんたじゃどうにもならないわっ! あいつは、あの男は、駄目っ! あんたまで殺されたら、私……私……っ!」


 ミーアへ視線を戻すと、弱り切っていた彼女の目には少しだけ力が戻っていた。

 

 あいつ? あの男?

 普通じゃない、か。

 奇遇だな。俺もだよ。


「た、助けに来てくれた。ずっと、ずっと呼んでた。何でか分からないけど、あんたならって……こんな馬鹿で弱くて、意地悪で……酷い女。私なんかを助けに来てくれるかもって……」


「なんだ。自分が馬鹿だって自覚はあったのか」


「…………」


 こくん、とミーアは頷いた。

 嘘つけぇ。


「大丈夫だ。何があっても、何をしてでもお前はここから逃す。だから心配すんな」


「で、でも……しぃ……」


「大丈夫だ。帰ろう、絶対」


 強くミーアの身体を抱き締め、耳元で囁きながら目を瞑った。


 大丈夫だ、身体はまだ動く。

 多少の頭痛と視界のぼやけ、負傷した腕の痛み。

 全ての止血と応急処置は終わった。

 戦闘不能なわけではない。


「シーナ……」


 帰ろう、帰るんだ。

 これ以上、何も。何一つ失って堪るか。

 この温もりを奪われてなるものか。

 俺の名前を呼び、助けを求めてくれる。

 この声に、期待に応えるんだ。

 全部救って、連れて帰るんだ。


「アッシュ、止血は終わったな?」


「……うん」


「じゃあ、ちょっと挨拶しに行くか。どーも、うちの仲間がお世話になりましたって」


「まって……ほんとに行くの?」


 不安気なミーアの声。

 俺は抱き締めていた身体を離して顔を見た。


「あぁ、残念ながら俺達にはお前を連れ出す手段がない、特にその首輪が面倒だ。お前を連れて帰るには、鍵が必要だ」


「だめ。いかないでっ! 私はいいわ……もう充分よ。最後にあんたとこうして話せただけで、来てくれただけで、もういいから……っ! だから、あんたは逃げ」


「逃げろ、なんて……俺には二度と言うな」


「っ!?」


 目に力を込めて見せると、ミーアの体がビクッと跳ねた。

 予想以上に効力があったな……脅した様で悪いが、構わず続ける。


「……俺はな、ずっと逃げ続けて来た。俺は悪くない、しょうがなかった。どうしようもなかった……そう自分に言い聞かせてきた」


「…………」


「逃げるのはもう十分やった。そうやって、逃げて逃げて、逃げた先が今だ。そして知った。残ったのは後悔ばかりだ」


 ユキナの時だってそうだ。

 俺に勇気があれば、力があれば、あの日。ユキナを連れて行かれずに済んだかも知れない。


 どうしても勇者一行に加わらなければならなかったとしても、俺も同行すれば……。


 勇者に、盗られなくて済んだかも知れない。


「もう逃げたくない、後悔したくない。二度と失いたくない。その為には力が必要で……だから俺は冒険者になった。守る力を得るために」


「……シーナ」


「これ以上失うのは嫌だ。失い続ける人生なんかに未練はねぇ。だから、俺は何もお前の為に来たわけじゃねぇ。俺のわがままを通す為に来たんだ。ここでお前を見捨てるくらいなら死んだ方がマシなんだよ。だからさ、頼むミーア。助けさせろ。戦わせてくれ。それて、生きて帰れたらさ、また一緒に仕事しよう。色んなとこ行って、仕事終わったら美味いもの食べてさ。今まで通り毎日くだらねぇことで喧嘩して……これまでの数ヶ月。俺、結構楽しかった。楽しかったんだよ……お前に会ってからは正直、話すとムカつくことばっかだったけど……楽しかったんだ。だから諦めきれない。そう思えるくらいには、俺……お前が気に入ってるんだよ」


