第40話 少女の願い。
これは夢だ。
自分の見ている光景が夢だと言うことは、すぐに気付いた。
「ミーア」
だって、あんたはここに居ない。
絶対に来る筈が無い。
それにその顔。
私には今まで一度も向けてくれた事のない笑顔を向けてくれている……。
周りだって真っ白だし、下を見ても私の身体がない。
あんたはいつも通りなのに不公平よ。
折角なら、そんなボロコートじゃなくてもっと綺麗な格好しなさいよ。
いや、これは夢だから……私の知ってるアンタしか出ないのは当たり前よね……。
「もう少しで良い。もう少し頑張れ」
何よ、勝手な事言って。
もう充分頑張ったわよ……。
無理なのよ、これ以上は。
「大丈夫だ。頑張れ、ミーア」
頑張ってどうするのよ。
私も奴隷になれって言うの?
あいつらに、こんな奴等に良いようにされろって言うの?
嫌よ。そんなの、絶対いや。
ティーラみたいになるなんて嫌……。
あんなの人間にする事じゃない。
絶対、して良い事じゃない……。
あんな目に合うくらいなら、死んだ方がマシよ……。
「何でも良い。とにかく頑張れ。もう少しの辛抱だ」
もう疲れたわよ……。
なによ、偉そうに。
じゃあ助けてよ。助けに来なさいよ。
私、ずっとあんたを呼んでたのに。
助けてって、呼んだのに……来てくれなかったじゃない。
もう声なんて大分前に掠れちゃったわよ。
名前を呼ぶ元気なんて、無くなっちゃったわよ。
もう私……頑張れないわよ……。
「駄目だ。何が何でも、生きるんだ」
だから嫌だって言ってるでしょっ!
あんな酷い事されて、辛い目にあってまで生きたくない……。
人間をやめてまで、生きたくないわよ!
私は、せめて人間のまま死にたいのよ!
「駄目だ、死ぬな。お前が死ねばローザも死ぬ。ティーラも死ぬ」
あの二人だって、このまま生きるより死んだ方がマシだって思ってるわよっ!
「……俺が助けてやる」
嘘吐き。
あんたじゃ無理よ。
私を助けるなんて、絶対に無理だわ。
見つける事すら出来ない癖に……!
「大丈夫だ。だからもう少しだけ堪えてくれ……」
あぁ、そうだった。
これ、夢なんだった。
あんたはそんな事、私に言わないもんね。
あんた。私の事、嫌いだもんね。
「俺が必ずお前を救ってやる」
はぁ……ホント。
我ながら頭の悪い夢……。
「ミーアさん……ミーアさん……!」
肩に触れる人肌の感触に気付いた時には、身体を揺さぶられていた。
両手首と首輪から伸びた鎖が、ガシャガシャと不快な金属音を奏でている。
(てぃ……ら……?)
眠りから覚めたミーアは、目の前で自分の名前を呼ぶ聞き慣れた声に気付いた。
酷い空腹と喉の乾き。
寒さに身震いする元気も残っていない。
気怠く力の入らない自分の身体の感覚と朦朧とする意識の中、ミーアはゆっくりと瞼を開いた。
暗い視界に移ったのは、変わり果てた先輩冒険者。ティーラの姿だった。
彼女はボロ布に穴を開けただけの粗末な衣服にボサボサの髪。
目に涙を溜めて、今にも泣きそうな顔をしている。
彼女の首に嵌められた鉄の首輪に繋がった鎖の先は、隣に立つ気味の悪い笑みを浮かべる男の手に握られていた。
「よぉ、お目覚めかい? ミーアちゃん」
「…………」
「おいおい無視かよ。偉くなったもんだなぁ? おい」
「やめてくださいっ。ミーアさんはここに来てからずっと何も食べさせて貰えてないんです……っ。声が出なくても仕方ないじゃないですかっ」
「へっ。こうなったのもこいつが無駄な意地を張り続けてるせいだろ。さっさと諦めて楽しませてくれてりゃ、ここまで弱んなくて済んだのによぉ……お前みたいにな」
「うくっ……」
男が手を荒く振ると、ティーラはよろめいて呻き声を上げた。
「やめ、て。やめてください。ミーアさんには何もしないでください。お願いします、お願いします……」
(ティーラ……)
仲間が、沢山の事を教えてくれた先輩が酷い扱いを受けている。
自分だって辛くて苦しい筈なのに冷たい地に額を擦り付けて懇願してくれている。
そんな目の前の光景から目を背ける為、ミーアは俯いた。
「こいつもここまで可愛がられずに済んだのになぁ…… ホント、仲間の事なんだと思ってるんだこの女は。もう一人はティーラのお陰で、結構良い生活させてやってるってのに」
