第36話 看板娘。

 目を覚ました時。最初に視界に入ったのは、古い木の天井だった。


 俺がこの街に来てから一度も引っ越す事なく借りている宿の自室だ。


 開けっ放しの窓から差し込む光に目を細め、シーツの上で身体を起こす。


 どうやら充分な睡眠を取る事が出来たらしく、頭ははっきりしていた。


 すぐに寝台から降り、昨晩準備して置いた桶で顔を洗い歯を磨く。

 毎日繰り返してきた朝の身支度だ。


 しかし、変化は確かにあった。

 胸を締め付ける痛み。焦燥感は昨晩より薄れたとは言え、決して消えていない。


 僅かに残る疲労感もまた、昨日見た光景。

 経験した出来事が現実だと言うことを嫌でも思い出させる。


 脳裏に過るのは、森人との戦闘で死の恐怖を感じた事。

 崖に開いた洞窟に居た、武装した男。


 そして、切り刻まれ無残な死を遂げていた友人……ガルの姿。


『助けてよ、シーナ……』


「…………」


 歯磨きを終え口内の水を桶に吐き出した俺は、口元を拭う。


 濁った水に映る自分の顔を眺める。


「……今度は逃げるな。逃げるなよ」


 水の中に居る男に言い聞かせる。

 俺は一度、逃げた。

 何よりも大切にしていた人が連れて行かれるのを、黙って見ている事しか出来なかった。


 自分から会いに行く。そんな簡単な事が最後まで出来なかった。


 一番苦しい筈の時に、側に居てやれなかった。


 捨てられて当然。彼女の人生に必要無くなった弱い男だった。


「今度は、何かする。何かは、する」


 何をして良いのかまでは分からない。

 ただ、何かしなければいけない事は分かっている。

 このままで良い訳が無い。


 このまま何も無かった事に出来る程、俺は割り切れるような奴じゃない。


「……でも、何をすれば良い? どうすれば皆を助けられる。どうすればミーアを救える?」


 呟いた所で、部屋の中には俺以外誰も居ない。

 当然、何も答えは返ってこない。


 ……こうしてても仕方ないな。


「ふぅ……」


 溜息を吐いて私服に着替える。

 その上から革紐を腰に巻き、雑嚢を後ろ腰に付けて机に立て掛けていた剣を剣帯に吊るす。


 最後に窓の木戸を閉め、閂を掛ければ準備完了だ。


 桶を右手で取った俺は、寝台下に置いてあった屑篭を拾い部屋を出た。

 自室の扉を足で閉め、狭く短い廊下を進み階段を降りる。


 向かった先は一階。階段の傍にある受付だ。


「あっ、おはようっ! シーナお兄ちゃん」


「あぁ、おはようリズ。今日は良い天気だな」


 朝から元気一杯な満面の笑顔で挨拶してくれたのは、この宿の看板娘だ。

 名前はリズ。まだ十歳なのに宿の仕事を手伝っている偉い子である。


 君のお陰で癒されたよ、お兄ちゃん。


「桶と屑箱の返却。それと、昨晩洗濯を頼んでいた物を受け取りに来た」


「はいはーい、いつも通りだから分かってるよ。あぁ、でも装備は待ってね。さっき触って来たけど全然乾いてなかったから。鎧だけならすぐ渡せるけど」


「そうか」


「そりゃそうだよ。あんな夜遅くに、しかも血がべっとりのやつ渡されても乾いてる訳ないじゃん。私、夜遅くまで頑張ってゴシゴシしたんだからね? お陰で寝不足だよー! ふぁー」