「……っ! うっ……あっ……う、うぅ……っ!」


「少なくとも、命張るには充分過ぎる価値だ」


「ばかっ! ば、ばかっ! ばかぁ! あ、あんたやっぱ大馬鹿よっ! ばかぁ! む、ムカつくけど楽しかった? なによそれっ! わ、わたし……わだじっ! あ、あんたに酷い事……酷い事沢山っ! 沢山言ったのに……っ!」


「そうだな」


「しょうだなって……何あんたっ! へ、へんたいっ! へんだぃっ!」


「おい、誰が変態だ。仕返しは絶対するからな? それも何倍もだ。楽しみに待ってろ。勝ち逃げなんか許さない。だから、絶対連れて帰る」


「うんっ! うんっ! 帰る……っ! か、帰りたい……帰りたいよぉぉぉっ!」


「あぁ、帰ろう。帰ろうな、ミーア」


「う、うぅ……うわぁぁぁああんっ!! あ、ありがとう……っ!! あ、ありがとうぉぉぉっ!!」


 泣き出してしまったミーアを抱き寄せ、俺は浅く息を吐いた。

 全く、俺。よく考えたら恥ずかしいこと言い過ぎだろ。

 そうして暫く。腕の中で泣きじゃくるミーアを慰めていると。


「シーナ、そろそろ行こう。名残惜しいのは分かるけど、夜明けまであまり時間がない。まずは害虫駆除を済ませてしまおう」


「あぁ、そうだな」


 返事を返しながら、思考を切り替える。


 まぁ、流石にもう手遅れだろう。

 こんなに騒いで、まだ気付いてなかったら相手は相当な間抜け揃いだ。


 斬られた肩の痛みは治療のお陰で大分マシになっている。

 法力の残量は感覚で分からないが……まだ数回は魔法も使えるだろう。

 万全とは言い難いが……戦えるな。


「じゃあ、ミーア。この胸糞悪い場所に決着つけて来る。全部終わったら、帰ろうな」


「……うん。待ってる」


 か細い返事を聞いて、俺はミーアから身体を離そうとして。


「あ……待って、シーナ」


「なんだ?」


 呼び止められ、目を合わせる。

 するとミーアは一瞬、恥ずかしそうな表情を見せた後に俯いた。

 いや、呼び止めたのお前だろ? なんだよ。


「ちょっと顔……近付けなさいよ……」


 うん? なんか言ってるけど聞こえないな。


「あ? なんだって? 顔が近いって?」


「だ、だから……か、顔。よく見たいから近付けなさいって」


「下向いてボソボソ喋られてもわかんねぇよ」


 途端、ミーアが急に顔を上げた。

 何故かキッ、と怒った様な目で睨んでいる。

 いや、そういやコイツ。これが普通だったな。

 最後に普段通りのミーアが見れてよかっ、


「だからぁ! 最後に顔! ちゃんと見たいからもっと近付けなさいって……っ!」


「……充分見えるだろ」


「いいから早くしなさいっ! なに口答えしてんのよっ! シーナの癖に!」


「おい、俺の癖にってなんだ。あと、声がデカいんだよ、この馬鹿」


「あっ……ごめんなさい。でもいいでしょ? これが最後かも知れないんだから……私のお願い、聞いてくれても」


 今更過ぎる指摘に、ミーアは申し訳無さそうに俯いた。

 少し意地悪が過ぎたか。


「まぁ、いいけど。ほら、これで良いか?」


 互いに鼻と鼻が触れ合う寸前の距離まで顔を近付けてやる。

 すると、ミーアの目が泳ぎ出した。


 ……いや、なんだよ。

 ちゃんと顔見たいんだろ?


「顔。見ないなら、もういいか?」


 しかし、こうして見るとコイツ。やっぱ可愛いな。

 伊達に自称して威張ってる訳じゃない。

 ムカつくけど。


「あ……だめ。やだ。まだ……う、うぅ〜」


「何がしたいんだよ」


 相変わらず、訳のわからん女……


「うぅ……んっ!」


「っ!?」


 ……だ。え? 