目の前でティーラの鎖を握っているのとは違う男の声がした。
ミーアはゆっくりと顔を上げ、声のした方へ目を向けた。
古い木椅子に荒縄で縛られたもう一人の仲間、ローザが居る方へ。
すると、その側に立つ男が笑みを深めた。
ミーアの憔悴しきった目を見て、気分を良くしたのだ。
「もうこれじゃ、いくら治療したって治りゃしねぇだろ。どんな腕の良い医者でも絶対無理だな」
男の言う通り、ローザは酷い状態だった。
数え切れない程殴り蹴られた顔は、原型が分からない程に腫れあがっている。
身体中が、血で真っ赤に濡れている。
両手両足は全ての指の骨を折られ、爪を剥がされていた。
勿論、ミーアと同様。ここに来てから何も食べていない。
水は与えられているので生きてはいるが、男の言う通り。もし治療を受けられても手遅れだろう。
「少なくとも冒険者は廃業だろうな」
「おいおい、普通に生活する事も出来ないに決まってるだろ。こいつはっ」
蹴り飛ばされ、椅子に縛られたままローザは地面に倒れこんだ。
「ごほっ……」
「ローザさんっ! や、やめてくださいっ! やめてくださいっ!」
男達の笑い声が木霊する。
先輩冒険者の悲鳴が響く。
俯いて目を瞑ったミーアは、
(もうやめて……っ! もう嫌っ! 殺して……早く私を殺してよ……!)
心の中で悲鳴をあげながら、ゆっくりと乾いた唇を開いた。
「もぅ。ころ、して。わた、しを……ころして、ください」
ミーアは、乾いた喉で声を必死に絞り出した。
「っ……。ミーアさん……っ!」
掠れ声で懇願したミーアの声を聞いて、ティーラは慌てて顔を上げた。
「駄目ですっ! そんな事言わないでくださいっ! あなたが死んでしまったら、私は……私は何の為にこんなっ! 気をしっかり持ってくださいっ! 死んじゃ駄目ですっ!」
「そうそう。死ぬのは駄目だぜ? ミーアちゃん。それじゃ俺等は楽しくないし、死体の処分とか面倒だから。君も成人した大人なんだから、他人に迷惑を掛けるような死に方はしないでくれよ」
「ったく、支部長の考える事もわかんねぇよなぁ。もう五日目だぜ? 最初から無理にでも楽しんじまえば、この子も今頃諦め付いてただろうに……このままじゃマジで死んじまうぞ」
「だよなぁ。まぁ、こういう遊び方が面白いのは分かるんだけど、ちょっとやり過ぎな気はするよな」
「あの人ホントに元騎士様かよ。鬼畜だよな」
「ばっか。元騎士様だからこそ、強姦は駄目だとか謎理論言ってるんだぞ」
「何を今更って感じだよな、ホント」
ローザを蹴り倒した男は話しながら腰の雑嚢から布の包みを取り出し、ティーラの目の前に投げた。
「おいティーラ。それ、ミーアちゃんに食わせてやれ」
「へっ? い、いいんですかっ!?」
「あぁ。死なれたら困るからな」
「あ、ありがとうございます! ありがとうございますっ!」
包みを拾ったティーラは、急いで立ち上がりミーアへ駆け寄った。
「おいおい良いのかよ勝手な事して。支部長にバレたらどうすんだ」
「黙ってりゃ良いだけの話だろ。それに、もしかしたらこれでミーアちゃんが俺に惚れてくれるかもしれねぇじゃん」
「はぁ? ないない。お前みたいなブサイクに惚れるような女なんかいねぇよ」
「あ? てめぇよりマシだよ。あんま調子乗んなよ、殺すぞ?」
「はっ、冗談は顔だけにしときな」
「あ?」
「あぁん?」
睨み合う男達の声を背中に聞きながら、全裸で弱りきったミーアの様子を間近に見て唾を飲んだ後。ティーラは包みを開いた。
中から出て来たのは、小さな黒パンと燻製肉。どちらも食べ慣れた携行食だが、今のミーアには酷だろうと思ったティーラは眉を寄せた。
それでも、贅沢は言えない。
なんとか食べさせるしかない。
「ミーアさん。顔、あげてください。食事ですよ」
手の甲で涙を拭って笑顔を作ったティーラは呼び掛けたが、ミーアは俯き黙り込んだままだ。
返事をする余力も無いのかと、ティーラは慌てて肩を揺さぶる。
「ミーアさん? 聞こえますか? ミーアさん。ミーアさんっ!」
「……いら、ない」
そうしてやっと返ってきたのは、掠れた弱々しい声だった。
「そんなこと言わないで。ほら、お腹空いてるでしょう?」
「……こいつらの施しは、受けない」
「……っ。い、いい加減にしてくださいっ! このままじゃほんとに……本当に死んじゃいますよっ!?」