 ぷんぷんと怒ったリズは、大きく口を開けて欠伸した。わざとらしいにも程があるが、可愛いので良しとしよう。


 あぁ、こんな妹。欲しかった……。


 彼女に会う度。俺は、もし妹が居てくれたら去年……あそこまで落ち込まずに済んだかもしれない。

 もしかしたら、今も村に居たかもしれないと考えてしまう程だ。


 自分の性格から、妹が居たら嫁に行くまで心配で仕方なかったと思う。


「それは悪かったな……よし。お兄ちゃんがお小遣いをあげよう。それで許してくれ」


「えっ? ほんと?」


「あぁ、流石に申し訳ないからな。それに前、欲しい靴と髪留めがあると言っていただろう。資金の足しにすると良い」


「うわっ! 覚えててくれたんだ!」


「何となくな」


 雑嚢から財布を取り出し、お小遣いをロズに渡す。


「五千エリナもくれるのっ!? 嬉しい……!」


「あぁ。以前も言ったが、俺も本格的に冒険者活動を始めた以上。今後も面倒な洗濯を頼む事が増えるだろうし……リズはいつも遅くまで頑張ってるからな」


「わぁーい! お兄ちゃんありがとう! 大好きっ! 私が成人したらお嫁さんになってあげても良いよ?」


 嬉しい冗談を言ってくれたリズは、受け取った金をそっと懐に仕舞った。


「ふふ、それは楽しみにしておこう」


「えっ! ホント?  ならお兄ちゃん。それまで浮気しちゃダメだよ? 絶対だからねっ!」


「あぁ、こう見えてお兄ちゃんは誠実なんだ。それどころか、今まで誰とも付き合った経験がない。だから、そこは心配しなくて良いぞ」


 なにしろ女性経験無しの童貞だ。

 キスもした事ない。頰にされた事はあるけど。


「えっ、嘘……! お兄ちゃん凄く格好良いし絶対モテそうなのに……! 私だったら間違いなく放っておかないよっ!?」


「はは、そうか。それは嬉しいな」


 相変わらずお世辞が上手な子だな。


「そう言うロズこそ、きっと。いや……間違いなく君は将来。良い女になる。だから大人になったら、お兄ちゃんみたいな悪い男に騙されないように気を付けろよ」


「え。お兄ちゃん悪い男なの?」


「あぁ。碌でなしだよ、俺は」


 何せ俺は、大切なものを次から次に奪われて行くのに何も出来ない。

 無力で、ちっぽけな愚か者だ。

 今の俺が誰かを幸せに出来る筈がない。


 俺はただ、勘違いをしていただけだった。

 実際は何も成長していなかった。

 村に居た頃から、何も。


 その癖、昔とは違う。あの時とは違うと自分に言い聞かせ、必死で自分を肯定しようとしていたどうしようもない奴だ。


 その証拠に俺は、未だにこんなところに居る。


 敵が居て。戦う理由があって、戦わなければ何も出来ない。

 殺さなければ、救えない。望みは叶わないと分かっているのに……。


 苦しんで、助けを求めて泣いている大切な存在。友人が、仲間が居るのに……。


 何をすれば良いか、分からないんだ。

 力も知識が足りないんだ。


 ……自分の弱さに、反吐がでる。


「とてもそうは思えないけど……」


「そうか。はは、ロズは優しいな」


「……もしかして、お兄ちゃん。何か悩んでる?」


 心配そうな顔でロズは言った。

 的確な指摘を受けた俺は、不覚にも言い淀む。


「……なんでそう思う?」


「だってお兄ちゃん。凄く苦しそうな顔してるもん……」


 そう言われ、自分の顔を触った。

 そんな顔してたか? 俺……。

 指摘されるって事は、してたんだろうけど。


「私で良ければ、相談に乗るよ?」


 優しい声音でそう言われ、思わず目の前の少女に全てを吐き出しそうになった。


 吐き出して、慰めて貰いたかった。

 誰でも良いから、聞いて欲しかった。


 だが、危うく思い留まり唇を噛んで堪える。

 何を考えてるんだ、馬鹿か俺は。

 リズにそんな事をしても意味がない。

 ただ俺は、自分の弱さを認め。誰かに肯定して貰いたいだけだ。

 そんな醜い真似。目の前の少女にして良い筈がない。


 くそ。俺は、俺はどうして。どうして……。


 こんなにも、弱い。


「……いや、大丈夫だ。何でもない」


「ホント? 無理しなくて良いんだよ?」


「本当に何でもない。大丈夫だ」


「そう?」


 気丈に振る舞い、笑ってみせる。


 するとリズは睫毛を伏せ、顎に拳を当てて「うーん」と唸りながら、少し考える仕草を見せた。


「私はお兄ちゃんが何を悩んでるかとか。冒険者の事とか。全然分かんないけど……」


 顔を上げ、微笑んだ彼女は続ける。


「お兄ちゃんは、お兄ちゃんがしたいようにすれば良いと思うよ」


「え?」


「だって。冒険者は自由に生きて、自由に冒険して……自分の為に戦う仕事なんでしょ?」


「あ、あぁ。そう、だな」


「じゃあ、そんなに悩まなくても良いじゃん。もっと我儘で良いんじゃん。お兄ちゃんは、お兄ちゃんがしたいように。お兄ちゃんの為に仕事して、冒険して……お兄ちゃんが望む事の為に戦えば良いんだよ」