 突然目を瞑ったミーアが唇を突き出し、俺に顔を寄せてきた。

 多少口に痛みを覚えた俺は、至近距離にあるミーアの顔を見て……何度か瞬きを繰り返す。


 一瞬、思考が止まった。


 え。俺達キスしてない? ちゅーしてるよね?

 は。なんで? ミーアからしてきた、から?

 なんでしてきた? 訳が分からない。


 どうしたら良いか分からず、固まってしまう。


「ん……んっ、んっ……はぁ。ん、んん……はぁ……ん……」


 すると、ミーアは俺の唇を何度も何度も啄んだ。

 ふむ、これは……あー、成る程。うん。


 俺は、どうするのが正解なんだろう?


「は、はっ……ぺろ……ちゅ……ぺろ、んっ……」


「…………」


 遂には、ミーアは舌で唇を舐め出した。

 口元をベタベタにされた俺は堪らず顔を引く。

 そんな俺の顔を、ミーアはポーッと熱っぽい瞳で見つめている。


「はっ、はっ……し、シーナ……」


「……おい、何してんだお前」


「なにって、キス……だけど?」


 そんな事は分かってるよ。

 馬鹿にするな。


「何で、急に」


「なんでって。それは……私が、あんたの事」


 ふと、ミーアの視線が俺の背後に向かった。

 途端に彼女は気不味そうな表情になる。

 気になって振り返ると。


「なんだよ、アッシュ」


「ん? いや、僕の事は気にしないでいいよ。続けて?」


 にやにやした表情をしているアッシュがいた。


「続けねぇよ。で? 何で急にこんな事をした」


 アッシュに釘を刺した後、ミーアへ視線を戻して追及する。


 母さんは言っていた。

 女の子は、特に唇は気安く触ってはいけない、と。

 気持ちもないのに女の子に触れ、泣かせる様な男は私の息子じゃない。

 そんな事をした時は私があなたをぶっ殺すと。


 母さんが嫌いな事はしないと決めている俺には大問題だ。


「だから……っ! その。こ、これは……そう。おまじないよ」


「は? おまじない?」


 願掛けってこと? これが?


「そ、そうよ、おまじない! 私くらい可愛い女とキスしたんだから、あんたは絶対勝つわ。それも私、初めてだからっ。初めてのキス……なんだからねっ。こっ、光栄に思いなさい? これで負けたらあんた、ホントどーしようもないんだからっ。どうしようもないヘタレなんだからねっ」