「それでいい……私はこのまま、死にたい。生きてても、辛いだけだもの」
「っ」
ゆっくりと顔を上げたミーアの瞳を見て、ティーラは息を飲んだ。
「もうローザは治らない。私は冒険出来ない……生きていても、何もない……こんな所にずっと居るなんて嫌……奴隷になるなんて、いや……あんな奴等に触られるなんて嫌……抱かれるなんて、いやぁ……」
ミーアの瞳は光を失っていた。
本来勝気な彼女が持つ強い光は消え、深い絶望の色に染まっていた。
「ローザの左目……私の剣で、斬られちゃった。私のせいでローザ、あんなになっちゃった……もう嫌。私、もう生きていたくない。早く死にたい。死にたいよぉ……」
「……ミーア、さん」
掠れ声で紡がれる言葉に、ティーラの胸が酷く痛んだ。
それは、昨日の事。ティーラも見せられた光景だ。
支部長の指示で自ら奴隷になると言うまで目の前でローザに連日暴力を振るわれ、更には自分の剣で左目を瞼ごと貫かれた。
見慣れた白い剣を握り、笑いながらローザの顔に突き立てられる光景が目に焼き付いて離れない。
『お前が立派な冒険者になった時、腰に下げてる剣が名剣でなければ格好が付かないだろう。だからこれを贈る。私の娘なら、自分が絶対に貫きたいと思える意地を持ち、貫きなさい。守りたいものを見つけ、命懸けで守りなさい。強くなりなさい』
冒険者になる為に家を出て、旅に出る前日。そんな言葉と共に贈られた宝物。
父親が決して安くない対価を支払って手に入れてくれた名剣だった。
そんな大切な剣は一度も自分で使う事が無かったどころか、大切な仲間に振るわれ傷付けた。
振るった男は笑っていた。
支部長は笑っていた。
自分を売ってまで一人の仲間を救った先輩冒険者は、泣いていた。
いつかその剣に恥じない冒険者になろう。
毎日手入れをしながらそう思っていたミーアの心は、既に折れていた。
「私のせいで、皆は……私が居たから……私が冒険者になったから……私が皆の仲間になったから……私が弱かったから……っ! 私のせいでローザは、ティーラは……」
「違いますっ! ミーアさんのせいじゃありませんっ! あなたは何も悪くありませんっ! だから落ち着いて、落ち着いてくださいっ!」
「私は……何にもなれなかった。私なんて、生まれてくるんじゃなかった」
「ミーアさんっ!」
「私なんて、早く死んだ方が良いんだ……」
「そんな事ありませんっ! だから、だから……っ! 死なないで。生きてくださいっ! お願いだから、生きてくださいよぉ……!」
気付けばティーラは、大粒の涙を流して泣いていた。
手から包みを取り落とし、鎖に繋がれたミーアの頭を胸に抱いて。
「あなたが死んでしまったら、私はなんの為にこうなってるんですかっ! ローザさんは、どうしてあんなに痛い思いをさせられているんですかっ! だから死にたいなんて言わないで! 私を一人にしないで……置いていかないでくださいっ! 生きて、くださいよぉ……!」
「ティーラ……」
泣き叫ぶ先輩冒険者の胸の中で、ミーアも泣いた。
古い薄い布一枚だけ隔てたティーラの体温に包まれて、枯れたはずの涙が溢れ出した。
(暖かい……ティーラ、ごめん。ごめんなさい……)
自分にはない膨よかで柔らかい胸に顔を押し付け、息苦しさを感じながら瞼を閉じる。
脳裏に過るのは、数ヶ月。共に冒険者してきた仲間達と過ごした思い出。
もう二度と見られなくなった笑顔。
そして。
いつも一人でギルドの酒場に座って、本を読んでいる白髪の剣士の姿。
『俺が助けてやる』
ふと、椅子に座った彼が振り向いてそう言った。
彼が絶対、自分に言ってくれるはずのない言葉を。
『俺が必ずお前を救ってやる』
それは、夢の中で彼が言った言葉だった。
気付けばミーアは、僅かしか残っていない唾を絞り出し飲み込んでいた
「食わねーのかよ。はぁ……そろそろいいか? ティーラ」
「あんまり喚かれると困るんだよな。皆寝てるのに起きるかもしれないだろ。時間を考えろよ。怒られるのは俺達なんだぞ。周りの奴等だって……」
泣き叫ぶティーラの首輪に繋がる鎖が、軽く引かれた。
もう一人の男は、他の『商品』を見渡してポリポリと頭を掻く。
そんな中。
「助けて……助けて、シーナ……しぃなぁぁああああっ!!!」