 ふふん、とリズは平らな胸を張った。


「それで。もし死んじゃっても、悔いはないでしょ? そういう生き方がしたいから、お兄ちゃんは冒険者になったんでしょ? 前に自分で言ってたじゃん」


 ……そうだ。


 俺はそういう生き方をしたくて、冒険者になった。

 二度と後悔したくないから、冒険者になった。


「じゃあ戦いなよ。自分の為にさ」


 パチンとウインクしたロズは、右手を突き出してきた。

 俺の胸をトンと付いた小さな拳。それは全く痛みを伴うものではなかったが……酷く痛んだ。


 胸が、痛かった。


「なにより、私の旦那様になる人がそんな顔してるのは許せないな。いつも堂々と自信に満ちた顔で居てくれなきゃ! お尻に敷き甲斐がないじゃん」


 そうだ。

 何を悩んでたんだ、俺は。

 大体、昨日。バルザに自分で言ったじゃないか。


 必ず、どんな手を使ってでも奴等は殺してやると。


 なに一晩寝ただけで現実に戻り、どう考えても絶対に無理なんて臆病風に吹かれてんだよ。


 元よりこの命。そんなに惜しいものじゃ無いだろう。

 俺には、あの洞窟で捕らわれている友人達以上に大切なものはないだろう。

 そんな事も、こんな小さな子に慰められるまで気付かないなんて……。


 ……情けねぇ。


「リズ」


「ん? 何かな。お兄ちゃん」


「ありがとう」


 微笑んで、ロズの頬を撫でる。


「へっ? あ……う、うん」


「お陰で元気が出た。俺はどうやら、大切な事を忘れていたらしい」


 リズの頬は素晴らしく柔らかく、肌はさらさらしていた。非常に触り心地が良い。


 最後に触れた時のユキナと比べても、比較にならない程に良い具合だ。

 肉付きが良いからだろう。


「実はお兄ちゃん。大事な用があるんだ。だから今日から暫く留守にすると思う。準備があるから、部屋に戻るぞ」


 リズの頬から手を離して踵を返し、階段へ向かう。


「あぁ、そうだ」


 階段前でもう一つ、言い忘れた事があったのを思い出して足を止め、振り返る。


「ロズ。お前は絶対良い女になるよ。全財産賭けても良い。助かった」


「へ? ううっ……!」


 本心から思った言葉を告げると、リズは真っ赤になって俯いた。

 照れているらしい。可愛いもんだ。


「そ、そんなの当然じゃん! だって、お兄ちゃんのお嫁さんになる女だもんっ!」


「そうだったな。じゃあお兄ちゃんは、リズに釣り合うような良い男にならないとな」


 照れ隠しをするリズに苦笑して、軽口を返す。


「必ず帰る。後で装備を取りに来るから、その時は頼むな」


「ふんっ! 分かってるよ。鎧、もう一回磨いといてあげるからっ!」


「それはありがたい。じゃ、またな」


 階段を上りながら、思考を開始する。

 洞窟内の構造。敵の構成人数など、必要な情報は皆無。

 作戦を考えるのは不可能……か。


 ……さて、どうするかな。








 シーナの姿が二階に消えると、看板娘ロズは受付で溜息を吐いた。


「もう、世話が焼けるんだから」


 階段の方を見たまま、リズは腰に手を当て呆れたように言った。

 ぷんぷんと擬音が聞こえそうな、可愛らしい仕草である。


「……旦那様、か」


 ふと、リズはポツリと呟いた。


「……私、本気にしちゃったからね? お兄ちゃん。どんな用事が知らないけど、ちゃんと帰ってきなよ。じゃなきゃ、許さないから」


 まだ幼いとは言え決して短くない間この商売をしており、看板娘として受付を任されている彼女だ。


 先程のシーナの様子から、彼の告げた用事が危険なものだと言う事くらい容易に想像出来ていた。


 前日、夜遅くに血塗れで帰ってきたシーナ。その衣服を時間を掛けて洗い、鎧の手入れをした彼女だ。

 恐らく関係があるのだろうと流石に思い至る、伊達に徹夜していない幼女だった。


「ふ……ぁぁあ」


欠伸をしたリズは、滲んだ涙を指で拭う。


(うぅ……眠い。でも、旦那様がお出掛けするまで、我慢……しなきゃ。お見送り、しなきゃだし)


 既に旦那様呼ばわりしているリズちゃん。勿論冗談のつもりで軽口を叩いたシーナだが、彼女は本気にしていた。


 実は彼女。初めて彼がこの宿に訪れた日から、密かに想いを寄せていたのだ。

 中身は兎も角、顔だけは整っているシーナの外見は、歳上な大人が良く見えるお年頃の幼女にぶっ刺さったのである。


 それは憧れのようなものだったが、シーナは気付かぬ内に一人の幼女の初恋を奪っていた。


(私も後悔したくないから……)


 聡明なリズは、今日。彼を見送らなければ、後悔する予感がしていた。


 シーナの予想通り、彼女は数年後。良い女になる。


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