 ……母さんは言っていた。

 特に女の子の初めてのキスの相手になる場合、その子が一生忘れない大切な思い出になるようにしなさい、と。

 男の子なんだから、相手からされるなんて間抜けな真似はするな。

 もし軽い覚悟で挑んだら、湖に沈めてやる……と。


 あ、俺。もう駄目かもしれない。


「だから約束よ? 絶対勝ちなさい。駄目そうだったら、逃げても良いから……死なないで。お願い」


 死なないで。

 震えた声で、ミーアはそう言った。


 これは、負けられない理由が増えたな。

 ……死んだら、俺の死体を見てミーアは泣くだろう。

 これからずっと、この場所で泣き続けるだろう。


 そんな結末。許せる訳ないよな。


「……んっ」


「んっ!? ぷはっ。え、え? し、しぃな?」


 ミーアの頭を抱き抱え、唇を重ねる。


 これは覚悟だ。

 恋人だったユキナにすらした事のない、俺の正真正銘の初めてのキス。


 それを捧げた相手。ミーアを……俺は。


「負けないさ。帰って来るよ、俺は。お前の元に」


 絶対に取り戻す。


「ぁ……うん。ま、まって、る……」


「あぁ、待ってろ。そうだ。それまで、これ。預かっていてくれ」


 俺はミーアから身体を離すとコートを脱いだ。

 着慣れた古い革コートは血で濡れていて状態は悪いが……全裸よりマシだろう。

 コードをミーアの肩に掛け、体を出来る限り包んで隠してやる。


「お前の嫌いなボロだ。血まで付いてて悪いけど、寒いよりマシだろ」


「うん。ありがと……」


 小さな声で礼を言うミーアを横目に、俺はティーラへ顔を向けた。


「ティーラは、ここで二人を見ててくれるか?」


「……いえ、私も行きます。私も、戦います」


「駄目だ。確かにお前とローザは連れて行けそうだが……それ」


 俺はそれ、と自分の首を指差した。

 ティーラの首に嵌っている首輪を示して見せたのだ。


「正直、今のティーラは連れて行きたくない。人質にされたらお手上げだ。足手纏いを背負って戦う余裕はない」


「その時は見捨ててくださって結構です! だから、私も連れて行ってくださいっ! 必ず役に立ちます!」


「分からん奴だな。あんたと俺達との関係が相手に知られたら、危険なのはお前だけじゃない。ローザもミーアも利用される可能性があるだろ」


「あ……」


 ティーラは憔悴した仲間達を見て、悔しげに唇を噛んだ。


「今のティーラに出来ることは、ここに居る事だ。分かったな?」


「……私。役に立てないんですね」


「あぁ。はっきり言って足手纏いだ」


 全く、ティーラはもう少し賢い女性だと思っていたんだが。

 今の彼女はこんな簡単な事まで態々説明しないといけない程、感情に振り回されている。


 俺にこんな言葉、言わせないで欲しい。


「ちょっと、シーナ。その言い方はあんまりだろ」


「状況が状況だ。理解しろ、アッシュ」


「そうは言っても……ねぇ、ティーラ。君には君で出来ることはあるだろ? ローザの治療とか、ミーアの面倒を見るとかさ。ポーチを置いていくから、自由に使って二人を見ててよ」


「……はい。あの、御武運を。シーナさん、アッシュさん」


「うん、任せて」


「最善は尽くすよ」


 落ち込んだ声のティーラに返答し、立ち上がる。


「シーナ、アッシュ……」


 続いて、弱々しい声が俺達を呼び止めた。

 椅子に縛られたままのローザだ。


「……頼む、助けてくれ」


「あぁ」


「助けるよ」


「すまねぇ……情けないリーダーで、すまねぇ」


 ローザは泣いていた。

 痛め付けられた身体を木椅子に縛られ、自ら拭うことも出来ない涙を垂れ流している。

 ……あんたの悔しさ。俺が預かる。


「生きて帰れたら一杯奢ってくれ」


「シーナ……」


「俺の最も尊敬する冒険者は、仲間ってのはそれで良い、と俺に教えた」


「それもお母さんかい?」


「あぁ」


 頷くと、隣のアッシュはおかしそうに笑った。

 まぁ、母さん全く酒飲めなかったらしいけど。


 背後から、ローザの声が追いかけてくる。


「ふく、くくっ。なんだそれ。いいぜ。一晩中。吐いて潰れるまで飲ませてやるよ」

 

 ローザの声がして。俺は歩きながら、後ろ手に手を振って出口へ向かった。


 この先。

 来た道を引き返せば、最後の戦いが待っている。


 さて、精々抗ってみますかね。


 欲しいものを手に入れるために、奪われるだけの今に終止符を打とう。

 奪って。殺して。


 運命なんざ、変えてやる。


 俺はもう、一人じゃない。

 臆病で無力な子供じゃない。

 あの頃とは違うんだって、分からせてやる。


 だから見てろよ、女神様。

 皆揃って笑って帰る。

 物語は、幸せな最後が良いって相場が決まってるんだからさ。

 てめぇの書いたシナリオなんざ糞食らえだ。


 その事を今度こそ、俺が証明してやる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る