不意に、ミーアの絶叫が響き渡った。
それは、来るはずのない人を呼ぶ声。
ここ数日、何度も聞いた人の名前。
「シーナッ! しぃなぁああっ!!」
叫び出したミーアの頭をティーラは更に強く抱き締めた。
それは、来るはずのない少年の名前。
もし探してくれていても、彼ではここが見つからない。
もし運良くこの場所を見つけてくれても、何も出来ない。
助けに来たところで、男達を倒し自分達を助けるなんて絶対に出来ない。
そんな、年若い駆け出し冒険者。
彼には特別な力はない。
とくに優れた才能も無く、積み重ねた力量や経験はまだまだ。
寧ろ、一般的な駆け出しより臆病だ。
そして、彼は馬鹿ではない。
仮に居場所が分かったとして、無謀にこの場に乗り込んで来るような事は絶対にない。
山賊に捕まっているという状況が分かっただけで、さっさと諦め見捨てられるだろう。
「なんだ。またシーナかよ。誰なんだろうなぁ、ホント」
「どう考えても彼氏の名前だろうが。顔だけじゃ無くて頭も弱いのかよお前は」
「あ? てめぇこそ頭弱いんじゃねぇか? シーナってどう考えても女の名前だろボケが。それにミーアちゃんに限って彼氏なんて居るわけねぇだろ」
「しぃなぁぁあ!!たすけてぇっ!」
ティーラの腕の中から、ミーアの絶叫が響き渡る。
それは憔悴しきった彼女が、残った力を全て振り絞った祈りだった。
「……女神様。女神エリナ様。どうか、どうか彼女を助けてください。私はどうなっても構いません。ですから、どうか。どうか彼女だけは」
大切な仲間を。
冒険者になったばかりの優秀な後輩を強く抱き締めて、瞼を閉じたティーラも祈った。
「どうか、ミーアさんの願いを叶えてください。どうか彼女を連れて行かないでください。どうか、どうか彼女を救ってください……」
「シーナ助けて……っ! しぃな……私はここにいるっ! ここで、待ってるっ! だから、だから……!」
「あぁもう、うるせぇな」
「ティーラ引き剥がせば大人しくなるか? とりあえず黙らせねぇと……」
「早く助けなさいよっ! ばかぁぁあああああっ!!」
ミーアはここに来て何度も思い、願い、叫んだ言葉を全力で口にした。
それは数日間何も食べず全裸で鎖に繋がれ、目の前で仲間を傷付けられ、身体に触られ、辛くて寒くて、苦しい思いをして……このまま死ぬのだと覚悟した十五歳の少女。
ミーアの最期の叫びだった。
そんな願いが、祈りが通じたのか。
「その願い、確かに聞き届けた」
声がした。
それは落ち着いた声音だったが、それでいて妙に響いた。
静かな洞窟の中。
聞こえる筈のない人の声に、当然二人の男は反応して声の方向……出口へと慌てて顔を向けた。
「誰だっ!」
「まだ交代時間には早いぞっ! 悪ふざけはやめろよっ!」
「馬鹿女。やっと見つけたぞ」
今度は確かに聞こえた。
聞き慣れ、そしてずっと聞きたかった声にミーアは目を見開いた。
同じく驚くティーラは腕の力を緩め、ゆっくりと声の方へ振り向いた。
「……っ! 見ねぇ顔だな。てめぇ誰だ。なんだその血はっ! 何やりやがった!」
「馬鹿野郎っ! どう見ても侵入者だろうがっ! 剣抜けっ!」
男達が騒ぐ、視線の先には。
「俺か? 俺は冒険者だ」
白い髪と古い茶革の外套を紅に染めた少年が立っていた。
彼の血に濡れた端正な顔には、全く表情がない。恐ろしく無表情だ。
右手にぶら下げるように握られている片手剣は、剣先からポタポタと血が流れている。
「冒険者、だと?」
「なんだ。まだガキじゃねぇか? ……何しに来た」
腰から剣を抜いた男達に、薄暗い暗闇の中。青い瞳が真っ直ぐに向けられている。
何度も聞こえる聞き慣れた声に、腕の中で身動ぎしたミーアは絶句していたティーラが気付いた事でようやく解放される。
そして、見た。
「シー……ナ?」
薄暗い洞窟の中、出口を背にして篝火の下に立つ見慣れた少年の姿を。
血に濡れた身体で、剣を携えた一人の冒険者。
それは、
「……その女には借りがある」
確かに見知った姿に聞き知った声なのに、まるで人形のような無表情で抑揚のない淡々とした声を発する。
「返せ」
「しぃなぁ!」
ミーアの知らない一人の剣士だった。
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